京都史蹟散策・歴史の流れ 大久保利通 18

歴史の流れ 大久保利通 18  明治8年 1874 46歳

明治8年 1874 46歳 
●1月4日 利通、神戸に行き、木戸孝允の来着を迎え、
       共に大坂に赴く。

●1月4日 利通、木戸孝允と三橋楼に会し、意中を告げて、
       その興起を求む。

●1月14日 利通、五代友厚【184】、吉井友実を誘い有馬温泉
        に浴する。

【184】五代友厚(ごだい ともあつ)
薩摩藩士。実業家。通称、才助。
14才の時に、 世界地図を模写し藩公に献上した才人。
明治元年、外国事務局判事。大阪商工会議所、初代会頭。
東の渋沢栄一と並び称される

●1月22日 伊藤博文参議、東京より下坂し、木戸孝允に
        勧説する。

●1月29日 伊藤博文の旅館において木戸孝允と会し、
       両者の意見一致を見る。
       竟に木戸孝允、出京の決心を告ぐ。

●2月5日 利通、少暇を得て、五代友厚、税所篤と共に、
       大坂を発し、金剛山に遊猟を試み千早城址より
       楠公誕生地、赤坂城址、四条畷などを経て8日、
       帰坂する。

●2月9日 利通、木戸孝允・伊藤博文の両人と会し、
       施政の綱領を議定する。
       いわゆる大阪会議なるもの、これにおいて成る。

●2月11日 利通、大坂・北浜・花外楼において、
       木戸孝允および板垣退助と会し、意見を
       交換する。【185】

【185】明治政府の要人・利通・木戸孝允・板垣退助らが
大阪に集い、今後の政府の方針・立憲政治の 樹立および
参議就任等の案件について協議した。
だが、板垣が後、参議を辞任するなど、半年で崩壊した。
大阪市中央区北浜に大阪会議開催の地の石碑がある。

●2月16日 利通、神戸を出帆し、18日帰京する。

●2月19日 利通、三條実美に謁見し、大阪会議の
        経過を報告する。

3月9日 木戸孝允、参議となり、12日、板垣退助、
      参議に就任する。

●3月17日 利通、木戸孝允・板垣退助・伊藤博文と共に
       政体取調掛を命じられ、政体に関する建白書を
       提出する。

4月14日 天皇、左右両院を拝し、元老院、大審院を
       置き、地方官会議の制を設け、立法、司法、
       行政の三権を確立し、尋ねて立憲政体樹立の
       詔勅を発せられる。

(4月25日 勝海舟、参議・海軍卿から元老院議官に
       異動になるも2日後、辞表を提出。
       11月28日、元老院議官を辞す。
       後、明治21年、枢密顧問官。
       明治32年1月19日、死去。
       晩年は、子供たちの不幸、孫の非行など孤独な
       生活だったと云われる。
       東京都大田区南千束、洗足池公園に夫妻の墓
       があり、隣に勝が自費で建てた西郷隆盛留魂碑
       が建つ。)

●4月30日 利通、地租改正事務局総裁となる。
       同日、またアメリカ大博覧会事務局
       総裁を命じられる。

5月7日 ロシアとの千島樺太交換条約【186】、成る。
     11月10日、これを公布する。

【186】署名した場所からサンクトペテルブルク条約とも。
結果、樺太での日本の権益を放棄の代わりに、
得撫島以北の千島18島をロシアが日本に譲渡、
及び、両国資産の買取、漁業権承認などを取り決めた。

●5月17日 利通、岩倉具視より支那談判の慰労として
        銀杯および酒肴を贈られる。

●5月24日 利通、内務省施政の目的を定むべきの議を
        建白する。

6月2日 木戸孝允参議、地方官会議議長を兼任する。

6月3日 利通、琉球処分のため内務大丞・松田道之【187】、
      出任・伊地知貞馨【188】を琉球に
      派遣する。

【187】松田道之(まつだ みちゆき)
幕末、尊王攘夷運動に傾倒、維新後、内務官僚。
明治5年、大津県令、翌年、初代・大津県令に就任。
後、明治12年、琉球処分断行に尽力。
同年、第7代・東京府知事。明治15年 死去。

【188】伊地知貞馨(いじち さだか)
薩摩藩出身。誠忠組に参加。
盟友・利通と並ぶ久光側近として活躍。
文久元年12月、国元からの指示で江戸藩邸を自焼。
翌年、幕府により薩摩藩の自作自演であることが発覚。
以後、薩摩藩の政治活動の第一線から退く。
後、薩摩のイギリス・オランダとの貿易交渉に従事していた。

●6月13日 利通、新宿勧業寮出張所に赴き、
        養蚕の改良、実験を観る。

6月20日 政府、初めて地方官会議を開く。
       聖上(天皇)、親臨勅語を賜う。

7月5日 政府、元老院開院式を行い、聖上、臨御、
      あらせらる。

●同日、利通、北海道御巡幸のことを奏請する。

●7月29日 利通、海運業奨励の方策について
        建議書を三條実美に提出する。
        廟議、これを容れ帝国の開運政策、
        初めて定まる。

●8月14日 利通、上野に博物館を設置せんことを建議する。
        11月に至り図書館(浅草文庫)と共に
        開館する。【189】

【189】現・東京国立博物館。
この前年、書籍館を浅草に移転し、浅草文庫と改称していた。
博覧会事務局が内務省の所管となり博物館と改称した。
翌年、上野公園が博物館所管となる。

9月7日 政府、華氏族の米給を金禄に改正する。

●9月25日 利通、下総に出張し、矢作、取香、
       高野などの各地を視察し国立牧場を    
       選定する。28日、帰京する。

●9月 利通、国産奨励のため諸官衛の需要品は、
     内地品を使用すべき旨を地方官に訓令する。

●10月8日 利通、王子製紙工場を視察する。

●10月10日 利通、我国輸出品を以て外貨償却の
        上申する。

●同月、利通、海外貿易直輸出の基業を開くの議を議を
      建言する。
      勧業寮に勧業基金の制を設け、農・工・商、
      実業の奨励、保護に充つ。

●10月30日 天皇、清国との講和調印一周年に相当する
         を以て、特に勅使を遣わされ、
         利通に銀盃一組および酒肴を賜う。

●11月6日 利通の勧めに従い、両石原家に嫁したる
        二妹・きち子、みね子の二妹、
        鹿児島より出京する。

●11月18日 利通、有栖川宮に随行し、習志野に出張し、
         20日、帰京する。

●11月28日 利通、霞が関・自邸、改築につき
         永田町・宮内省附属邸を拝借、移住する。

(11月29日 新島襄、同志社英学校を設立)

●12月2日 内田政風【190】、海江田信義【191】、来訪、
        島津久光の建白採用のことを論ずる。

【190】内田政風(うちだ まさかぜ)
薩摩藩士。通称は仲之助。
幕末、島津久光の側近として、禁門の変や戊辰戦争で
軍需品の供給にあたる。
維新後、明治4年、初代・石川県令。
4年後、官僚を辞し、島津家に再度、仕えた。

【191】海江田信義(かいえだ のぶよし)
薩摩藩士。通称は武次(たけじ)。
当初、お由羅騒動に巻き込まれ藩を追われるも
新藩主・斉彬により、復帰。
後、誠忠組の結成に参加、後、江戸藩邸に勤め、
水戸藩邸に出入りし、藤田 東湖らに尊王論を学ぶ。
後、桜田門外の変に参加。
後、戊辰戦争で東海道先鋒総督参謀。
維新後、利通の尽力で、明治3年に官職に復帰し、
奈良県知事に。後、再度、左院・四等議官となるも
この年、左院の廃止で御用滞在となっていた。

12月9日 江華島雲揚艦、砲撃事件【192】を以て、
      参議・黒田清隆を特命弁理大臣となし、
      議官・井上馨を副大臣となし、
      朝鮮へ差し遣せらる(翌日6日出発)

【192】朝鮮・釜山の日本公館に妨害や非難が起り、
これを機に、ソウルに近い江華島で測量中に(挑発とも)
草芝鎮の砲台が発砲し交戦となった事件。

●12月 利通、賞典禄を返献して、殖産興業の資(本)
    とせんことを請う。


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