歴史の流れ 箱館戦争史・麦叢録を読む2

本篇は、箱館戦争の資料・『麦叢録(ばくそうろく)』
をあくまで趣味的にひも解いて、
現代風に読んでいくものです。
(合田一道著・小杉雅之進が描いた
箱館戦争。絶版、等を参照。)

(続き)
これより先、(開陽が入港した日)       
函館からは敵の動静を窺うため、明け方に
蟠龍艦を松前に回して、午後 [三時頃]、
福山湾に乗り入れ、徐行して岸近くに進み、
[松前・福山城は、海岸から、わずか
1、2町の所にある。又、この福山湾は暗礁が
多く、冬の間は波が高く、蒸気船と云えども
容易に乗り入れることは、出来ない。
なので、海岸の6ヵ所に砲台を築き、防禦は
最も厳重である]
殆ど陸にいる男女の区別さえ分からなかったので、
試みに一発、弾を打ち出すと、我砲の煙が散ると
同時に6カ所の砲台、並びに市街の倉庫近辺、
或いは山林樹木の蔭、およそ10ヵ所ほどから、
蟠龍艦を的に大小の弾丸、雨あられと降り、
まるで数多く花を疾風に散らすが如くであった。

我が方も、湾内を縦横にかけ巡り、頻りに
発砲する。
我らの「ガラナート」[破裂弾] 【17】が、
台場や城内等で破裂するのを見る。
【17】弾径が20ドイムよりも小さな炸裂弾。
これより大きなものは、暴母弾(ボム)と呼ばれ、
当時の 砲術書では、「暴母ト柘榴弾(Granaat)ハ
同物ナリ」とある。当時の新式爆弾。
ドイムは、オランダ固有の長さの単位で、
当時、オランダ本国では、メートル法が主流と
なり、幕末の日本では1ドイム= 1cm と、
定義されている。   

敵方から打ち出す砲は、24斤、12斤の台場砲・
「ボートホーイツル」【18】の類なので、
我らの船には達せず、多くの弾は海中に没した。
【18】ホーウイッスル砲の葡萄弾類と推察される。
葡萄弾(ぶとうだん)は、帆走軍艦の索具類の
破壊と人員殺傷を目的に考案され、
子弾は砲撃と同時に飛散し始めるため、
射程距離は短かった。

ただ、台場から打ち出された24斤の実弾は、
我が船の艫(とも)の右舷に打ち込まれ、
上官室を超えて左舷に届いて止まり、
[鏡の設備等を壊したが負傷者はなし]
又、舳(へサキ)、遣り出し(やりだし・
船のへさきから前方へ斜めに突き出した帆柱)に
一発、打ち込まれた。
この時、陽は傾き、波が高く、進退できなかった
ので、湾内を出て、函館へ戻る道すがら、
敵の福島の海岸の陣地に砲射して、夜12時過ぎに
函館に入った。
これにより、榎本、松平の2名は、なお、
回天、蟠龍の二隻に乗船し、再び、松前へ回ったが、
風雨のため行先を拒まれ、やむをえず引き返し、
福島湾に入って風が和らぐのを待った。

また、陸兵は知内から倍の進撃をし、峠を占拠し、
福島で戦い、勝った。
敵は退いて吉岡峠に構える[この時、松平太郎は、
峠に上る]。
我軍は二手に分かれ、ひとつは本堂から進み、
ひとつは山を巡って敵の背後に出る。
よって敵は遂に、これを支えることが出来ず、
敗走する。

函館戦争図。
「著作権なし」の作品より。
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(土方歳三軍、福山城(松前城)を制覇)  
  
11月5日、城下[福山] 入口で戦い、
また、これに勝って遂に福山に入り、大砲を
法華寺[城下]の境内に備えて市街を挟み、
城内に発砲した。
この日、我らの回天は、風波を突き進み、
福島湾に乗り入れ、陸平と挟んで城中に発砲
したが、波が高く、思うようにいかなかった。
そこで、やむを得ず福島へ戻り、蟠龍も湾口まで
来たのであったが進めず、同じく引き返した。
[福山城は同じ地蔵山の麓にある。
地形は最も高く、榒手門(*からめてもん)【19】
から一丁半の所は急坂で道路が屈曲し、
侵攻するには便利ではなかった。
【19】大手門に対して開かれる搦手口の門で、
有事の 際、領主などがここから城外や外郭へ
逃亡した。

これを下り、市街まで6、7町で、小高い山が
あり、法華寺は、ここにある。]

我々の兵隊は、進行して榒手(からめて)の城門に
迫った。
敵門を押し開き、野戦砲を引き出して発砲し、
また、閉じて塞ぎ弾を込めた。
このようにすること数回、 我兵は、城門を
破ることは出来なかった。
よって、20余人が銃を構えて門を開いて
待っていると、敵はまた、門を開いて発砲しようと
するところを我兵が一斉に銃を発射したので、
敵は狼狽して、砲を捨てて扉を閉めずに敗走し、
城門を破ることができた。
この時、我らの一手の兵は、山を巡って城の
背後に出て、垣根を越えて城中に入った。
既に表から進んで来た兵は、2、3の城戸を破り、
皆、刀を振って玄関、その他から乱入した。
敵は、皆、走路に迷ったが、それは、恥ずかしい
ことではなかった。
広間、或いは廊下などで引き返して戦う者もいた。
敵の勢いは遂になくなり、逃亡した。
[私が城中に行った時、襖、障子などに太刀の跡が
あるのを見た。
彼ら、君主のために城を枕にして討ち死にし、
真に松前の忠臣である。]
残兵は皆、城の背後の地蔵山を越えて敗走、
或いは、市街を潜行して火を放って去る者が
いた。
よって、城下の四分の三を焼失し、ここにおいて、
松前は、我らのものとなった。

写真は、浮世絵師・歌川 芳虎・
「箱館大戦争之図」。
著作権満了、のものより。
☆ 蝦夷共和国 総裁・榎本 武揚(釜次郎)
○ 蝦夷共和国 副総裁・松平太郎
□ 蝦夷共和国 陸軍奉行・大鳥圭介

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この時、函館から榎本釜次郎を迎えるため
高尾鑑を福島へ廻し、蟠龍艦の二隻で青森港へ
廻し、我々が、この福島へ来たことの趣旨の
概略を書いて津軽家へ送り、両艦は函館へ
戻った。
高尾艦は、ボイラーに障害が生じ運転が不可能に
なったので福島から引き返し、後日、神速艦を
松前に送り、榎本釜次郎は、これに乗船して
帰った。
これより先、松前志摩守は先年、西海岸の江差
から5里、西北に当たる厚沢部(*あっさぶ)館村
という所に寄り、険しい砦を築いて、ここ館村を
ほぼ、落城させたので、10月28日に、ここに
移った。
よって、福山を逃れてきた残兵は、悉く、
江差、館の両所にいて、我々を待っていると云う。

ここにおいて、福山からは土方歳三を大将として、
星恂太郎、永井蠖伸斎 【20】の兵を率いて本道から
江差に向かって進軍した。
【20】永井 蠖伸斎(ながい かくしんさい)
本名、新六蔵。 武州・忍松平藩、
永井新三右衛門の四男。鈴木家の養子となる。
後、東北同盟に参加。敗戦後、
自ら榎本武揚の艦隊に加わり、五稜郭に入り
歩兵奉行となる。
後、五稜郭郊外で戦死。享年、30歳。
墓は、光明寺(北海道亀田郡大野町)。

[松前から江差までは18里ほどあり、途中、
小砂子
(ちいさご・現在の北海道檜山郡上ノ国町小砂子)
の険しい箇所があった。
江差は、蝦夷地の三大場所の一、二に大きい
場所で、家数、三千戸に近いと云う]
時に、11月11日であった。

また[11月10日]、五稜郭から松岡四郎次郎が、
兵、200余人を率いて二股(ふたまた)口より
間道を進む。
[この道は、大野村から山路に入り館村まで17里で、
極めて険しく毎年、冬の間は雪深く、通路が絶え、
最も難路と云われる]
この翌日、庄内から千代田形艦が帰って来る。

これより先、千代田形艦、長崎艦の両船が、庄内、
酒田港へ行き、庄内では既に我が隊が着いて、
官軍領内に集合しており、飛嶋と云う所へ碇泊し、
薪、水などを積んでいたが、連日、風が激しく、
そのため長崎艦隊は、暗礁に吹き寄せられ、
遂に破壊した。
[長崎艦は破船したが負傷者はなく、船将・柴誠一
は、庄内へ行ったが官軍の固めが厳しく、
出ることができず、同所に残ると云う]
千代田艦は小舟なので、わずかに破壊を免れた。

しかしながら陸地の様子は、海上とは異なり  
良い状況と思ったが以外と良くなく、進退に
困ったので、我党は函館に寄港すると伝言して
すぐに庄内を出船し、函館に着いた。
この時、開陽艦は、函館港にいて楫(かじ)の
修理が終わったので、14日午前、榎本釜次郎が
乗船して出帆し、松前湾に到着し、
陸軍と協議するためにしばらく滞在し、
軍議が終わって、夜9時過ぎに松前を出て、
海岸を回り、江差に向かった。
翌、15日の明け方、江差の沖に着いて、
夜が明けるのを待った。
岸の上には、2,3か所に篝火(かがりび)が
見えるだけであった。
しばらくして夜が明け、北風で全ての山に
雪が降り、海上は平波で、あたかも銀を
敷いたような風景で、内地とは異なり、
寒さは殊に烈しく、耳や鼻が削られでは、
と思われるほどであった。
岸を離れて6町余りに、鴎嶋(かもめ島)
と云う島がある。
周囲20町余りで、島の中では樹木がなく、
要塞があって大砲を備えているようようだが、
降雪がひどくてはっきと分からない。
しかしこれを守る形勢がないので試みに
大砲「オランダ三十斤施条砲」を打ち込むと
静かでひとの気配もない。
なので、島には誰もいないことを知り、
ゆっくりと進んで岸近くに乗り入れ、
市街、人家を避けて後方の山に向けて
7発、発砲したが、なお兵隊は、一人も
見られなかった。
ただ、普通のひとが、少し山道を奔走する
姿が見えるだけであった。
そこで、「スループ」(船端)を下にして、
少しの兵隊を上陸させて、地元民に聞きと、
敵は前夜にことごとく熊石へ退いたことを
知った。
なので、この地で台場倉庫を検査して、
陣営に入った。
また、松前から出た陸兵がまだ到着していない
ので、道筋が分かるように、同所へ使者を出した。
この日、午後6時から暴風で雪がまた烈しく
ごく近くの物も見えなかった。
夜に入ると益々の暴風雪であった。
この時に当たり、艦の中は準備を怠りなく
蒸気を貯えて夜10時ごろになって、錨(いかり)
を保つことが出来ず、蒸気の力も暴風の為、
その効果がなく、艦は一瞬のうちに岸辺に
吹きつけられて遂に浅瀬に乗り上げてしまった。
この海底は暗礁が多くて、再び艦を乗り出す
ことが出来なくなった。

これに加えて、連日の暴風激浪で榎本釜次郎を 
始め、船にいる者も上陸することが出来なかった。
ようやく三日目になると、多少、風の凪(なぎ)間
を見て、わずかに兵器を持って岸に達することが
出来たが、後、10余日ほどたって、風波のために
全艦、ことごとく破壊してしまった。

我らのこの開陽艦は、さる壬戌の歳・文久2年
(1862年)、幕府の命により榎本らがオランダ
に行き【21】、同国・「ドルトレクト」(ドルトレヒト)
で新たに製造された400馬力、26挺を備えた
軍艦で、6年の後、丁卯の歳・慶応3年(1867年)
に落成して日本に来て、引き続き大坂、兵庫の海
へ回り、さる戊辰の春・正月
(慶応4・明治元年、1868年)、淀伏見事件が
起こるのに際して薩摩の軍艦春日丸と鉄製蒸気船
を追って、阿波洋に行き、両船と打ち合い、遂に
鉄製蒸気船を由岐浦(ゆきうら)で自ら燃焼させ、
春日丸は弾丸数発が当たり、わずかに逃れて自国へ
帰る羽目となった。
【21】文久2年6月18日、咸臨丸で品川沖から
出発し、翌年4月18日、オランダ・ロッテルダムに
到着した。

また開陽艦は、品川、房総辺りでその威力を逞しく
発揮して、実に皇国無二の戦艦であったが、
不幸にして、このようなことになった。
衆人が暗夜に燈火(ともしび)を失うのに等しく、
惜しむべきである。
これより先、松前を出発した陸兵[星、永井、渋沢
の兵隊]は、13日に前隊が小沙子、大滝村の
険しい道に入り敵軍と山を争い、遂に我が兵隊は、
これを奪い、敵を眼下に狙撃をしたことにより、
敵は首領を支えることが出来ず敗走し、
15日、塩吹、木ノ子村まで進み、
16日、全軍、全てが着陣して、間者(かんじゃ)に
敵の動静を窺うようにさせた。
この時、函館では開陽が江差で暗礁に乗り上げたこと
を聞いて、即時に回天艦、神速艦を出船させ、
22日朝、両鑑が乗り来たが、風浪が烈しくて、
碇(いかり)を降ろすことが出来なかった。
回天は、即時に函館へ乗り戻したが、
神速は、ここで蒸気機関に大害を生じて、
螺旋(らせん)[スクハーフ]は、さらに動かなかった。
よって三つの錨を降ろすが、全て鎖が切れて、
岸から50間ほどで、何とも、なす術がなかった。
ようやく、岸から鋼索線(こうさくせん)を張り渡して
乗組員を上陸させた。

そして数日後、大砲、小砲、その他の諸器械を 
陸地に揚げることが出来た。
しかし、神速は船底を破損していたので、また
この艦を使用することが出来なかった。
ここに、間道に向かっていた200余人の兵
[松岡四郎次郎の隊]は、12日、稲倉石(いなくらいし)
と云う所まで進んだが、敵は険しい山なので道幅が
狭く、これを守っていた。
我兵は進んで戦い、一隊は傍らの険しい山を登って、
関の横側から打ち入ったので、敵は嫌気がさして
関を捨てて逃走した。
この戦いで高木正次郎[差図役頭取] は討死し、
その他、死傷者が数人でた。
翌13日、兵を両道に分けて鶉(うずら)村に
着いた。
14日に小隊を巡回させるため館村ヘ出した。
[鶉村から館村まで二里余り]
だが敵が潜んでいたので我らは、鶉村を襲った。
我兵が急に襲撃したので敵は退いた。
この頃に館へ向かっていた巡回の兵も敵と遭遇し、
大いに戦った。
我兵5,6人は、傍らの山に入り、ラッパを吹いて
横合いから討ち入ろうとする勢いだったので、
敵はこれを顧みて敗走し、館の新城へ退いた。
この時、ボートホーイスル(*ボート・ホイッスル・
艦載用 の小型榴弾砲)を分捕ったが、道路が
険しいので捨てて帰陣した。
翌15日 [開陽が江差を取った同日]暁の前、
3小隊が両道を二手に分けて雪を冒して
新城に迫った。
彼らは、前の戦いで我々によって度々敗れて
いるので、山野の戦いでは勝てないことを
知っていた。
敵は、兵を配置して砦により城門を固く閉ざし、
頻りに大小砲を連発するので我兵は、進むことが
出来なかった。
我兵は、険しい道を進んで来たので、大砲を
牽引していない。
前日に分捕った砲は、捨て置いて来たので
彼らは、これを城内に引き入れてこれを用い、
かえって我らに発砲してきた。
よって城門を破ることが出来なかった。
この時、越智一朔[差図役下役] 他一人が
門扉の下から敵のなかに繰り入り、門貫(かんぬき)
を外して兵を招き、進んで戦った。
越智一朔もまた、窮鼠(きゅうそ)の勢いで兵を進め、
頻りに戦ったが、その要所を奪われていたので、
遂に敵(かな)わず敗走した。


(五稜郭へ凱旋)   

この時、敵のなかにひとりの坊主がいて三上超順   
と名乗り、乱丸のなかをも恐れず、左の手に
俎板(まな板)を持ち丸(たま)を防ぎ、
右の手に刀を閃かして、兵、一両人を倒し、
我等の嚮導(きょうどう)役・伊奈誠一郎
[越智と共に門を破った者]と戦い、
伊奈は、小銃で防御を兼ねていたが、
横田豊三郎 [差図役頭取]がこれを見て、
進んで近づき、力を合わせて三上超順を獲ろうと
馳せ参じたが、超順は早くも伊奈誠一郎を
斬り倒し[伊奈は頭上に三ヶ所の大傷を受けて
病院に入り癒した] 横田豊三郎を目がけて
馳せてくるのを豊三郎は、「ピスト-ル」で
立向かい打ち掛けたが、どうしたことか、
丸は発せず、これにより刀を抜くひまがなく、
柄(つか)に手を掛け、後ずさりすると、
降り積もった雪につまずき倒れたところを
三上超順、得たりと乗り掛り、斬りつける
[左の手首、その他多の傷を被った]
この時、堀覚之助[軍監]、黒沢正介[差図役]
が遥かにこれを見て飛ぶがごとく駈けつけ、
三上超順を斬り倒し、横田豊三郎を救った。
ここにおいて、敵は皆、柵を越えて遁走した。
我兵は、新しい城を得たと云えども、
兵、少なくして守るに便利でなく、やむを得ず、
放火してこれを焼き、鶉(うずら)村に、
たむろした。
[松前兵は海戦で敗走し、我兵は皆勝した。
何となれば、彼兵は、多く甲冑槍「ケウエール」
(*前装填式のゲベール銃と推察)
等であったが、我兵は、殆ど、「ミ二ール」
(*ゲベールよりも新式で命中率・射程距離に
優れた施条銃・ミニエー銃と推察)を
携さえていたのみならず、数度、戦場を往来した
熟練兵だったので必勝したのである]
これより先、稲倉石(いなくらいし)の戦争時、
敵は敗北したことにより松前志摩守は
勝利を得たと知る。
熊石[江差から海岸九里なり]に至り、
船を雇い家臣六十人ばかりを率いて内地へ
遁れ去った。
これにおいて残党追撃のため(我が)江差鶉村の
兵は、 悉く熊石まで出張した。
降伏する者、三百余人。
又、抵抗するものがなかったので全軍、
尽(ことごと)く五稜城へ凱旋した。
[榎本釜次郎および開陽(艦の)乗組員も
これより先、五稜郭に帰っていた]

(官軍への奏表文)   

12月15日、函館港軍艦および砲台において   
全島を平定を祝賀して101発の祝砲があった。
昼は、満船、五色の旗章を翻(ひるがえ)し、
夜は又、市街に花燈を掛けてその賑わいは、
壮観なものであった。
ここにおいて、各国「コンシユル」
(*Consular 領事のことであろう)および
港内碇泊の軍艦(英仏)船将と榎本釜次郎の
応接があって、函館港貿易筋の諸事は
これまでの通りであることを談義し、決した。
そして英仏船将から、我党がこの島へ渡来した
趣旨を日本政府に弁解して欲しいと云う理由で、
その好意を感謝して、(*我等は)奏表
(そうひょう)を綴り、これを(*英仏船将)
に託した。

徳川脱籍の微臣【22】を顧みず、恐懼懊悩
(きょうくおうのう・恐れ悩み)、悲嘆のあまり、
昧死(まいし・死をかえりみず、あえて申しあげる)
されると聞き及んでおります。
【22】微臣(びしん)
身分の低い臣下。
臣下が主君に対してへりくだっていう語。

そもそも私共一同、この地に罷り来た趣旨は、
この夏、主家・徳川の御処置につき、
家臣末々まで凍餒(とうたい・生活に苦しむこと)
これなきように遊ばされ、叡智の旨の趣き、
謹んで承っております。
皇帝陛下の無量の御仁徳、およそ有生の類
(生きる者)感戴(ありがたく)思わない者は
いないにもかかわらず、如何せん、
徳川家においては二百余年、養われてきましたが、
(*その数は)30万人に余ります。
しかし七十万石では養い難く、さりとて、いささか
仕道を心得ていれば商買(しょうこ・悪事をすること)
は、できません。
たとえ、窮餓(きょうが・窮して餓する)に至り
死ぬとしても、三河依頼の仕風を汚すまいとの
決心で、険難(けんなん・険しい難儀)を経て
万死を冒し(*命を投げ出し)東西に遁逃致し、
又は江戸付近の地へ潜居(せんきょ)致すなど、
枚挙に暇がないほどの義につき、
右の者どもを鎮撫(ちんぶ・鎮めて)して、
終古(しゅうこ・永久に)未開の蝦夷地に移住し、
秦莽(しんもう・草深い)を開拓して永く皇国の為、
無益の人を以って有益の業を為させようとの微旨
(びし・奥が深くて微妙な趣旨)でありました。

*江戸時代の徳川家の領地は、約400万石で
旗本などの領地を入れれば、約700万石であったが、
明治維新後は、徳川家の領地、静岡藩の石高は、
以前の約10分1の70万石であった。

そして、その旨、旧主・亀之助から嘆願奉り、
これ無きのみならず、前文の幾千万の人数の
捌方(さばきかた)、これ無きにつき、
右の者共の中には、十の一、二を船隻に
乗り組めさせ、妄動(もうどう・むやみに
行動すること)を禁じて、品川沖に
謹んで置かせ(碇泊させ)、そこから仙台表まで
着任するところ、折も折、奥羽の御平定、相成り、
春以来、同藩の脱走の者共、今は天地の間に、
身を容(いる)の地がないので、同船に任じるため、
それより私共は、行き先の実情を逐一、
四条殿(*官家・奥羽の鎮将・四条 隆謌)へ
建言奉リました通り、蝦夷地に渡り、
沍寒風雪(ごかんふうせつ)を厭(いと)わず、
眼前一身の凍餒(とうたい・凍え飢えること)を
凌(しの)ぎ、後に来る北門の警護を勤める為
同志の者共は、さる十月の内に鷲ノ木ヘ
着艦しました事、天神地祇(てんしんちぎ・
天地の神々)に少しも、これ偽りなく、その段、
清水谷侍従に申し立て、当地において、
ご沙汰、相、待つところ、着くや否や早々、
賊徒の悪名を蒙(こうむ)り、不意に夜襲され、
戦争と相成り、私共、これまで朝廷に対し奉り、
恐れ多くも、寸兵を動かしたこと、これ無く、
しかるに、右、夜襲を蒙った後、
清水谷を始めとして函館詰役々に至るまで残らず
当表を引き払い、市民の動揺は一方(ひとかた)
ならず、殊に外国互市場にも、これある故、
微臣など申し合わせて取り締まりに相、立ち、
松前も堕ちて動揺致しましたので、
私共は、来意の趣旨を再三にわたり使者を
申し遣わしたところ、かえって、
使者を殺害致し事、数人に及び、その上、
そちらからの発砲攻撃に会い、遂に、
松前表を脱走して、これまた土地の差配
(さはい・管理)を致し、
当節は、函館・松前共の一円は平定し、
農業・商業ともに安定し、人心は帰依し、
自分で山野開拓の方法を調べて、
北門警護の手配を致しましたので、
何卒、旧主家に永く下し賜いますよう、
ご沙汰、相、成りますよう、幾重にも叡裁を
仰ぎ奉ります。

右について、なお申し上げ奉りますことは、
所謂(いわゆる)三千一心、誓いて他(*下心)
無くても、主張が無ければ、手足頭目がないのと
同じで、開拓・警護ともに充分に行き届かないので、
徳川血統の者をひとり、ご選任、庶務、
差配下さるよう準備して頂ければ一層、
感激、奮発し、不毛の僻地は、富饒(ふじょう・
富んで豊かな)郷となり、北門の警護は、
金湯【23】の固めとなって、内地の利益を生み、
内地利益の利益を興すべく外冦の防御を
厳重にすべきは、実に目前の一大事の急務と
存じ奉ります。
【23】金湯(きんとう)
金城湯池(きんじょうとうち)の略で、
湯池は熱湯をたたえた堀で守りが非常に固く、
攻めるのが難しい城のこと。
出典は、漢書・蒯通伝(かいとうでん)。

今春以来、不幸にして皇国内は、戦争が相、続き、
万民の塗炭(とたん・ひどい苦痛)を見聞きし
忍ぶに過ぎず、勝敗の際の一喜一憂、
これ有りと云えるも、所謂(いわゆる)
兄弟墻(かき)に鬩(せめ)ぐ
(*兄弟、または 仲間同士で内輪げんかをする)
は、畢竟(ひっきょう・つまるところ)、
皇国の衰弊(すいへい)のほか、人の笑いを
免れないことは、一同、心得ておりますので、
元より戦争は好まずと云えども、(*蝦夷地に)
着岸以来、度々、奮戦しましたことは、事実、
止む得ない実情で、天覧のほど願い奉ります。
この程、英仏両国の軍艦が函館に入港し、
船将と会話を致しましたところ、
御国地の戦争を嘆き、調停の方策もあるべきかな、
と、申し聞きましたので、微臣は、(*今や)
抑塞窮惋(ようそくきゅうえん・窮乏を抑制する)
の誠の情は達すべきであり、天聴(てんちょう・
天子がお聞きになる)の時が来たのかなと、
歓喜に堪えず、(*英仏の)船将ヘ(*この文を)
相、託し、両国公使へも申し入れ、
奏聞(そうもん・上申する)致しました。
これ即ち、ひとつには皇国のために、
ふたつは、徳川のため 同尽、尽くするところの
丹心石腸(たんしんせきちょう・真心が石のように
堅く、容易には動かせないこと)で、
皇慈(こうじ・皇国の慈悲)は、ひとえに、
ご睡憐(すいれん・憐れみ)を願い、
お聞き届け下さいますよう誠惶誠恐
(せいこうせいきょう・心からかしこまり)
泣血(きゅうけつ・ひどく泣き悲しむ)し、
嘆願申し上げます。
昧死百拝(*死をかえりみず、あえて何度も拝む
申し上げます、の意)

(役職の入札) 

この時、我党の主張はまだ定まらないので、
主君の家の血族の主君を得るまでのところ、
合衆国の例に倣(なら)い、士官以上の者を
入札したいと衆が望んだところ、
榎本釜次郎を総裁、松平太郎を副総裁、
荒井郁之助を海軍都督、大鳥圭介を陸軍都督
と決定した[その他は、人名録に記す]
五稜郭をもって本城とし、松前[人見勝太郎]、
江差[松岡四郎次郎、小杉雅之進]、
函館[永井玄蕃、中嶋三郎助]に所長を置いて
その他を鎖撫して、東西蝦夷地の取締のため
兵隊一小隊、あるいは、2、30人ずつ
石狩「ヲタルナイ(*小樽群域。当時、松前藩により、
ヲタルナイ場所が開かれていた。」、
「ヲタスツ(*歌棄郡(うたすつ)」
[以上地名]の辺りへ在番を置き、又、開拓の業を
盛んにするため 沢 太郎左衛門をもって開拓奉行とし、
東地「モルラン(*室蘭)」[地名]へ200余人を
移住させた。
また五稜郭を始めとして松前、江差、室蘭、その他の
海岸山道の要処を選び、砲台胸壁の築造を行うために
かねてより雇い入れていた仏国の教師および
工兵隊の者をこれに従軍させた。
            麦叢録 巻之上 終

(歴史の流れ 箱館戦争史・麦叢録を読む3
へ続く)

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