京都史蹟散策 91 天王山 史蹟巡り 2

京都史蹟散策 91 天王山 史蹟巡り 2

宝積寺 ~ 青木葉谷 広場

【交通】JR山崎、阪急京都線・大山崎
【位置】京都府乙訓郡大山崎町

宝積寺(ほうしゃくじ)
通称:宝寺(たからでら)、大黒天宝寺
真言宗智山派、総本山・智積院
創建・変遷の詳細は不明。

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神亀元年(724年)、聖武天皇、勅願により
行基【6】が建立し、本堂に十一面観音菩薩を祀る。

【6】行基(ぎょうき/ぎょうぎ)
和泉国・大鳥郡蜂田郷、百済系渡来人の血統、
高志(こし)氏の出身。
15才で出家後、薬師寺(奈良)に入る。
飛鳥寺(奈良)で中国創始仏教・
法相宗(ほっそうしゅう)を学ぶ。
朝廷の仏教・布教活動の禁を破り近畿内
中心に治水・架橋などの事業を展開。
例。兵庫県伊丹市の昆陽池・昆陽寺、
市内には行基町(ぎょうぎちょう)の地名も。
ほか全国に多数ある。
後、弾圧受けるも731年、解かれる。
同年、山崎院を建立(行基年譜より)
3年後、東大寺大仏建立に協力。
745年、朝廷より日本初の大僧正位を授けられる。

後、衰退するも、長徳年間(995年~999年)
寂昭(じゃくしょう)により中興され天台宗と
なるも、後、真言宗となる。
貞永元年(1232年)の火災で焼失後、再建。
天正10年(1582年)山崎の合戦で羽柴秀吉の
本陣が置かれる。【7】

【7】戦国争乱の中、多くの軍勢がこの地・
大山崎を通過し、この地に先陣を構えた。
織田信長も他の地と同様、大山崎を直轄地として
位置づけていた。
信長公記(天正6年5月13日条)によると・・
山崎の者共が船を仕立てて京都まで信長を迎えに
参上している。
また、翌年には、織田信長は、ここ【宝積寺】に
数日間逗留。
さらにその翌年、重臣の佐久間信盛父子に折檻状を
下している。

元治元年(1864年)蛤御門の変(禁門の変)で
真木和泉守ら尊皇攘夷派の十七烈士らの陣地が
置かれた。
明治元年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、
4院3坊は1院となり、以後荒廃した。


上記の如くこの地は、織田政権の重臣の支配下に。
その信長亡き後、天正10年(1582年)、
清州会議から帰京した羽柴秀吉は、天王山に居城を
築き始める。
翌年の11年6月、その居所を大坂に移す間、
1年にも満たない短期間であったにせよ、
【天王山の山崎城】が羽柴秀吉の本拠地で
あった。
中井均・山崎城跡の構造と歴史(1983)参照。

木造金剛力士、阿形(あぎょう)(那羅延金剛力士)
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吽形(うんぎょう)(密迹金剛力士
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宝積寺の仁王門。
昭和12年の京都府の
史蹟名勝天然記念物調査報告
を意訳すると・・

寺の文書記録にはないが、室町時代以前とされる。
その根拠として、
昭和9年に9月21日の台風の直撃を受け、
像が壁面まで押し付けられたと云う。
後、昭和10年、元の位置に戻す際、
吽形の右足に応永28年(1421年)の再興の銘が
発見され、この像の造立は、鎌倉末期と
位置づけられた。
応永28年の再興は、6月21日に竣工しているが、
新彫に近いものであったと推測される。
また山崎の油商人は、史実でも鎌倉初期から
活動し、室町期には、その富がこの地に
集積されていることから見ても、その事実性は、
かなり高いとされる。と、ある。

この仁王門を潜った左側に
待宵の鐘(まちよいのかね)がある。

重文・待宵の鐘 (仁王門を潜り左側)
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永正16年(1519年)の在銘がある
室町期作の銅鐘である。
近衛天皇皇后の多子の歌人待・小侍従
石清水別当清水光清女の和歌、

まつ宵の更け行く鐘の声きけば 
帰るあしたの鶏はものかは

平家物語・百二十句本・四十二句・月見
にちなんでいる。
待宵小侍従墓・顕彰碑は、JR山崎駅より
大阪方面の次の駅・島本駅すぐ、
名神高速道路横にある。

この待宵の鐘の右側には、【三重塔】がある。

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最近、この塔と待宵の鐘にまつわる、
ある話を見つけたので、ここに紹介します。
それは、大正10年11月28日の京都日出新聞の
紙上に掲載された記事で青山虹子氏(詳細不明)
により、掲載されたもの。
全文、長いので要約しました。

宝寺の鐘楼が成ったのは永正10年(1513年)
6月18日であった。
製造者は、神足(こうたり)掃部清原春廣。
この者の名からして三重塔が移動されたのは、
永正16年前後と思われる。
永正14年の秋ごろ、春廣は勅命により鐘の鋳造を
命じられるが、思うように造れない。
するとその背後にひとりの女性が現われ、
 お気に召さない?
 お気に召す迄おやりなさいませ、
 きっと思う様になりますから・・
といわれ、気を取り直し鐘は造られた。
その一週間後、宝寺では盛大な竣工儀式が
挙行され、美しい波音とその響きに人々は酔った。
特に女性の間で人気となり、春廣は絶えまなく、
女性たちに追いかけ回されることとなる。

ある晩、美しい絹ずれの音に、
 とうとう隠れ場所を見つけられたか、
そう思い観念し春廣、振り向くと、
あの女性であった。
後、ふたりは恋に陥るが、その年の暮れ、
古塔の移転問題がお寺の内で議決される。
移転の前の晩、その女性が言う。
 私たちの塔も移転されるのですね。
 私達の心も移って行く・・、 
 もうお目にかかるのも今宵限りでございましょう。
春廣は星の光に彼女の美しいたまゆらをみた。
塔は移転された。
翌日、対岸の橋本から身を投げた美しい女がいた。
それは当時、付近の廓で艶名を賞すると称われた
遊女・ゆかり だった。
人々は、訝(いぶか)しがったが、春廣は、
思い知った。
この塔の紅葉のように燃える
その女(ひと)の想いを・・

現存の、この塔は、当時のものではなく、
豊公一夜の塔と云い、また、加藤清正が
建造したものとも云われている。

この話の余韻に浸りつつも、眼を右に向けると、
十七烈士の墓石がある。

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宝寺の文書記録によると・・
幕府は志士の遺体を寺の塔前に埋めた。
すると、香花が絶ゆることなく
多くの参拝者が訪れた。
よって、これを忌むばかり付近の藪の中に
移したが、後、自刃した箇所に改葬した、
とある。

また、当時の住職、勤王の志篤く、志士の連絡役
まで務めていたため幕府に捕獲され、4ヵ月、
獄につながれた。
そして、釈放後も墓前祭を営んでいたが
やがて、この住職も亡くなる。
後、明治19年、京都・東山の現・霊山護国神社に
合祀されることとなった。
そして、これに伴い、墓前祭も行われなくなった。
が、この地・大山崎村の人々は、当時を欽慕し、
明治32年10月21日に墓碑を建立した。
以来、尚武義会の名の下、年々、招魂祭を
行うこととなる。

後、明治41年8月28日には、
後藤新平(台湾総督、初代・満州鉄道総裁ほか)
が数名のドイツ人を伴い、この地を訪れている。
そして、宝寺の署名録に、志士の事績を偲び、
一句を残している。
 来てみれば 夏なほ寒し 武士の風

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だが、近年、この招魂祭も高齢化が進み、
平成26年になり、招魂祭は、主催する奉賛会が
その年度限りで休会を決めた。
そのため、平成26年10月21日が、
最後の開催となった。
墓前祭は、その2日前に5年ぶりに復活している。

さて、参道を進んで行くと左手に閻魔堂がある。
この堂は、明治の廃仏毀釈で西観音寺より
移管されたもの。
天台宗・西観音寺は、現・サントリー山崎蒸留所の
敷地内にあり、寛政8~10年(1796-1798)・刊行の
摂津名所図会に描かれ、後鳥羽上皇が行幸され、
水無瀬山 木の葉まばらになるままに 
尾上の鐘の声ぞちかづく  
なる歌まで残る名刹であったが、廃寺となり、
明治5年に椎尾神社になってしまった。
蒸留所の入場受付の近くに西観音寺閻魔堂址の碑
がある。
木造閻魔王坐像(重文)、4体がある。

正面に至ると、慶長11年(1606年)改築、
入母屋造、本瓦葺の本堂である。

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その左手には、大黒天が祀られている
小槌宮(大黒天神)がある。

一方、右手には、登山客が水をかけていく
水掛不動があり、その右隣に弁才天堂がある。

水掛不動
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弁才天堂
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その右手に貼り紙があり、
禁門の変の史蹟 十七烈士の墓
(当寺より約600m・徒歩20分)とあるが、
とても20分ではいけそうもないと思われる。

ここから青いフェンスに沿って、小さな石橋を
渡って見上げるといよいよ登山道となる。
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そして、
下のような、かなり急な、つづれ坂を
10回程折れて、登りきる。

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すると、左手に小さな広場がある。
青木葉谷 広場である。

この片側に、秀吉の道
作・堺屋 太一 画・岩井 弘 の陶板がある。
「天下分け目の天王山 大山崎町」
を参照。

一方、西側に目をやると、
大阪方面の眺望が目に飛び込んでくる。

案内板
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目を凝らすと
正面・遥か彼方の中央の一番高いビルが、
アベノハルカス。
その右に大阪城が、かすかに見える。

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                 続く

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