歴史の流れ 箱館戦争史・麦叢録を読む4

歴史の流れ 箱館戦争史・麦叢録を読む4

本篇は、箱館戦争の資料・『麦叢録(ばくそうろく)』
をあくまで趣味的にひも解いて、
現代風に読んでいくものです。
(合田一道著・小杉雅之進が描いた
箱館戦争。絶版、等を参照。)
* は、付記。

(続き)
(函館湾海戦)       

この時にあたり、我々が埋めていた地雷が、     
たちまち爆発して、敵の数人を倒す。
これにおいて、我が兵は奮激して遂に敵を
追い崩して、敵の軍艦が岸に近づき横合いから
我らの側面を盛んに発砲したので、我が兵は、
このために挫折して退き、胸壁に寄って戦おう
とすると、甲鉄艦から打ち出された弾 [英七十斤]
で二度まで壁を打ち抜き、備えていた大砲に
当たり、大砲は、又、使用出来なくなった。
天野新太郎 [歩兵頭並] 秋山茂松、太田直之進
[頭取] を始め(*数人が)弾に当り、死者数人が
出て、遂にこれを支えることができなかった。
(*その後我らは)  富川、有川に退き敗兵を
まとめて、返し、戦ったが、敵船は、春日艦から
「スルーフ」[端船]を3、4艘を下して
兵隊が上陸し、又、横合から撃ち立てられて
大敗に及んだ。
この時、永井 蠖伸斎[歩兵、頭並]、塩嶋 松太郎
[頭取] 等を始めとして又、死傷者、数人が出た。
(*一方) 五稜では我兵の不利であることを聞き、
総督・榎本釜次郎は、馬に跨り、鞭を振るって
馳(はせ)て有川に至り、我兵が潰されるのを
制しようとするも止まらず、遂に全軍、
悉(ことごと)く敗走する。
(*そして我が兵は) 七重浜村まで引上げ、
兵を整えて再び返さんとしたが、日暮れて、
兵が疲れたので、これを止めた。
ここにおいて、(*敵は)二股口出張の兵隊の
その帰路を絶とうとする故、
(*我らは)兵を尽(ことごと)く、五稜郭、
及び函館へ引き揚げる。
この日、海軍でも戦いがあり、しばらくして止む。
5月2日、敵艦、又進み来て、戦い、午後になって
退く。
翌(*5月)3日の夜、敵が有川に屯(たむ)ろ
している所を襲うため、大鳥圭介は三小隊を率い、
大塚鶴之丞が先進し、(*夜) 8時頃、五稜郭を出て、
暗きに乗じて敵陣に打ち入ると、敵は、狼狽し、
散り散りに敗走する。
我軍は長(なが)追いせずに大砲一門
[ 四斤施条砲 ]を弾薬ともに分捕り、
11人の捕虜にこれを引かせて(*五稜郭へ)
帰って来た。
(*5月)4日の朝7時頃から敵の軍艦が
戦を挑んでくる。
回天、蟠龍、千代田形艦の三隻が乗り出し、
発砲し、数刻、我台場より放つ弾が
(*敵の)「ホッケラー」
[ 前檣帆橋(ぜんしょう ほきょう・マストの意) ]
に的中して崩れ落ちる。

画像


蟠龍艦へは敵弾が命中して永井 久次右衛門  
[士官見習二等]が傷を受け、この時、我弾が
敵船・春日の艫(とも・へさき)を撃ち抜き、
敵は、遂に退き、去った。
この夜、千代田形艦は、闇(くらき)に迷い、
弁天台場沖の暗礁に乗り上げ、船長・森本弘策は、
大いに狼狽し、蒸気機関を打ち砕き、
大砲は、火門を閉ざして上陸しようとする。
諸士官、これを諫(いさ)めようとしたが聞かず、
遂に「スルーフ」(端船)に乗り上陸した。
これにより、乗組員も止むを得ず、岸に上り、
五稜郭に来て、その旨を陳述する。
よって、船長・森本弘策を糾問(きゅうもん・
罪や不正を厳しく 問いただす)したが、
語を塞ぎ(しゃべらず)、弁解しなかった。
(*これは)殆ど狂人の所業に等しいので、
速やかに禁固に処した。
(*これに関して)一等士官・市川慎太郎は、
大いに恥じて自刃し、皆に謝した。
[船長・森本弘策は後、士官を廃し士卒とされる ]。
千代田形艦は、即夜、潮に流れ出すと云えども、
闇夜なので回天、蟠龍艦も、これを知らず、
遂に敵船に獲られた。
この日、蟠龍艦、気鑵に漏れを生じ運転、
自在ならず、やむを得ず、鑵を開き修理を加える。

5月5日夜、古屋 作左衛門、星 恂太郎、
兵200余人を率いて風雨に乗じ、敵が大川村に
陣を敷いている所を夜襲する。
敵は、備えを怠り、宿陣して安臥している所を
突然、討たれて大いに狼狽し、急に起って
戦かおうとしたので、暗夜で自他を判別できず、
我兵は、暗号を用いて四方に散って、
傍(かたわら)から火を放って頻繁に撃ち出した
ので、遂に(*敵は)同士討ちをすること
二時間余り、我兵は、一人も損傷せずに引き揚げる。
同じ頃に七里浜へも兵、160人余で敵陣を衝き、
殺傷数10人で、我兵は、敵営に放火して、
敵の風下に煙(えん)中から狙撃したことにより
(*敵は)狼狽し、乱走した。

同5月7日、払暁から敵、又、来て戦う。
この折、蟠龍艦、未だ運転が出来ず、
碇泊しながら発砲する。
これにより、回天艦、一隻で港内を運転し、
敵艦5隻と頻繁に撃ち合い、自他とも
「ブリッキドース」[霰弾]を撃ち合う程の所に
近寄り、もっとも弁天台場からも盛んに発砲する。

この時、(*敵の)春日、甲鉄艦が、一先に進み来て、 
弾丸の雨集(うしゅう)。
甲鉄艦の三百斤「ガラナート」2発、その他、
七十斤等、数発が、回天艦へ撃ち込まれ、このために、
塚本録助 [士官見習一等] 、朝夷正太郎(同上)、
田口俊之介、合木藤蔵 [同三等]、兵士六人が、討死し、
新宮勇 [軍艦役並]、小栗 東[見習二等]等、数人が、
傷を受ける。
しかしながら、(*我らは)なお、進んで戦い、
敵弾は、又、我が監の「エキセンテレーキ」
[ 蒸気機関枢要の一器 ] に当って運転が出来ず、
ようやく運上所(うんじょうしょ・物の出入りを
管理する機関)の前まで引き返し、
連砲を数10発、台場の蟠龍艦からも頻繁に
発砲したので、敵は、進むことが出来ず、
遂に引き下がる。
去る24日(*4月)からの戦争で回天艦に
当たった弾は80余で、これにより、
蒸気機関が損傷したので、港内の適当な場所を選び、
浮き台場同様にして浅洲(あさす)に乗り上げ、
砲を尽(ことごと)く片舷(へんげん)に備えて
[十三門]、敵を待った。
この夜、蟠龍艦は、鑵(かん)の修復が出来た。
[この日の戦は烈しく、 敵船へも数十発、
撃ち込んだ]
同8日(*5月)払暁、大挙、敵陣の襲撃のために
大鳥圭介らは、二大隊有余の兵を率いて、
榎本釜二郎、自ら、この将として敵の本営・
七重村に向って進んだが、
[我軍は、時刻少し後れたので敵の間、これを
知った]
大川、赤川の辺に敵が、草莽(そうもう)中に
胸壁を構えて、我らが進んで来るのを知って、
四方に埋伏(まいふく)して、討ち出で
互に発砲し、数刻の戦争に及んだ。
しかしながら敵は、胸壁に寄って、我らが
広野に戦うとその利害は、(*敵と)同じではなく、
片山 源五左衛門、陸路 千之介 [頭取] 、
相馬 助次郎 [差図役] 、石川 春十郎[差図役並] 、
青山 左一郎 [差図役 下役] らは、これにより
死亡した。
奥山 八十八郎、南条 武蔵介 [頭取] 、その他、
傷を受ける者、数人で、遂に(*我らは)敗走する。
敵、これに乗じて大いに進み、薄暮になって
それ(その侵攻)は、止んだ。
[この頃より我兵の末端では、遁逃する者あり]

函館戦争図。「著作権なし」の作品より。
画像


(箱館総攻撃)   

同11日(*5月11日)から敵の海陸軍、大挙、
攻めて来る。
敵は、春日、陽春艦の両艦で函館の後(うしろ)
尻沢部、大森浜根へ廻り、前後から挟んで
発砲してきた。
又、(*敵はその)前夜、兵を潜め寒風川、尻沢部
の辺(あたり)から上陸し、
[我らが函館を取ったとき、 降伏が者が陰で敵に
内通して導いたと云う]
山中に埋伏して、この日、戦いが酣(たけなわ)に
なるに乗じて、函館山の中より二小隊余が、突出して
四方に散り、撃ち立てる。
これにより、函館をかためていた(*我らの)
兵隊は、速やかに向かって戦かうも、素より
不慮の戦争故、山林を盾にして撃ち立てるも、
我兵の侵攻は出来ず、瀧川充太郎が、少々傷を
受けるも退かずに血戦し、[敵は薩長 津軽など] 
鈴木 番之介 [頭取改役]など、亡くなった者14人で、
遂に(*我が兵は)敗走し、かつ、戦い、かつ、走り、
千代丘へ引き揚げた。
函館詰めの 永井 玄蕃を始め、悉く(*我が兵は)
弁天台場に入った。
港内では蟠龍艦は、敵船5隻と火を散らして
烈しく戦い、台場の回天艦からも盛んに発砲した。
又、七重浜、権現山、桔梗野、亀田道へは大鳥 圭介、
本多 幸七郎、大川 正次郎などが、兵を率いて出張し、
我らは、桔梗野、権現山の両所の台場から烈しく発砲し、
敵の死者は、その数を知らない程であった。
この時、蟠龍艦から撃ち出した弾は、敵艦・朝暘に
命中するのと同じく、火薬庫に撃ち込んだと
見えて、(*敵の)満船は、悉く黒煙が立ち昇り、
千百の雷が、轟(とゞろ)ようなき響きがして、
一瞬で全船が破壊され、わずかに舳(へさき)だけを残し、
残りは、ことごとく砕粉(さいふん)されて飛び散った
[ この艦に乗り組んだ官軍80人ほどが海中で溺死し
命が助かった者は、わずか20人に過ずと云う]
我が船は勿論、台場・五稜郭では手を拍(うっ)て
声を出す者はいなかった
[自分は、 五稜郭砲台にいて、これを目撃した。
煙が立昇ってかから、およそ二分も過ぎずに、
全艦は、悉く沈没した。
実に驚嘆すべき形状である。
あのアメリカで専用している所の
「トルへイト」水雷火が敵艦に乗り掛かったのも、
このようなものであったのか。恐るべし]
敵艦・春日を始め(*敵艦は)、これを見て速やかに
来て、溺れる者を引き上げ、これを救った。

この日、回天艦は、かねてより決めていた    
ことであるが、弁天台場との距離の都合のよい所で、
十分に戦争をしようと画策していた。
函館市中が敵に奪われ、後ろから撃たれることで、
急に大砲の位置を変えて撃ち合うとしても、
港内、および大森浜へ廻った陽春艦から撃ち出す
弾は、盛んで、三方(さんぽう)の弾丸、雨あられで、
遂に支えることができなかった。
荒井郁之助らは、端舟に乗り一本木 [地名] へ
上陸し、五稜郭に達することができた。
(*一方)蟠龍艦の方は、(*敵の)朝暘艦隊を
撃ち沈めたことで鋭気(えいき)十倍で、
数刻の奮戦、放つ弾は、数を知らず、
礟煙(ほうえん・撃ち出された弾の煙)は天を覆い、
飛弾は、空中に破裂する。
この時、敵船・甲鉄から発せられた弾で、
松平 五左衛門 [軍監役] 、野口 健次、
木村 弥太郎 [士官見習] 等を始め、
兵士5名が撃ち死にする。
小林 録蔵 [見習一等] ほか4人は、負傷する。
舷将・松岡磐吉は、始めから望遠鏡を持ち、
敵船のその撃つ様子を見て、発砲させるも
夕方、6時頃になり、弾薬のことごとくを撃ちつくし、
火薬庫には、何もなくなった。
敵船が迫らないので、(*蟠龍艦は)台場下まで
戻り、折しも蒸気機関に損じた所ができたので、
遂に浅瀬に乗り上げ、乗組員は残らず上陸し、
 [この時 砲兵方・永倉伊佐吉は、海岸の小舟を
取ろうとして水中に踊り入り、岸に達するも、
垂(なんなん・まさに、そうなろうとする)
として死す。] 
函館にいる敵軍を横切り、弁天台場に入った。
しばらくして、函館を取った敵の陸軍が、
回天艦、蟠龍艦へ乗り込み、火を放って去った。
夜に入り、両艦は、(*これにより)ことごとく
焼失した。
弁天台場では、函館市中、ことごとく敵兵が
入り込んで四面に敵を受けるも、壁に寄って
大小砲を撃ち出したので、敵は近づけなかった。
この時、関 広右衛門 [頭並] を始め、負傷者 数人、
死者7,8人で、又、五稜郭から再び函館を
襲おうとする為、松平 太郎が兵を率いて千代ヶ岡へ
出張し、一本木まで進み戦かうも、遂に取ることが
出来ず、引き揚げる。
この役、土方歳三、一本木において戦死する。
又、二関 源次 [頭並] 大館 庄一郎ら、
死傷は、数十人であった。

さて、又、権現山、桔梗野等の我兵は、    
未明から諸方の戦いが烈しかったが、交代する兵が
いないので、遂に一方を打ち破られ、
敵は、台場の四方を巡り、挟(さしはさ)んで
撃ちたてたので、鈴木 金次郎等を始め、
負傷者数人、死者は、甚(はなは)だ多かった。
(*我らは) 遂に砲台を捨てて退き、新道瓦焼場などで
踏み止まり、烈しく戦い、春日 左衛門、これにより
死す。
五稜郭からも二十四斤破裂(はれつ)弾を放ち、
我らの勢援(せいえん)をする
(*後)薄暮(はくぼ)になり、敵は、退去した。
我兵も番兵を除いて皆、五稜郭に入り、休息する。
この日、官軍が函館を取った時、松前、津軽の兵が
我が病院に発砲したことにより、病者(びょうしゃ)、
皆、死を待つよりほかなかったが、敵の軍監らが来て
両藩を叱り退け、病者を大いに憐れみ、これより以後、
官から前の如く治療を加えられんことを述べた。
衆は、これによって安心し、奥山八十八郎もこの時、
病院にいたが敵が小銃を撃ち入るのを見て、
遁(のが)れられないことを知り、割腹(かつぷく)
して死んだ。
その他一両名、自刃した者があった。
(*官軍の)軍監らは、これを見て嘆き惜しんだと云う。
この日より、我が有する所は、五稜郭、弁天、千代ヶ岡の
両台場あるのみで、残りは、ことごとく敵陣で充満して
いた。
これにより、我が兵、勢いを振わなかった。
衆も、快々(かいかい)として楽しめなかった。

十二日暁から(*官軍の)甲鉄艦が、五稜郭へ向けて
着発弾 [英七十斤] を撃ち出し、達せず越えて
いなかったが午前になるとその距離 [五稜郭から
甲鉄艦まで、およそ25,6町] になったせいか、
ことごとく命中した。
そのため、古屋 作左衛門 [歩兵頭] 、酒井 兼三郎、
松村 五郎 [頭取改役] 、田上義之助 [会計士官 ] 
その他、死傷者、10余人あったが、敵の陸軍は、
敢えて迫らなかった。
この時、官軍から函館病院医師を通じて、
和議の趣書を以て、申し入れが来た。

(官軍からの和議書)  

その文には、
緊急に、一大事、申し上げます。
一昨日の形勢に立ち至り、薩州公の御手で
病院の御改(あらた)めに相、成り、
寛大の御仁心をもって、病人、全員、
これまでの通り、大切に療養、致している
との事にて、ご仁恵(じんけい)、
心魂に徹し難くあり、罷(まかり)在じました。
さて、昨夜半頃、薩州・池田次郎兵衛と申す人、
その他4,5名が、諏訪常吉方へ罷り来られて、
談判には、昨今の形勢、(*貴軍の)海軍は
敗れたけれども、五稜郭、ならび弁天台場に
おいては、実に奮戦の事、士道においては
感服の至りに存じますが、万民は、
塗炭(とたん)の苦しみを受け、ご仁心ある
天朝に反抗するとは、甚だ宜しからず、
この節、残らず殺戮(さつりく)しそうに
ある向きもあるので、面々(めんめん)。
必死の覚悟であります。
天朝には、決して左様のご趣意はなく、
あくまで、寛大の思召(おぼしめし)で、
平穏を旨とされておられます。
この段、五稜郭ならび台場へ、この思いを
貫きとおすように懇談、致したく存じます。
即今、誠に大切の場合と存じます。
とくと、ご賢慮(けんりょ)の上
平穏の道を立てたいと存じます。
何(いず)れとも必死の防戦で、
あるいは、いや、お知らせ下されるよう
私共より申し上げるよう、常吉(*諏訪)より
申し聞き、このような次第であります。敬白
  五月   
       小野 権之丞
       高松 凌雲
 榎本 釜次郎 様
 松平 太郎 様

しかし、(*我が方は、これを)断然、
受け取らない旨を答え、かつ、
榎本 釜次郎が、和蘭(オランダ)留学中に
学んだ「海律(かいりつ)全書」二巻があるのを
瓦と共に砕かれることを惜しみ、これを贈った。

(和議書への返答)          

その書には、
来書(らいしょ)拝見致しました。
そして薩州家・池田次郎兵衛から諏訪常吉への
談義の件についての仲介の件々(けんけん)、
その詳細、承諾致しました。
よって、皆と評定を尽くし、充分に考え
致しましたところ、今さら、 別段に申すまでもなく、
一同、桑梓(そうし・故郷)を去り、
君親(くんしん)を辞して遠く北地に来た訳は、
先般、再三再四、朝廷へ嘆願、致しました通り、
蝦夷地の一部を賜わり、凍餓(とうが)に迫る、
道理をわきまえず人の言うことを聞き入れ ない
人民の生計を定めて、これに加えて、北門の守衛を
致したく、志願しただけで、他念のないところで
あります。
(*しかしながら)はからずも、語辞体制を失い、
その動作、無法の廉(かど)をもって、
天兵を派遣させられ、至窮(しきゅう)切迫となるも
これは、是非もないことで、 武器を持って、
これまでの挙動に至りました。
(*しかし)今日に至り、過(あやまち)を悔い、
兵を休め、朝命に従い申すべき旨 、
寛大のご処置を感謝する所を知らずにいました。
しかしながら、私たちは、品川の海を出港以来、
もとより勝敗には関係しない覚悟で、たとえ、
全員、粉砕したとしても、志願を徹底的になさずに
他は致し方なく、
もし、嘆願のおもむき、勅許が相、なれば、
北地の一部を下し賜わりますよう相、なれば、
上は朝化を仰ぎ、下は北門の関鎖(かんさ)を守り、
死力を出して天恩の万分の一にも報いるべく
一同 に諭したうえで、 私、 および両人は、
戦争を動かします。
罪は、いかような厳罰であっても、甘んじて、
朝廷の裁断に従い奉ります。
(*以上)前文の次第で、いよいよ
諒恕(りょうじょ・相手の立場や事情を思いやり
許すこと)がなければ、五稜郭ならびに弁天台場 や、
その他、他所へ出張の同盟の者一同、
枕を共にして潔く、天戮(てんりく・天命の殺戮、
即ち死罪)を申し受けます。
右の段、池田氏へ然るべく申して、(*その意を)
通して頂きたく存じます。
以上
         五月   松平 太郎
              榎本 釜次郎
  高松 凌雲 様
  小野 権之丞 様

尚々(なおなお)、病院にいる人たちを篤く、
取り扱って頂いている様子を承知致し、
その厚意の段、「トクトル(*高松 凌雲)」より、
よろしく、とのご伝声(でんせい)がありました。
かつ、また、書物二冊、(*榎本)釜次郎が和蘭
(*オランダ)留学中に苦学した
「海律(かいりつ)全書」は、皇国の無二の書で
兵火で烏有(うゆう)となっては痛惜となるので、
「トクトル(*医者・高松 凌雲)」より海軍
「アナミラール(*アドミラル 海軍大将)」へ
お贈り下さい。   以上。

*結果、陸海軍参謀・山田 顕義(あきよし)、
海軍参謀・増田虎之助でなく、交渉相手の
陸軍参謀・●黒田清隆がこれを受け取る。
本書は、維新後、黒田が海軍省に納本後、
海軍省書庫からこれを見つけ自己の蔵書とし、
後、大正5年に孫・武英が宮内省に献上し、
現在は、●宮内庁書陵部にある。

(*12日)午後、千代ヶ岡台場から兵を出して   
一本木の辺に戦って、両者、相、引いて退いた。
同13日、敵の軍艦の某が、弁天台場に来て
恭順の説を唱えたので、松岡磐吉、相馬主計は、
(*台場から)五稜城に来て、これを述べ、
また台場に戻った。
同14日、また、敵の軍監・田嶋圭蔵がm
弁天台場に来て、榎本 釜次郎に面会したいので、
取り次いで欲しいことを頼んだので、
永井 玄蕃、川村 禄四郎、相馬主計が五稜城に
来て、これを述べた。
これにより、総督・榎本は城を出て、
千代ヶ岡の辺に来て田嶋と面会する。
田嶋は、懇親に恭順の説を唱えたが、(*榎本は)
その好意を深く謝するも恭順の件の肯定しなかった。
田嶋は、涙流して、「 惜むべし、この如く、
(*志)士を瓦と共に砕かんことを」と言って、
別れるに忍びず、総督は、辞して又、 明日、
軍門で会談する、と言って(*田嶋と)別れる。
彼(*田嶋)は、嘆息して去った。
これにより、永井を始め、台場へ帰る。
この日、午後から負傷者、病者の者に金を分け、
湯川村へ送り出し、郭中、皆で生前に戦いを決戦と
その用意をして、郭外の家屋等を焼き払い、
戦いに便利になるようにした。
この夜、恐れ怯えた兵卒が筏(いかだ)を組んで
堀を渡り、脱走するものがあった。
必死を極めた兵は、かえってこれを支えられず、
よって、敵軍へ行って、降伏を乞ものが、
少なくなかった。

15日、千代ヶ岡へも恭順の義を申しいれるも
頷かず。
[ この日、弁天台場では食料が尽きて、士卒は、
どうにもならないことを知り、衆議、遂に恭順に決し、
この旨を官軍へ云い送ると云う。
しかしながら、 道路は、隔絶しており、五稜城では
これを知らず ]

午前中、鉄艦から何度も発砲あり、中国人、2名が
これにより死亡した。
[ これより先、中国人・41名 悪事あって、
入牢させたが、胸壁 築立等の為に、(*彼らを)
出してこれを駆役させた。]

敵の陸軍は、城外十町、或は五六町のところに
仮(かりの)胸壁を構えて、十二斤四斤施条砲を置き、
城中を発射する(*糾弾は)烈(はげ)しかった。
我らも二十四斤で発砲、(*だが、 夜に止んだ。
夜半になり、敵軍は潜んで、降参兵を
先にして千代ヶ岡を襲った。
元来、千代ヶ岡は津軽家の陣屋跡で
要害(ようがい)は、堅固ではなかった。

これを守る主長・中嶋三郎助 [ 砲兵頭並 ]は、 
性剛(せいごう)直(ちょく)にして
確固たる老人である故、死を以てこれを守り、
今、敵が襲撃するのを見ても、更に動じず、
盛んに発砲し、敵中へ散弾を撃ち込み、
多くを倒しはしたが、敵の首領は、降参兵を
先にして四方から壁を破って入り込み、血戦となり、
数刻で三郎助は、遂に弾に当たって倒れた。
これによって、その二子・恒太郎、房次郎の二名も
敵中に入って戦死した。
又、元浦賀奉行組同心/柴田伸助と云う老人あり。
三郎助に附属していて、ここにいたが、
遂に 一歩も退かず死亡した。
(*そして)残兵は、敗走して五稜郭に逃れ来て、
又 怯えた者は多く、湯川辺へ遁逃し、
潜伏したと云う。
同16日,官軍から使節が来て、 酒五樽と書が
送られてきた。

その文によると、
昨年来より、長々のご在陣、如何にもご苦労に
存じます。
述べることは、 医師をもって 貴下がオランダに
ご留学中に伝習された海津二冊・我国 無二の珍書が
烏有(うゆう)に附してしまうという件、
深く感銘、致しました。
いずれ、いつの日か、訳書をもって天下に公布、
致したいと存じます。
まずは、そのご厚志の段、我らから感謝したく、
軽微ながら、お粗末な酒、五樽を進呈すると共に
郭中の皆さまにも振り分けて下されたく存じ奉ります。
      5月16日
                海軍参謀
榎本 釜次郎 様

この日、また、薩摩藩のある者が、城外に来て、
使(つかい)の旨を述べるので、斎藤辰吉が出て、
これに接した。
使が云うには、
今暁は、幸(さいわい)にして 千代ヶ岡で勝利を
得たので、直ちに五稜郭に迫りたいと浴するが、
貴方には敗(*戦)後、混雑になると存じ、
問い合わせのために来ました、と云う。
(*我らは)答えて、
念の入ったお使い、ご苦労に存じます。
ご口上の趣は、釜次郎へ伝えるまでもなく、
決して遠慮なく、討ちかかかって当然で、
しかしながら、昔と違い今日に至っては、
天兵に対し、我々の烏合(うごう)の兵、
日を約し刻を期して正々堂々の軍で
どうしようもないかと。
使者は云う。
実にその通り、又、 弾薬 兵糧(へいりょう)等に
ご不足があれば、送り申そう、と。
答えて云う。
弾薬 兵糧も、多少の備えあり、
ご好意の段、かたじけなく存じますが、
贈り賜るに及ばず、と、云う。
使者は、承諾して、帰った。

この時、弁天台場の一同は、恭順したことを開き、
士卒は、各々、耳打ちし、夜に入り、
やや脱走する者がいた。
翌17日、総裁と副総裁は皆を呼び、諭して云う。

私は、もとより君主、お家のため、諸君と共に
その素志(そし)を述べようとして、
同心、協力して、既に今日に至り、
死んでは水にならん(*どうしようもない)と
誓ってはきたが、用いる兵は、ほとんど、
死人に等しい。
しかしながら、これをも使って戦ったならば、
実に我国無二の城郭の故に、5日、 10日の間には
落ちることはない。
だが、限りあるわずかな怯兵(きょへい)で
六十余州の大敵と戦うと、いたずらに
無罪の士卒を殺害して、又、快(こころよ)しと
するであろうか。
よって皆に代わって自刃すると決め、
既に刀をはずすと、2,3人の者が、我を抱いて
止められた。
これにより、 この事を思えば、
我 一身を潔(いさぎよ)くしようとして、
皆に害を残すは上部の為すところではない。
ここに、つらつら熟慮して、皆に代わって
敵軍に行き、私に干戈(かんか・戦争)を動かした
罪をもって、皇裁を仰ぎ、甘んじて天戮
(てんりく・天命の殺戮、即ち死罪)につこうと
決心した。
諸君らは、斬激(ざんげき)の志を返し、
熟思して我意に、ついて欲しい、と、(*云う)

皆、泣いて、議論すること数刻、遂にこれに従う。
ここに明日朝、7時までに総裁が出て応接するので、
それまで発砲を止めることを使節を通じて
敵軍に通達した。
(*ここに)遂に決意を飲んで、終夜、満城は
粛然(しょうぜん)とした。
翌18日朝、7時前、総裁をはじめ、 松平 太郎、
荒井郁之助、大鳥圭介の四名 敵の軍門に下って
天戮(てんりく)につくことを請うた。
午後2時、五稜郭を受取(うけとり)ために、
官の軍監・前田雅楽が小隊余を率いて来た。
榎本対馬が(*これに)対応して兵器、その他を
具(つぶさ・念入りに)に目録と引き合わせ、
これを渡し終わって、皆、涙を拭い、
函館に行くに際して、佩刀(はいとう)を許された
だけで、武器を携えるを禁じられ、遂に 寺院に恭順し
[ この時 双刀を護衛の兵に渡す ]
両3日が経って後、弁天台場の恭順の者と共に、
津軽、弘前に移り、謹慎して天裁を待つ。

これより先、室蘭詰の者へこの事を報せるために 
斎藤辰吉が官(*軍)に願って、同所へ赴く。
榎本はじめ他3名は、速やかに東京へ護送
された、と云う。
           (本文、終)

予旧以海軍士官在開陽艦客歳仲冬襲江差
之日艦為風濤所破壊矣己巳孟夏官艦
来討爾来奔馳弾丸雨集之中者数然而微躯
猶得存今日竟倶衆謹慎而待  天裁之際録
其所見聞之者十之一二為小冊子盖在供
親戚知己之話柄耳雖然至其未験之事往々
非無疎漏他日欲得正記而訂校焉明治軀二歳
次己巳晩秋於津軽弘前最勝密刹幽窓之下
       竹筠 小杉直道識

(意訳)
私は元・海軍士官であり、開陽艦にあり、
客歳(かくさい・昨年)仲冬(ちゅうとう・
陰暦3月)に江差を襲った日、艦は、
風雨に破壊され、本営に止まり、
己巳(つちのとみ・明治2年・1869年)の初夏、
官艦が攻めてきて以来、弾丸が雨あられに
集中して、奔走することが数、多くあった。
なので、微躯(びく・私目)は、なお 存し
(*まだ生き長らえており)、皆と共に謹慎し、
天裁を待つ日々であり、その見分した所の
10の1、2を記述する。
これは、ただ親戚、友人の話柄(わへい・
話の種)に供するのみなので、
その未体験のことにおいては、
もとより、よくあることだが、
疎漏(そろう・手落ち)がある故に、
他日、正しい記述を行い、校訂をしようと
するものである。
時、明治2年・1869年、
晩秋の津軽 弘前 景勝密刹の幽閉された
窓の下で。
         (この編・完)



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