京都史蹟散策59 江戸侠客の宿舎 来迎寺

京都史蹟散策59 江戸侠客の宿舎 来迎寺

【交通】市バス・神泉苑前
【位置】神泉苑通りを南に下がった東側。

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もちろん。
公家と武家だけが、幕末史を形成していたわけではない。
幕末、ここに、ひとりの侠客がいた。
その名は、江戸の侠客・新門辰五郎(しんもん たつごろう)

本名、中村金太郎。
父は飾職人で、幼少時、実家の火事で父が焼死。
「浅草十番組を組」の頭・町田仁右衛門の養子となり、
町火消となった。

江戸初期の火消制度は、1629年からの奉書火消(ほうしょびけし)
に始まり、中期になると享保の改革により各自火消(かくじびけし)
(諸大名が自身で組織した火消)が発達する。
一方、町火消は、吉宗時代に始まった町人による火消制度であり、
1747年の江戸城・二の丸火災時、町火消が江戸城内まで
出動したことが契機となり、以後、武家火消が大幅に削減され、
町火消へと委ねられていく。

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辰五郎は、1824年、京町二丁目より出火した吉原の全焼時に
江戸最大の喧嘩が勃発するも収拾させ、男を挙げる。
数年後には、子分も3000人は下らなくなっていた。

後、町火消の活動範囲は、1853年の黒船来航時には、市中警備も行い、
1864年の長州征伐に関わる江戸・長州藩邸の取り壊しまでをも
担っている。

これに呼応し、新門辰五郎は、1864年の同年、京都における
15代将軍・徳川慶喜の警護、京都二条城の防火を任されことになり、
京に入った。
そして、その宿舎としたのが、地の利を生かした二条城・
直近の来迎寺だった。

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浄土宗・西山禅林寺派 紫雲山 来迎寺。
寺前に、熊谷蓮生坊 守護本尊、洛陽南巡 第三十三番の石標がある。
熊谷蓮生坊は、平安末期、平敦盛を討った熊谷 直実
(くまがい なおざね)のこと。
後、法然の弟子となり蓮生(れんしょう)と改名した。
また、来迎寺には、禁門の変で犠牲になった辰五郎の子分の碑
もある。

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後、1868年、辰五郎は、鳥羽・伏見の戦いの後、
徳川慶喜が大阪城から江戸へ戻った折には、持ち出せなかった
金扇の大馬印を取り戻し江戸に届けている。
後、江戸城・無血開城。

その後、江戸に戻った辰五郎は、慶喜に随行し、水戸から【静岡】へ。
そして、1871年、明治4年。
辰五郎70歳にして、慶喜の警護の任を、当時50歳だった、あの
【清水の次郎長】に託し、江戸・浅草へと足を向けた。

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