京都史蹟散策 99 芭蕉堂探訪

京都史蹟散策 99 芭蕉堂探訪

【位置】東山区高台寺北門前通下河原東入鷲尾町
【交通】市バス・東山安井

2010年頃までは、いつ通っても、その門は、
締め切られており開かずの門とされていたが、
近年、ここは、某レンタルきもの屋さんの支店
となり開放されており、一度は訪れたい地
でもある。

芭蕉堂
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駒札によると・・

芭蕉堂
この堂は、江戸時代中期、俳聖松尾芭蕉を
しのぶため、芭蕉にゆかりの深いこの地に、
加賀の俳人・高桑闌更(たかくわ らんこう)【1】が
営んだことに始まる。
【1】 高桑闌更(らんこう)
俳人。加賀金沢生まれ。本名、忠保(または正保)。
通称は長次郎。半化坊、芭蕉堂などと号する。
生家は、商家(屋号・釣瓶屋)。
和田希因(通称・綿屋彦右衛門・芭蕉直門で歿後の
北陸地方の重鎮)に学ぶも家職を捨て京都へ。
医者の傍ら、天明3年(1783年)、
芭蕉を偲び、芭蕉堂を建立し営む。
編著・花供養・有の儘など蕉門の句文を集め刊行し、
功績をあげた。

鎌倉時代の初め、諸国を旅して自然を友とした
西行が、この地に阿弥陀房を訪ね、  

柴の庵と聞くはくやしき名なれども   
よにこのもしき住居なりけり(山家集)

と詠んでいる。
芭蕉は、この西行を心の師とし、西行を慕って旅の
生涯を送ったが、この地で、先の西行の作歌を
踏まえて、
しばの戸の月やそのままあみだ坊(小文庫)
の一句を詠んだ。
この句を生かして闌更が営んだのが、
この芭蕉堂である。

堂内には、蕉門十哲の一人、森川許六【2】が刻んだ
芭蕉の木像を安置する。
【2】 森川許六(もりかわ きょりく)
名は百仲、字は羽官、幼名を兵助または金平。
彦根藩の藩士・絵師でもあった。
元禄5年(1692年)江戸・深川の芭蕉に入門し、
芭蕉から六芸(礼・楽・射・御・書・数)に通じた
多芸の才人と云う許六の号を授けられ、
自らも蕉門二世と称した。

毎年4月12日には花供養、11月12日には
芭蕉忌が行われる。

なお、東隣の西行庵庭内には、
各務支考(かがみしこう)が芭蕉一七回忌に建てた
「かな書の碑」がある。
京都市
             と、ある。

芭蕉堂 内部 (撮影可)
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芭蕉堂の扁額は、芭蕉桃青堂とあり、
堂内のものは、芭蕉堂と、ある。



この堂の左手前に、芭蕉堂の石碑があり、
また、やや黒っぽい自然石に刻まれた
●闌更(らんこう)の句碑 がある。

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見流毛能盤
 先朝日なり
  花乃春 
      闌更
(みるものは まず朝日なり 花の春)

闌更(らんこう)の句碑の裏面には、

 大正十年一月建碑
 古稀壽齢記念
 十一世庵主 露翠
  補助門
   櫻岳 三圃
   玉鳳 暁村
   巴柳 春渚
   支皁 雪人
   陬月 浪居

と、あり、十一世庵主(実際は13代堂主)露翠が
自分の古稀の記念に俳祖・芭蕉の句を刻み、
建立したものである。
八世以降の堂主については、現堂主の調査、
時代考証により変更され、刻まれた石碑の表記に、
ずれが生じている。



●雙林寺芭蕉堂記の碑

芭蕉堂の左手奥にある。

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この碑は、
「再撰花洛名勝図絵 東山之部六」
(一八六四年刊)(黄色の囲み)に描かれている。

平成二十三年三月 京都府立図書館作成 所蔵図書
「再撰花洛名勝図絵 東山之部六」
(一八六四年刊)の複製 より

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また、明治28年5月刊行の京都名所独案内によると、
・・八寸許なる芭蕉翁桃青の木造を安んず又
芭蕉翁の碑あり。とある。
他資料では、各務支考が自ら書して建立したと云う。
だが、現在、この碑文は摩耗が激しく、
肉眼では判読不能。

【碑文】
雙林寺芭蕉堂記

往昔西行・頓阿蜚遯雙林寺下者、世之
所通者也。 近時是芭蕉老人亦在斯寺而
有柴戸之詼句矣。加州人半化翁慕芭門之
俳諧而宗匠乎一時者也。亦誠旁于比
翫塵外之風月者。今且五六年矣、翁
嘗蔵五老井許六之所手造芭老人之
肖像者久矣。今茲創一宇小堂而安置厥
像。是差旌奉崇厥衢之誠也。且使同
好士、遊于俳諧也。亦多事之為森公卜垓
千鷺邱居恒輿相善丁堂成之日、翁請
公美以記厥顛末、於是乎聊書、以塞厥責云。
  酲和天明丙午菊秋
   (時)淡海彦根藩
     文学伏水龍公美識  

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●碑文の元である原書は、
高桑闌更編「奉納其三集」
半紙本一冊。寛政5年(1793年)、菊舎太兵衛刊で
堀家文書 に所収されている。
また、同文書は、城陽市立 歴史民俗資料館に
マイクロ化され所蔵されている。
そして、このたび、堀 家の方のご厚意により、
この個所、当ブログに限り、【起文】の了解を頂き、
掲載出来る次第となりました。
厚く御礼申し上げます。
また、下記の起文、大意については、
京都、某女子大学の先生にご協力いただきました。
重ねて御礼申し上げます。

【大意】
かつては西行・頓阿が隠棲し、近くは芭蕉老人も
この寺に滞在し発句を楽しんだ。
加州のひと半化翁(高桑闌更)が蕉門の俳諧を慕い、
このところで塵外の風月を楽しんだ。
5,6年前か、半化翁は五老井 許六の作になる
芭蕉の木造を所蔵(入手)しており、
いまここに一宇の小堂を建てて、この像を安置した。
その道(俳諧道)の誠を崇奉るためである。
また同好の士をして俳諧に遊んだ。

小堂が完成した日、半化翁は私にこの顛末を
記されんことを請うたため、ここに聊か記し、
その責を塞ぐものである。
      天明6年(1786年)9月

また、裏面には、寛政五歳癸丑十月徒焉
(寛政5年(1793年10月))とある。

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芭蕉堂を右手に奥に進むと左側に
●藍水の句碑 が、ある。
岩井藍水は、芭蕉堂の十四世(旧表記は十二世)
である。

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  額徒(つ)きて
   銀杏落葉を 
     奉留(たてまつる)
裏面に、
 昭和九年卯付
   十二世門人 正風社建立
            とある。

岩井藍水。
生没年不詳だが、93歳で没、とされる。
日本全国の餅と餅菓子を描き、それに賛句を添え、
皇后陛下に献上したその書体は、京菓子の銘菓に
多く書かれている。



藍水の句碑の右横に、
芭蕉堂・十一世(旧表記は九世)の堂主・
茂木梅雄(房五郎)
●梅雄の句碑 が、ある。
四角窓の空いた灯籠である。

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 奉燈  梅雄
花能(はなの)香農(かの)多可幾(たかき)
 とぼそや 薄月夜

裏面に、明治卅六年四月建立、と、ある。

茂木房五郎(梅雄)
現・千葉県野田市の出身。
茂木家は醤油醸造(後のキッコーマン)で知られる。
昭和4年、茂木家は、財団法人興風会を設立。
その事業の一環(図書館事業)で興風会図書館を
設置し、野田地方の文化に大きな足跡を残した。
房五郎は、明治15年、当時の俳人を知る上で
有益な資料・明治新撰俳諧姿見集、を刊行した。



また、その右横に、
かつて、芭蕉堂・十世(旧表記は八世)
●楓城の句碑 
が、あったが、現在は、内側の二つの門扉の間にある。

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 この庵や   楓城
  青梅ひとつ
   夜能(よるの)音

裏面には、大正二年春 門人、とある。

山鹿楓城(ふうじょう)
名は、泰造。 京都のひと。
落柿舎(らくししゃ)八世の山鹿柏年の義兄。
明治33年、没。享年72歳。



また、一番奥に椋(むく)の大木があり、その根元に
●史名の句碑 が、ある。

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 静さの日影 丹(に)ほふや 霜の苔
      酔古庵史名

裏面には、昭和廿四年 師走、と、ある。
酔古庵史名については、詳細不明。


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