京都史蹟散策 91 天王山 史蹟巡り 1

京都史蹟散策 91 天王山 史蹟巡り 1

【交通】JR山崎、阪急京都線・大山崎
【位置】京都府乙訓郡大山崎町

天王山・この名を聞いた時、まず想起するのは、
天下分け目の天王山という言葉。
この地は、地理的には京都府乙訓郡大山崎町の
山・西側の山腹で、摂津の国(現・大阪府)、
山城国(現・京都府)の国境線が走っている。
よって古来より戦略上の要地となり、
南北朝時代より争奪の舞台で山城も築かれた。

特に、明智光秀・羽柴秀吉の山崎の戦い。
禁門の変での真木和泉らの十七烈士自刃の地。
鳥羽伏見の戦いでの新政府軍と新政府軍の戦い。
など日本史のページを彩っている。

本篇は、幕末・十七烈士の墓を中心に、
幕末(新選組)・大正・昭和初期の史料なども
織り交ぜながら、天王山頂上までの登坂を
史蹟とともに巡ります。

十七烈士の墓の前の説明板によると・・

十七烈士の墓(維新の史跡)
幕末、王政復古の運動を推進した長州藩が、
文久3年(1863)年、8月18日の政変のため、
三条実業以下七卿と共に京都を脱出し、
しばらく本国に退いた。
このとき筑後 水天軍神官 真木和泉守
始め尊王攘夷の志士たちは、
長州藩の京都回復運動に同調し、
清側義軍【1】を編成して元治元年(1864年)夏、
長州藩軍兵と共に上京し、ここ山崎に布陣した。
その強硬な上京軍に対し、幕府側はついにこれを
追討することを決めた。
【1】 清側義軍.
朝廷に巣食う悪を討って君側を清める義軍のこと。

かくて御所の幕府軍との間に激しい戦いが
展開されたが、上京軍は蛤御門(はまぐりごもん)・
堺町御門(さかいまちごもん)において敗れ、
退却を余儀なくされた。
この山崎に退いて長州藩主力兵の国元引き揚げを
見送った真木以下十七名は、禁裏のある京都の地を
去るに忍びないとして天王山に上り、
7月21日、幕府追討軍の来襲を前に、
烈士そろってこの地で壮烈な自刃をとげた。

その直後、敗兵掃討によって離宮八幡宮・神宮寺
等の社寺や、民家三百余戸を焼失したが、
やがて烈士たちの念願が成って明治維新を
迎えるに至った。
かくして、十七烈士は現位置に改葬され、
永遠の眠りについたのである。
今日、その志を忍ぶ人々の手によって
毎年12月21日、墓前祭が挙行されている。
  昭和59年10月21日
       天王山十七烈士奉賛会

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JR京都から大阪方面へ5つ目の駅、
山崎駅に降り立つと、【眼前に】、妙喜庵がある。

妙喜庵(みょうきあん)
【位置】京都府乙訓郡大山崎町竜光

【石標】
宗鑑隠棲地
豊太閤陣営    妙喜庵
千利休茗席

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説明板によると・・

妙喜庵
宗派 臨済宗東福寺派
開基 春獄禅師
文化財(国宝)茶室【2】・(重文)書院

【2】千利休が唯一残した茶室で、茶室の原型で、
数寄屋建築の原型とされる。
現存する茶室としては日本最古のものといわれる。

庵は江戸時代末期までこの地にあった地蔵寺の
塔頭であったといい、明応年間(1492-1500)に
俳人であり連歌師でもあった山崎宗鑑が隠居所
として建立したと伝える。

同庵には二棟の国指定文化財があり、
一つは千利休が山崎合戦(1582)
直後に建立した草庵風茶室の代表的な遺構の
待庵(たいあん)である。
その規模は二帖で隅に炉を切り、
塗りまわしの洞床を用い、それぞれ異なった
大きさの連子窓を開くという変化に富んだ構成を
見せている。
我国の数寄屋建築の根本と言われる建物で、
後の数々の茶屋に影響を与えた。
今一つの建物は、茶室から続く書院で、
室町末期の文明年間(1469~87)頃に
建立されたものと思われ、桁行二間、梁間三間、
一重切妻造、これら葺という室町期の優美さが
漂う建造物である。
     昭和61年3月
         大山崎町教育委員会

次に、駅からは見えているのだが、
線路に沿って、京都方面に向かって
4、5分歩いて踏切を超えると、
駅から、わずか200m、

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踏切を渡り終えると、

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左側に
【石標】
天王山登り口
西暦二〇〇〇年記念
平成十二年三月吉日
 大山崎町文化協会建立
 岡部正雄基金
          がある。

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その手前に
●左
【陶板】
歴史街道 天王山
五街道分間延絵図【3】 
山崎通分間延絵図
          がある。

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【3】五街道分間延絵図
正式名称・五海道其外分間見取延 絵図
103巻。
時の江戸幕府が寛政年中(1789~1801)に
東海道、中山道、甲州道中、奥州道中、
日光道中の五街道を把握するため
道中奉行に作成させた詳細な絵地図。
文化3年(1806)完成。
現・東京国立博物館
(全80巻にまとめられたもの・重文)
と逓信博物館に所蔵。

また【石標】のすぐ左に、
山崎宗鑑冷泉庵跡の説明板(歴史街道)がある。

山崎宗鑑冷泉庵跡
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それによると・・

山崎宗鑑冷泉庵跡
宗鑑は本名を範重(のりしげ)といい、
寛正6年(1465)滋賀県栗太郡常盤村志那
で生まれた。
彼の家は志那地区を支配した志那氏で足利将軍
義尚に一族で仕えていた。
しかし将軍義尚が佐々木高頼との合戦に
破れたため世の無常を感じて剃髪し、
入道となり生地を離れて大山崎に
隠棲(いんせい)したのである。
ここに山崎宗鑑が誕生する。

彼は八幡宮社頭で月例会として開かれていた
連歌会の指導や、冷泉庵での講を主催する一方、
世に知られた『犬筑波集』【4】を生み出した。

【4】室町時代・天文年間 (1532~55)
に成立した山崎宗鑑編の俳諧連歌撰集。
連歌から俳諧が独立する契機となる。
近世以降の版本では新撰犬筑波集とあり、
上記の名称が通称とされる。
冠頭の語句の【犬】は、連歌からの立場からの
【俳諧】連歌に対する卑称。

また書も宗鑑流として多くの人々から珍重された。
碑文の

 うつききて ねぶとに鳴や 
郭公(ほととぎす)【5】

は、掛詞(かけことば)を巧みに使い、
その手法は後の俳諧の基礎となった。

【5】郭公(カッコウ)
郭公の読みは、平安期以降、ホトトギスと
カッコウの類似からくる【誤り】によるものと
考えられている。

   昭和60年8月1日
         大山崎町文化協会


ちなみに、彼の死後、有名な下記の辞世の句を
遺(のこ)している。

宗鑑は何處へと人の問ならば  宗鑑
ちと用ありてあの世へといへ

この天王山入口の【石標】から、12、3歩、
先の左に、天王山観光案内図(歴史街道)がある。
それによると・・

天王山の位置と歴史
古来、大山崎は軍事、交通上の要衝として歴史上
重要な役割を果してきました。
その要の位置をしめている山が
標高270.4メートルの天王山です。
天王山は摂津国と山城国の境をなし、また西国と
東国を結ぶ重要なポイントであり、山と川のとの
間は最も狭い部分で200メートルたらずしかなく
ここを通らずして西へも東へも行けないという位置
にあります。

古代、この山には名はなく、中世になって山崎山、
そして山頂近くに酒解(さかとけ)神社が建立されて
牛頭(こず)天皇を祭ったためそれから天王山の
名が生まれました。
しかしこの名が知られるようになるのは室町時代の
応仁・文明の乱の時からで、地域的な重要性から
天王山に城が築かれ、たびたび合戦が行われました。
やがて最も知られている天下分け目の天王山
「山崎合戦」が天正10年(1582)6月13日、
夕刻4時ごろ山頂、山麓で明智軍・羽柴軍との間で
繰りひろげられました。
やがて勝利をおさめた羽柴秀吉は天下統一を
めざすため天王山山頂に天守閣をそなえた城を
築城し大山崎を城下町としたのです。

このような歴史をもつ天王山には今日数多くの
神社仏閣、史跡等が残され、おとずれるものに
歴史の重みを感じさせてくれます。
中世の繁栄を今に受けつぐ離宮八幡宮や
宝積寺(ほうしゃくじ)には数々の文化財があり
近世の幕開けとともに建てられた
妙喜庵(みょうきあん)内茶室「待庵(たいあん)」
(国宝)は利休が建立した唯一の現存茶室
として有名です。
その他にも古代から近世に至る様々な歴史を秘めた
天王山の探訪を心ゆくまで楽しんでください。
(左のイラスト図は天王山山麓に所在する文化財と
案内道です)

下記のイラスト図・赤い線が今回の登坂ルート。
画像


なお、平成25年12月21日に開業した阪急・
西山(にしやま)天王山駅は、記載されていない。
ここから見える、次の目的地・宝積寺までの坂道。
わずか400mだが、結構、急坂なのです。
そして、宝積寺の仁王門が、その到着を迎えて
くれます。

画像


           続く。

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