京都史蹟散策12 古高俊太郎邸跡と福勝寺

京都史蹟散策12 古高俊太郎邸跡と福勝寺

古高俊太郎邸跡・池田屋事件の端緒

【位置】
四条河原町を上って一つ目を東側に入る。
少し行くと右側「志る幸」という料亭がある。
その敷地の東側に碑がある。
当時、「志る幸」から東側の突き当たり角までが枡屋。
出入り口は、高瀬川からであった。
ちなみに、ここから池田屋までは、徒歩5分位。

【交通】阪急電鉄・四条河原町

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【石標】
勤王志士 古高俊太郎邸址
昭和3年 京都市教育会

駒札によると・・・

勤王志士 古高俊太郎邸跡
古高俊太郎は、文政十二年(1829)、近江国大津に生まれた。

父・周蔵は近江国栗太郡物部村古高の出で、
大津代官石原清右衛門に仕え、のち山代国山科毘沙門堂門跡の家臣。
俊太郎も同門跡の近習となり、和歌を烏丸光徳に学び公家との
交流を深めた。
梅田雲浜の門で勤王思想を学び、勤王志士とも交わった。

同士の一人、湯浅五郎兵衛の依頼で湯浅喜右衛門の養子となり枡屋湯浅喜右衛門と変名して、この地に「枡屋」を構えた。
密かに武器を集め、同士と連絡を取って援助をするなど、
多くの志士が集う倒幕活動の拠点となっていた。

しかし元治元年(1864)旧暦6月5日早朝、新選組に捕縛され
壬生の屯所で過酷な拷問を受けた【1】とされる。
これが三条小橋の旅館・池田屋における「池田屋事件」の端緒と
なったと言われる。

元治元年(1864)禁門の変に際し洛中は大火となり7月20日【2】、
六角獄舎で処刑された。享年36歳。
明治24年(1981)、特旨を以て正五位を贈られた。
京都市・・・

【1】 異説もあるので、「される」と表現されている。
【2】 現・池田屋跡の説明板では、7月13日になっている。

石標から高瀬川方向を見る
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誕生地の碑は、滋賀県守山市古高町福寿院境内。
墓は、京都霊山護國神社。

霊山護國神社の古高俊太郎の墓。
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ご縁玉が置いてありました。

そして、

福勝寺・古高俊太郎の墓

【位置】出水千本西入ル七番町
【交通】市バス・千本出水

福勝寺・山門
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古高俊太郎は、前述、駒札のように、
元治元年(1864)禁門の変に際し洛中は大火となり7月20日、
六角獄舎で処刑された。
しかし、その4年後、
明治元年12月、1868年、妹・智恵は、俊太郎の遺骨がなく、
福勝寺にその遺品である衣類や遺髪を埋め墓碑を建てた。
その後、明治10年3月、発掘された遺骨を五台山・竹林寺に改装し、
墓碑を建立している。
竹林寺の紹介については、次の機会に譲り・・・

竹林寺 殉難志士之墓
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福勝寺は、真言宗善通寺派の寺院。
通称、瓢箪寺(ひょうたんでら)
観光としての拝観は不可。毎月1、16日のみ自由参拝可。

平安初期、大阪府羽曳野市辺りに、弘法大師空海が
創建したのが始まりとされる。
後、鎌倉時代、京都へ。1708年、宝永の大火後、現在地に。
後陽成天皇や後西天皇の勅願寺。九条家の菩提寺。

ちなみに、古高町民誌によると遺骸は二条刑場にある大椋の木の下
に埋められた、とあり、また、古高家は出身地の地名と同一であり、
古高俊太郎伝「古高俊太郎」では、地元古高町の墓地には、
多くの古高本家のものと推測できる多くのものがあるとされ、
今後の解明が期待される。

福勝寺にある古高俊太郎の遺髪墓
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この記事へのコメント

中藤おけい
2014年07月22日 23:51
5年ぶりに古高俊太郎祭が滋賀県古高町の福寿院俊太郎顕彰碑前で、11時から挙行されると言うので参列して来ました。

今年は150年祭との事がらか、国会議員や守山市長等の参列も見受けられました。

仏式と神式で数年毎祭事で、勝部神社神官による式次第で、近江に名をなす三上一族の郷土史家がミニ講演をされました。(あまり大したことなく、20年研究しているとかで、ちょっと偉ぶる感じで、吉田栄太郎は松陰の甥ではありませんよ)

結局、古高町で唯一の古高姓だった信一氏が亡くなり、今や俊太郎顕彰会を語り継ぐ町民が少なくなった現状に、歴史風化が加速しているのが否めません。

一つには、文政12年4月6日(1829年5月8日)生まれの俊太郎生誕地(父周蔵の出村後に生まれたとの話もある)の古高先塋と云うだけの事で、言わば村を出たから馴染みがないからであり、今一つは霊山で毎年執行されている、京都高知県人会主催の11月15日龍馬墓前祭のように、メジャーではないからなのでしょう。

中藤おけい
2014年07月22日 23:53
それにしても子孫、本家争いはどこも見苦しい限りで、古高俊太郎もまた残念ながらご多分に漏れず、俊太郎との取り決めで湯浅家から入った古高姓を継ぐ章氏の曾孫(磯川姓)や、守山、草津の古高子孫(と言うより俊太郎系列にはない古高姓と云うだけかも)、或いは父周蔵系列本家と、顕彰と供養からは程遠い、まさに百花繚乱です。

そんなこんなを憂うる、偶然に話した地元のご住職の好意で、福寿院本堂内に過ごせた時間は意義がありました。

集まる機会があれば、この本堂内を借りてあげますよ、お寺関係で古高俊太郎に関する何かあるなら連絡下さい、と頂いた名刺を頂きました。

一つ、年一度のオフ会ならぬ古高俊太郎会の集まりでもネットで糾合、呼びかけて、先塋の地に幕末維新語りの場を設けますか~との意見なども出ました。
中藤おけい
2014年07月22日 23:54

ともあれ、まずは元治元年から時を経た150年、歴史の区切りとして記念すべきこれは供養ではなく慶事となりました。


元治元年(1864)、古高俊太郎は捕縛され、六角獄舎に繋がれて後の禁門の変の翌日、7月20日(1864.8.21)36歳で獄中死。

その古高俊太郎頼母正順。
正順の読みを古高町ではマサノリとされ、または他にはマサヤス、マサヨリ、マサノブとも読まれるようです。

釣洋一氏によると、禁裏に繋がり多い美男子ながら、足が少し悪かった、と書かれていました。

肖像画は古高町所蔵で、これ以外なく、これとてさて本当に古高俊太郎の実像を伝えているかどうかは判りません。

と、云う古高俊太郎150年神祭でした。
坂本伊三郎(秩父国民党)
2014年07月23日 00:13
おけいさん、ご存知ですか?六角獄舎の俊太郎さんの最後証言が縲史(村井政礼)にありますよ。

いみじくも、近江の地にこの縲史(全文字漢文)が残っていました。
田村勝貞さんの古高俊太郎伝も智恵さんの実話混じりでなかなか信頼が置けますからお薦めです。

分散して預けられた古高関連の書簡資料が臨書として、世に埋もれています。

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