京都史蹟散策60  たった一夜の城安寺から・ 善立寺・月眞院へ

たった一夜の城安寺から・善立寺・
月眞院へ

城安寺
東山三条交差点、西へ一筋下がる、すぐ西側。
(バス停・東山三条)

      山門
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海を見ながら、
慶応3年、1867年のはじめ、
伊東甲子太郎【1】は、
遊説のため神速丸で九州に向かった。
同、2月はじめに大宰府で中岡慎太郎と
会見した。

【注釈1】甲子太郎」は”きねたろう”
とも読めるが、同時代の史料に「樫太郎」
と表記されたものがあることから、
”かしたろう”が正しいとされる。
常陸志筑藩士・鈴木専右衛門忠明の
長男として誕生。
後に忠明の借財により、家は領外へ追放。
後、北辰一刀流剣術伊東道場に入門し、
婿養子となり、伊東大蔵と称する。
後、1864年、新選組に加盟。
弟や門人とともに、上洛。
この上洛の年(甲子)に因んで
伊東甲子太郎と称する。


(同じ海を見ながら、3月10日、
坂本龍馬は、岩崎弥太郎と共に、
中岡慎太郎の脱藩赦免状を持ち
「胡蝶丸」で長崎に向かう。)

一方、甲子太郎らは、その2日後の
3月12日、九州から帰京した。
そして、翌13日、近藤勇、土方歳三に
新選組分離案を提示した。
甲子太郎らは、この日から、新屯所探しと、
その折衝に奔走する。
後、3月16日、近藤勇、土方歳三と再度、
話し合う。

後、慶応3年、1867年3月20日。
伊東甲子太郎らは、新選組を離脱する。
この10日前、3月10日に
孝明天皇御陵衛士を拝命する。
これは、皇室菩提寺・泉涌寺・
塔中・戒光寺長老・湛然の支援に
よるものであり、この折衝には、
篠原泰之進【2】が当たった。
この衛士は、前年12月25日に崩御された
孝明天皇の東山涌泉寺裏・後月輪東山陵を
守護するという意味である。

【注釈2】(しのはら たいのしん)筑後国出身。
後、久留米藩・有馬右近に奉公。
元治元(1864)年10月、新選組入隊を
決めた伊東、三木三郎らと共に上洛。
慶応3年、1867年1月18日に伊東は
九州遊説の旅に出たが、
篠原は、湛然との折衝に当たり、
結果、拝命を成就させた。

そして、
孝明天皇御陵衛士を拝命するが、
新屯所は、まだ決まっておらず、
とりあえず、三条、城安寺【3】に入る。
城安寺との関係は不詳。
たった一夜のこの逗留が、
この寺の名を幕末史に留めることになる。

      城安寺・本堂に扁額が掲げてある。
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【注釈3】城安寺
黒谷浄土宗、本尊は阿弥陀如来。
参考:浄土宗は、戦後、黒谷浄土宗
(金戒光明寺を中心)と浄土宗本派
(知恩院を中心)が分立するも、
昭和36年、浄土宗本派が復帰、
16年後に黒谷浄土宗も復帰した。

      城安寺より三条通り(北)を見る。
      向い(左)は、大将軍神社。
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城安寺の向いには、
平安時代の関白・藤原兼家を祀る
大将軍神社がある。
この辺り、三条通りの喧騒が嘘の
ように閑静なのが不思議。

      大将軍神社
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(同日、3月20日。龍馬は、下関に入った
中岡慎太郎と会見する。)



一方京都では、この夜、甲子太郎らは、
五条東詰、善立寺【3】を新屯所と決め、
翌日、移動した。

【注釈3】新選組始末記では、長円寺と
記されるも現在、資料的には、
善立寺とされる、が非常に多い。
善立寺は、当時、現・東山郵便局の
前の緑化帯辺りにあった。
後、太平洋戦争中の強制疎開により
現・六堂珍皇寺、斜め前に移転した。
真宗大谷派・善立寺。保育園並立。

      五条大橋東詰 緑化帯当たりが善立寺跡。
      正面は、東山郵便局。
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      反対側・市バス停・五條大和大路から見る。
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      現在の善立寺。
      扉、突き当り、右奥に本堂がある。
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同年6月、伊東甲子太郎らは、
山陵奉行に就いた戸田忠至に属す。
(とだ ただゆき)は、宇都宮藩の重臣
・田中忠舜の第2子。
この5年前の1862年、
宇都宮藩は幕府に山陵修補の建白を
提出し、同年10月、天皇陵補修
の命を受けた。
後、忠至は、山陵奉行に任じられる。
元治元年(1864年)に
天狗党の乱が起こるも、朝廷が
忠至の山稜修補の功を尊重し
移封は避けられ、
後、慶応2年(1866)年3月、
下野国・高徳藩・初代藩主。
御陵衛士との面識は殆どなく、
名義貸しの様相が濃いとされる。

そして、伊東甲子太郎らは、
後、6月8日、高台寺・月眞院に移る。

月眞院 (東山区・下河原町)
(げっしんいん){市バス・清水道}

亀井豊前守の保護の下に、
豊臣秀吉の外戚久林が元和2年(1616年)
開創。
境内には織田信長の子、
有楽斎が植えたとされる椿がある。

【石碑】
御陵衛士屯所跡
昭和四十三年十一月 京都市

      高台寺・月眞院 御陵衛士屯所跡
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そして、表札と朝廷許可の十六弁菊の慢幕
を山門前に張ったとされる。
と云うものの、その生活の実態は、
食費は薩摩藩から支給され、
庫裏二階の隠し部屋で、新選組の
襲来を恐れ、刀を抱いて寝ていたと
いわれる。
薩摩藩の市街戦部隊の要望と
御陵衛士の天皇の私兵部隊要望が
符号したのであった。


      月眞院の桜(2013年3月29日撮影)
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1年後。
歳月が二人の行く末を翻弄する11月13日。
甲子太郎は、龍馬を訪ね、
土佐藩邸へ移ることを勧める。

3日後、近江屋事件。
龍馬が33年の・・・

そして、その3日後、

同じ海を見た甲子太郎が
油小路事件で、32年の波乱の生涯を
閉じる・・・

      霊山護国神社・
      坂本龍馬・中岡慎太郎の墓
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この記事へのコメント

さくら
2013年11月18日 22:46
いつも、勉強させて頂いてありがとうございます。♪
鳥追い姉
2015年12月01日 05:40
伊東甲子太郎以下が居留した善立寺は、当時五条橋東詰にあり、雲濱旧居趾の石碑もあったよし。

当初西村兼文が始末記で書いた五条長円寺とされ、実は離脱後、三条城安寺から善立寺へ移動しています。

秦林親日記に「五條橋東詰ノ寺中に寓ス」とあるだけで、真木直人(真木和泉の弟)日知録には「…五月十一日御陵御衛士…寓居ハ五条通伏見街道東入善立寺」とありました。

今は五条橋を渡った南側道路上です。
鳥追い姉
2015年12月01日 05:42
さて、それとは別に、釣洋一氏が新選組再掘記で、善立寺に梅田雲濱寓居碑があったと記しています。

雲濱は京都にあった15年余りに、何度も移転してます。

書簡上確実なのは、大雲院中原隆院、一乗寺観音堂、木屋町二条、高雄山荒堂、烏丸御池、木屋町二条押小路、三條通東洞院西入北角梅忠町、烏丸御池上る、五条橋東二丁目の町会所があります。(雲濱遺稿-昭和4年)

善立寺の記載はありませんから、五条橋東二丁目の町会所が善立寺なのでしょうか。

それとも、この町会所が善立寺と間違われたのでしょうか。

立ち退き前に、町会所にあった碑を善立寺が引き取って新しく門前に建てたのでしょうか。

善立寺は保育園があり、インターホン越しで邪魔くさそうに対応する、小うるさい保育士さんがいて、けんもほろろのアポなしでは入れないようです。

電話取材で問合わせをかけると、寺の歴史を知る人がなく、訪問も電話も迷惑だ、とのことで、梅田雲濱碑は別に隠してあるとの事。

高台寺党関係の照会も多いようです。

そのホームページには、善立寺保育園では、感謝の心を忘れず、他を思いやるこどもになるようにと保育に努めています…の一文が虚しく感じます。

保育士さんももう少し勉強すべきかも知れませんね。

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