京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 3 (二の鳥居付近まで)

京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 3 (二の鳥居付近まで)

本編は、2016年春から2017年初冬までの
期間にわたり、取材したものです。

大鳥居から楼門への参道の石畳

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北野天満宮・社報41号によると・・
・・弧を描いてつづく網代の石畳は、
明治22年11月と、明治27年5月の
2回にわたって、大阪市南堀江下通 阪本平助、
京都市聖護院町、高橋弥七 両氏の寄付により、
敷石されたものである。
石工は辻 徳次郎と、伴氏社前 東側の標石に
刻まれている。

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東西2間4分(4メートル)、
南北115間(210メートル)のそれは、
側溝がつき、水はけよく、丸く“そり”を
もった みごとな御影石の篠組であり、
幾星霜の風雪に耐え、そのうえを幾百万の
信仰の人々が通っていった遺産である。
蝉時雨に松影をおとす夏の日盛りの白い道、
淡雪に献燈を滲ませる冬の夜のぬれた道、
春風秋雨旦夕通い慣れた参道であるが、
進むほどに直線でなく流れるような曲線は、
楼門が見えかくれして、梅鉢の門燈が
神々しいまでに瞬くとき、天神様への親情を
いよいよ深くつのらせる。

・・・幼いときから何げなく踏みしめてきた
石畳が、奉納されるまでのぬかるみや、
凸凹道を想う時、転た感慨無量、ゆるやかな
勾配をもった平坦な美しい参道に感謝するのである・・
・・どうかこの石畳を傷つけることなく、
天神様へ捧げた先人のまごころを何時までも
大切にして、後の代に伝えたいと想う・・・
           と、ある。



影向松から参道を挟んで、

●茶席 松向軒(しょうこうけん) がある。

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この名の由来は、細川三斎(さんさい)こと、
細川 忠興(ただおき)が、影向の松の西に
茶亭を構えたことによる。
細川 忠興と云えば、その父・幽斎と同じく
茶人として名を馳せ、三斎流の開祖で、
利休七哲の一人に数えられ、
夫人は、明智光秀の娘・玉子(通称・
細川ガラシャ)で知られる。

ここには、先述の天正15年(1587年)10月1日、
北野大茶湯のとき、細川忠興がこの井の水を使った
と伝える井戸があり、囲いの植垣の間から、
垣間見ることができる。
立札にも、そのことが書かれている。

細川三斎が茶の水を汲んだと云われる井戸
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京羽二重 【1】に未収録の事項を追加した増補版
(別書名:織留)・
京羽二重織留(きょうはぶたえおりどめ)
水雲堂孤松子 著 元禄2年(1689年)刊。
巻之1-6の内、巻之三 事跡 
大茶湯之址(だいちゃゆのあと)
の項によると、
・・・北野大茶湯と云いし時、細川三斎影向の松
の西に茶亭を構へ松向庵と号す 
松にむかふの義なり
これより後 みづからの稱号とせり
       と、ある。

【1】京羽二重とは、水雲堂孤松子 著・
貞享2年(1685年) 刊。
縦糸と横糸を緻密に織る羽二重のように京の歴史、
町筋、名所、人物等を仔細に案内したもの。

つまり、細川忠興は、松向軒を構えたのを機に、
細川三斎と称したと云うことである。

後日談
その約40年後、寛永5年(1628年)になると、
この松向軒は、大徳寺塔頭・高桐院に移築され、
後に三斎の法名・松向寺殿三斎宗立の由来
にもなったと云われる。
細川忠興は、正保2年(1645年)で歿し、
享年83歳、遺言によりその遺歯が
高桐院に埋葬され、以後、細川家の菩提寺
として庇護される。
そして、現在の北野天満宮にあるここ、
松向軒には松向軒写しの茶室が残った。


また、この松向軒内には、
○奇縁氷人石(きえんひょうじんせき)が
ある。

奇縁氷人石
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(北西側) 奇縁冰人石
(南東側)x政五壬午正月建之 米市
兵半
(南西側)たづぬる方
(北東側)をしゆる方 松栄坊

これは、月下氷人石に該当し、
京都史蹟散策151  八坂神社 2
(2015-7-25)参照のほどを。
如何に多くのひとがここに参詣していたかが
伺われる。



北野天満宮には、前述のように多くの臥牛像がある。
洒落ではあるが、なかには、本当にもう、
洒落ではあるが、ハットする光景にも出くわす。
(背後に松向軒が見える)
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楼門までの境内略図
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参道、もう前方には、楼門が見えているのだが、
二の鳥居の手前で左側をみると、
●観音寺本堂・礼堂 がある。

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観音寺は、元は北野社の神宮寺・朝日寺で
江戸時代、神宮寺を離れ、近代、北野天満宮より
独立した。
現在は、真言宗泉涌寺派に属していて、
正式には朝日山観音寺、通称・東向観音寺と
される。
そして、この観音寺のやや前方に石碑がある。

谷将聖翁の硯銘の碑(後方は、観音寺)
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前述のように、天歴元年(西暦947年)、
北野天満宮が造営されると、
その初代別当職に曼殊院を興した菅原氏出身・
是算(ぜさん)が、別当職に補任された。
別当職は、平たく云うと管理責任者のようなもの。
曼殊院は門跡なので、皇室一門の方々が
住職であった。
以後、明治維新まで曼殊院は、北野別当職を
補任、歴任している。
近世以降、北野天満宮では、松梅院、徳勝院、
妙蔵院の祠宮三家があった。
この碑は、このうちの松梅院の
○谷 将聖翁の硯銘の碑、とされる。
確かに碑文を拡大してみると、谷将聖の名が
刻まれているが、汚れ、摩耗も激しく、
判読が困難な状況である。
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そして、二の鳥居を潜り、

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左側を見ると、梅林内に
●菅公神筆修補碑 が見える。
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この碑は、東京の亀戸天神にある
〇明楽斎修筆碑 (江東区登録文化財)
と非常に関係の深いものである。

菅公神筆修補碑
(表面)菅公神筆修補碑

(裏面)
梅園公開時に撮影。
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【本文】
正三位勲六等 侯爵 前田利為 題表
筆匠三宅潤道 號 明楽斎 奈良人
楠平佐兵衛 第三于出為
大阪 三宅立斎之嗣為人狷介質直不超時
技術至精擇毛羽調剛柔 咸能適書畫後移住東京
 開業 出筆于 勸業博覧會 受有効賞 名聲頓揚偶聞
東京龜戸神社蔵 菅公神筆五技 請為之修補
未遑下手罹病婦託後事而没時 明治辛卯三月也 享年        
四十六 婦守遺命聚集珍奇羽毛逢改造之已而建碑
 於 東西二京 以旌亡夫聲名蓋 潤道之在世也
至誠敬神特景仰菅公 當時在大阪 毎月一囘詣
 北野管廟 是所以建碑両地也 心算巳定資金未給躬
為行商款文人墨客之門供 其試用 且乞其筆迹又
 由嘱託造 剛柔筆極余會贈詩婦人婦人報以製
筆題曰梅技蓋菅用龜戸梅枝也 日者来請文示建
 龜戸祠畔碑 本余謂 潤道事跡具此不如叙内助
之功 婦人名 友枝 紀伊 石本卯三郎 第三女 年二十二
 為 潤道 次配裨補筆業技巧習熟事夫僅六年為
寡婦不墜家聲自謂座待商利不如出求顧客自提行李
 初賈近鄰數里就謁風流權貴之士自百里
千里足跡殆遍天下人或擬以日本女史婦人笑而
 不答以世界女史自居竟航 韓國 満洲 貯巨貨酬初
志眞可稱女丈夫矣 嗚呼 亦 潤道之遺徳也 銘曰
  竹菅獣毛 剛柔異質 伉儷相依 皆縛不律
   精義通神 恪菅公筆 
  各揚利随 餘貲百x 寧苑建碑 永旌良匹
   徳與梅花 千戴芳苾 
 正五位勲二等 岩崎奇一 撰 并 書

正八位 本郷 光治
        關與
    鈴鹿 太郎

(意訳)
正三位勲六等 侯爵 前田利為【1】 題表
【1】 前田利為(まえだ としなり)
旧加賀藩主・前田本家第16代当主

筆匠(筆を作るひと)・三宅潤道。
明楽斎と号し、奈良の人。
楠平 佐兵衛の第三子として生まれ、
大阪の三宅立斎を嗣ぐ。
(その)人となりは、
狷介(けんかい・頑固で自分の信じるところを
固く守り)で、いつも実直であり、
(その)技術は、毛羽(けば)の剛柔を精巧に
見極め選び、書を能くした。
後、東京に移住し、開業し、勧業博覧会で
効賞を授与し、その名声、とみに上がると
聞き及ぶ。
東京亀戸神社蔵・菅公神筆五技の修補を請われ、
これを行うも、暇なく、まずいことに病にかかり、
後を婦人に託して歿する。時に明治24年3月、
享年46歳であった。
婦人は、彼の遺命を守り、珍奇な羽毛を集め、
改造し、これによりて東西に建碑を行う。
(*すなわち、もうひとつは、東京・亀戸天神社の
〇明楽斎修筆碑 明治29年在銘・
江東区登録文化財、である。)

もって、亡き夫の名声を表す。
これすなわち、潤道の生きた証(あかし)である。
潤道は、至誠敬神で、特に菅公を仰ぎ慕い、
当時、大阪に在りて毎月一回は北野管廟を詣でた。
これにより、両地に建碑をしたのである。
その考えは、資金を定めて、行商のために自らの
給与は取らず、(筆を)文人墨客に供えて、
それを試して貰い、かつ、試用を願った。
そしてまた、仕事を依頼し、極めて剛柔な
筆を作った。
私は婦人に詩を贈り、婦人は、それを見て、
(潤道に)知らせて、(潤道は)筆を作る。
その題は、梅技蓋菅用亀戸梅枝である。
ある者が来て、〇亀戸の祠畔に建碑の依頼に来る。
私は言う。
潤道の事跡は、内助の功なくして、これを
表すことはできない、と。
婦人の名は、友枝で、紀伊・石本卯三郎の
三女で、22歳で潤道に嫁いだ。
後、潤道の筆業を補い助け、その技巧を習い、
その成果は、熟すも、わずか6年で寡婦となるも、
いわゆる座待ちが上手で、
商いの利益は出るに越したことはないが、
顧客を求め、自ら行李を担ぎ、近隣、数里、
初夏に出かけ、風流な貴族の方に面会し、
その足跡は百里から千里に及び、
遍(あまね)く天下人や、それらしき人に面会し、
もって、日本の女子、婦人が笑うとも答えず、
自ら世界女子を自任し、韓國・満洲にも渡航し、
巨大な財貨を貯蓄し、(*そのひととなりは、)
女傑といわれるほど気性がしっかりとしていた。
ああ、また、これは潤道の遺徳である。

その銘に曰く、
筆の軸は、竹管で、獣毛を用いる。
(*その毛は、)剛柔異質で、夫婦、相依り、
皆、その筆に魅了される。
その正確な意義(*書き心地)は神にも通じ、
菅原氏の公筆にも用いられる。
時勢は利に従い、その財貨は非常に豊かで、
心落ち着く場所に建碑する。
代々の旌(せい・旗飾り)は、頃合いの数である。
梅花は徳を与え、千年に一度の香(*かぐわ)しさ
である。
正五位勲二等 岩崎奇一【2】 撰文 並びに 書
正八位 本郷 光治【3】
        関与
    鈴鹿 太郎

【2】岩崎奇一(いわさき きいち)
南野と号する。熊本のひと。
伏見区西奉行町・常磐御前就捕処碑
にもその名があり、漢詩を良くした
文化人とされる。

【3】本郷 光治(ほんごう みつじ)
京都府の資料によると、本郷家は江戸時代に
大将軍村(現京都市北区)の庄屋を務めると、
ともに北野社の西京神人であった家である。
本郷家資料・本郷家文書が現存する。

 (北野天満宮の全貌4に続く)



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