歴史の流れ 箱館戦争史・麦叢録を読む1

歴史の流れ 箱館戦争史・麦叢録を読む1

箱館戦争の資料に『麦叢録(ばくそうろく)』
がある。
旧幕府軍が蝦夷地に侵攻したのは、明治元年
10月20日で、蝦夷島臨時政権を樹立。
だが翌年の春、新政府軍が反撃を行い、
5月18日に降伏、五稜郭は開城となる。
本書の著者、小杉雅之進は、青森の弘館・
最勝院に幽閉され、本書・麦叢録(乾・坤)を
刊行、同時に付図(絵画12枚)を描く。

本篇は、これを、あくまで趣味的にひも解いて、
現代風に読んでいきます。
(合田一道著・小杉雅之進が描いた
箱館戦争。絶版、等を参照。)

●小杉雅之進(こすぎ まさのしん)
諱は直道。号は竹■【1】(ちくいん)。

■いん、の漢字
画像


天保14年(1843年)10月1日、
幕臣・小杉直方の三男として、江戸本所で
生まれる。
8歳の時に父を亡くす。
安政4年(1857年)5月、長崎海軍伝習所、
三期生として軍艦の蒸気機関について学ぶも、
2年後、海軍伝習所、閉鎖。
万延元年(1860年)11月19日、
日米修好通常条約のため、ポーハタン号の随伴艦・
咸臨丸(かんりんまる)の蒸気方手伝として乗艦。
軍艦奉行は、木村摂津守 喜毅、
艦将は、勝 林太郎(勝海舟)、
通訳は、中浜 万次郎 であった。

帰国後、軍艦操練所教授方となる。
慶応3年(1867年)春、オランダに発注の
開陽丸が竣工し、榎本釜次郎は、船将、
雅之進は乗務員となる。
同年、10月、大政奉還。

翌年、慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争、勃発。
雅之進、乗務員より蒸気役一等に昇進、
美濃国・大野家の娘・由と結婚。
同年、榎本釜次郎の指揮で、旧幕府艦隊が、
二千余の旧幕府将兵を乗船させて脱走し、
蝦夷地へ侵攻した。当時、雅之進、26歳であった。

(麦叢録序・の意訳)
これに仕える武士(小杉雅之進)は、
諸事に忠義を尽くし、世の盛衰存亡に、
その生きざまは、変わらず、
百世の後に聞き及び、その志の奮発の様子は、
いわゆる常に気概があり節操が堅かった。
この戊辰戦争・函館の役が起こると、
この地に馳せ参じた者は、千百名か。
私は、友の小杉竹■
(竹■は、雅之進のペンネーム)君が、
戦闘に従事して兵馬の間を駆け巡った、
その事実を記したその題名を麦叢録と云う。

当時、これを行なう(書いても)も、
真心で至誠を貫くのに正しい判断を怠らず、
自分が(実行)出来ないことに怒り嘆くとは。
よって貧禄でも愉快に過ごし、難儀を逃れ、
まさに恥じることなく歳月を費やし老将となる。
本書は、このような状況のなか、(君は)
本書の序を(私に)依頼し、君との約束は深く、
(私は)才知浅く人に劣るも、
この題に数言を述べて、これを序とする。
明治七年・猛夏の日、浅草の益友学舎において
ありがたき友  菅原龍吉【2】撰文
東京・管公(菅原道真)廟の下 和斎白井庸 筆
【2】菅原龍吉
元仙台藩・京都詰め。
刊行年不明だが、啓蒙朝鮮史略・7巻を
宮城県仙台、菅原龍吉として編集。
明治7年12月、学問之目途、を出版。
明治21年1月、東京都芝区治安裁判所判事となる。
維新後、雅三(まさぞう)と改名し、内務省、
農商務省、逓信省へ出仕。退官後、
大阪商船監督部長。明治42年8月21日歿。

●緒言
此ノ書ヤ去ル己巳ノ歳予津軽弘前二於テ幽閉中
北海戦闘ノ顛末見聞ノ侭ヲ採録ス
此挙ヤ初冬ヨリ起リ仲夏二終ルヲ以テ麦叢録ト題シ
後来親族知己ノ一話柄トモナラントテ
小冊子トナセシモノ二シテ素ヨリ日記覚書二等シ
ケレバ之ヲ架上二束子テ敢テ江湖二問ノ意ナシ
然ルニ癸酉ノ夏 予会疾二罹リ起臥ノ際
新聞紙ヲ閲スル二北海戦闘ノ事績を録シタル
雨窓記聞ト題スル書名アリ
即チ書舗ヨリ購ヒ求メ之ヲ幡スル二豈図ンヤ
予カ纂輯シタル麦叢録ノ題名ヲ変シテ梓二上セ
剰ヘ序跋二予カ姓名ヲ記セリ
不審ノ餘リ書肆二就テ推窮スル二果シテ某氏ノ
所為二出ル事ヲ了解セリ
是二於テ止ムコトヲ得ズ事由ヲ上告セシ二公ノ
裁断ヲ以テ此書遂二絶板トナレリ
頃日二三ノ友人来訪シ談偶此ノ書に及ヒ切二
発兌ヲ促セリ
然ル二此書ヤ固ヨリ一時ノ私録二シテ之ヲ世二
公二スル予カ志二アラズト雖ドモ 巳二一タビ
梨棗二附セシ後ナレバ之ヲ辞スルモ益ナキ二近シ
因テ再ビ稟准ヲ得稍校正ヲ加ヘ更二江湖二頒布
スルモノナリ
若シ其誤謬ノ如キハ高覧ノ君子幸ヒ二校訂
アランコトヲ乞フ
    明治甲戊七月   編述者識

(麦叢録・緒言の意訳)
この書は、去る、己巳(つちのとみ)の年、
すなわち明治2年(1869年)、
私が津軽・弘前において幽閉中、
北海戦闘(函館戦争)の顛末の見聞のありのままを
採録している。
この戦闘は、初冬から起こり、夏3か月の中の月、
すなわち、陰暦5月に終わるので、麦叢録と題し、
将来、親族、友達の一話(いちわ)ばなしにでも
ならないかと、小冊子にしたもので、素より日記、
覚書きと同じなので、これを机上に束ねて、
敢えて、世の中に問う気持ちはない。
ところで、癸酉(みずのととり)の年、
すなわち明治6年(1873年)、私は病にかかり、
寝たり起きたりしている折、新聞を見ると、
函館戦争のことを書いた「雨窓記聞(うそうきぶん)」
と題する書名を見たので、すぐに、書店より
買い求めて、これを見てみると、何ということか、
私が編纂した麦叢録の題名を変えて出版し、
その上に、その書の序・後書に私の姓名が
書かれているではないか。
不審に思う余り、出版元を推理し究明すると、
予期した通り、ある人物のしわざ、であった。
なので、仕方なく、その事のわけを裁判所に
上訴して、公(おおやけ)の裁断で、この書は、
絶版となった。
ある日、2、3人の友人が訪ねてきて話していると、
偶然に、この書のことになり、切に、(この書を)
発行することを促した。
ところで、この書は、元から一時の私録で、これを
世に公にすることが、私の志ではないけれども、
私にとっては、一度(ひとたび)このような状況の
後なので、これを辞退する必要はなく、よって、
再び(この書の発行の)許可を得て、ようやく、
校正を加えて、さらに世間に頒布するものである。
もしも、この書に誤謬があれば、読者諸氏に
校訂していただくことを願います。
   明治7年7月 編述者 識す



元々、原文の漢字には、「ふりがな」があり、
その他、送り仮名の全ては、カタカナである。
そのため、現代では、非常に読みづらくなって
いるので現代風に訳した。
また、原文の「ふりがな」は、「現代のかな遣い」
に変更した。
例えば、上洛(シヤウラク → じょうらく)
争闘(ソウタウ → そうとう)等、である。

この麦叢録は、前述のように幕軍から見た
函館戦争史です。
* は、付記。

麦叢録 巻之上
          竹■ 漁夫 記
慶應4年の春正月、我らの前大将軍(徳川慶喜)
が上洛の際、通行の事から闘争となり、遂に
錦の御旗へ発砲する。
慶喜は朝敵であることは明らか、と官位が停止され、
慶應4年3月、官軍は征討師を以て、
三道から江戸城へ進軍するようにとの旨、
朝廷から仰せられ、上下臣民の動揺は、
大変なものであった。
臣民は、冤罪を弁明し、また、もし許されるのなら
城を枕に死のう、と云い、或いは、冤罪は、
そもそも三、四の藩がしたことで、速やかに
兵備を要地に設けて、冤罪の有無を戦争で
決しようと云い、議論は乱れて決められなかった。
その間、同志を募集して兵を率いて
信州、上州、奥羽などへ脱出する者が
少なくなかった。
四分五烈、皆は、これからの行き末がどうなのか、
ということが述べられない折、
君上(徳川慶喜)は、ひとえに尊王の正旨を
守ろうとして、その身を寺院に閉居して、
謹慎、恭順し、度々、臣下に告諭した。
また、官軍に抵抗しようとする者は
我が身を切るのと同じである、として、
軍艦、武器は言うに及ばず、祖先累世の
自分の城をも引き渡した。
そして遂に寛大な処置により、慶喜は、
わが家に幽居し、わずかに歴代の君主の
勲労により、七十万石を賜り、
中納言慶頼の子息・徳川亀之助に家名・相続を
命じられて、駿河・遠江の両国ヘ国替えさせる
旨を仰せつかった。
願わくは、蝦夷の不毛の地を賜り、
上は、皇国の北門の守衛を厳重にし、
下は、臣下の数十万の人数を管理したい旨を
嘆願したが、この件は、許されなかった。
臣下は、慶喜の願いに従おうとするも、
さらに朝廷からは、臣下は朝臣であるべき
であるとの命があり、よって(これに反発し)
幕臣を願うものがあり、
この時に当たり、奥羽越などの諸候は、
朝旨を聞き入れず、会津、および庄内などと
盟約をして、官軍に抵抗する勢いがあった。
また、房総・常野の辺りにわが兵隊を脱する
者がいて辺境を攻略し、国家は、まだ、
安定した状況ではなかった。
ここにおいて、以前に軍艦のなかで、
そのまま賜った海軍の海洋艦をはじめとして、
兵備を整え、厳格に暴動を禁じて、
(海洋艦を)品川沖に碇泊し、有志の者が
これに乗り込み、榎本釜二郎を統領として、
書面で主君に別れを述べて、8月20日の暁、
江戸湾を出港した。
時に、大霧咫尺【3】をもろともせず、
そして、このような状況下で、北方に向かって、
航海を進めた。
【3】咫尺(しせき)
中国の・周の尺で、咫は8寸(約18cm)、
尺は10寸(22.5cm)で、ごく近くの状況の意。

(*慶應4年)8月22日の夕べ、上総の洋上で銚子に
近づくと、東北から大暴風雨が起こり、
船は進めなかった。
翌8月23日になると風は益々勢いよく、その怒涛は
天に届くばかりで、風雨は、真っ暗闇で船が
沈没しかけることが数度あった。
三日保丸、咸臨丸の二船は、蒸気機関を
備えているので、開陽、開天の船を
これに繋いで航行するも、暴風のために皆、
鋼線を何本もより合わせて作った綱が切断され、
遂に、船隊は、ことごとく離散し、その行方は
分からなくなった。
本艦・開陽も帆柱を損傷し、舵を失い、洋上に
3日間漂い、ようやく、8月26日、仙台領へ
着き、その他の諸船は、数日後に着いた。
これより先、三日保丸は暴風のために銚子岬に
暗礁し破壊し、咸臨丸は大損害で、遂に
駿河へたどり着いたと云う。
9月の中頃、開陽、回天、蟠龍、神速、千代田形、
長崎、長鯨、大江、鳳凰の九隻の船は、
寒風沢(さぶさわ)、東名浜という所に碇泊し、
開陽を始めとする諸船は、鹿嶋灘で破損した
箇所を修繕したが、奥羽越連合の軍は、
米沢の伏罪の事件により組織が破壊し、
会津は、ほとんど落城に等しかった。
仙台南部の同輩は、遂に降伏、謝罪して、
軍門に下り、独り、庄内の兵は官軍に
抵抗したと云う。
既に官軍は、次第に仙台城下および塩篭辺りヘ
進軍し、故に我が陸軍脱走兵隊・大鳥圭介などを
始めとして、その他の地から来たものは、
進退ここに窮まり、我が海軍隊と協議し、
合同で再挙の策を共にして、行動を共に
しようとした。

ここにおいて、薪、水、食料などを十分に用意し、
大鳥圭介、土方歳三、古屋作左衛門【4】らを始め、
兵隊2,200人ばかりが、開陽、回天、蟠龍、神速、
長鯨、大江、鳳凰の7隻に分乗し、
10月9日、東名浜を出港し、(これより先、
庄内勢の応援のため、千代田、長崎の二隻を
同所・酒田港に出す)折の浜と云う場所ヘ
碇泊を変え(東名浜から十三里)、開陽が
艦の舵の修理を急いでいる間、
我党が蝦夷地行こうとする趣旨を官家・
奥羽の鎮将・四条殿【5】へ書簡で報告した。

【4】古屋作左衛門(ふるや さくざえもん)
名は智珍、通称勝次。初め高松姓。
筑後久留米藩を脱藩後、古屋氏を継ぎ幕臣となる。
慶応4年(1868年)、衝鉾隊を組織し、隊長として
会津、新潟へ転戦後、会津方面へ撤退し、
会津城籠城軍と合流を試みるも断念し、
福島を経て、9月14日、宮城県白石に到着した。
高松凌雲は弟。共に、五稜郭で戦う。
【5】四条 隆謌(しじょう たかうた)
幕末期、攘夷派公卿で幕府に建言するも
八月十八日の政変で失脚(七卿落ち)。
後、京に戻り官位を復される。
戊辰戦争では、当時、奥羽追討平潟口総督を
務めていた。

(この時、仙台藩額兵隊・星恂太郎を始め
二百余名が我隊へ合兵して、開陽、回天の二隻に
乗り込んだ。)
10月12日、諸船は、悉く、折の浜を出帆し、
翌、10月13日、南部領 宮古港に至り、
各船は、薪(たきぎ)積み入れる。
(仙台領からは、この辺りは、石炭がなく、
なので薪を、これに代用した。)
10月13日、 宮古港を出港、波静風順にして、
10月20日午前、南蝦夷地の鷲の木(わしのき)
と云う場所に到着した。
この日、午後から風、荒く、波、高く、
飛ぶ雪は漫々として隣船が、ごく近い距離でも
見分けがつかなかった。
寒気は、厳しかった。
そこで、我党がこの島へ来た趣旨を函館知府事・
清水谷侍従へ訴え、なお朝廷へ嘆願することを試み、
人見勝太郎、本多幸七郎に右の嘆願書を持たせ、
兵隊30人を護衛をつけ、風波を凌いで上陸し、
峠下へ向い出発した。(鷲の木より七里)
翌、10月21日、諸船から全軍が上陸した。
鷲の木は小村なので、多人数が屯集できない故、
一隊(大川正次郎、瀧川充太郎の両隊である)は、
函館に向い進行し、大鳥圭介を総督とした。
(鷲の木から函館までは、13里ほどで、
険阻なる峠があると云われる。)
これより先、函館知府事館・亀田五稜郭では、
徳川脱走の軍艦数隻が鷲の木ヘ渡来し、
兵隊が上陸したと聞いて、函館詰めの官兵
(長州、備後、福山、津軽、松前)は、
本陣を大野村に構えて、
10月22日夜、兵・200余人で我書を持たせた
人見勝太郎【6】、本多幸七郎【7】の旅館を
襲撃した。
ここにおいて(我党は)趣旨を弁解する暇なく、
その意を得られないので、兵を構えることになった。

【6】人見勝太郎 (ひとみ かつたろう)
二条城詰め鉄砲奉行組同心・人見勝之丞の長男。
遊撃隊に入隊後、徳川慶喜の護衛にあたる。
鳥羽・伏見の戦いで敗戦後、各地を転戦、
奥羽越列藩同盟に関与し、北関東から東北地方を
転戦後、蝦夷地に渡っていた。
【7】本多幸七郎(ほんだ こうしちろう)
名は忠直。幕府陸軍の士官として歩兵頭を務め、
戊辰戦争では 大鳥圭介の腹心として、伝習隊を
率いて南関東から箱館まで転戦していた。

この時、大鳥圭介が率いて進んでいた前隊は、
この峠にいて、砲声を聞くと一斉に人見らの兵へ
駆けつけ、遂に襲撃して、これ(兵・200余人)
を退けた。
鷲の木では、この報告を聞き、事
(我党がこの島へ来た趣旨を函館知府事・
清水谷侍従へ訴えること)が整わないことを
知り、後隊(古屋作左衛門、松岡四郎次郎【8】
の兵である)を次々と繰り出して函館に向かわせる。

【8】松岡 四郎次郎
江戸生まれの幕臣の子。
諱は、泰孝(やすたか)、後に譲(ゆずる)と改名。
一連隊隊長として榎本艦隊に同行していた。
後、榎本政権下の江刺奉行。
市立函館博物館に松岡四郎次郎から大鳥圭介宛
の書簡がある。

また、鷲の木から川汲峠(かっくみ とうげ)【9】から
函館へ出る間道があり、土方歳三隊将が
この道からも進軍する。
【9】函館市、北海道道83号函館南茅部線の峠)

(星 恂太郎【10】、春日左衛門【11】の兵隊である。
この道は、鷲の木から函館までの三十里余の
道で、殊に険しくて大砲を牽引することは、
できなかった。)
【10】星 恂太郎(ほし じゅんたろう)
仙台藩士。諱は忠狂。字は士絹。号 は無外、楽斎。
戊辰戦争時、東北征伐が議論される頃、
藩兵楽兵隊から額兵隊を組織し隊長となる。
後、榎本 武揚の説得に応じ、額兵隊を率いて
旧幕府艦隊と合流を果たし蝦夷地へ来た。
【11】春日左衛門(かすが さえもん)
通称は鉄三郎。
旗本・春日邦三郎の婿養子となる。旗本。
幕府崩壊後、彰義隊・彰義隊頭並となる。
各地を転戦後、盟主・仙台藩の降伏後、
榎本 武揚・旧幕府艦隊と合流を果たし
蝦夷地へ来た。

この時、峠へ向かっていた我が軍は、     
大いに進み、大野村で戦い、敵の陣地を奪い、
これにより、また、文月村も奪い取った。
七重村へ向かっていた我が兵の一小隊は、
その敵・100余人と戦い、最も苦戦し不利に
なったので、少し退いた。
(だが)敵の勢いに乗じて進もうとする。
我が遊撃隊 隊長・大岡甲次郎、
砲兵士官・諏訪部 信五郎【12】らは抜きん出て
奮闘し、刀を振りかざして敵の中に突入し、
奮戦すること数刻、この時、隊士・三好 胖
(みよし なかば)を始めとして、各々、
銃を使用し、刀を振るって奮戦した。
【12】諏訪部 信五郎
砲兵隊指図役。明治元年10月24日、
七重村で負傷し、11月22日死亡。享年19歳。
墓所は、函館市・実行寺。

(よって)敵は、遂に敗走した。
我が軍は、敵が北へ逃げるのを追って大いに進み、
10余人を討ち取った。
味方の死傷者は数名で、三好 胖【13】も遂に
討死し、大岡、諏訪部は重傷を負った。
【13】三好 胖(みよし ゆたか)
原文では、胖(なかば)となっている。
別名・小笠原胖之助(本名)、裕。
幕府老中・小笠原長行の義弟。
新選組隊士・指図役。 享年17歳。
唐津市・近松寺の小笠原記念館裏の一隅に
墓がある。

[大岡はその傷に耐えられなく自殺し、
諏訪部は、後、函館に入り、20余日後に
死亡した。]
後、各隊は進んで、亀田五稜郭に迫った。

これより先、五稜郭では自軍に勝利がないことを
察して清水谷侍従を始め、役職たちは函館に着き
[亀田から函館までは、1里あまり]
プロシャ(プロイセン)の蒸気飛脚船で、
本州の津軽へ敗走した。
これにより、我が軍は、戦争をせずに五稜郭を
占領した。
時に、26日であった。

また、間道から進んだ兵隊は、川汲峠に着き、
敵が山上で陣を敷いていたのを両道から襲撃し、
これを殲滅させて山上に着いた。
また、鷲の木では、陸兵が函館ヘ向かった後、
松平太郎は森村まで出張し、榎本釜次郎は、
鷲の木にいた[戦地報告の騎兵は、昼夜奔走した]。
25日、我が軍は勝利し、益々進軍するのを聞いて、
回天、蟠龍の二隻は、函館ヘ廻った。
翌26日、回天、蟠龍の両船は、函館港内に
乗り入れたが一歩遅く、敵軍が清水谷を始めとする
敗走の後で、抵抗するものは、いなかった。
ここは外国人居留地なので、みだりに発砲する
ことはできず、今、官軍は、ことごとく逃げ去った
ことを聞いて、即時に上陸し、
運上所(うんじょうしょ・運上の上納を 扱った役所)、
台場などに我らの日の丸の旗章を揚げて、
蔵庫を封じて、仮に海兵に守らせた。
しばらくして五稜郭から陸兵が来て、
海兵に代わって砲台、その他へ守備兵を置いた。
28日午後、秋田(佐竹 右京大夫)【14】の軍艦、  
高尾と云う蒸気船が、我々が函館にいることを
知らずに入港したので、回天、蟠龍の二隻で
士官が海兵を率いて急襲し、船将を始め数人を
軍法によって武器を取り上げ、我が軍艦の
中黒(なかぐろ)の「ウィンプル」(細旗)を
揚げた。
[この船はアメリカ製で、5挺を擁しており、
富士山艦に似ていて、一時、27,8里を走ると云う]
船将・田嶋圭蔵【15】、副船将・井上干城をしばらく
幽閉させた後、都合のよい船便があったので、
それで本州に送った。
【14】佐竹 右京大夫
右京大夫は、右京職の長官のこと。
江戸時代、久保田(秋田)藩主佐竹氏の歴代の
藩主の多くが右京大夫を称していた。
時代的に見て、佐竹義尭と推察される。
【15】田嶋圭蔵(たじま けいぞう)
薩摩藩士。新政府軍軍監。
明治元年10月、新政府軍艦・高尾丸の艦長に
任命され、函館の寄港し、榎本武揚を総裁と
する旧幕府軍により井上干城と共に拿捕され、
約1か月半投獄されるも、イギリス商人ポーター
の配慮により斬罪を免れ青森へ帰還した。

開陽艦は、舵の修理が純分ではないので、なお、
鷲の木に碇泊させ、五稜郭からの報告により
10月末日の朝、同所を出帆して11月末日、
函館に入リ、この地の平定を祝い祝砲21発を
撃った。

すでに亀田、函館の両所は我が領土となり
[降伏者数人あり]  榎本、松平らも五稜郭に入り、
永井玄蕃【3】を仮の函館の執行役として、米銭を
使用して市中を賑わし、民衆は大いに感嘆した。
【16】永井玄蕃
(ながい なおゆき、なおむね、とも)
元治元年、大目付。慶應3年、若年寄。
鳥羽伏見の戦い後、江戸へ。
後、榎本武揚と蝦夷地へ。函館奉行となる。
維新後、明治5年、新政府に出仕し、
明治8年、元老院大書記官。
明治24年歿。享年、76歳。

これより先、我が軍は五稜郭を制し、間道の兵も
到着した後、降伏した松前藩 [桜井恕三郎] に
書を持って福山に行かせ、答を待つも、
彼からは一言の報告もなく、(敵は)使者を殺害し、
密かに兵を繰り出し、我らを征伐しようとした。
これにより、11月28日、我兵700余人
[渋沢成一郎、星恂太郎、春日左衛門の兵] は、
土方歳三を総督として松前に向い進軍し、
尻打 [しりうち] 村に陣取った。
[函館から松前迄は25里で、途中に知内峠の
険わしい道があった]
この夜、敵軍は福嶋から小舟に乗り、脇本から
上陸し、兵を隠して我が軍の後に出て放火し、
食糧を運ぶ道を絶とうとした。
我が兵は、これを撃破り、敵の隊長が馬上で
指揮しているところを狙撃して討ち取った。
大砲、小砲の分捕った数は、多かった。

(歴史の流れ 箱館戦争史・麦叢録を読む2
へ続く)

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