京都史蹟散策68  幕末の勤皇家・福田理兵衛

京都史蹟散策68  幕末の勤皇家・福田理兵衛

天龍寺。
そして、車折神社・葵忠社と正定院。


長州藩と天龍寺。

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文久元年(1861年)天龍寺は、毛利家の入京時の
宿舎となっていた。
後、岩国藩主・吉川経幹(きっかわ・つねまさ)の
宿所となる。
岩国藩は、長州藩の支藩。
1862年、長州本藩が尊王攘夷の藩是を決定後、
疎隔されていた関係が修復され、毛利敬親の名代として
上京したのであった。
これを斡旋したのが、下嵯峨村で材木問屋の福田理兵衛
だった。

理兵衛は、長州藩支援者で勤皇家だった。
後、天龍寺と交渉にあたり、長州藩と天龍寺との
(宿舎)永代借用の契約を結んだ。

しかし、その後、元治元年(1864年)6月28日の明け方、
突如、長州藩・来島又兵衛の率いる500名が
天龍寺に布陣した。

      天龍寺・法堂
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しかし、その後、禁門の変で長州藩は敗北。

来島又兵衛は、御所・禁裏内の戦闘で薩摩藩士・
川路 利良(かわじ としよし)の狙撃を受け、自刃。

後、追撃の薩摩藩士・村田新八は、天龍寺は長州藩を
遺留させたという名目で天龍寺に兵火を浴びせた。

天龍寺にとっては、8度目の災火であった・・・

理兵衛のその後は、禁門の変に父子ともに長州軍に
参加するも、大敗。
後、妻子を残し長州に避難し、後、萩・長州藩の士分となる。
1868年の王制復古後、帰京しようとしたが、1872年、没。

      車折神社
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福田理兵衛を祀るのは、京福電鉄で、嵐山から二駅目の
車折神社の葵忠(きちゅう)社である。
車折神社は、富岡鉄斎が一時、宮司に就いたことがあり、
勤王の志士たちを支援した。

吉川経幹の、その後は、長州藩の天龍寺に布陣の前年、
8月18日の政変後に7人の公卿を護衛して帰藩。
翌年、禁門の変で長州藩が大敗。
その後、長州藩の幕府側への謝罪の周旋をしている。
慶応3年(1867年)3月、病死。享年39。
吉川経幹周旋記を記す。
墓所は、岩国市、曹洞宗の洞泉寺(とうせんじ)。
山口県・岩国市に吉川史料館がある。



          葵忠社(きちゅうしゃ)
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【交通】嵐電 車折神社
【位置】車折神社 境内

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車折神社、本殿手前の左側にある。

駒札によると・・・

葵忠社
福田理兵衛翁を祀る(。)
福田家の祖は清和源氏源満仲の孫頼遠を名のり 
室町時代の初期 越後守元光に至り土着するように
なった。
元光より数代後の元知より代々郷士として上下の
信頼があつかつた。
夙に勤王の志厚く 幕末の乱世を慨き有志と来住して
ひそかに画策をめぐらしていた。
長州藩の用達となり
「長に尽すは即ち國に奉ずるの道なり」と考え
一意斡旋の労を惜しまなかった。
蛤門の戦いに際し父子共に長軍に加わり 
敗北するや妻子をすてて難を長州に避けた。
薩軍のために家財は没収せられ住家は焼き拂われて
余燼三昼夜にわたったという。
其の後も尚 長州藩のために力を尽し士分に
列せられた。
王政復古なるや 京に還って家を再興しようとしたが
出発の前夜兇刃の手に倒れた。
時に明治五年四月十三日 年五十九、明治四十四年
維新大業の鋼に依り從五位を追贈、昭和十年当社
第三回造営を機とし翁をしのぶ為「嵯峨の遺光」を
発刊するに当り清裏圭吾伯より「一片葵忠」
なる大事をおくらる。
即ち当社を葵忠社と称する。

因みに この詞は当社の西約半丁の処に福田理兵衛翁
の旧邸地内(現在 穂積家の邸内)に穂積氏の発意
によって祀られてあったが、穂積氏と福田家一族の
要請もあってここに祭祀することにした。
     昭和十一年八月
          車折神社宮司 誌す



またすぐそばの浄土宗・正定院に
理兵衛の墓がある。

      正定院・外観
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正定院
浄土宗捨世派。
開基は、浄土宗捨世派【1】(しゃせいは)の祖・称念。
天文年間(1532-1555年)に材木商・大八木、
福田両家が建立。

【注釈1】本山は、一心院(いっしんいん)
交通・市バス 知恩院前
位置・右京区嵯峨朝日町
江戸・増上寺で学んだ縁誉称念が、青蓮院から寺地を
下賜されて創建。
称念は、一心院流(浄土宗捨世派)を形成し、
元禄年間には、100ヶ寺を超える末寺を有したが、
派内抗争により知恩院の管理となった。

      正定院・山門
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この記事へのコメント

ショータ
2013年12月07日 23:45
こんばんは(^-^)/

タブレットから見てますが、画像が綺麗だし相変わらず説明がくわしくて感心しちゃいました
(゜ロ゜)
またお邪魔しますね♪(^^)

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