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<<   作成日時 : 2016/02/07 17:23   >>

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京都史蹟散策95  八坂神社の全貌 2

八坂神社

【位置】東山区祗園町北側
【交通】市バス 祗園 徒歩すぐ

舞殿の前方に
●本殿 がある。

南から見た本殿
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この建物は、本殿と拝殿を一つの屋根で覆う
特殊な構造で、祇園造り と云われる。
正面七間・側面六間、単層、入母屋造りで
檜皮葺きである。
檜皮葺の大屋根は400坪とされる。
重要文化財。

東から見た本殿
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平安時代初期、藤原基経が、
ここに観慶寺感神院を建立。
寺内に本殿を設けたのが始まりと云われる。
後、重要文化財・古図 寛和2年(986年)の
八坂神社には現・様式の本殿が描かれている。
後、明応元年(1492年)本殿が再建されるも、
正保3年(1646年)、焼失。
現在の社殿は、承応3年(1654年)、徳川家綱により、
紫宸殿を模して再建されたもので、重要文化財。
拝殿は、慶應4年(1868年)に建立され
吹き抜けになった。
また、拝殿との間に中門があったが、
文政4年(1821年)に焼失後、再建されていない。
平成14年4月15日、平成の大修造営が行われ
色彩豊かな本殿に修復された。
(これは、八坂神社の小史ではなく、
本殿の小史です。)

続古事談・承久元年(1219年)の説話集によると、
祇園の宝殿の中には竜穴ありとなん、とあり、
本殿下には、深さ50丈(約152m)以上の
深い井戸があり、神泉苑(中京区)や
東寺(下京区)にまで通じていると
云う話もある。

西から見た本殿
(竜穴は、この床下のことを指しているのかも)
画像


また、手前の本殿から、舞殿、南楼門の高さが、
ほぼ同じであると云われている。

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本殿の東側の一帯は、中之島と云われ、
諸々のものが並んでいる。
本殿から東を見て、右側から、

●祇園の御神水
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この水は、力水とも云われ、前述の竜穴と
同じ水脈から湧き出る水かもしれない、
と云う話は別にして、
ここの水を飲み、左側にある美御前社にお参りする
と美人になれるとかと云う話もあるので、
飲料水ではありません、の貼札が水口の右側にあり、
左側には、譲り合ってご利用下さいの貼札もある。
何とも、意味深である。
と、見ていると、大きなポリ容器を持った
おじさんが、この水を汲んでいる。
なんだろう、この光景は・・
案内板には、(湧水)とある。



摂社
●悪王子社
祇園の御神水の左側にある。

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説明板によると・・
祭神 素戔嗚尊(すさのをのみこと)の
荒魂(あらみたま)
悪王子の「悪」とは「強力」の意であり、
荒魂は、現実に姿を顕わす、霊験あらたかな
神の意であります。
諸願成就の御神徳で聞こえております。
元は東洞院四条下ル元悪王子町【3】に
ありましたが、
天正年中(1573〜92)烏丸通万寿寺下ル
王子町に還り、
慶長元年(1596)四条京極に、
さらに明治10年(1877)
本社境内に移築したものです。
       とある。

【3】この地に悪王子社之趾 の石標がある。
元悪王子町の石標
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東面 悪王子社之趾
南面 八坂神社宮司鈴木日出年書
西面 平成四年三月建之
   悪王子社奉賛会長井上喜代秀

平成27年4月12日、
油のような液体がまかれているのが見つかった事件で、
悪王子社の木製の壁に数カ所のしみがあるのが
発見されている。

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●悪王子社と祇園祭り

【位置】下京区東洞院通綾野小路上ル悪王子町
【交通】地下鉄 烏丸線 四条 すぐ

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説明板によると・・
悪王子社と祇園祭り
悪王子社は素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀る
八坂神社の摂社で、天延2年(974)
東洞院四条下る西側に建立されました。
古事記や日本書紀に出雲國肥河
(いずものくにひのかわ)の川上で八岐大蛇
(やまたのおろち)を退治した素戔嗚尊を
讃(たた)え、悪王子の称号を賜り、
運命を切り開く若き勇猛心の御魂を荒御魂
(あらみたま)と申しています。
当時は、第64代円融天皇の御代で、
平将門の乱(935)藤原純友の乱(939)等
痴呆の国々が乱れ、その義性者の祟(たた)りで
疫病や災害が起ると考えられました。
東洞院四条の辻で四方に斎竹(いみたけ)を立て
注連縄(しめなわ)を曳き渡しこの辻より
巡行の列を作ったと祇園会(ぎおんえ)起源にあり、
これが祇園祭りの始まりです。
それが豊臣秀吉の命で烏丸五條に移され、
この地を元悪王子町、移転地を悪王子町と
よばれるようになりました。
悪王子社は明治10年より現在の八坂神社境内に
鎮座されていますが、当町内にあるのが
本当で、土地所有者の御好意で平成10年4月
悪王子社の分霊を頂きここにお祀りすることが
できました。
  平成10年4月吉日  元悪王子町

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説明板は、東洞院通に面してある。
また、祠の前には、元悪王子町の祭事委員会が
作成したパンフ(内容・上記の説明板とほぼ同様)
があり、自由に持ち帰ることができる。
祭事委員会の方々に感謝である。

傍らに町内会の掲示板があったので、
地名・読み方の確認のために、写真・掲載
しておきました。
ちなみに、(京)の読み方の一例ですが、
京都市左京・右京は濁りませんが、
(さきょう、うきょう)
上京・中京・下京は、
(かみぎょう、なかぎょう、しもぎょう)
と濁ります。

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(八坂神社)
●忠盛燈籠
祇園の御神水のすぐ、
背後の大神宮社への通り道を挟んである。

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説明板によると・・
(ルビ、一部省略しました)

永久年間の頃(12世紀)白河法皇が
祇園女御(にょうご)の許に赴かれようとして
このあたりを通られた時、
折しも五月雨の降る夜で前方に鬼のようなものが
見えた。
法皇は供の平忠盛に討取ることを命じられたが、
忠盛はその正体を見定めての上と
これを生捕りにしたところ、
油壷と松明(たいまつ)とを燈籠に燈明
(とうみょう)を献(たてまつ)ろうとしていた
祇園の社僧であった。
雨を防ぐ為に被(かぶ)っていた蓑(みの)が
灯(ともしび)の光をうけて銀の針のように仗
見えたのであった。
忠盛の思慮深さは人々の感嘆するところであったと
云う。
この燈籠はその時のものといわれている。
              と、ある。

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その下の少し大きめの新しい説明板によると・・

●祇園社乱闘事件
八坂神社(当時は祇園社)の境内で今から
856年前に、平清盛に関わる事件がありました。
時は久安3(1147)年6月15日、
祇園臨時祭
(祇園御霊会、現在7月24日に
行われている還幸祭の翌日に当たり、
朝廷から奉幣【4】が行われた)の日の事。
【4】奉幣(ほうべい、ほうへい)
天皇の命により神社・山陵などに
幣帛(へいはく・幣物)を奉献すること。

中務大輔 平清盛は心に秘めた宿願を果たさんと、
祇園社に田楽【5】を奉納します。
【5】田楽(でんがく)
田植え前の豊作祈願の田遊びから、また渡来した
ものとされる楽と躍りなどから成る伝統芸能。
嘉保3年(1096年)の夏に京都で、同年・冬の
改元を名し、「永長の大田楽」が大いに流行った。
平安後期には、田楽を専門に躍る田楽法師も
生まれた。

この田楽を守護していたのが清盛の郎等【6】達、
兵杖を帯び祇園社へと赴いた彼らに
この後思わぬ事態が待ち受けています。
【6】郎党(ろうとう)のこと。

武装した彼らを見、祇園社の神人(下級神職)は
その解除を求めます。
しかし清盛の郎等はその要求を受け入れず、
ついには乱闘へと発展、祇園社の権上座【7】
隆慶をはじめ負傷者まで出る始末。
【7】権上座
当時、寺任として寺領の一切を主宰していたのは、
別当(長官)で、この別当・小別当の下に
所司・三綱(上座・権上座・寺主・都維那)
が配されていた。

乱闘騒ぎは深夜にまで及びさらにこの後も
尾を引きます。

6月26日になって祇園社の本寺であった延暦寺は
この乱闘の事を訴えます。
これに対し播磨守 平忠盛は乱闘の下手人7人を
すぐさま検非違使【8】に引き渡します。
【8】検非違使(けびいし、けんびいし)
律令制下の令外官の役職。
非違とは、非法、違法のことで、
非法者、違法者を検察する天皇の使者の意。
京都の治安維持と民政を所管していた。

事態はこれで収拾するかに思われましたが、
延暦寺衆徒らの怒りは治まりません。

28日、延暦寺の衆徒と日吉・祇園両社の神人は
清盛と父・忠盛の流刑を訴え神輿を舁いて【9】
入洛しようとします。
【9】舁(か)いて、は、担(かつ)いで、の意。

神々の神意の体現とされた神輿の動塵を伴う
強訴(神輿振り)は当時人々に大変恐れられて
いました。
これに対し鳥羽法皇は
「道理に任せ裁許する」と回答し、
ひとまず彼らを帰山させます。

しかし中々裁許は出ません。
洛中には衆徒らが再び入洛しようとしていると
いう声が頻繁に聞こえてきます。

事件の実検などを行った法皇が、
清盛の罪を決したのは8月5日になってのことで、
その内容は贖銅(しょくどう)
(実刑に代わり銅を納めること)という軽いもの、
忠盛・清盛と鳥羽法皇との関係の深さを物語る
歴史の一幕でした。

さて、乱闘事件の顛末では平忠盛・清盛父子を
擁護した鳥羽法皇は、祇園の神に対する謝罪を
何度も行っています。
中でも久安4(1148)年2月20日には法華八講【10】
が修され、これが当社における法華八講の初見と
なりました。
        平成二十四年壬辰記
【10】法華八講 (ほっけ はっこう)
法華経の8巻を第1巻から1巻ごとに8回に分けて
講義し、賛嘆する法会のこと。
普通、1日 に朝夕2座 講じ、4日間で完了する。

(この後、異母弟・平 家盛が陸介・右馬頭となり、
頭角を現すも、祇園社乱闘事件から2年後の
久安5年(1149年)に家盛は急死。
この後、清盛の嫡流としての地位は磐石となる
のであった。)

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●大神宮社と二見岩
祇園の御神水、忠盛燈籠の背後にある
八坂神社の末社・大神宮社(だいじんぐうしゃ)
である。

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社の右手にある説明板によると・・
(ルビ、一部、省略)

大神宮社(だいじんぐうしゃ)
伊勢の神宮の天照大御神(あまてらすおおみかみ)
の(内宮(ないぐう))と
豊受大神(とようけのおおかみ)
の(外宮(げくう))をお祀りしています。
天照大御神は皇室の祖神(おやがみ)で
素戔嗚尊(すさのをのみこと)の姉神で、
豊受大神は天照大御神の食事を司(つかさど)る
神です。
 春季祭 4月17日
 秋季祭 10月17日
と、ある。

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ここは、左に外宮、右に内宮が祀られているが、
この二つの祠の間に、石標・二見岩 がある。
この二見岩は、 外見は小さな石なのだが、
その石根、地中には、岩が深く広がり、
それは、地軸にも届くと云われている。
ちなみに、地軸とは、
地球の北極点と南極点とを結ぶ運動しない 直線のことで、
地球は、公転面 の法線に対して約23.43度、傾いている
ので、夏季・冬季の季節が生じるとのこと。
で、太陽系で地軸の傾きが最大の惑星、97.86度
の天王星では、約40年間で、昼と夜とが
交代するそうです。
(地球に生まれててよかった、と、ここへ来ると
いつも、そう思います。)

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●後藤比奈夫の句碑
悪王子社の左側が、神前に進む神職や参拝者、
神前に供える供物をお祓いする場所、
祓い所(はらいどころ)で、その左側にある。

祓い所
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後藤比奈夫の句碑
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【句碑】
東山 回して鉾を 回しけり
       比奈夫

この句碑の背面におそらく、建碑の年日が
刻まれていると思えるが、撮れないので
不明であるが、他サイトなどで、この句碑は
見受けられないので、近年のものである、
と推測できる。

後藤比奈夫。
大正6年生まれ。
大阪出身の俳人。本名、読みと同じ、日奈夫。
父は、高浜虚子に師事し、諷詠を創刊、主宰した
俳人、後藤 夜半(ごとう やはん)。

父・夜半について俳句の道に入り、
夜半の死後、諷詠の主宰を継承。
昭和30年、電子工業所を創業、
昭和36年、ホトトギス 同人。
昭和60年、電子工業所社長を退き俳句一筋に。
現在、兵庫・大阪の俳句関係の協会や
研究会の顧問を数多く、務めている。
俳句関連の著書も多い。

そんな中で、後藤比奈夫自伝的エッセイ集に
句作り千夜一夜 と云うものがある。
抜粋して見ると。

その日の句会場は・・・投句締め切りの時間が
来ましても、鉾回しは勿論その他の句も
出来ていません。・・
無鉄砲と思いながら短冊に東山と
書いてしまいました。
七【11】をどうするか・・
半日思いつづけていた回すという言葉が
ふと浮かびました。
そして鉾が回れば東山が回って見え、
東山を回さないと鉾が回らない・・
そしてこの句は身震いのするような
興奮の中で一挙に出来上がったのでした。
東山回して鉾を回しけり
・・とある。
【11】俳句、五七五の中の句、七の意。

これにより、この句の作りの経緯が判明した。
この句の出典は、花匂ひ。
また、大阪天満宮には、昭和59年建碑の
秋思祭すみしやすらぎ月にあり
の、比奈夫の句碑がある。

後藤比奈夫の句碑
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●美御前社(うつくし ごぜんしゃ)
悪王子社の左側にある。

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説明板によると・・
美御前社(うつくし ごぜんしゃ)

祭神 市杵島比売(いちきしまみめ)神
   多岐理比売(たぎりしまみめ)神
   多岐津比売(たぎつしまみめ)神

美御前という名の通り、美を象徴する神として祭
られています。本社の祭神、素戔嗚尊が
天照大神(あまてらす おおかみ)と
誓約(うけい)をされたとき、素戔嗚尊のもって
おられた十挙剣を振りすすいで生れた三柱の女神で、
宗像三女神といい、清浄・潔白の証しとなった
神々で、俗に弁天さんといわれるのもこの市杵島
姫の神です。
古くから芸妓さん舞妓さんをはじめ美しくなりたい
願望の女性はもとより、美容理容・化粧品業者の
崇敬を集めています。
        と、ある。

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貞享元年(1684年)、北村季吟(きたむら きぎん)の
菟芸泥赴(つぎねふ)によると・・
美御前は、素戔嗚命のうみ給ふ田心(たごり)
湍津(たぎつ)市杵島(いちきしま)の
三女神をいはいまつるとぞ。
うつくしといへる御名故にか疱瘡(ほうそう)を
この神にいのりて霊験あり。・・
 とあり、天然痘(疱瘡)に霊験があったことが
記されている。

菟芸泥赴(つぎねふ)
つぎねふ とは、「やましろ」の枕詞で
別書名としては、次嶺経。
この書は、山城国全体の名所を解説している。
翻刻(後に原本の文字を活字に直して出版したもの)
版だが、総合資料館(京都)で見ることができる。

社殿の前に「美容水」という名の清泉が湧き出ている。
2,3滴、肌につけると、心体ともに、美しく磨かれる、
と云う。
美しくなりたいひと、にお勧め・・・とか。
(なのに、ここにお参りに来る女性は
何故か、美しいひとばかり、と云う。)


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    続く。


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