京都史蹟散策 91 天王山 史蹟巡り 5

京都史蹟散策 91 天王山 史蹟巡り 5

禁門の変 十七烈士之墓

【交通】JR山崎、阪急京都線・大山崎
【位置】京都府乙訓郡大山崎町

新選組の登場

話は、少し前後するが、では、
この20日以降、一方の会津・新選組らの動向は
どうだったであったろうか。
資料としては、
(第2回京都 幕末パネル展より)で紹介した
永倉新八著・【浪士文久報国記事】や

画像


浪士文久報国記事・元本表紙には、
長倉性(長倉新八)と記される。
上記写真の本文の文章は、冒頭、
「藤堂平助は表口から(池田屋へ)
入った・・・」とある。

浪士文久報国記事・元本表紙には、
長倉性(長倉新八)と記される。
上記写真の本文の文章は、冒頭、
「藤堂平助は表口から(池田屋へ)
入った・・・」とある。

新選組日誌などからの記述を引用し、
辿って見ると・・

○廿日、天王山に敵頓集す。
会藩、見回り組、当組と合して繰出す。・・
(島田魁日記)

○新選組(中略)廿日山崎へ出勢、・・
      (幕末会津藩往復文書)

○・・即ち会津藩の士大将神保内蔵は、
軍事奉行の林権助、新選組隊長近藤勇等と共に
軍容を整へ、隊伍堂々して天王山へ向つた。
         (「永倉新八」)

ちなみに、同日、平野国臣・古高俊太郎らが
六角獄舎で死亡。
(京都史蹟散策54 平野國臣殉難の地
参照)

○御所より嵯峨天龍寺討っ手、松平修理太夫
仰せ付けられ、
山崎天王山討っ手、松平肥後守ならびに
新選組仰せ付けられ、
元治元子年7月20日 それぞれ出兵に相成る。
嵯峨天龍寺に20日朝取り掛かる。
長州大敗軍、山崎天王山へ落ちる。
後を薩州追い討ちす。
     新選組日誌 (訳文)

●【真木和泉守】(続き)
大澤を長州に送った和泉守は、
今は思い残すことなく敵兵の襲来に備えたが、
その夜は何事もなく済んだ。

一方京都では、長州兵、未だ山崎に頓せるとの
情報に接し、会津藩重臣・神保内蔵助孝利は、
大砲隊・新選組を引率して、21日早天 山崎の
宝寺に来たり、長州兵の有無は、
ことごとく逃走したようである
と答えた。(続く)

○【浪士文久報国記事】(訳文)
やはり21日朝、
会津・新選組、山崎天王山へ取り掛かる。
淀城へ参るまで夜も明けず・・
この時、天王山において長州人議論、
真木和泉申すには、もはや志はこれまで、
我ここにおいて討ち死にの覚悟、
落ちる者早く落ちおるべしと申す。
その中に二十人ばかり真木和泉と同論、
後は、丹波・丹後へ残らず落ちる。
それより、  ・・宝寺天王山へは、
会津士大将 神保内蔵助その組下 百人程、
新選組においては局長 近藤勇、
副長助勤 永倉新八、斎藤一組下 四十人程、
天王山下は副長 土方歳三、
副長助勤 原田佐之助、藤堂平助、井上源三郎、
・・・総勢百五十人、会津兵四百人・・

交互に資料を追うと、
その立場の違いにより、表現が異なり、
興味深いものとなります。

●【真木和泉守】(続き)
よって遺留品を改め、新選組を先鋒とし山に進め、
桑名の兵もこれを助け、山上に登って見たが、
人の気配なく、会津兵らは、
 敵は遁走したに違いない
と思った。
すると急に5、6発の銃声があり、
歓声が林を震わせた。
会津兵らは驚き伏兵ありと思い、山麓に下り、
傷つく者もあり、総勢、八幡宮に退却した。
この時、山上から会津兵を呼ぶ声があり、
会津兵らは、どんな計略があるかも知れない
と思い、容易に進もうとしなかった。

○【浪士文久報国記事】(訳文)(続き)
追々宝寺より攻め始め、天王山に向かい
天王山より六丁ほどはなれ、水天宮の神主にして
真木和泉と申す者、金の烏帽子を頂き、錦の下垂
(したたれ)を着し、組下20人ばかり、
それぞれ鉄砲を持ち一丁ほどまで押し寄せ、
敵より声をかけ、
われは長門宰相の臣 真木和泉、
互いに名乗られて戦いいたさん。

 我も徳川の旗本の者にて近藤勇と申す。

それより敵は詩を吟じ勝ち鬨を揚げ、
砲発いたし、陣小屋へ引き退いた。

●【真木和泉守】(続き)
しばらくすると一聲の銃聲が山上にとどろき、
火が起り、黒煙が天に張った。
そこで会津兵らは、進退に窮して自焼して
逃げ去ったと思い、銃口を携え天王山に登った。

また会津側からの資料を見てみると・・
(山本八重の兄・山本覚馬の名も出てくる)
○【幕末会津藩往復文書】
・・・山上よりも大小砲す発す。
追々大銃手之者来て暫時打合、山本覚馬、
中沢帯刀等も来て機会を待、程なく山上に煙上る。
すはや賊自焼するそと云て競(ひ)登る。
・・手向者なし。半死之者は打捨たり。
直に神殿辺探索、山上の小屋に火をかけ
御旗を立、勝鬨を上後下山す。

○【浪士文久報国記事】(訳文)(続き)
それより追い討ちする。
陣小屋へ火をかけ、火の中へ飛び込み、
和泉を始めそのほか残らず立ち腹を切る。
実に敵ながら討ち死に、感心なり。
天王山へ登り、会津御旗を持ちて
勝ち鬨を上げる。

●【真木和泉守】(続き)
見るに火中には、十七烈士が自刃し、
その遺体を焦がし横たわり、その壮烈な
最後のさまを偲ばせた。
ここに和泉守は、志を達することなく
禁門事変の責を一身に負い、その年月の
大和魂を天王山山上に埋めたのであった。

陣営外の松の木には、これら十七烈士が
辞世の詩歌を書き遺した扇面、紙片などが
結びつけてあった。
その中、松浦八郎の辞世の和歌は

 大山に すつる命は惜まねど  
  思ひのこすは皇國のこと

天王山社殿には、和泉守はじめ十七烈士が連署し、
下記の決死の理由が貼り付けてあった。

甲子秋七月 出師討會賊 不利引還
我輩不忍徒去京師 屠腹千所営之天王山
欲陰護至尊也

【意訳】
甲子秋七月。多くの兵を出して会津を討つ。
されど利、あらずして、引き返す。
我輩、むなしく京都を去るに忍びず、
陣を構える天王山で自刃し、
陰で天皇を護りたいと思う。

この他に朝廷および幕府への二通の書があった。
それには守護職松平肥後守の罪状を
記してあったが、佐川勝なる者がそれを京都に
持ち帰り、夜間 凝花洞【11】と御所との間で
遺失し、遂に世に伝わらなくなった。
【11】凝花洞(ぎょうかどう)
蛤御門の変で京都守護職松平容保が
幕府軍の指揮をとった地で、
現在地では、御苑内・白雲神社から東へ、
凝花洞跡、仙洞御所正門、南池とある。
現在、凝花洞跡には、京都市・区民誇りの木・
「凝華洞跡のイチョウの木」が
その威容を誇っている。
御所へは、ここから北へ徒歩すぐである。

その後、・・

○【浪士文久報国記事】(訳文)(続き)
天王社に金三千両に米三千俵、甲冑へ名前を記し
天王社へ奉納、この姓名詳(つまび)らか ならず。
それより山中へ参る。
山崎村へ火をかけ、八幡社焼失いたしおる。
・・長州より分捕りの金三千両・米三千俵、
これは、八幡の神主と山崎村百姓に遣わす。

●【真木和泉守】(続き)
前述の長州藩総括・益田右衛門の本陣は、
離宮八幡宮神職・津田加賀の家で毛利候の祈祷所
だったので、会津側は、まっ先に火を放つ。
その火は、八幡宮・神宮寺・観音寺などに延焼。
境内の寺院の大半を燃えつくした。
また、付近の民家は長州藩の宿所となっていたので
会津勢は大砲を放ち、200余の人家は、
たちまち焦土と化した。
山上の宝寺は、幸いに火災を免れたものの
住僧・探玄は益田と懇意であったため、
六角獄舎へ投獄された。
長州藩の遺棄した武器・雑具は長持ち・
70余棹に、玄米も70包あったが、
会津兵はことごとく、これを収めて、
山崎の民に贈った。
・・和泉守の遺体は、会津藩士らは農民を統率し
同所に9尺四方の穴を掘って埋め、
後、農民は、その四方に竹垣をめぐらし、
長州賊との墓と云った。

○【島田魁日記】
我軍直に橋本江(へ)引揚暫時休兵す。
亦直に発し初(め)更にして枚方江(へ)着す。

○【浪士文久報国記事】(訳文)(続き)
22日、新選組ばかり(敗走兵を追って)
大坂へ下る。

かくして、新選組の活動の舞台は、
大阪へと移ることになる。


十七烈士の墓の正面・左端にある
石標・百年祭執行 昭和三十九年八月二十二日 
真木和泉守百年祭奉賛會
画像


案内板の右横にある
石標・
十七士没後 百二十年祭記念碑
 
画像


天王山十七士 百三十年祭記念碑
天王山十七士 百五十年祭記念碑 は、
墓域の入口・左右にある。


 (新選組らの動向 終り) 続く。

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