京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 4 (楼門まで)

京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 4 (楼門まで)

本編は、2016年春から2017年初冬までの
期間にわたり、取材したものです。

三の鳥居
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三の鳥居の手前、左側に伴氏社 がある。
●伴氏社(ともうじ しゃ)

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案内板によると・・
御祭神 菅原道真公の母君【2】
御神徳 子どもの成長と学業成就を守護
例祭日 1月14日

菅原道真公の母君が大伴氏の出身であることより
伴氏社と称する。
かつては、石造りの五輪塔が置かれていたが
明治維新の神仏分離政策により、
当社南隣の東向観音寺に移された。

暖かい愛情と厳しいまなざしをもって菅公を優秀な
青年官吏に育て上げられた母君を祀るこの神社は、
わが子の健やかな成長と大成を願うお母様方の
篤い信仰を集めている。

神前の石鳥居は鎌倉時代の作で、国の重要美術品に
指定されており、台座に刻まれた珍しい蓮弁に
より有名である。
        と、ある。

【2】京都坊目誌(郷土史家・碓井小三郎により、
大正4年刊。明治期の京都を紹介したもの。
首巻、上京乾・坤、下京乾・坤がある)の
上京之部 乾 上巻之首-五によると、
○伴氏ノ社
境内三の鳥居の傍ら東面にあり。
旧北野石塔のありし所也。
石塔を他に移し當社に之を祀ると。
祭神伴氏乃ち菅神の母公にして。
貞観十四年(872)正月十四日卒す。
のち此地に祀る、 とある。

また、この鳥居は、京都三珍鳥居
(京都太秦の通称・蚕ノ社、
京都御所内・厳島神社の破風形鳥居)
のひとつで、額束が島木に割り込んでいる。

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同じく三の鳥居の手前、右側に2基、並んで
●京都紙商燈籠 がある。

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この燈籠の右側の台座の裏側には、
下記の如く刻まれている。
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明治卅五年天満宮一千年大満燈祭に際し
先輩諸氏に依り電燈設備の金燈籠を奉献
せられしも昭和九年の大x風にて倒壊し
更に再建したるも事変の為撤去され
茲(ここ)に五十年前の先輩遺志を継ぎ
現業界の御協力を得て其基石の上に再建と
新たに一基を奉献す
  昭和廿七年一月
    一千五十年萬燈祭記念
     京都紙商
      献燈會
        世話人
        山本 新太郎  
        八木 吉輔
        源田 善右衛門
        藤波 榮次郎
          石工石億

この燈籠の寄進の過程は、北野天満宮で紐解かれ、
寄進による全ての個人名・企業名ならびに
その屋号紋が解読できた、とのことである。
ここでは、プライバシーの関係などで、
その全体を紹介できないが、その組合の経緯は
下記の資料で辿ることができる。
◇京都紙商組合沿革史(昭和15年9月20日、
京都紙商組合事務所、発行)
同書より、組合献燈再建除幕式
(京都府立図書館・所蔵本より)
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同書によると、この組合は明治14、5年頃に
当時の業界の有力者により、計画された。
初代組合長・田中宗助氏は、明治17年5月に就任、
次いで二代・中井三郎兵衛氏が就任するも、
その後、自然消滅し、越えて明治25年6月
に至り、三代・田中清七氏が、再び組合として
具体化した。
だがその内容は振るわず、有名無償のまま
幾歳月を経た。

以下、本文、京都紙商のはじまり、によると・・
・・折柄偶々北野天満宮一千年記念萬燈會の
前年であって、大いに境内の拡築を行ひ祝典の
準備中であったから、組合の存在を確立する為め・・・
大燈籠の建設に努力せられて、終に大祭までに
竣工式を挙行することを得た、之れ其當時の京洛に
話題を呈したものであった。
              と、ある。

だが、またもや、当時の組合加入の有力店が
閉店すると、自然消滅の悲運に。
しかし、その後、業界は活況を呈して組合の中絶を
許さず、大正2年7月、ようやく現在の組合復興となり、
復興第一期(四代)大森治郎兵衛氏が組合長となる。
以後、有為転変の歴史の流れに翻弄されるも、躍進し、
戦後、昭和27年1月に、この燈籠建立となった。

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また、参道左手に、
○なで牛 がある。
境内には、臥牛像が十数体ある。
承和12年、大宰府で亡くなった菅原道真公の
遺体を運んでいる途中、車を引いていた牛が
動かなくなり座り込み、死亡した。
そこで、付近の安楽寺に埋葬した、
という故事に習っている。
自分の体の悪い部分をなでた後、臥牛像の
身体の同じ箇所をなでると、治ると云う
俗信・撫物(なでもの)に由来。
諸願成就で頭をなでると頭がよくなる、
と云うことから受験・合格祈願にも通じる
とのこと。
ちなみに、下の、なで牛は、
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文政2年(1819年)から、ここに臥している。
境内の臥牛像のなかには、探すと、子連れの像も
ある。



楼門前の石段の手前の道・
●坊城道 と秀才


この道は、坊城通・平安京の北は三条通から
南は七条通りまでの坊城小路、ではない。
北野天満宮内にある道である。

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楼門前の石段の手前で右に曲がると駐車場の
東出口を越えた道までの僅かもの。
北野天満宮・社報40号によると・・
往時の7月7日の御手洗祭のあと、
文道の大祖、風月の本主(楼門の扁額)と讃えられる
大神の御前で、菅家の後裔の六家、すなわち
東坊城、高辻、五条、唐橋、清岡、桑原諸家の
17、8歳の年頃の公達(きんだち)で、相当の
学業に進んだ方の献策がある。
公達はこの日に限り、楼門下の東口の道から
参詣するので、坊城道の名がある。

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参入すると、四門を閉ざし人払いをして、
拝殿で献策【1】が初まる。
【1】 献策
札(ふだ)、昔 紙がなかった時代に文字を
書き記した竹の札のことで、天子が政治上の問題を
策に書いて意見をとうものを策閲といい、
これに答えるのと対策という、策とは文書のことをいう。
(*現代では、対策と言えば、方法や手段であるが、
当時は答案の意、であった。)

すなわち公達はまず神前で文章一篇を作って
供える。
それから対策があり、公達はいろいろ学問の
質問を受け、これに答えなければならない。
菅家公達の口頭試験である。
これが無事に終ると、その人は「秀才」と
いう称号を受ける。
それを朝廷に届け出ると、ただちに幾分の禄高が
付いた。
これは文学の家たる菅家六家にかぎられたことで
あったとのことである。

明治維新後には、時勢が変り菅家の献策も
なくなったが、御手洗祭は今に伝わり、
1月2日の筆始祭と共に文道的祭典として重要な
祭典である。

いま楼門下は、・・・往時を偲ぶべくもないが
春ともなれば、幾千、萬の学徒が、
その栄光の志望校をめざして神門をくぐり、
神的に敬虔な進学への祈りを捧げる。
このことを想えば、けだし対策はその先駆を
なすものであろうか。
     と、ある。

今年(2017年)横断歩道の右側沿いでは、
初夏の京都をクラシックカーが走るイベント・
「コッパディ京都」が6月11日に開催され、
交通安全の祈願のために約40台が集結した。

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●文道会館
梅苑を左手に見て、楼門の左手に
文道会館が、東面に新しくある。
平成29年10月30日の
神社新報によると・・
・・このほど天神信仰の発信基地に、
また参拝者の憩いの場ともなる文道会館が
竣功した。
10月9日には竣功祭が斎行され、橘宮司や
千玄室天満宮講社会長が扁額の徐幕をおこなった。
・・と、報道された。

2017年11月3日撮影
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梅苑を左手に見て、
●楼門 が佇(たたず)む。

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その左門下の説明板によると・・

菅公御歌
東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花
 あるじなしとて 春を忘るな (拾遺和歌集より)

【訳】東風が吹いたならば 配所にいる私に 
風に託して匂いを送って寄こしてくれ、梅の花よ、
家の主人がいなくなったとしても、
花の咲く春を忘れてくれるな。

菅公が昌泰4年(901)【1】、大宰府(現在の九州、
福岡県)に旅立たれるにあたり、自邸(紅梅殿)に
咲く梅花に別れを惜しんでお詠みになられた和歌
である。
【1】 昌泰4年1月、昌泰の変(しょうたいのへん・
左大臣・藤原時平の讒言(ぞうげん)により醍醐天皇が
右大臣・菅原道真を大宰員外帥として大宰府へ左遷した
こと)を指す。
昌泰4年7月15日に改元・延喜元年となる。

菅公は住み慣れた紅梅殿を去るにあたって、
懐かしさの余り心なき草木にも契りを結ばれ、
万感の思いで大宰府へと旅立たれた。
この和歌は、いわれなき無実の罪により、
大宰府へ左降される菅公の深い悲しみと望郷の想い
溢れる名歌として現在に語り継がれている。
菅公の祥月命日にあたる2月25日には梅花祭り
が厳粛に斎行され、境内一円はその御遺徳を
偲ぶかの如く梅が咲き誇り、馥郁たる香りで
包まれるのである。
     と、ある。

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東風(こち)吹かば・・の句は、確かに
梅花に別れを惜しんだ句ではあるが、その本当の
想いは、梅花に例え、最愛の夫人(と子供ら)に
別れを惜しんだと考えるのは、筆者だけであろうか。
以下の句がそれを物語っている。
昌泰4年2月1日に都を出で立つ日、

櫻花 主を忘れぬものならば
 ふきこむ風にことぢてはせよ

と、詠み、西遷への道すがら都へ便りがあるなら、

君が住む 宿の木ずゑを ゆくゆくも
 かくるるまでに かへり見しはや

と、振り返り、振り返り、尽きない名残りを述べたのも、
夫人への琴瑟(きんしつ・むつまじい夫婦仲)の情感が、
その背景の中に溶け込み、偲(しの)ばれる。
菅公の子らは、家系図から12とも、23人とも、
正確には不明。夫人は賀宴から推算し、5歳違いと
云われる。

2017年2月25日 梅花祭の楼門前
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菅原道真、悲運の境遇において
西遷の途中・明石駅で一句を吟じる。

一栄一落 是春秋
(自然界の春秋の如く、人の世も時が経つにつれ、
一栄一落、移り変わるものである)

だが、時の藤原時平は、道真を遠流しただけでなく、
親族一門を捕えて処分している。
●御台所は、京都・西七條の吉祥院の境内へ。
後、奧州胆沢郡母体(いさわぐん もたい、即ち、
現在の奥州市前沢区母体)へ3人の子どもと
従臣が流された。
○嫡子・右少弁 高視朝臣(うしょうべん たかみあそん)
は、土佐へ
○次男・式部大函 景行(しきぶだいじょう かげゆき)
は、駿河へ
○蔵人 景茂(くらんど かげしげ)は飛騨へ
○管秀才 淳茂(かんしゅうさい あつしげ)は、
播州高砂の浦へ流された。
○長女・菅元姫(すがもとひめ)は、
斎世親王(ときよ しんのう)に従い京都に残る。

○一番年少の男女4人の公達(きんだち・子ども)
は、道真と共に九州へ下ったのである。

そんな時平の治世・延喜の治も、およそ10年、
延喜9年(909年)に早逝。
よって、道真の怨霊による祟りと噂された。

この楼門の額には、菅原道真を称(たたえる)
文道大祖 風月本主
(ぶんどうの たいそ ふうげつのほんしゅ)
が揚っている。

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この文は、大江匡衡(おおえの まさひら)の筆で、
願文にある対句からのもの。
原文は、
就中(なかんずく)、文道之大祖、風月之本主也

大江匡衡は、平安中期の儒者、中古三十六歌人
のひとり。
菅原氏と並ぶ学問の家柄。
父、重光も文人官僚であった。

そして、この楼門。
一の鳥居からこの楼門までは、一直線だったが、
この先の社殿は、少し西に寄っている。
楼門の延長線上にあるのは、地主神社。
なので、地主神社に配慮して、とのことである。



2017年正月の楼門
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相も変わらぬ正月風景に、楼門だけが少し
様代わりしていた。
楼門の扁額の下に大きな絵馬が。
平成29年 ひのと酉の大絵馬である。

そして、その裏側には、糸人形の展示が。
東側には、

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【糸人形】女城主 直虎
左側の説明板によると・・
戦国の荒波を超え井伊家を守り通したのが
直虎であります。
所説ありますが、彼女は井伊直盛の一人娘であり、
男子に恵まれなかった直盛は分家嫡男菊之丞を
幼い時に養子といたしますが、菊之丞の父は
今川の支配下にあり、あらぬ疑いのかけられ、
9歳の菊之丞も姿を消してしまい、
直虎自らも出家をし「次郎法師」と男の名を
つけたのです。
11年後 菊之丞は他の女性と結婚して男子虎松を
もうけますが、虎松が2歳の時に菊之丞が亡くなり
存続の危機となり、彼女は還俗し虎松の後見人として、
名も直虎と改め、女領主として井伊家を支えました。
女性ながらも、政治手腕に優れ虎松をみごとに
井伊家の当主に育てあげた義に強い女性でありました。
  監修・制作 毛利 ゆき子
  制作    三上 和子  杉村 町子
        北村 直美  中村 亨
               と、ある。
右側説明板によると・・
 衣  西陣服地
 鎧  紋神
 おどし糸 絹糸
 槍の先  杼(*どんぐり)

西側には、

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【直虎と虎松】
説明板によると・・
 (*直虎)
袈裟   金襖
 墨染衣  西陣服地
 顔手足  絹糸
 
(*虎松)
 小袖   金襖
 袴    帯地
 顔手髪  絹糸
 花の部分 華地
            とある。


 (北野天満宮の全貌5 に続く)

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