京都史蹟散策・歴史の流れ 大久保利通 19

歴史の流れ 大久保利通 19  明治9年 1876 47歳

明治9年 1876 47歳 
1月14日 両陛下、延遼館へ行幸。
      アメリカ大博覧会出品物を天覧あらせらる。

●1月15日 利通、霞が関・新邸落成し、移転する。

1月21日 黒田清隆弁理大臣ら、朝鮮当局者と談判し、
      27日、条項条約を交換する。

●2月12日 利通、長女・芳子、生まれる。
       後、男爵・伊集院彦吉【186】に嫁ぐ。

【186】伊集院彦吉(いじゅういん ひこきち)
薩摩藩士・伊集院吉次の長男。
明治23年、東京帝国大学卒業後、外務省に入省。
後、外交官の道を歩む。
後、大正12年、第2次山本権兵衛内閣で外相。

●2月12日 利通、警視庁に至り、親しく事務 警官訓練、
       監獄などを視る。
       同月、内国勧業博覧会を上野に開設するの
       議を建議する。
       同月、廟議、利通の議により上州新町・
       屑糸紡績所を設置するに決する。

3月4日 黒田清隆弁理大臣ら、朝鮮より帰朝。
      翌日、復命する。

●3月13日 利通、新設の上野公園地を検分する。

3月28日 木戸孝允参議を罷免し、内閣顧問に任ぜらる。

4月18日 利通、大いに府県の廃合を行う。

●4月19日 聖上(天皇)、利通の霞が関・新邸に臨幸あり。
        家族一同に親しく拝謁を賜い、且つ左(下)
        の優渥なる(手厚い)勅語を賜う。

       汝、利通、維新の始(め)より国事に
       鞅掌(精励)し、今や幸に平安に属す。
       之、汝等、輔翼(ほよく・補佐)の
       功に因る所なり。朕、茲(ここ)に親臨し
       偕に(ともに)歓を尽くすを欣う(喜ぶ)。

4月 車駕(しゃが・天子が行幸の際に乗る車)、
   東北巡幸の旨を布告せしめらる。

●5月9日 両陛下、新設の上野公園【187】に行幸あり。
      利通、外国使臣らを公園に招待する。

【187】 上野恩賜公園(うえのおんしこうえん)
上野公園は、通称。台東区の町名でもある。
現・公園内には博物館、動物園等、多数の文化施設がある。

5月16日 内務省に勧商局を置く。
      (後、6月12日勧商局は、民間の佐賀商人・
      笠野熊吉を用達に任命。
      直輸出を担当する機関・広業商会を設立
      させた。半官半民の会社で明治18年に
      ほぼ目的を達成し解散した。)

●5月20日 政府、利通の議を容れ、特別を以て内務省の
        予算定額を増加する。

●5月22日 利通、内務卿5等官以上を自邸に招待する。

●5月23日 天皇、東北地方御巡幸につき、利通、先発する。
        到る所、学校を視察し、篤志者に接見。
        殖産興業を奨励し、且つ、公益事業功労者、
        および孔子節婦の(顕彰の)取調べを行う。

●5月25日 日光に抵り、満願寺の行在所を検分する。
        (日光町は、産業なく、神社仏閣が生活の
        支えであった。
        後、政府の廃仏毀釈より、移転地もなく
        問題が深刻。
        これを町民は、大久保利通に嘆願。
        岩倉具視右大臣、木戸孝允らにも推進していた。
        この日、日光代表は、草加に行き直訴。
        明治天皇は、有数の名所の荒廃を残
        念に思い、お言葉と御手許金を賜され、
        日光の景観が保守された)

●5月28日 白川城址を訪れ、戊辰役戦死者の墓前に
        石燈籠を建立する。

同月、内藤新宿に農業修学場【188】を設け、各府県より生徒を
募集する。後、駒場野に移す。
駒場農学校、これにして東京帝大農学部の前身なり。

【188】一方、明治5年に開設された(北海道)開拓使学校は、
明治8年札幌に移転し、札幌学校と改称し、これは、この年、
札幌農学校に開祖された(北海道大学農学部の前身)。
初代・教頭はW.S. クラーク(→内村鑑三・新渡戸稲造らの
思想家を生む)だった。

6月2日 車駕(しゃが)、東京を発す。

●6月9日 置賜県【189】成田村に抵り、特に
       佐々木宇右衛門【190】の養蚕場および製糸場
       を視る。

【189】置賜県(おぎたまけん)
置賜は、山形県南部・米沢盆地とその周辺部。

同年、8月21日、2次府県統合で山形県に合併した。
【190】佐々木宇右衛門(ささき うえもん)家。
成田村・下長井を代表する豪商。
唯一、民家で藩主・上杉家の本陣とされていた。
また、県下で一番早く機械製糸工場(民営・末広社)を
創設していた。

●6月23日 利通、車駕(しゃが)を宮城県下、岩沼に迎え、
       翌日、行在所に伺い候し、御還幸は
       海路に後治定あらんことを奏請する。

同月、イタリア主催蚕糸業国際会議に政府委員を派遣する。

●7月11日 七戸に抵り、廣澤安任【191】の牧牛場を視る。

【191】廣澤安任(ひろさわ やすとう)
会津藩士。通称が富次郎。
鳥羽伏見の戦い後、松平容保らの立場を新政府に嘆願するも
投獄される。明治2年釈放。
戊辰戦争後の会津藩は、廃藩置県により斗南県となるも
困窮にあえぎ、自県の救済策として、弘前県(現・青森県)
を建言し受容された。
また、貧困に苦しむ旧会津藩士のため現・三沢市に
洋式牧場・開牧社を開設していた。
後、利通に政界への勧誘あるも固辞、畜産・酪農に
生涯を捧げた。

●7月12日 利通、再び、車駕(しゃが)を七戸に迎う。

●7月14日 利通、青森より函館に抵り、19日、車駕に
        先ち、海路、帰京する。

●7月20日 利通、横浜に赴き、聖上の御着艦を奉迎する。

●7月29日 利通、士族授産に関する意見書を提出する。

同月、官立・上州富岡製糸工場に各府県当業者および
   工女を選抜し、講習を行う。
   修業期間三か年とする。

●8月2日より利通、腫物【192】のため引き篭る。
       聖上、侍医を遣わされ物を賜う。

【192】八月一日火曜日 ・・・
過日以来、腫物いたし、今日より痛、強く、
起臥、不自由。 (大久保日記・十巻より)

8月10日 政府、内務省に授産局を置く。

●同月、聖上、後巡幸中の労を慰し、ガラス蝋台、一対を、
     また、別に椅子・12脚と琉球上布2巻を賜う。

●同月、アメリカ人・ドクトル、ジョン、ベリー【193】
     氏の(要)請を許し、各地、監獄を視察
     せしめ,その報告を徴し、大いに改良の実を
     挙げしむ。

【193】ジョン・カッティング・ベリー
宣教師、医師。
アメリカンボードにより日本へ派遣される。
明治5年10月、来日。翌月に兵庫国際病院(現・
神戸海星病院)の医事監督、後、兵庫県病院(現・
神戸大学医学部附属病院の支配頭。
翌年(明治10年)神戸監獄でコレラが大流行。
後、ベリーは、利通の理解を得、大阪・京都・兵庫・播磨の
監獄視察の報告書を作成。
これは、その後の行刑のあり方に影響を与えたとされる。

9月6日 天皇、元老院議長・有栖川宮に勅して、憲法を
     起草せしめらる。
     元老院議員4名、委員に命ぜらる。
     (明治)13年12月、草案なる。

●9月、利通、千住に製絨所(せいじゅうしょ)【194】創設
     の議を上申する。
     (明治)12年9月、工、成り、開業する。

【194】日本最初の近代的毛織物工場。
明治)2年に被服製造技術習得のためドイツに派遣の
井上省三の帰朝により開業した。
(井上省三は、井上半右衛門の養子となり奇兵隊隊長となる。
倒幕に参加。
維新後、木戸孝允に随行し上京し、ドイツ留学)

●同月、利通らの奨励により、深川に民営新燧社、
     (しんすいしゃ・桜印の商標のマッチ製造社)
      創立される。

10月24日 熊本敬神党【195】200余人、鎮台司令長官
       および県令を襲い、これを殺(害)する。
       翌日、鎮台兵、暴徒を撃退し乱、
       直ちに平定する。

【195】神風連の乱(しんぷうれんのらん)とも。
廃刀令に反対し、加屋 霽堅(かや はるかた)、
斎藤求三郎ら、約170名によって結成され、起こされた。
この乱に呼応し、秋月の乱、萩の乱、西南戦争へと
繋がる。

10月27日 秋月藩士・宮崎車之助ら、また、熊本の賊に
       応じ、兵を挙げる。鎮台兵のため(により)
       撃破せらる。【196】

【196】秋月の乱。
旧秋月藩・宮崎車之助ら約400名によって起こされた。
秋月郷土資料館(戸波半九郎屋敷跡)に関係者の遺墨が
展示されている。


10月28日 前原一誠ら、また、長州・萩に兵を挙げる。
      翌月4日、乱、全く平らく。【197】

【197】萩の乱。
元参議・前原一誠ら約200名によって起こされた。
また吉田松陰の叔父・松下村塾塾頭・玉木 文之進は、
養子・玉木正誼や、前原ら塾生らの関与の責任で自害した。

10月19日 茨城県・農民、地租改正を悦ばずして、
       騒擾する。
       尋て三重県下の農民、石代貢租につき 
       蜂起せしも皆、鎮定する。

●12月26日 利通、地租軽減の議を建白する。【198】

【198】政府は地租改正反対一揆とこの時期の士族反乱との
結びつきを恐れ、地租を地価の3%から2.5%に引き下げた。

●12月27日 利通、行政整理、および時幣、
         矯正のことを建白する。

●同年、内務権少丞・小花作助を小笠原島に派遣し、 
     全島を統轄せしむ。
     翌年、利通、開拓碑を島内に建てる。

大久保日記は、この年、9月24日以降、12月31日まで、
「所労中不記」となっている。
大久保利通文書・第七によると、9月27日には、
病気見舞いを兼ね、木戸孝允へ書翰(木戸侯爵家蔵)
を始めとして、これ以降、岩倉具視、伊藤博文、
松田道之、前田密らと盛んに手紙の往来をしている。

また、勝田孫彌の大久保利通の伝記によると・・・
利通は、数月の間、病のために進退の自由を失い、参朝して、
諸般の施設に当たること能(あた)わざりしが、
この間に熊本神風連の乱の暴挙、萩における前原一誠の騒乱、
その他、茨城、佐賀、三重など諸県の暴動、蜂起したり、
利通は病気にありて、臨機の指揮をなし、幸いに大事に
至らずして鎮定せしといえども・・・とある。


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