京都史蹟散策 91 天王山 史蹟巡り 6

京都史蹟散策 91 天王山 史蹟巡り 6

禁門の変 十七烈士之墓

【交通】JR山崎、阪急京都線・大山崎
【位置】京都府乙訓郡大山崎町


■烈士墓表に向かって左側の列

肥後藩・西島亀太郎  
画像

文久3年8月18日の変の後、長州へ。
京では道具屋吉兵衛と名乗る。
元治元(1864)年7月宮部鼎蔵と共に郡山藩に、
そこで、長州藩の敗戦を知り天王山へ。
享年32
熊本市・黒髪神社にも墓がある。

肥後藩・宮部春蔵
画像

兄・宮部鼎蔵に教育を受け尊攘思想を抱く。
文久2(1862)年脱藩後、八月十八日の政変後、
長州へ。
三条実美の側備組頭。
元治元(1864)年7月西島亀太郎と共に郡山藩に。
そこで、長州藩の敗戦を知り天王山へ。
享年26
熊本市・黒髪神社にも墓がある。

肥後藩・酒井荘之助
画像

本姓は不詳。藩の一門・長岡内膳の臣とも。
元治元(1864)年7月、長州藩の兵と共に
禁門の変に参加。後、天王山へ。享年33
熊本市・黒髪神社にも墓がある。

肥後藩・中津彦太郎藤原義直
画像

大坂の角界に入り、矢筈嶽(やはずだけ)
の名で知られるも、松田範義の門に入り
尊攘派となる。
八月十八日の変に参加するも同志と共に長州へ。
七卿の護衛となる。
後、禁門の変に長州勢と共に出撃、
敗れて天王山へ。 享年32
熊本市・黒髪神社にも墓がある。

肥後藩・加屋四郎藤原時雄
画像

父の自刃により兄や木原楯臣の影響で
尊攘思想を抱く。
八月十八日の政変で脱藩後、長州へ。
元治元(1864)年6月福原越後の部下に。
禁門の変に敗れ、同志と共に天王山へ。
真木和泉の下山の勧めを断り、
同志に先がけ、自刃。 享年21
熊本市・黒髪神社にも墓がある。

■烈士墓表の背後・中央の列

筑前藩・松田五六郎
画像

諸国を遊歴後、祠官となり、【中原出羽守】
と称した。
元治元年(1864年)3月、佐幕派・牧市内を暗殺後、
脱藩して長州藩へ。
同年7月、真木和泉に属し、禁門の変で敗れ
天王山へ。 享年38
霊山護国神社(福岡藩)に慰霊墓がある。
霊山護国神社 松田五六郎の慰霊墓
画像


久留藩米藩・池尻茂四郎懋
画像

文久2年(1862年)、父と共に三条実美の
関東下向に従い江戸へ。
翌年、帰藩後、脱藩し、長州・下関外国艦
船砲撃に参加。
後、帰藩し、藩命により加藤常吉と共に
上京するも、八月十八日の政変後、長州藩へ。
禁門の変で久坂玄瑞らと共に戦うも敗れ、
天王山へ。  享年25
久留米市・山川招魂社にも墓がある。

久留米藩・松浦八郎寛敏
画像

初め池尻茂左衛門に学び、熊本に出て
横井小楠に師事。
文久二(1862)年、脱藩上京し川島順三郎と変名。
翌年8月、藩命で上京を命ぜられも、
脱藩し長州藩へ。
7月禁門の変で真木和泉の忠勇隊に属し
天王山へ。 享年29
久留米市・山川招魂社にも墓がある。

久留米藩・真木和泉守平保臣 
画像

久留米・水天宮境内の真木和泉像の
案内板によると・・
真木和泉守保臣(1813~1864)は明治維新の
中心的指導者である。
水天宮神職の家に生まれ、早く父を失ったが、
よく母に仕え、かねてから学問に励み、武道、
音楽にも長じ、藩校明善堂から表彰をうけた。
傍らに流れる筑後川は菊池一族の誠忠を語り、
少年の時に愛読した絵本楠公記は尊皇愛国の
精神を培い、長じては水戸学を中心に
学識を深め、 しかも身をもって実践した。
藩政改革を企ててならず、一時水田に蟄居したが、
後に脱出して東奔西走、 国事に盡し
諸国の志士から「今楠公」と謳われ、
その中心的指導者と仰がれた。
彼は蘭方医工藤謙同と親しく、外国の事情にも
通じ久留米の医学刷新に盡し、 久留米藩医学舘の
生みの親といわれる。
また早くから薩長連合を唱えたが、時到らず、
長洲藩と共に倒幕の軍を起し禁門の変に破れ、
同士十六人と天王山に登り辞世の和歌を
残して自刃した。 享年52

 かねてより つかふる君の命ぞと
    おもひし我身 いまぞさゝぐる

福岡県久留米市・山川招魂社にも墓がある。

土佐藩・安藤真之助強怒
画像

間崎哲馬に漢籍を学ぶ。後、土佐勤王党に加わる。
文久3(1863)年11月、勤王党の獄で藩政に失望し、
土佐を出て長州に。
後、松山深蔵の忠勇隊に入り上京。
禁門の変・堺町御門で敗れ天王山へ。
七死七生、国賊是磯、敵王師者、強弱何嫌
享年22

久留米藩・加藤常吉任重
画像
 
同藩・尊王派池尻茂左衛門に学ぶ。
文久3(1863)年8月。上京の命に従わず、
密かに京都に留まるも佐幕派に襲われ、
津和野に逃れ、翌年7月長州藩兵と共に東上、
禁門の変の戦いに敗れ、天王山へ。 享年33
福岡県久留米市・山川招魂社にも墓がある。

肥後藩・小坂小二郎源雄宗
画像

槍が得意で、文久3(1863)年5月親兵となり上京。
兄・大八は隊長、小次郎は隊内の雑務処理。
同年、八月十八日の変の時、脱藩、
七卿のもとに走り長州へ。
後、元治元年(1864年) 6月、真木和泉に属し、
禁門の変の戦いに敗れ、天王山へ。
享年22
熊本市・黒髪神社にも墓がある。

■烈士墓表に向かって右側の列

土佐藩・能勢達太郎平成章
画像

英才の聞え高く、京、大坂、江戸に遊学。
文久2年(1862年)の冬、病のため帰国するも
勤王の諸士と交わる。
後、名和宗助と変名、北添佶磨らと北方の地
を探り、諸藩の動向を視察。
元治元(1864)年、長州藩兵の入京に際し、
忠勇隊に属し戦うも禁門の変で敗れ、
天王山へ。 享年22
分葬の碑 が、この墓域の右端にある。
画像


宇都宮藩・廣田精一執中
画像

父・作助が笠間藩(現・茨城県笠間市)を脱藩。
当時、江戸・宇都宮藩邸に住む広田家を継ぐ。
精一は、作助の長子。
精一は、藩主・侍講となるも、文久3年(1862)年
脱藩し、長州へ行き、高杉晋作らと行動を
共にする。
後、禁門の変で真木和泉の部将となるも、
敗れて天王山へ。 享年25

宇都宮藩・岸上弘 安臣
画像

江戸に出て、公武合体派の大橋訥庵(とつあん)
に師事。
後、文久3年(1863年)、脱藩。
江戸から長州へ走り、久坂玄瑞、高杉晋作ら
と尊攘運動を展開する。
後、真木和泉の軍に従い禁門の変に敗れ、
天王山へ。 享年28

土佐藩・松山深蔵橘正夫
画像

土佐勤王党に加盟後、姉小路公知の東下に随従し
関東を回り帰国。
八月十八日の政変後、脱藩し、一時、七卿に従い
三条実美の従士。
後、禁門の変で、益田隊に属し忠勇隊隊長。
堺町門に迫るも敗れ、天王山へ。 享年28

土佐藩・千屋菊二郎菅原孝健
画像

京都・遊学より帰国後、土佐勤王党に加盟。
諸国を巡歴後、宮部鼎蔵と交わり、
脱藩、七卿に随従。
禁門の変で忠勇隊に属し、堺町門に迫るも敗れ、
天王山へ。 享年28


最後に、十七烈士に長州藩がいないのは、
真相は不明だが、
真木和泉が長州の再起を願わんがためのこと・
だった、とも伝えられている。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック