京都史蹟散策95  八坂神社の全貌 3

八坂神社

【位置】東山区祗園町北側
【交通】市バス 祗園 徒歩すぐ

南楼門をくぐると、右側に
○斎館がある。
神職などが神事に携わる前、心身を清めるため
参籠(さんろう)し、潔斎などを行う建物。
神館(かんだち)とも。

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これを右手に沿って廻ると、
その前に説明板がある。

●「古事記」千三百年
平成24(2012)年は、我が国初の歴史書
「古事記」が和銅5(712)年に撰上されてから、
千三百年の年に当たります。
天武天皇の勅命により稗田阿礼(ひえだのあれ)
が誦習(しょうしゅう)した帝紀・
旧辞(天皇の系譜や神話・伝承、氏族の縁起など)
を太安万侶(おおのやすまろ)が撰録した
「古事記」には、
神代から推古天皇までの歴史が描かれており、
中でも初代・神武天皇の前代までを記した
上巻は「日本書紀」の神代巻と共に、
日本の神々の御事績を記す中心的な書物です。

「古事記」によると当社の御祭神・素戔嗚尊
(すさのをのみこと)(須佐之男命)は、
伊耶那美命(いざなみのみこと)と共に国生み・
神生みをされた伊耶那岐命(いざなきのみこと)
が黄泉国(よみのくに)から戻られて
禊(みそぎ)(身を洗い清められる事)をされた
ときに天照大御神(あまてらすおおみかみ)・
月読命(つくよみのみこと)と共にお生まれに
なった神様で、伊耶那岐命はこの誕生に、
「沢山の子を生んだ最後に三柱(はしら)の
貴き子を得た」と大変喜ばれ、素戔嗚尊には
海原を統べるよう御命じになりました。
ところが素戔嗚尊は母を恋しがって啼(な)いて
ばかりおり、また田畑を壊すなどの罪をオカして
高天の原(たかまのはら)を追放されます。

地上に天降(あまくだ)られた素戔嗚尊は
出雲の国の肥河(ひのかわ)の河上で、
恐ろしい八俣(やまた)の大蛇(をろち)が
今年も娘を喰らいにやってくると泣いていた
両親と櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
(櫛名田比売)に出会い、
八俣の大蛇を退治されます。
そして須賀の地に到り
「我が心すがすがし」という清浄の境地に
達せられ、宮を建てて櫛稲田姫命と
結婚されました。
この時の喜びの気持ちを込めて詠まれたのが

やくも立つ いづも八重垣 妻ごみに
 八重垣つくる その八重垣を

という歌で、和歌のはじめとされています。

荒ぶる神であり、同時に数々の苦難を乗り越えて
英雄神となられた当社の御祭神・素戔嗚尊。
この「古事記」や「日本書紀」が伝える偉大な
御神格が、現在までの連綿と受け継がれてきた
信仰の礎となっています。と、ある。 
この説明文の下に、谷本蘇牛筆の
建速須佐之男命一代記絵巻が描かれている。

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「古事記」千三百年の説明板の横。
●「日本書紀」千三百年を前に
の説明版がある。

説明板によると・・
「日本書紀」は、養老4(720)年舎人親王
(とねりしんのう)らにより撰上された、
我が国現存最古の正史です。
正文には異文が、「一書に曰(いわ)く」として
併載される形をとっており、
全30巻のうち1・2巻は神代紀=神々の御事績
を記した巻=となっています。

さて「日本書紀」によれば、
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・
伊弉冉(いざなみのみこと)の御子として
お生まれになった当社の主祭神・
素戔嗚尊(すさのをのみこと)はずっと泣いて
ばかりおり、青山を枯山に変えてしまうほどでした。
そのような尊に父母神は、
「全くひどい乱暴者だ、この天下にいてはならない」
と、遠くの根の国へ行くことを命じられます。

そこで姉神の天照大神(あまてらすおおみかみ)
に別れの挨拶をするべく高見原へ昇って行かれ
ますが、このとき大海原は激しく揺れ動き
山や岳は鳴り轟(とどろ)いたために、
天照大神はこの国を奪いに来られたのではと
武装して待ちかまえます。
そのお姿に驚かれたのは尊も同じ、
そこで誓約(うけい)により身の潔白を証明
しましたが、そのことに喜ばれた尊は
嬉しさの余り数々の罪をオカされ、
天井から追放されてしまいます。

天降られた尊は簸(ひ)の川(出雲・斐伊川
(ひいがわ))の川上で、一人の少女と
さめざめと泣く老夫婦に出逢います。
聞けば「毎年八岐大蛇(やまたのをろち)が
娘を呑みに来て今また最後に残ったこの娘も
呑まれようとしている・・・」といいます。
そこで尊は八岐大蛇を退治して、
助けた娘・櫛稲田姫(くしいなだひめ)を
娶られます。
「古事記」にも収められたこの神話は、
高見原でのお姿から一転、尊の勇敢な英雄神としての
ご神格を私たちに伝えてくれます。

また「一書」によれば、
素戔嗚尊は御子五十猛神(いたけるのかみ)を
帥(ひき)いて新羅国(しらぎのくに)
曽尸茂梨(そしもり)の処に天降られ、そこから
出雲国へ到られたと記されています。

尊を祀る当社は祇園祭に代表されるように、古くより
疫病除けの神様として信仰を集めてきました。
また素戔嗚尊は明治以前までは天竺(てんじく)の
祇園精舎(ぎおんそうじゃ)の守護神であった、
牛頭天王(ごずてんのう)とも同一視されました。
「日本書紀」の記述によると、ソシモリとは韓国語で
「牛頭」のこと、新羅には牛頭山という山があり、
熱病に効果のある薬草・栴檀(せんだん)を
産したために、この山の名を冠した神仏が
信仰されてきたそうです。

さて数年後、「日本書紀」が成立より千三百年を
迎えます。
千三百年連綿と伝えられてきた我が国の歴史、
これを機会に今一度ひもといてみては
いかがでしょうか。 
  と、ある。 また、この説明文の下に、
谷本蘇牛筆の建速須佐之男命一代記絵巻が
描かれている。

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●玉光稲荷社(たまみついなりしゃ)
中之島を正面に見て、右側、南側にある。
斉館の東側にある。

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玉光稲荷社権殿の
命婦稲荷社(みょうぶいなりしゃ)の二社で
一体とされている八坂神社の末社。

○玉光稲荷社
伏見稲荷大社の主祭神で息子の
宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)を祀る。
名前の由来として、うか、は、穀物・食物の意味
がある。
そのため、穀物の神とされ、別名として、
御饌津神(みけつかみ)と云われる。
別称:宇賀御魂神
この神は、古事記・日本書紀には、その記述がなく、
男神とも女神ともされる。
ちなみに、全国の稲荷神社の総社【12】・
伏見稲荷大社では、女神とされる。
【12】全国には、約4万社の稲荷神を祀る稲荷神社が
ある。

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○命婦稲荷社
玉光稲荷社の奥宮。
祭神は、三狐神(みけつかみ)。
狐の古名は、けつ、で、そこから、三狐神と
当て字したのが発端と考えられる。
その後、狐は稲荷神の使い、従者などの隷属の身分
となる。
やがて、稲荷狐は、朝廷に出入りできる命婦
(すなわち、五位相当の女官)の官位を授けられ、
これが、命婦神(みょうぶがみ)と呼ばれ、
上下社に祀られるようにもなったとされる。

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●大年社(おおとししゃ)
本殿、向かって左側に西向きにある。

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説明板によると・・

大年社(おおとししゃ)
祭神(さいじん)
大年神(おおとしのかみ)
巷 社神(ちまたやしろのかみ)

大年神は素戔嗚尊(すさのをのみこと)の御子で、
穀物守護の神であり、
この辺り一帯の農耕の神として祀られました。
またの名を、祇園古宮(ぎおんこみや)
といいます。
例祭日が節分の日であることから
節分の神ともいわれています。
大年社祭 2月3日

その隣に、
●十社
が、同じく、東向きに並ぶ。

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説明板によると・・
十社(じゅっしゃ)

多賀社(たがしゃ)
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
 (素戔嗚尊(すさのをのみこと)の父神)

熊の社(くまのしゃ)
伊邪那美命(いざなみのみこと)
 (素戔嗚尊(すさのをのみこと)の母神)

白山社(はくさんしゃ)
白山比咩(しらやまひめのみこと)
 (水の神)

愛宕社(あとごしゃ)
伊邪那美命(素戔嗚尊の母神)
火産霊命(ほむすびのみこと)
 (火伏せ(ひぶせ)の神)

金峰社(きんぶしゃ)
金山彦命(かなやまひこのみこと)
 (鉱物・金属の神)

磐長比売命(いわながひのみこと)
 (延命長寿の神)

春日社(かすがしゃ)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
 (中臣(なかとみ)氏の祖神)
武甕槌神(たけみかづちのかみ)
 (武の神)
斎主神(いわいぬしのかみ)
 (武の神)
比売神(ひめがみ)
 (天児屋根命の妃神)

香取社(かとりしゃ)
経津主神(ふつぬしのかみ)
 (武の神)

諏訪社(すわしゃ)
健御名方神(たけみなかたのかみ)
 (武の神)

松尾社(まつおしゃ)
大山昨神(おおやまくいのかみ)
 (素戔嗚尊の御子神・山の神)

阿蘇社(あそしゃ)
健磐龍神(たけいわたつのかみ)
 (神武天皇(じんむてんのう)の孫神)
阿蘇都比較咩命(あそつひめのみこと)
 (健磐龍神の妃神)
速甕玉命(はやみかたまのみこと)
 (阿蘇(あそ)氏の祖神)

十社祭 10月12日
諏訪社祭 7月2日

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●神馬舎(しんめしゃ)
本殿の奥の北側に南向きにある。

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説明板によると・・
八坂神社と神馬
神馬は祈願祈祷のため、古来より幣物として
奉納されています。
八坂神社と神馬の関わりは大変古く、
平安時代初期の延喜20年(920)に朝廷より
幣帛【13】走馬が奉られたのが初見で、
その後は祇園会の臨時祭(6月15日)に、
御神楽の東遊(あずまあそび)【14】とともに
奉られました。
【13】幣帛(へいはく)
神に奉献する供物 の総称。
【14】東遊
雅楽で国家歌舞に類する壮大な組曲。
演奏時間、約30分を要する長い組曲で、
東国の起源の風俗歌に合わせて舞う。

以後一時的な中断はみられるものの、
およそ南北朝時代まで続きました。
また室町時代に入ると年始や祇園会に際して、
将軍家より頻繁に神馬が奉納されています。

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明治8年まで境内において実際に神馬が飼われて
いましたが、現在は木製神馬二頭が奉安され今日に
至っています。

神馬に関わる年中行事には、正月7日に白馬を
見ると年中邪気を除くと言われます。
これは宮中の白馬節会(あおうまのせちえ)に
ならったもので、かつては青馬でしたが、
それが白馬に変わった今でも呼称は
アオウマが残されています。【15】
【15】醍醐天皇、在世に、
各行事に白馬、葦毛の馬が使用されるように
なった。

水鳥の鴨の羽の色の青馬を
 けふ見る人は かぎりなしといふ
   大伴家持「万葉集」

うちむれて いざ見にゆかむ諸人も
 いさみある世の けふの白馬
   正徹 「草根集」 【16】
             と、ある。

【16】正徹(しょうてつ)
字は清厳、号は招月庵。
室町時代中期の臨済宗の歌僧で最大の歌人。
石清水八幡宮に 仕える祀官一族の出身。
草根集(そうこんしゅう)は、正徹の私家集
で 15巻。
約1万 1000首が収載される。
また、20000首近くの詠が現存する。
歌風は難解で、観念的、幻想的である。
歌中の、けふ、は、きょう(今日)のこと。

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●北向蛭子社(きたむきえびすしゃ)
社務所の西側に北向きにある。

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説明板によると・・
北向蛭子(えびす)社
 祭神 事代主神
俗にエベッさんと称され、福の神、商売繁昌の
神として崇敬されています。
事代主神は大黒主の御子神ですから
素戔嗚尊の孫神にあたります。
記録【17】によると中古依頼「西楼門内、
北向きに立つ」とあり、古くから
現在地にありました。【18】
【17】花洛名勝図会(1867年)、
恵美須社 西楼門の内、南傍ニ有、北向。

【18】高原美忠 著・八坂神社・学生社、1972年
によると、
事代主神、もと千本の西 蛸薬師の南、
夷森にあり、西宮と称す。
中古 本社境内に移し、西楼門内南方にあり、
北向蛭子と称した。
明治13年12月 絵馬社の西南に移し、
更に明治34年8月24日今のところに移す。
(本書の著者は、元 八坂神社宮司であり、
歴史、概要が要点をついて端的に書かれており、
読みやすく、八坂神社を知る上で
siryoお勧めの本である。)

現社殿は正保3年(1646)の建造で
国の重要文化財に指定されていまして、
平成10年6月屋根(柿葺(こけらぶき))【19】
葺替、塗替行いました。
【19】杮葺(こけらぶき)
板葺きの一種で、こけら(=薄い木片)を重ねて
敷き詰めた屋根のこと。

1月9・10日、初えびすのお祭は
商売繁昌のご祈祷で賑わいます。
    と、ある。

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また、手前、左側に、えびす像がある。
説明板によると・・
ふれあい「えびす像」
皆様と「祇園のえべっさん」とのふれあいを
大切に
そして ご縁をより深めていただけるよう願い
奉納いたしました
招福を念じてをふれてお詣りください
  平成17年 初えびす
   祇園商店街振興組合
   四条繁栄会商店街振興組合
       と、ある。
えびす像
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また、この西側には、
○車の祓所 が、ある。
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   続く。



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