歴史の流れ 箱館戦争史・麦叢録を読む3

歴史の流れ 箱館戦争史・麦叢録を読む3

本篇は、箱館戦争の資料・『麦叢録(ばくそうろく)』
をあくまで趣味的にひも解いて、
現代風に読んでいくものです。
(合田一道著・小杉雅之進が描いた
箱館戦争。絶版、等を参照。)
* は、付記。

(続き)
麦叢録 巻之下

(宮古湾海戦へ・土方歳三、回天に乗る)  

明治2年正月中旬になって、以前の英仏を
もって奏聞した件は、朝廷がその書辞(しょじ)
を無礼である、とし、「ご採用はなし」との
通達があった。
我らは、もとより抵抗する気持ちは以前からない
のみならず、上は、天朝の為に草深き僻地を
開拓し、皇国の北門の守りを厳重にして、
下は、君下の旧臣が禄(ろく)を離れ、家を
失し者の成業(なりわい)を失なわないよう
するため、その実情を明らかにして、
これを嘆願しようとするだけであるのに、
かえって「国賊である」として(我らに)
征伐を加えようとしているのである。
これにより、武門の習いで 止むを得ず、
防御の備えを設けて、これを待とうと決めた。
これより先、我が軍は鷲の木から五稜郭に
行くとき、大野村、七重(ななへ)村などで
敵兵で傷を受けた者・
十余人を捕虜としたが、函館病院で厚く治療を
加え、重傷で亡くなった者は、これを寺院に
埋葬し、残りの5名 [長州・ 備後・福山の藩] は、
平癒したので、正月下旬、便船(びんせん)で、
内地へ送り帰した。
[この時、軍事局から一書を送った] 
又、松前藩で降伏し、その先を見届けようと
願う者は、全て内地に行くことを許したが、
双刀のほか、武器を携えることを禁じた。
これにより内地へ行く者は数百人で、また
この地に留まり、農業・商業に就く者は、
数人いた。
3月中旬になり、かねて内地へ行かせていた
間諜(かんちょう・偵察)が帰って来て言うには、
さる10日 (*3月10日)、官軍は、軍艦5隻
[甲鉄、春日、朝ヽ陽、陽春、丁戌] 、
運送船2隻,アメリカ飛脚船「ヤシスキト」[船名]
を雇って、全部で8隻が品川の海を出帆し、
17,8日ごろには、南部宮古(みやこ)へ入港する
であろうとの報告があった。
ここにおいて(*我が軍は)回天、蟠龍、高尾の
3隻で、これを襲うため、同月(*3月) 20日夜、
函館港を出船した。
[荒井郁之助、土方歳三、回天に乗る]
だが翌21日、(*我らの船は)颶風
(ぐふう・激しい風)に会い、3隻とも
ことごとく離散し、ただ回天だけが25日の
明け方前に宮古湾口に着き、敵艦の模様を
探ると(*官軍の船は)8隻ともに碇泊している
と聞いた。

回天(出典:ウィキメディア・コモンズ 。
著作権保護期間・満了のものより)
画像


函館戦争図。「著作権なし」の作品より。
画像


(野村理三郎 [新選組] 最期の勇姿)   

しかし、1隻を以て8隻に当らんことは
螳螂(とうろう)の斧に等しく、ここに至り、
蟠龍、高尾を待っている暇がないので、
大砲13門に全て霰実(せんじつ)の両弾を
装填し、(*おそらく榴散弾(りゅうさんだん)
のこと。)戦争の用意を整え、5時に
北アメリカの旗章を引き上げる。
[このような時、他国の旗を引き上げ、
敵船へ近づいても海律の法に、発砲の前に
自国の旗に引き変えれば差支えないと云う]
(*そして)徐(しず)かに進み港内へ
乗り入れると、敵艦の巨魁(きょはい)と
聞えた甲鉄艦をはじめとして八隻の船が
碇泊していた。
その碇泊の位置は、法律に背いていると見て、
甲鉄を襲おうとして「フォルレカラフト」
(*我らは)その艦の1,2歩のところまで進み、
蒸気を止めて、アメリカの旗を下して日の丸
の旗章を上げると共に、船将、「火!」と
命令するや否や大砲を発したが、その効き目、
空しく、我が弾は、ひとつを船板を貫くことが
できず、(*弾は)ことごとく飛び散って
海中に落ち、敵艦では、我々が国旗を引き換えた
と同時に、その粉乱は言うまでもなく、
急いで他艦へ(*それを)示す合旗
(ごうき・合図の旗)を引き上げた。
しばらくして、8隻とも蒸気灌へ点火したが、
(*皆)狼狽して速やかに大砲を放つことが
できなかった。
就中(なかんずく・とりわけ、の意)、
甲鉄艦の水夫らは、我らの発砲を見るや否や、
海中に飛べ入るものも多かった。
(*我らは)回天から小銃で狙撃したので、
戦いが終わるまで、遂に、大砲を発することは
なかった。
この時、回天は楫(かじ)を転じて甲鉄の船舷
(ふなべり)に乗り上げ、各々、躍り入ろうと
したが、我らは、舷(ふなべり)が高くて、
その高さは余りにも高低差があった。
なので、しばらく躊躇したが、
大塚波次郎 [士官見習一等] は、刀を振るって、
「一番!」と云い、躍(おど)り入った。
続いて野村理三郎 [新撰組]* 、
笹間金八郎 [彰義隊差図役] 、
加藤作太郎 [同差図役下役] などが
乗り移った。

甲鉄(出典:ウィキメディア・コモンズ 。
著作権保護期間・満了のものより)
画像


甲鉄に接舷する回天( 同上 )
画像


野村理三郎 [新選組]*  
新選組への入隊時期は不明だが、初出は、
慶応3年3月、五兵衛新田に屯集した新選組に、
その名前を見出すことが出来る。
甲鉄艦に斬り込むも、撤退に間に合わず、甲
鉄艦上で戦死。
遺体は、新政府軍により海に棄てられたとされる。
享年26歳。
函館・称名寺の新選組供養碑にその名が
刻まれている。
甲鉄は、70から120ミリの鋼板で覆われた当時、
国内最強の軍艦。

(宮古湾海戦・相馬主計 [新選組] 負傷する) 

しかし、敵は、「ガットリングゴン」
[ 野戦砲のような車台に乗せた六発砲で、
筒の元に錠回しのようなものを付け、
これを回転するに伴い、弾発の大きさ
「ミニール」の2倍位、1分間に180発が
打てると云う] で、しきりに撃ち、皆、
乗り入れんとしては撃ち倒される者が数十人で、
大塚波次郎 [士官見習一等] も討ち死にした。
敵の多くは槍を堤(ひきさ)げて船舷を
楯(たて)に取り、我らの丸(たま)を防ぎ、
乗入者を突き立てる。
しかし、我が艦は甲鉄と接しているので、
(*味方を誤射するおそれがあるため)
他船より十分に撃つことができず、
春日「ヤンスキー」より小銃をさかんに
撃ち出した。
我が艦に備えた大砲で他船を撃ち、散弾で数人
が倒れるのを見た。
船将・甲賀源吾は、はじめから橋梁
(きょうりょう)にいて、皆を指揮し、
我か船舳に備えた56斤の大砲で斜めに一発、
甲鉄の甲板(こうはん)に撃った。
この弾は、甲板を貫いて蒸気室に届いたと云う。
敵船からは源吾を目がけて、頻りに狙撃されたので、
彼は左の股を撃たれ、又、右の腕を撃ち抜かれたが、
足を引き、腕を振るって痛みを忍び、なお皆を
励まして撃ち合っていたが、甲鉄の
「ガットリングコン」で、左の米噛(こめかみ)
から右へ撃ち抜かれ、憐れむかな、遂に倒れて
死亡する。
この時、矢作沖麿 [軍監役] 、
渡辺大蔵 [軍監役並] 、
筒井専一郎 [士官見習一等] 、小幡忠甫、
布施半 [同二等] 、その他、水夫、兵卒ら
17人が討ち死にした。
酒井良輔、相馬主計、安藤太郎らをはじめ、
負傷者・30余人に到ったが、遂に、
敵船に乗り入れることが出来なかった。
回天は、他船から撃たれた大砲二発を受け、
甲鉄へ乗れかかった時、「コロイフホート」
[やり出し] を折っただけで、船に損傷が
なかったので、提督・荒井郁之助はここに
指令して、宮古港を出た。
この時、海上の風は順風で、26日午後3時、
函館へ帰船した。
[ 宮古の戦争は、わずかに30分で死傷49人、
敵はおよそ百余人の死傷と云う。
その烈戦を知るべし。
この戦いで、回天の海兵に渡辺某という者が
甲鉄艦へ乗り移り、あの大砲を扱う「根本」で
敵・ふたりを討ち倒し、回天へ乗り戻ろうと
する時、敵の数人に追刀を振るって斬りつけ、
胴服の背を切られたが、身体は斬られず、
帰って来た。
この人物、万死に生を得ると云うべきであろう。]

回天の戦闘(出典:ウィキメディア・コモンズ 。
著作権保護期間・満了のものより)
画像



(江差の戦い)     

これより先、蟠龍艦は両船(*回天・高尾)と 
離れてから後、(*3月)24日、宮古近海まで行き、
敵船の模様を探り、碇泊ないことを伝え聞き、
南部・領鮫(さめ)浦で三隻共に待ち合せて、
後、宮古へ乗り入れることを決めた。
これは時、遅かったが、その夜、鮫浦に停泊し、
翌25日朝、同所を乗り出したが、
回天の戦争が終わって戻ってくるのに出会い、
合旗(ごうき)により、その大まかな形情を知り、
遂に梶を転じて、函館に向かった。
この時、敵船が八艘共、宮古港を出船するのを見て
船を速めて、26日夕方、帰港した。
高尾艦は離散以来、その行方を知らず。
[ 官艦に追れて漂流し、南部野田郡・尾元村と
云う所に到り、自焼したと云う]
敵船八艘共、27日に青森に来ると云う。
これにより、函館港では回天、蟠龍、千代田形の
三隻を昼夜、港内に(*停泊させて)不慮に備えた。
[ これより先、 長鯨・室蘭に廻った]
4月7日、函館在留の外国商人は自国の軍艦へ
立退くべきの旨をそのミニストル(公司)から
達しがあったことを聞き、市中の老少婦女は、
弾丸の達しない場所に避難するように、と布告した。
又、出火消防の為、街巷(がいこう)に水桶、
喞筒(ポンプ)を設けて敵艦の来るのを待った。
この時、諸方に兵隊の屯在(とんざい)していたのは、
五稜郭 [800人]、函館 [300人]、松前 [400人]、
江差 250人]、福嶋 [150人]、室蘭 [250人]、
鷲ノ木[100人]、その他、森(もり)、砂原(さわら)、
川汲(かつくみ)、有川(ありかわ)、当別(とうべつ)、
矢不来(やふらい)、木古内(きこない)等であった。
[この辺り、 一小隊、あるいは2,30人ずつ屯在
していた ]
4月8日、敵船八隻は青森を出帆、
同9日未明に、江差沖へ乗り入れ、
乙部村(おとべむら)から兵隊が上陸した。
[江差から乙部まで西、海岸、三里]
江差では明け方、敵の数船が海岸近くへ来た
のを見て、兵を整え、これを待つと、
敵船は悉く、乙部近海へ乗李入れるのを近くに
見ると、敵は早くも岸に上り、山から要所を
取りに来るのに出会い、乙部と田沢村の
際(あいだ)の野で、両軍、互いに撃ち合った。

(*だが)敵の兵(*数)は、 ますます増加し、   
又 船からは大砲で我らの側面を撃ってきたので、
我兵は支えることが出来ず、退いて土場川
(どばがわ)を前にして、また防戦した。
この間に、(*敵)軍艦五隻が江差海へ乗り来たりて、
頗(しき)りに発砲したので、我らも、
新造の砲台から少し撃ち出したが、
(*我らのものは)施条砲(しじょうほう)では
ないので、(*敵)船には達しなかった。
これに加えて、(*我らの)砲台がまだ出来て
いなかったので、砲が備わっていない壁が数か所
あった。
[これより先、開陽の大砲二門を海中より取り出して、
海岸に置いたが、まだ弾が出ないので、撃つことは
出来なかった]
ここにおいて、我らの江差を守るの兵は、
徒(いたずら)に敵艦の運転によって陸地を奔走する
だけであった。
遂に(*我軍は)戦ずして潰(つい)えた。
(*我軍は)蛾虫(がむし)村から二股(ふたまた)
の間道を退こうとすると、敵が土場川まで迫ったので
(*我軍は)川を防いでいた兵を引き上げ、
これらの兵をまとめて、本道の松前に向かい退いた。
この戦いでは、手負(ておい)の兵卒二人、
その他、死生、不詳の者、数人であった。
同夜、(*我軍は)石崎(いしざき)村に泊り、
(*4月)10日、江良町(えらまち)まで来ると
敵の斥候兵が見えたので、半小隊余で追い撃ちし、
二小隊で山畑の地に散らばらせて撃つと、
敵は狼狽(ろうばい)して乗馬を捨てて退いた。
この夜、根部多(ねぶた)村に泊り、11日朝、
松前へ繰り込み、衆議して再び 江差を襲うため
同所に詰(つめ)兵隊 三小隊、大砲を二門、
兵、およそ500人ほどを置いた。
[伊庭八郎、松岡四郎次郎、小杉雅之助、
三木軍師、大塚鶴之丞らは出張する]
この日の夕方6時頃、又,江差に向い進軍すると、
15,6町の所で敵の斥候隊と会い、これに打ち勝ち、
逃亡の後を追って部田村に行き、敵の本隊と戦い、
を山谷に散らして進撃してこれを破った。
札前(さつまえ)、赤神(あかがみ)、
雨垂石(あまだれいし)[ 以上、地名 ] 等で
敵を払い、大砲三門 [四斤施条砲 ]

小銃「ランドセル」、刀槍・弾薬の類を
分捕り、数多(あまた)の殺傷、
斬獲(ざんかく・捕虜)の数は多かった。
[敵は長州・津軽・松前 ]

この時、我ら大砲一門を誤って火門の摩擦管     
(まさつかん)が折れて、弾を込めることが出来なく
なり、分捕った砲が同砲だったので、即時にこれで
発射した。
(摩擦管折れの大砲は、)遂に、使えなかった。
明け4時頃(*4月11日)、茂草(もぐさ)村を
自焼して退いた。
この戦いは、接戦が多く、刀 及び銃槍で倒れた者
が数人いた。
我兵は、討死9人、手負14人、士官1名が
薄手(うすで)を受けただけであった。
翌12日朝、江良町まで [ 松前より五里 ]
追撃すると
五稜郭より一書が来た。
「敵は二股、木古内の両間道(かんどう)から
兵を進めて、木古内へは大鳥圭介が四小隊率い、
出張し、二股口へは土方歳三が一大隊を率いたが、
勝敗が未だ決しないので、速やかに松前へ引揚げ、
時宜(しぎ)により木古内へ応援すべきである」
との旨で両総督からの言い送りであった。
よって衆議して、遂に、(*我軍は)松前へ
引き揚げた。
この時、木古内では、12日明け方、 敵600人が
[薩州・長州・松前・津軽等の兵] 軍を潜め、
暁霧(ぎょうむ)に乗じて、我らの胸壁
(きょうへき・狭義では、城壁や城の最上部に
設けられた城壁最上部の通路や、そこでの兵士を
防ぐための低い壁面)14,5間の所に来て発砲し、
胸壁は殆ど破られようとしていた。
(*そこへ)本営から大鳥圭介、
本多幸七郎 [歩兵頭] 、星恂太郎 [頭並] らが
兵を率いて馳せ来て、奇兵が山谷から
挟(さしはさ)んで打ったので、敵は進むことが
出来なかった。
(*敵が)樹林の中に入って防ごうとするのを
(*我軍が)急に撃って、これを破り、
敵はついに乱れ敗走した。
我兵は2里程 追撃し、敵の陣営を焼き、
斬獲(ざんかく・捕虜)の数は最も多かった。
だが、この道は非常に険しく、
又、木古内への陣地だったので、
防御の備えを厳重にしてこれを守った。
又、二股口の方は、12日午後3時頃、
敵兵は六百人ほどが[薩長・備後・福山等の兵]
進軍してきて互いに発砲し、
我兵は、険しい胸壁16箇所を構えて、
壁(へき)に寄り、(*弾を)乱れ放った。
自他ともに兵を繰り替え、繰り替え、
翌13日朝、7時過まで16時間の戦争の結果、
敵は進むことが出来ず、終に退いた。

この戦いで、我らの兵が費やした弾薬は、 
三万五千発に及び、敵は、「スペンセル」
「スナイドル」等の銃を用いたと見え、
銅銃の殻が数万、地上に散布していた。
我軍は敵を追う約一里(*約4キロ)の間に
(*敵軍から)分捕ったものが多くあった。
[この日、仙台藩を脱してきた士が四百余人、
英国商船に乗に乗船して来着した]
松前では、木古内、二股の戦いに勝ったことを聞いて
再び江差を襲うために、(*我らは) 16日の夕べ、
また進軍し、翌、(*4月)17日朝、
清部(きよべ)村に
至り、前隊は、江良町へ繰り込み、
敵の軍艦・春日が来て、
海陸より挟撃(きょうげき・はさみ撃ち)
されたので、持ちこたえることができず
敗走し、松前に達することができた。
この時、堀 覚之助、忠内次郎 [軍監]、
井野 左近[頭取、介]、小野 又次郎 [差図役]
の4名及び兵、数人は行方不明になった。
(*また)佐久間悌二[軍監]、大津精一郎[差図役] は
討死、三木軍司 [歩兵頭並格] は、傷を受けた。
ここにおいて、諸方へ残兵を分布し、
本道・折戸 [地名] 台場で防戦した。
敵の軍船は甲鉄を始め5隻、我らの海岸砲台と
打ち合いは、激しかった。
折戸では敵の陸軍が競って進もうとするところを
(*我らは) 壁に拠って狙撃したので、
敵を倒す数は知れず、4時間余りのうちに、
両三度、追還(ついかん・追い払う)したが、
山の手に向っていた我兵は、敵に破られ、
遂に瓦解(がかい・崩れてだめになる)し、
敵兵は折戸の後道へ打って出たので、
杉山敬二郎 [頭取]、本山小太郎、渡辺左忠、
森田弥惣次、加藤誠一郎 [差図役] 等は討死し、
討たれた兵の数は、計り知れない数であった。
これにより、胸壁に残り戦う松岡四郎次郎
[歩兵頭並] 他、7,8人を捨て退いたが、
岡田斧吉 [頭取改役] が又、弾に当たり倒れ、
その屍を取りに行く暇がなく、その首をはね、
(*身元を知られない為と供養の為に)
わずかに、(*不幸を)免れる。
この時、敵艦が打ち出す弾丸、場内台場は、
もちろんのこと、市街に至るまで、(*まるで)
蜂が飛ぶようであった。

(五稜郭へ撤退)      

我らの砲台は、弾薬が尽きて、十八斤の砲へ
十二斤の弾を込め、遂にこれも打ち終わり、
諸砲の火門(かもん)に釘をさし(*後で、
問題がおきないようにして)、
薄暮れ時、兵をまとめて、福島へ向かった。
(*その)道は海岸で、敵船・陽春から狙撃
されたが、幸いにひとりも犠牲にならずに、
夜、1時頃、福島へ到着した。
松前は、遂に敵のものとなった。
(*4月) 18日、兵、百余人で福島を守らせ、
私は五稜郭の命令で、知内、木古内に引き揚げ、
同所へ出張の兵隊と合流し、これを果たした。
[この時、大鳥圭介は兵を率いて、五稜郭に帰った]
(*4月) 19日朝、間道の敵が、又、
暁霧(ぎょうむ)に乗じて軍を潜めて来た。
(*そして)我らの陣地を襲い、入って、
我らの兵は、周章(しゅうしょう・うろたえ)
急に起って闘うと云ってもその不意を撃たれ
苦戦し、走り、札苅の海岸に出た。
この時、伊庭八郎[歩兵頭並] 深手を負う。
[後、五稜郭中にて死す]
武藤勝作[頭取] 等はじめ、死傷者数十人、
敵は、勢に乗じて、追撃、非常に急であった。
(*そこで)遂に札苅を捨て、12時過、
泉沢に退き、敗兵をまとめて即時に返し、
戦った。
(*4月) 23日、敵は、必死の兵を選び、又、
二股を攻め、我兵は、前の如く壁に拠り、
これと戦った、
(*その後)敵は、さらに兵を繰り返し
大いに進み、我兵は、死を以てこれを守り、
不進不退、 閧声(こうせい)【24】山谷に響き、
打ち違う弾丸、疾風の花を散すに似たり。
【24】閧声の閧は、勝利の際のカチドキ、
だが、ここでは、前進激励の声。

五稜郭からは、滝川充太郎 [頭並] が、
二小隊を率い、応援のため出張した。
この戦争、23日より25日朝までの連戦で、
大体、残っている兵は、各、千発に近い発砲
(*をしている)故に、銃が熱を帯びて持つことが
できなかった。
これにより、各々、桶に水を蓄えて置き、
35発を撃つと筒を冷やして、代る代るに弾を込め、
このようにすることで、昼夜、少しも間もなく
奮戦した。
我らの兵は怒って、一中隊余り [滝川充太郎の隊]
が、壁を躍り超えて敵陣に突入したので、
彼らは、この勢いに屈して山路を退いた。

(函館湾海戦へ)   

我らの兵は、気を得て大いに進軍し、        
敵の軍監・某 [姓名を失っする] が、わずかに
3人を従えて、傍の山上から打って出てくる勢いを
見て、敵の大兵は、又、返し来た。
我兵、これに気を奪われ退こうとするも、
乱れ飛ぶ弾のために残されるもの数人が、
ようやく踏み止まり、血戦し、
この軍監を打ち倒した。
[ この人、22,3歳ぐらいで(*敵ながら)最も
惜むべきひとであった。残念ながらその姓名を
失っする(*思い出せない)]
(*そして)敵は遂に敗れることを知り、退く。
この戦い、敵の死傷、数百人、我らの兵、
死傷者30人に満たなかった。
(*後)、敵は、又、この道へは出なかった。

さて、函館では、(*4月) 24日朝7時頃、
敵艦5隻が入って来て、我らの回天、幡龍、
千代田形の3隻と大いに港内で戦った。
互に10町、又は4,5町を隔て撃ち違い、
弾は、空中に破裂し、あるいは、艦の前後に
没し、あたかも朔風(さくふう・北風)の雪を
飛ばすようで、午前になって敵船は、
しばらく退き、また(*午後)1時頃から進み来た。
我艦は、騙され導かれて港の奥に入り、
弁天台場からオランダ(*製)80斤、24斤砲を
撃ち出し、3時間も撃ち合い、敵はついに退き
去った。
(*4月) 26日、敵、又、5隻が入り来て、
(*我らの) 3隻および砲台で発砲し、
(*敵の) 春日、陽春(*春日丸、陽春丸)に
我らの弾が命中したが、我らの回天にも命中して、
井沢源蔵 [士官見習三等] が、ここで死んだ。
(*そして)敵は又、勝つことができず戻って来た。
この時、五稜郭からは大鳥圭介が、兵500余人を
率いて矢不来に屯在していたが、29日の明け方、
敵は、海陸に並んで進軍し、我が軍も矢不来の野に
出て戦った。
我が兵を潜めて傍の山谷に繞り(めぐり・
左から下にかけて)入り、(*敵兵は)
我軍の横合から出ようとして30人ほどが
険しい壁をよじ登り矢不来の野に出ようとするのを
(*我らは)この壁の上に以前から胸壁を
築いた一隊で、これを守ろうとしていたので、
敵が来るのを目下に見て、これを狙撃すると、
殆ど空弾なく、20余人を撃ち倒した。
よって敵は、胸壁を遂に退き去った。
この時、本道の戦いは、正に、
たけなわ(*盛ん)で、互いの発砲が激しく、
煙のために日没のような状態であった。

(歴史の流れ 箱館戦争史・麦叢録を読む4
へ続く)

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック