京都史蹟散策95  八坂神社の全貌 5

京都史蹟散策95  八坂神社の全貌 5

八坂神社

【位置】東山区祗園町北側
【交通】市バス 祗園 徒歩すぐ

●絵馬堂

厳島社の左側にある。
江戸時代、建立のもので、
北野天満宮・今宮神社、・御香宮神社と並び
細長く大きい建物。

絵馬堂・南面
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花洛名勝図会・巻1(元治元年(1864年))
によると、
本殿の西ニあり、世に名高き絵馬多し、
扁額軌範【24】に委(くは)し、とある。
下の写真・中央は、同年刊の
再撰花洛名勝図会 東山之部・巻1
(元治元年(1864年)であるが、
此処でも、絵馬堂が描かれている。
【24】扁額軌範(へんがく きはん)
かつて、清水寺や北野天満宮などに
揚がっていた貴重な絵馬などを収録。
文政2年(1819年)刊行。

再撰花洛名勝図絵 東山之部
(京都府立図書館・所蔵の複製より)
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●八坂神社・八幡太郎義家奮戦の圖
天明五年 巳歳 五月吉日
法橋春甫 圖
○絵馬の左下の文には
義家朝民(あそん)奥州後三年の合戦のとき
衣川の城にて 貞任(さだとう)か
郎等(ろうどう)海部九郎と云ふ者(が)
義家辺り近く参りけれは(ば)
義家(、)右の手をのばして馬上に引(き)あげ
弓杖五丈ばかりあげつけ給へは(給えば)
九郎は其(その)まゝ死てける(死んでいる)
今描くところはその圖【図】也
         と、ある。

後、八幡太郎義家こと、源義家のこの奮戦は、
伝説となり、明治45年に、尋常小学唱歌に
取り上げられた。

駒のひづめも匂ふまで、
「道もせに散る山櫻かな。」
しばしながめて、
「吹く風を 勿來の關と思へども」
かひなき名やとほほ笑みて、
ゆるく打たせしやさしさよ。

ゆく敵をよびとめて、
*衣のたては綻(ほころ)びにけり。*
敵は見かへり、
**年を經し 絲(糸)のみだれの苦しさに**
つけたることのめでたきに、
めでてゆるししやさしさよ。

源義家が *と歌うと、安倍貞任が **と
歌い返している。

扁額軌範の刊行後、
明治43年には、扁額軌範の編者らの志を
継いで、過去に揚がった絵馬を整理して
官幣中社 八坂神社扁額集が、
八坂神社より発行された。
これには、上記、八幡太郎義家奮戦の図の他、
玄家高弟 宝暦十二年狩野縫殿助筆
大黒布袋棲角力 明暦三年長谷川之丞筆
富士山 享保十八年狩野永降筆
  など、かつて絵馬堂に揚がった
有名な絵馬が掲載されている。

扁額軌範より
八幡太郎義家奮戦の図
(著作権満了のものより)

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文中、法橋春甫は、江村春甫のこと。
法橋(ほっきょう)とは、法橋上人位の略で、
律師の 僧綱に授けられる僧位のこと。
春甫は、他に、安井金比羅宮(金毘羅宮)の絵馬
・意馬心掩猿、牛若弁慶図などを描く。
また、当時の京都画壇の中心的存在だった
鶴沢派の絵師・石田幽汀(いしだ ゆうてい)の門人で、
幽汀は、円山応挙、
田中 訥言(たなか とつげん)、
原 在中(はら ざいちゅう)の師として知られる。

絵馬堂・東面
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●西楼門
四条通に西面し、東大路に面する門。
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古くは、夜叉門(やしゃもん)、籠門(かごもん)
とも云われ、
楼門の両脇には、随身(ずいしん・
平安時代の貴族の護衛役)の木像2体、
左・吽形、右・阿形が置かれている。

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建築時期は定かではないが、
鎌倉時代初期、歌人・藤原俊成(定家)が、
霧の内もまつ面影に 
たてるかな西の御門の
石のきさはし。
と、詠んだ。(祇園百首)

室町時代、第8代将軍・足利義政(よしまさ)
のとき勃発した11年に及ぶ内戦(1467-1477)・
京都では、先の大戦、と云われる応仁の乱で焼失。
明応6年(1497年)桧皮葺で再建。
永禄年間(1558年~1570年)に瓦葺きに
替えられる。
大正2年、四条通の拡張に伴い、左右に翼廊を
建て現在の姿となった。
重要文化財建造物。

門前のさつきの植え込みも有名。
また、この楼門に、蜘蛛の巣が張らず、
石段に雨だれの跡も付かないと云う。

前述の扁額軌範 2編では、
元徳3年(1331)の作とされる
八坂神社(祇園社)古図で、
西楼門の前辺りが描かれており、
興味深い。

扁額軌範より
八坂神社(祇園社)古図
(著作権満了のものより)
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上記写真・中・右下の文には・・
祇園西門の間
両辺には古へ (いにしえ)
祓婆々(はらいばば)と云って
婦人頭(ふじんかしら)に
綿(わた・変体仮名)を
戴(いただ)き幣串(へいくし)を以て
詣人(けいじん)の
不浄(ふじやう・ふじょう)を
x(祓・はら)えり後(のち)
(さんじた・参詣した) 
と、ある。

現在の西楼門の石段の内側にある狛犬と獅子。

狛犬
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台座に大正15年(1926)12月吉日と
刻まれている。
大正15年12月25日は、昭和に改元されて
いるので、まさに、ニアミス。
また、台座には玄武・青龍・朱雀・白虎の四神の
浮彫りが、当然のようにある。
狭義では、狛犬は、口が開かず角があり、
獅子は、口が開いて角がないのだ、とか。
なので、これは、獅子・・。
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朝・9時の西楼門
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●八坂神社 境外・末社  冠者殿社

斎館の傍らに
市内の八坂神社関連お宮マップがある。
順序は、少し異なるが、これを巡ります。
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●冠者殿社
【位置】 四条通寺町東入る
【交通】阪急京都線・河原町
西へ徒歩、約7分。

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古い説明板によると・・
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冠者殿社
御祭神 素戔嗚尊
祭日 十月二十日
御神徳 商売繁昌

由緒
素戔嗚尊は天照大御神に向い
身の潔白を誓約された神様として
一誓文拂の祖神と崇められ往洛より
京洛の人々 殊に商家に於いては
誓文拂事を通じて大神様に御加護を
祈願されています


新しい説明板によると・・
冠者殿社(かんじゃでんしゃ)

御祭神
素戔嗚尊(すさのおのみこと)の
荒魂(あらみたま)
祭日 十月二十日

八坂神社の境外末社。
官社殿社と表記されることもある。
御祭神は八坂神社と同じであるが、
ここは荒魂を祭る。
荒魂とは和魂(にぎみたま)と対をなすもので、
神霊のおだやかなはたらきを和魂、
猛々しいはたらきを荒魂といい、
全国の神社の本社には和魂を、
荒魂は別に社殿を設け祭るという例が多い。

もとは烏丸高辻にあった八坂神社
大政所御旅所(おおまんどころたびしょ)
に鎮座していたが、天正19年に豊臣秀吉
の命により、御旅所が現在地に移転した時、
樋口(万寿寺通)高倉の地に移され
(現在の官社殿町)、さらに
慶長のはじめに現在地に移された。
明治45年、四条通拡幅に伴い旧社地より
南方に後退している。

毎年10月20日の祭りを俗に
「誓文払(せいもんばら)い」という。

昔の上人は神様に商売ができることへの感謝と、
利益を得ることに対する償いの意識を
もっていました。
この感謝と償いの意識により年1回の大安売り
をして、お客様に利益を還元する商道徳が
しっかり守られていました。
この本来の誓文払いの精神を継ぎ、
商人の方々は商売繁昌を、
一般の方々は神様の清き心を載き
家内安全で過ごせるよう願って10月20日に
大勢参拝されます。
          八坂神社

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●八坂神社 境外・末社  八坂神社御供社

【位置】 中京区御供(おんとも)町
(京都三条会商店街内・三条通黒門の北西角)
【交通】地下鉄東西線・二条城前 徒歩15分。
    市バス・堀川三条 徒歩5分。

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説明板によると・
八坂神社御供社(ごくうしゃ)
鎮座地 京都市中京区御供町
御祭神 素戔嗚尊 櫛稲田姫命 八柱御子神
祭典日 7月24日(御供社奉 饌祭)
由緒
貞観11年(869年)都に疫病が流行した時、
平安京の広大な庭園であった神泉苑に
66本の矛を立て、
祇園社(現 八坂神社)の神輿を送り、
祇園御霊会が行われた。
当社は往古の神泉苑の南端にあたり、【25】
御霊会祭日である6月14日
(明治以降は、7月24日に変更)には
斎場が設けられ、祇園社の神輿三基を安置し、
神饌(しんせん)を御供えする。
【25】神泉苑は、徳川家康が二条城の築城の際に、
その敷地を狭められて、現在の姿となっている。
この八坂神社御供社は、神泉苑の南、
約340mにある。
毎年7月24日(祇園祭・還幸祭の前日)、
八坂神社御供社の前に、池の水辺を表す
芝生を敷いて、オハケと云う三本の
御幣を立てる。
ここで神饌を供えることが、
呼び名の由来になったとされる。

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社名、町名はこのことに因むものである。
明治6年村社に列格し、明治39年には村柱を廃し、
八坂神社の境外末社となる。
当社は、四条京極にある御旅所に対して、
又旅所(またたびしゃ)ともいわれている。

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●八坂神社 境外 少将井御旅所跡

【位置】 中京区烏丸通夷川上ル少将井町
(京都新聞社・正面玄関・左側)
【交通】地下鉄烏丸線・丸太町7番出口すぐ。

京都新聞社ビルの壁に銅板が埋め込まれている。

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それによると・・
●少将井御旅所跡
少将井は平安京の各所にあった名水の一つで、
「枕草子」にも名井として挙げられている。
所在地は京都市中京区烏丸通竹屋町下ル
少将井町付近とされる。
名前の由来はさだかではないが、
歌人の少将井の尼が住んでいたため
との説もある。
平安時代以降、祇園社(八坂神社)の
御旅所があり、現在の祇園祭にあたる
祇園会御霊会で神輿が巡行した。
疫病を免れるための霊水信仰に基づくとされ、
神輿は井桁の石に安置したという。
祇園社の御旅所は桃山時代ごろ、
四条新京極に統合された。
少将井にはその後も社が置かれていたが、
上京区・京都御苑にあたる宗像神社の社伝
によると、明治10年(1877)、同神社に
移された。
昭和47年(1972)、京都新聞社が平安博物館
(現・京都文化博物館)に依頼して
発掘調査を実施した。
平安時代の泉水は確認できなかったが、
鎌倉時代から近代までの井戸跡が数多く見つかり、
この地が良い水に恵まれ地域住民が
利用していたことがあらためて確かめられた。
     京都新聞社(平成18年4月 設置)

また、この銅板の位置から一筋・東の通り
(烏丸竹屋町下る)の、すなわち、
京都新聞社のちょうど東側の道路を挟んだ
民家の傍らに
●少将井旧跡の石碑 がある。

【石碑】少将井舊跡
(南側・横面)今上陛下御即位20年記念
       平成21年11月12日
(北側・横面)解読できず。

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少将井の御旅所は、上述のように
明治10年に京都御苑・宗像神社境内
(本殿拝所の左側の絵馬所・左前)
に遷され、小祠があり祀られている。

●少将井神社
京都御苑・宗像(むなかた)神社内
【位置】 上京区京都御苑内
【交通】地下鉄烏丸線・丸太町・1番出口。
西へ、京都御苑・間ノ町(あいのまち)口
からが近い。

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●八坂神社 境外 大政所御旅所旧跡


【位置】下京区烏丸通仏光寺下ル東大政所町
【交通】地下鉄烏丸線・四条。
5番出口、南すぐ。

【石碑】八坂神社 大政所御旅所舊跡
官幣大社八坂神社宮司 江見清風書

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駒札によると・・

大政所御旅所(おおまんどころ おたびしょ)
ここは、祇園祭(八坂神社の祭礼)の
神輿渡御のとき、3基の神輿のうち、
大政所(素戔嗚尊)神輿と
八王子(八柱御子神)神輿の2基が安置される
場所であった。
残る少将井(櫛稲田姫命)神輿は中京区の
烏丸竹屋町の御旅所に渡御していたが、
天正19年(1591)に豊臣秀吉により、
四条寺町にある現在の御旅所に
移築・統合された。
円融天皇の時代(969~984)に、
この地に住んでいた秦助正が、
夢の中で八坂大神の神託を受け、また
自宅の庭から八坂神社まで蜘蛛が位置を
引いているのを見て、朝廷にこのことを
奏上した結果、助正の家が御旅所となった
という。
天文5年(1536)に騒乱のため焼失したが、
その後に町の人々が小祠を建て、
八坂大神を奉祀し、大政所町鎮護の社として
毎年7月16日を例祭日と定めた。
今でも神輿還御の時には神輿が立ち寄り、
神職が拝礼する。     
京都市

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●八坂神社 境外 四条御旅所

【位置】 四条通寺町東入る
【交通】阪急京都線・河原町
西へ徒歩、約7分。

八坂神社関連お宮マップによると・・
祇園祭の7月17日から24日迄の間、
八坂神社の神輿三基が安置される場所。
天正19年(1592)に豊臣秀吉が、
大政所御旅所と少将井御旅所を
統合移設したのが現在の御旅所。
四条京極にある。(冠者殿社の左横。)

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前述・西楼門の扁額軌範 2編でも
当時(延宝4年(1676年)6月)の
御旅町の御旅所(現・四条御旅所)が
都名所図会【26】の刊行以前に描かれており、
興味深い。
【26】都名所図会(みやこめいしょずえ)
安永9年(1780年)に町人・吉野屋為八が計画・
刊行した京都の地誌。
現在では、復刻版や、文庫本などで刊行され、
江戸時代の京都の状況がよく見られ、
当時の資料として、よく利用される。
これによると、
祇園御旅所(ぎをんおたぴしよ) は
四条京極の辻にあり。
毎歳六月七日祇園会の神輿三基この所に
神事し給ひ、同十四日に祭礼ありて
本殿へ還幸し給ふ。
両日の山鉾もみなくこの神前を引渡すなり。
   と、ある。

同・扁額軌範より
(著作権満了のものより)
 
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(この編・完)



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