京都史蹟散策・歴史の流れ 大久保利通 21

歴史の流れ 大久保利通 21  明治11年 1878 49歳

明治11年 1878 49歳
●1月24日 聖上(天皇)、駒場農学校開校式に臨幸あり。
     利通、章典禄(の)【214】全部を農学校に寄附し、
     農学の進歩普及の資に供す。

【214】 章典禄(しょうてんろく)
明治維新に功労の公卿・大名・士族に、政府から家禄の他に
賞与として与えられた禄。

●2月7日 大隈重信・大蔵卿、伊藤博文・工部卿と共に、
新たに建設の千住羅沙器械所【215】を検分する。

【215】 日本最初の近代的毛織物工場。
利通の主導で、ドイツより製絨機械と同国から技術者を雇い、
この年に工場を建設。翌年、操業開始となった。

2月14日 皇太后陛下、新宿試験場【216】へ行啓。
      養蚕製糸業試験の実況をご覧あらせらる。

【216】 新宿試験場
明治5年、政府は内藤家より上納の58.3haの敷地に設置。
果樹・野菜の栽培、養蚕、牧畜などの研究が幅広く行われた。
後、明治7年、内務省の所管となり農事修学所が設置された。

3月5日 天皇、第二回の地方官会議を開く旨を命ぜらる。

●3月6日 利通、国民の実力を扶殖するため
      殖産興業の大方針を政府に提議する。
      一般殖産興業の奨励および華士族授産の方法を
      計画し、交通運輸物産改良保護の為、
      起業公債1,250萬円を募集する。【217】

【217】これにより明治政府は、士族入植による以下の
福島県安積原の国営開墾事業,士族授産による開墾、製糸、
紡織、製陶,マッチ製造、牧畜、セメント製造など
各種の助成を行った。

●3月6日 利通、福島県安積疎水事業着手のことを
      建議する。

●3月11日 利通、立憲政体樹立の詔書に基き、
       地方自治制確立のため地方制度改正の議を
       建白する。

●3月16日 利通、深川新燧社(しんすいしゃ)【218】
       マッチ製造所を視察する。

【218】明治9年9月後、清水 誠の跡を継ぎ、佐藤 力が
三田から深川へ移り、新燧社を再開していた。

●3月22日 利通、賜暇を請ひ、熱海温泉に浴し4月6日
       帰京する。

●4月7日 聖上、地方官会議開会式に臨幸、
      利通の建議に基き郡区町村編成法、
      府県会規則、地方規則の三大議案【219】
      を議了し、翌月3日、閉会式を行う。
      この三大法案は、同年7月22日に至り
      公布さられ、我国地方行政に新紀元を画し、
      初めて国民に地方参政の権(利)を与え、
      自治制の端を開きたるものなり。

【219】地方三新法(ちほうさんしんぽう)、
三新法とも云われる。
旧来の郡制を復活させ、大都市・東京・大阪・京都など
には区を置き官制の長を配し、町村には民選の長を
配し、また、日本の府県に府県会などを置いた初めての
規則でもあり、近代地方自治の始まりと云われる。

●5月5日 利通、芝・延遼館において、殖産興業、
      華氏族授産の方針・起業公債発行の旨趣を
      地方長官に訓示する。

(5月13日  利通、岩倉具視に書翰を贈る。
       これが利通の岩倉具視への絶筆となった)

山形県、秋田県人民より、御巡幸嘆願の一條、
御奏上の御都合、相、伺う度存じ候ところ、
今日は風に與り失念仕り候より、何れ(いずれ)
明日中に参上、お伺い申しあげ度奉り存じ候。
明日八時より、太政官へ出頭の約束もあり、
これ候に付き、七時頃拝赴き候。而しても
然るべきや。御出立前、御都合も有るべきの候に
付き、一寸を以て以上、お伺い申し上げ候。
              早々、拝白、
   五月十三日     利通
     岩倉公
          (大隈文書 第9巻より)

また、・・・乃ち利通が遭難の前日に贈りし書を
表装して、自ら其抜文を草し、重野安繹(やすつぐ)
をして之を書せしめたり・・とある。
(大久保利通外伝より)
        
●5月14日 朝、福島県令・山吉盛典、(利通の)
        霞ヶ関本邸宅に来訪、帰任の別(れ)を述べる。
        利通、維新の大業貫徹を三期に分ち、
        第二期に最も力を注ぎ、第三期は、
        後の賢者に待たんとするの素志を告ぐ。

 同日  参朝の途、清水谷において島田一郎ら
     【220】の凶刃に羅り、遂に利通、
       蒙去(死亡)する。
       聖上(天皇)、特に勅使を差遣せられ、
       特旨を以て右大臣正二位を贈り、
       金幣五千圓 および誅詔を賜う。
       皇后・皇太后両陛下、また祭祀料弐千円を
       賜う。

【220】島田 一郎(しまだ いちろう)
加賀藩の足軽の子として生れ、元治元年(1864年)
長州征伐で初陣。
維新後、不平士族の指導格として萩の乱・西南戦争に
呼応し挙兵しようとするも断念。
後、政府要人、暗殺にその目標を変えていた。 

●5月17日 国葬の礼に順じ、遺骸を青山墓地に葬る。

利通が遭難30分前に認(したた)ためた真の絶筆は、
伊藤博文に宛てた下記のものである。

昨日、お約束にて申し上げおき候通り、大隈(重信)
より参内の約束致し置き候に付き、御多忙と存知候
え共、暫時、御参朝下され候よう、願い奉り候。
この旨、念じなされ早々、拝白
          五月十四日
               伊東殿
          
なお、後日、伊東博文は、このことにつき談話として
「大久保公絶筆の書簡に就いて」を叙述している。
      (いずれも大隈文書 第9巻より)

大久保公が紀尾井坂にて刺客の難に逢ったのは、つまり、
西郷の復讐だ、十年の戦争の時、西郷に党した徒が彼の
忠臣をコロした、と云う迷想から来たので、もとより、
大久保公もアンナ事があおるとは思っておらなかった。
遭難の日は、明治11年5月14日のことじゃ。
我輩は、十年の戦争が終わって、当時、初めて聞く
ところの地方官会議の議長となった。
段々、これから地方制度の改良して行こうと云う時で、
府県会などもこの時であったろう、と思う。
ソコデ、地方官を招集して会議を開いた。
その時、大久保公は、地方官を淘汰しなければならぬ、
と云う考(え)をもたれた。
この時分は、松田道之(後、東京府知事)などが働いて
おったが、地方官を淘汰しなければいかぬ老朽不能は、
いかぬと云い、小県を廃して大きな県に合体させようと
いう議も起って、大久保公の言われるに、
私の方でも地方官の人物を調べて見ようが、君の方でも
君は実際会議の職掌に当たっているし、人物も
よく分かっているだろうから、その意見を持ち出してくれ、
と云う訳で、会議が済んでから地方官の更迭について
評議が起った。
大久保公は自ら重く執って、めくら判を押すようなことは
容易にされなかった。
ソコデ、13日の日に(大久保)公は、我輩の榎坂の邸に
やって来られて、地方官の事もまだ、ことごとく決断して
おらぬから、君も忙しかろうけれども、明日の評議には、
ぜひ出てくれ。君が出てくれなければ困る。と、
態々、来られた。
ソコデ、我輩は、よろしい。出ましょう、と云って
別れた。
スルト、翌朝、佐々木高行・高崎正風の二人がやって来て、
当時、君側にある侍補の事について、
侍補だけでは君徳の培養が不十分であるから、ドウゾ、
大久保公に宮内省の方も兼ねて君側の方にも尽力するよう
に働いてくれんか、と云う話をしている中に大久保公から
手紙が来た。
今から私は、すぐ参朝するから、君もすぐに来て下さい、
と云う文意である。
何でも暗殺される十数分前に書かれたものだ。
それから我輩は、二人に断わって私も参朝するから、と
云うて、赤坂の方から参内する。
向う(大久保公)は、紀尾井坂より行った。
赤坂御所内の内閣に出ると、凶変を知っているか、
今、大久保公が殺された、と云うことで、実に、
意外千万とも何と痛嘆の限り。誠に残念至極。
国家の大事変であった。
この時、(大久保)公が我輩に贈られた手紙は、
真に大久保公の絶筆である。
  大久保公蒙去後七日有威
         伊藤博文
以下の漢文は、略。



現在の青山墓地の案内板によると・・・

大久保利通墓
 所在地 東京都青山二丁目
 設定  昭和15年2月

幕末・明治時代前期の政治家、天保9年(1830)
8月14日鹿児島藩士大久保次右衛門利世の長男として
鍛冶屋町に生まれた。

西郷隆盛とともに公武合体運動・倒幕運動を行い、
岩倉具視らとは、王政復古を成功させ、維新政府の
中枢に参画し、版籍奉還・廃藩置県を行った。

しかし、征韓論に反対して内政整備優先を唱え
西郷隆盛らと対立し嵯峨野乱新風連の乱・秋月の乱・
萩の乱・西南戦争と相次ぐ反政府暴動を鎮圧した。

その一方で、地租改正反対一揆には、地利を下げて
農民を擁護した。

板垣退助らと国会開設を準備(大阪会議)するなど
官僚政治家として手腕を振るい資本主義国家への
基礎を築いた。

西郷隆盛・木戸孝允とともに明治維新の三傑と
いわれている。
     平成6年3月31日 建設
         東京都教育委員会


●5月23日 遺子・利和を華族に列し、従五位に叙し、
       特に金参萬圓を賜う。

10月16日 八男・利賢、生まれる。

12月17日 利通・婦人・満寿子、没す。


明治17年 1884 ■
●7月17日 利通の勤功により、嫡子・利和に
        侯爵を授けらる。

●同年10月 利通の旧故・有志、相謀り、清水谷遭難の
       地に哀悼の記念碑【221】を建設する。
       特にその地域を東京市の公園に編入する。

【221】案内板によると・・・
(ルビは省略しました)
千代田区指定有形文化財(歴史資料)
贈右大臣大久保公哀悼碑
 指定 平成4年4月

明治11年(1878)5月14日朝、麹町清水谷において
赤坂御所へ出任する途中の参議兼内務卿大久保利通が
暗殺されました。
現在の内閣総理大臣にも匹敵するような立場にあった
大久保の暗殺は、一般に「紀尾井坂の変」と呼ばれ、
人々に衝撃を与えました。

また、大久保の同僚であった明治政府の官僚たち
(西村捨三、金井之恭、奈良原繁)らの間からは、
彼の遺徳をしのび、業績を称える石碑を建設しようと
の動きが生じ、暗殺現場周辺であるこの地に、
明治21年(1881)5月 贈右大臣大久保公哀悼碑
が完成しました。

哀悼碑の高さは、台座の部分も含めると6.27メートル
にもなります。

石碑の材質は緑泥片巖、台座の材質は硬砂岩と思われます。
 「贈右大臣大久保公哀悼碑」は、大久保利通暗殺事件と
いう衝撃的な日本近代史の一断面を後世に伝えつつ、
そしてこの碑に関係した明治の人々の痕跡を残しつつ、
この地に佇(たたずん)でいます。
  平成5年3月
         千代田区教育委員会


【221】哀悼の記念碑
【所在地】千代田区紀尾井町2清水谷公園内
【建説】明治17年(1884年)

碑文 では・・・
」は、改行。

贈右大臣大久保公哀悼碑
●嗚呼此贈右大臣大久保公殞命之所也
公之在世身繋天下之安危」天子倚以為重
一朝変生不測 溘焉長逝 悲夫

○嗚呼(ああ)、此(ここは)贈右大臣大久保公の
殞命(いんめい・命を落とした)の所なり。
(大久保)公の在る世、身は天下の安危を繋(つなぎ)
天子は倚(よ)りて以、重きと為(な)す。
一朝、変、不測に生じ、溘焉(こうえん・にわかに)と
して長逝(ちょうせい・死)す。悲しき夫(かな)。

●自古 忠臣烈士死于非命者」何限
然 概 在喪乱之世 擾攘之際 乃公則功成名遂
遇国家方隆之運 将永」享太平之楽 而遽罹此禍宜乎

○古(いにしえより)忠臣烈士の非命に死する者、
何ぞ限りあらんや。
然概(しかれど概して) 喪乱の世、在り。
擾攘(じょうじょう・大騒ぎ)の際に
乃(すなわち)(大久保)公、則(すなわち)
功・成り、名・遂(とげ)て
国家、方隆の運に会い、将(まさ)に永く
太平の楽しみを享(う)けんとし、而(しかし)て
遽(にわ)かに此の禍(わざわい)に罹(かか)る。
宜(むべ)なるかな。

●九重震悼 天下識与不識無不婉惜痛」歎也
抑公既以身許国 死生禍福 一聴于天而不悔
而其所施為 赫赫在人」耳目

○九重(きゅうちょう・宮中)は、
震悼(しんとう・悼み震え)し、
天下の識(しる)と識らざると婉惜【*】
(わんせき・気の毒に思う事)
痛歎(つうたん・痛切に嘆く)せざる無きなり。

【*】
婉惜の・わんの漢字 → 女ヘンでなくリッシンベン。
変換できず。

抑(そもそも)(大久保)公は、既に身を以て国に許し、
死生禍福、ひとたび、天に聴(まかせ)て悔いず。
而(しか)も、其(その)施(ほどこし)、
為(な)する所、赫赫(かくかく・あかあかと照り)
として人の耳目(じもく)に在り。

●則 公雖 死乎猶有 不死者存焉
距公之薨七年過 此地者咨嗟歎息
往]往低徊不能去 於是 僚友義故胥謀建碑
以 表追悼 亦 情之不可巳也
公之」勲業蔵在 太史勒在 桓珉此特記
建碑事由以告来茲」

○則ち公は死すと雖(いえど)も、
猶(なお)死せざる者有りて存するが如し。
公の薨(こうずる・死する)より
距(へだ)たること七年、
此の地を過(よぎ)る者、
咨嗟し、(しさ・ほめたたえ)
歎息(たんそく・溜息をし)、
往往にして低徊(ていかい・さまよって)して
去る能(あたわ)ず。
是於(ここにおい)て、
僚友義故(りょうゆうぎこ・仲間の意)
胥(とも)に謀(はか)りて建碑し、
以て追悼を表すも、
亦(また)情の巳(や)むべからざり。
公の勲業は蔵(おさめ)られて、
太史(たいし・官名の意)
に在り、勒(きざ)まれて桓珉
(かんびん・記録の意)に在り。
此に特に建碑の事由を記して以て
来茲(らいじ・後世)に告ぐ。

明治十七年十月 編修副長官従五位勲六等
重野安繹撰」
内閣大書記官 従五位勲五等 金井之恭 書

(側面)鉄道二等技師 正六位勲六等
毛利重輔 督工事」
 広群鶴(こうぐんかく・江戸一番の名石工・
御碑銘彫刻師)   刻字(する)


明治22年 1889 ■
●2月11日 皇室典範帝国憲法発布につき、
       特に勅使を墓前に遣わされ、
       之を報告せしめ給う。
同年、鹿児島市鍛冶屋町出身・西郷従道、大山巌、
   黒木為楨、東郷平八郎、其の他、有志相謀り、
   利通ならびに西郷隆盛 両誕生地に記念碑を
   建設する。【222】

【222】この明治22年頃、利通の誕生地は
下加治屋町だとされるも、記念碑建立直後、
高麗町(これまち)であることが判明し、現在は、
生い立ちの地という標記になっている。

また、後年、大久保利通伝(明治43年7月)でも・・・

利通の生れたる所は、甲突川の西に方り、
高麗町と稍ふる地にあり、されど、其幼年の頃、
家族と共に加治屋町に移住せしより、
自ら甲東と号し、また、後年誕生の記念碑も、
加治屋町の旧址に建設したるものなり、・・・
とある。

なお、高麗町には現在、大久保利通誕生之地という
小さな石碑が建つ。
その記念碑文は、

大久保利通君、以天保元年庚寅八月十日生於
鹿児島城下加治屋町、此處即君之宅址也、
我輩與君同郷里、得其風采徳音於見聞之際、
景仰慕不能自止、恐歳月之久、遺蹟或帰湮滅、
於是和謀、建一碑、以傳永遠、庶幾後之成長此、
郷者、處感発與起焉


明治34年 1901 ■
●5月22日 策命使を青山墓前に遣わされ、
         従一位を追贈せられる。


大正2年 1913 ■
●5月7日 勅撰神童碑を青山塋域(えいいき・墓地)
        内に建設せられる。

昭和3年 1928 ■
●5月14日 五十年祭執行につき、聖上、
       特に幣帛(へいはく・神前に奉献する)
       料を賜わる。
               (年表 完)



     

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