京都史蹟散策95  八坂神社の全貌 1

京都史蹟散策95  八坂神社の全貌 1

八坂神社

【位置】東山区祗園町北側
【交通】市バス 祗園 徒歩すぐ

駒札によると・・
八坂神社
素戔嗚尊(すさのをのみこと)、
櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)及び
八柱御子神(やはしらのみこがみ)を祭神とする
神社で、一般に「祇園(ぎおん)さん」又は
「八坂さん」として親しまれている。

社伝によると、平安遷都以前の斉明天皇2年
(656)にこの付近に素戔嗚尊祀(まつ)ったのが
当社の起こりといわれている。

京都三大祭の一つである祇園祭(ぎおんまつり)は、
毎年7月に行われる当社の祭礼で、
平安時代の貞観(じょうかん)11年(869)に
各地で疫病が流行した際に、
当時の国の数に合わせて66本の鉾(ほこ)を立て、
神泉苑(しんせんえん)に神輿(みこし)を送り、
その鎮(しず)まりを祈った御霊会(ごりょうえ)
(怨霊(おんりょう)を退散させる祭り)を
起源とするもので、天禄(てんろく)元年
(970)ごろから毎年行われるようになった。

大晦日(おおみそか)の夜から元旦にかけて行われる
「をけら詣り」は、薬草である「をけら」を混ぜて
焚(た)いた「をけら火」を授かり、
新年の無病息災を祈るもので、毎年多くの人で
にぎわう。
また、1月3日には十二単(じゅうにひとえ)姿の
女性による「かるた始め」が行われる。
           京都市

●四条通は、京都の東西の幹線道路で、
八坂神社・祇園石段下から、
西、桂川の松尾橋を越えて、松尾大社近辺まであり、
途中、新京極から天神川東辺の近辺までは、
平安京の四条大路に該当する。
また、四条川端には、京阪・祇園四条駅が、
四条烏丸には、地下鉄烏丸線・四条駅があり、
四条河原町から西大路四条までは、
地下に阪急電車が走行している。

●石鳥居
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正面入口で、南楼門の前に建つ。
高さは、約9.5 m。
扁額は、有栖川宮熾仁親王【1】
(ありすがわのみや たるひとしんのう)の筆で、
正保3年(1646年)の建立。
重要文化財で、現存する石鳥居で最も
大きいとされる。

明治36年の八坂神社
(著作権満了のものより)
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かつては、三の鳥居で正門であったとされる。
【1】有栖川宮熾仁親王
有栖川宮韶仁 親王の第一王子。
仁孝天皇の第八皇女・和宮親子と婚約するも反故に。
後、徳川 慶喜の妹・徳川貞子と結婚するも
2年後に病没。
明治6年に、溝口 直溥の七女・董子と再婚。

●月下氷人石(げっかひょうじんせき)

(東面)
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神燈

(西面)
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天保十年己亥初秋建之
去る庚寅年の頃より五穀の実のり少く
丙申歳になつては
雨いたう降つゝき米価いよ(く・いよ の意)
貴く是に因てよるへなき輩の
日々に餓かなしめる有さまを見るに忍かたけれは
心あらん人々と相議いて教諭所より
公に願ひ三条の河原に仮に救小家を造て養おき
病るには医薬をもあたえはた便よき方に場を分ちて
米銭を施ける事も全く大御代の御仁恵と
仰き奉る余に此後とてもかゝる事の
あらんには今後にまさりて施の行れん事を
かしこくもこの祇園の広前に額つきて
共に祈り奉れるよしを
天保十年己亥霜月にかくは記し侍りぬ

(天保年間に入り、凶作で、
天保7年になってからは、雨の日が多く、
米価が高騰して世人の難儀を見かねて・・
などと、当時の社会状況が見て取れて興味深い。)

(南面)
尋方 宿坊 長吏
       宝光院

(北面)
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教方 奇縁によりて世人の
なけきを救はんとす


天保10年(1839年)、建立。高さ約1mほど。
(ちなみに、この年、高杉晋作  誕生)
大鳥居を潜り、南楼門の南側に建ち、案内板
(江戸時代・迷子を探す時の告知板、
片側に迷子人名、反対側にその情報を持つ人の情報を
紙に書き込み貼る、他、捜し物・落し物も)
として利用され、奇縁氷人石とも云われる。

月下氷人とは、中国故事の月下老と氷上人と云う
言葉を結ぶ仲人(男女の縁をとりもつ人)の意で、
月下氷人石は、幕末には、忠盛燈籠と同じ
中之島にあったが、
平成8年9月、平成の大修営により現在地に。

(南面)に、見にくいが、尋方・たづぬる方、
(北面)に、はっきりと教方・おしゆる方と
彫られているのが分かる。

月下氷人石は、
京都市内では、
中京区新京極通三条下ル桜之町・誓願寺と
上京区御前通今出川上る馬喰町・北野天満宮
(境内 茶室 松向軒庭内)が現存する。
また、
堺市戎之町東2丁・菅原神社や
東京都文京区湯島3丁目湯島天満宮
(通称・湯島天神)などが知られる。

●与謝野晶子の句碑
月下氷人石の左側にある。

清水へ祇園をよぎる桜月夜 
こよひ逢ふ人みなうつくしき 晶子

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与謝野晶子
大阪の堺で和菓子屋・
駿河屋の父・鳳宗七、母・津祢の三女。
高校の頃より、源氏物語など古典文学に親しみ、
20歳ごろより店番をしつつ和歌を投稿。
明治33年、堺・浜寺公園の歌会で
与謝野鉄幹と知遇。当時、鉄幹には妻子がいた。
この頃、新進の女流歌人・山川登美子と、
晶子は、鉄幹への恋と歌の道においてのライバルに。
そんなある日、3人は、紅葉色づく京都・永観堂へ。
後、山川登美子は、親の縁談を断れず故郷・福井へ。
晶子は上京し、離婚していた鉄幹と結婚する。
晶子、上京前に詠んだ句と推測される。
この句の初出稿は、明治34年5月
「明星」の誌上だった。

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●藤屋と空也上人ゆかりの井戸
月下氷人石の左側にある。

説明板によると・・
藤屋と空也上人ゆかりの井戸

この場所には、明治初年まで藤屋という
茶店があった。
店の傍らに藤棚があったので屋号を藤屋と
称した。

藤屋の初代は、この井の清水を沸かし当社参拝の
諸人に呈した。
爾来、参拝者はこの白湯を呑み、身を清めてから
参拝したので、きよめの茶屋ともよばれた。

延長3年(925)のむかし、時の醍醐帝が
疱瘡に罹られ、諸人も病に苦しんだ。

その惨状をみかねた空也上人は当社に参籠し、
帝また諸人の病気平癒を祈念した。
その時、上人はこの井の清水を用いた白湯を
諸人に施し、それを呑み人々は癒されたという。

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のち、向かいにもう一軒の茶店が出来
(現在の中村楼・現在も営業中のため
写真の掲載は控えました)、
鳥居の内のこの二軒の茶店は、二軒茶屋とよばれ
人々に親しまれた。

●南楼門

南から見た南楼門
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北から見た南楼門
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(雪の日の南楼門)
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石鳥居から入る八坂神社の正門にあたる。
八坂神社の本殿は、南面に建てられている。
境内、解説によると、
当初の南楼門は、慶応2年(1855年)、火災で類焼。
後、明治7年、土間式で、
明治12年、間一戸、重層、入母屋造りで再建。
昭和56年に銅板葺に替えられた。
ちなみに、この南楼門は少し高く、
舞殿や本殿と同じ高さで、
三位一体を表すと云われている。
今後、南楼門の修理が進めるとされる。



●舞殿(ぶでん)
祇園祭の3基の 神輿【2】を置き、儀式を行ったり、
舞踊などを奉納するための舞台。
【2】説明紙によると・・

南から見た・東御座の神輿
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屋根に宝珠をのせ、四角形をしたこの神輿には
御祭神素戔鳴尊の后神・櫛稲田姫命
(クシイナダヒメノミコト)おおのせします。
八坂神社本殿東側にお祀りするため、
東御座とも申し上げます。
素戔鳴尊と櫛稲田姫命の夫婦の契りは、
あらゆる困難も克服する深い慈愛で固く
結ばれています。
櫛稲田姫命は、「歳徳神(トシトクシン)」
ともよばれ、歳ごとにお恵みを与えてくれる
恵方の神さまでもあります。
少将井とよばれる霊験あらたかな井戸に、
東御座の神輿を据えたことから櫛稲田姫命を
「少将井」とも申し上げます。
この神輿は四若神輿会がご奉仕します。

南から見た・中御座の神輿
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屋根に鳳凰をのせ、その口に(五穀豊穣)をくわえ
六角形をしたこの神輿には、八坂神社の主祭神・
素戔鳴尊(スサノヲノミコト)をおのせします。
八坂神社御本殿中央にお祀りするため、
中御座とも申し上げ、明治維新までは牛頭天皇
(ゴヅテンノウ)とも申し上げました。
豊臣秀吉の母大政所の住む地に中御座の
神輿が渡御したことに因み、
素戔鳴尊を「大政所」とも称します。
ミコトはふりかかる八俣大蛇退治の強い神さまと
いえばご存じでありましょう。
ミコトはふりかかる災厄を克服する強力な
神威の神さまです。
この三若神輿会がご奉仕します。
この中御座の神輿には古来より上久世の駒形稚児が
騎馬にて供奉することが慣例となっています。
胸に駒形をつけたこの稚児は素戔嗚尊の
荒魂(あらみた)の化身とされ、
神輿の和魂(にぎみたま)と一体となって
神輿の巡行が出来るといわれています。

南から見た・西御座の神輿
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屋根に鳳凰をのせ、八角形をしたこの神輿は、
御祭神素戔鳴尊と后神・櫛稲田姫命のお子様
八柱御子神(ヤヒシラノミコガミ)をおのせします。
八坂神社本殿西側にお祀りするため
西御座とも申し上げます。
この神輿は大変重く、約2トンあると
いわれております。
世間では「東御座は本妻さん、西御座は妾さんの
神輿や」などともいわれていますが、
明治維新まで東御座の后神さまをおのせしたので、
このような噂がでたのでしょうか。
八柱御子神は、八王子・八将神ともよばれ、
四方八方を司る邦楽の守護神でもあります。
この神輿は京都の台所、錦市場の錦神輿会が
ご奉仕します。
あらゆる方角を守護し、正しい道へとお導きくださる
神さま、それが西御座、八柱御子神の神輿です。

東から見た三つの神輿 
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慶応2年(1866年)、南楼門と共に焼失するも、
明治36年に再建。
昭和44年、屋根を葺き替え、
本年、2月5日より銅板葺き替え・基礎部の改修
にかかり、6月14日に落成を祝う清祓式
(きよはらいしき)が行われた。
新生の舞殿は、基本的に観覧自由で一般公開
されている。
また、平成11年3月以降の本殿修復のため、
平成16年4月の遷座まで、舞殿が仮本殿に
当てられ祭神が祀られていた。
ちなみに、舞殿の提灯の内、赤文字は、
芸妓衆の名前。

東から見た舞殿の偏額
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正面・南から見た舞殿
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東から見た・舞殿
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○能舞台
神楽所 兼 能舞台で旧神楽所を再建したもの。

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南楼門を潜り、すぐ、右手にある。
毎年1月3日に金剛流(金剛家)と
観世流(茂山千五郎家など)による
初能奉納がある。
演目は、毎年、異なる。
観世流は、室町時代の猿楽師・世阿弥(ぜあみ)や、
その息子・観阿弥(かんあみ)を祖とする流派で、
室町幕府のお抱えとなっていた。
現在、改修工事中でもある。
ちなみに、京都市内には、16の現存する
能舞台がある。



○石造りの献燈

斉館
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斉館(雪の日)
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能舞台は、斎館で繋がっており、
石造りの献燈が、その斎館前にある。
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台座に明治32年7月建立と刻まれている。
石の中央部に円窓がくり抜かれ、
三つ巴の障子がある。

一方、南楼門を潜った左側には、
舞殿に奉納されている神輿
を収める青銅の5つ扉がある
○神輿庫 がある。
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また、その前方には、
○手水舎 がある。
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その背後が、
○社務所である。
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     続く。

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  • 八坂神社は祇園祭で有名

    Excerpt: 八坂神社は祇園さんとも呼ばれ、7月の@祇園祭を主催していることで有名だ。楼門は閉じられることがなく、大晦日に限らず、夜間参拝が可能である。 Weblog: ぱふぅ家のホームページ racked: 2019-02-19 12:06