京都史蹟散策 91 天王山 史蹟巡り 3

京都史蹟散策 91 天王山 史蹟巡り 3

青木葉谷 広場 ~ 禁門の変 十七烈士之墓

【交通】JR山崎、阪急京都線・大山崎
【位置】京都府乙訓郡大山崎町


青木葉谷広場で少し休息し、また つづれ坂を
3回ほど登ることとなるが、
これまでの つづれ坂に比べて少し、マシである。

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少し、差し出がましいが、これまでの10回程の
坂の登り方は、階段(くずれ)の中央でなく、
端の方を登ることがお勧め。
段さが大きいので、筆者のように足が短いと、
(いや、普通ですが)足を高く上げないと
またげないので。

すると、石の鳥居がある。この先にある
●酒解(さかとけ)神社の鳥居 である。

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この近辺、通称・旗立松(はたたてまつ)展望台
である。
少し右手の方に旗立松があり、小さな石標がある。

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旗立松 展望台にある石碑
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説明板によると・・

旗立松(天正山崎合戦の史跡)
天正10年6月2日、洛中本能寺に宿泊していた
織田信長は、家臣である明智光秀の手によって
暗殺された。
信長死去の知らせは備中高松城(現岡山県)を
こうちょうしていた羽柴秀吉の元にも届き、
秀吉は急ぎ毛利氏(清水宗治)と和義を結び
京都へと向かった。
一方明智光秀は秀吉の帰洛に備え御坊塚(下植野)
に本陣を敷き、6月13日夕刻
天下分け目の天王山の戦い(山崎合戦)の火ぶたは
切っておとされた。
羽柴秀吉は天王山へ駆け登り、味方の士気を
高めるために松の樹上高く軍旗を掲げた。
これを見た羽柴軍は一気に敵陣内に攻め入り
明智軍はその結果防戦一方になり総くずれに
なってしまった。
これによって光秀は僅かな手勢を従えて近江へと
落ちていくのである。
その初代と伝えられる松も明治中頃まで
槁木(こうぼく)の姿をとどめていたが
朽ちてしまい、その後3回の植樹をへた
昭和63年、再び枯れたため、
国民体育大会を機に5代目の旗立松を植樹し
今日に至っている。
平成元年3月
大山崎町文化協会

旗立松(はたたてまつ)展望台・
明智軍・秀吉軍の布陣図
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旗立松 展望台からの眺望
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旗立松のこの位置、名神高速道路で説明すると、
名神高速道路・大山崎IC、少し先の下り左ルート・
左右の間で京都から大阪方面へのトンネル、
約五分の一位、進んだ辺り・山上に該当する。
さらに、
酒解神社の鳥居を潜った、すぐ左側に
秀吉の道
作・堺屋 太一 画・岩井 弘 の陶板がある。
これは、「天下分け目の天王山 大山崎町」
明智光秀の誤算 を参照。

ここから、もう1回、つづれ坂を登ると、
三叉路で、行先の表示板がある。

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階段を上ると、史跡 禁門の変 十七烈士の墓
である。

階段を登りきると

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右手に、
史跡 禁門の変 十七烈士之墓の案内板があり、

正面に、天王山 史蹟巡り1 の冒頭で述べた
説明板がある。

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そして、この説明板の右手に廻ると十七烈士之墓
である。
中央に 烈士墓標 があり、その周りをコの字を
縦にしたように墓が並んでいる。

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そして、この墓の西側に別の木の説明板がある。

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これによると・・
十七士の墓
幕末に攘夷の先陣をつとめた長州藩が政策の
変更のため京都を追われ、文久3(1863)年8月
長州に落ち延びたことがある。
所謂七卿落である。
筑後の国水天宮の祠宮真木和泉守保臣はじめ
諸国の志士らが長州藩の回復運動に同調し、
元治元(1864)年7月禁門(蛤御門)警衛の
諸藩攻撃に参加した。
これが禁門の変といい蛤御門の戦いともいう。
戦は利あらず長藩は退却西下した。
真木らは長藩主力の退却を山崎で見送り
天王山に登り7月21日討代軍会津桑名藩の
来攻を前に同志17名がこの地で自決した。

遺体は宝積寺三重塔前の地に埋められたが
遠近よりの参拝者が多く、香華常に絶えず、
之をみた幕府方は、その屍を竹林中に移理した。
明治元(1868)年 現位置に改葬し墓碑を建て
志士の英魂を弔うため年々墓前に祭祀を営まれた。

大正2年志士の五十年祭記念に祭務所を新築
されたが、昭和9年室戸台風に倒壊したため、
今回百年祭記念として奉賛会によって再建された。
     昭和48年10月

              とある。

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            続く。

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