京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 2 (大鳥居付近)

京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 2 (大鳥居付近)

本編は、2016年春から2017年初冬までの
期間にわたり、取材したものです。

●大鳥居 (一の鳥居) 
大正10年10月建立。

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大鳥居 (一の鳥居) 建立の経緯
これは、約7年間に亘(わた)る現在の大鳥居
(大正10年10月)建立の次第である。
位置的には、現在地より南にあった。
後、現在地への移転は、昭和41年1月17日
であった。

大正10年10月以前の鳥居。
京都名勝案内記(明治28年4月発行)。
著作権満了のものより。

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北野天満宮・社報206号によると・・
・・大鳥居建造につき・・宮司の手記がある。
それには、高さ11.4m、幅8.2m、
笠木の長さ14.7m、柱直径90cm、
柱高さ(地上)9.45m(継目なし)。
用材木曽産花崗岩(全部一石より切出す)。
形式 神明鳥居。建設 大正10年10月、
と、記されている。
・・大正3年5月、現場(木曽の三留駅附近)に
行くと、往年 山崩れで、寺の背後に土砂と共に
滑り来たもので、13m余角の巨石であった。
早速購入して荒切をなし・・
8月 神社の後の空地に搬入した。
その鉄道輸送には、重砲輸送用の大貨車に積み込む
こととしたが、1万貫(37,500kg)以上の積載は
許可なきため、柱材石の角を切り落とすになったが、
そのため柱径を十分取り得なかったのは
残念な事であった。
二条駅よりは特別製の車に積んだが、重量に
耐え切れず破損したため、直ちに改造して
千本通りを、一柱は 牛33頭、一柱は31頭にて
引いてきたところ、附近の人家はメリメリ音を立て、
電車の軌道も破損さしたが、その後次第に物価、
輸送が騰貴したので、この石材の購入、輸送は
全く神助であった。
・・設計も出来たので・・大正7年6月・・
願書を・・府庁・・に提出し、修正の上
大正8年6月、・・内務大臣に稟請、
7月31日に回附された。
その間、内務省・・の意見も加えられ、
同年11月18日、内務大臣より新設の許可が
あった。
そこで鳥居の銅額の宸筆を、・・閑院宮載仁
(ことひと)親王に願い出て、御聴許を得て、
大正10年2月、東宮御渡欧に付、殿下が桃山
御参稜の件にて御入洛の砌(みぎり)、
御泊りの長楽館にて宮司が上京し御印を頂き、
翌年 皆燈講より表装の上 奉納された。
額の鋳造図案は・・高さ2.28m、幅2.48m、
重量150貫(563kg)で、背文字には、
大勲位功二級元帥陸軍大将、閑院宮載仁親王
とある。
         と、ある。

楼門までの境内略図
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さて建立の手続きが終わり、
以後は、搬入、組立、奉納の運びとなる。
北野天満宮・社報207号によると・・
鳥居建設の敷地について、大日本武徳会の表門を
西方に移転し、(*当時、現在の北野会碑の辺り
・現在の大鳥居の南側一帯には大日本武徳会が
あった。)神苑一部 模様替えの上、
大正10年11月に地鎮祭を執行した。
いよいよ(大正)11年5月4日に足場を組み立て、
(大正11年)5月15日に落成、石材をコロにて
神苑に搬入した。
16日に50分間にて、約6,000貫(24,000 kg)
以上の一柱を、鋼索条、ウインチ、カクラにて
捲立てて建てたが、(*これ以前の)新門辰五郎
奉納の鳥居は、機械力のない時だけに江戸の職人
による立柱は大事業であったろう。
午前には西柱、午後には東柱が立ち、17日には
貫(ぬき)及び雨貫、鼻を上げ、18日に西笠木、
19日には東笠木 及び中笠木と進渉し、
遠近より技術家、石工、見物人等参集し、
竹矢来の外は大勢の群衆が殺到し、電車も徐行、
警官、電車事業院の熱心な警戒により、無事に
終わった。
また同日午後9時・・保管の銅額を屋台に載せ、
西ノ京奉納の米俵と共に牛に牽(ひ)かせ、
(*市内の通りを練り歩き、翌日)神苑に
午後6時に到着した。
鳥居附近の各町では紅提燈を出して祝賀を表した。
・・同日 午後 額が上がった。
 貫石の場所に台を設け、餅、神饌(*しんせん)を
供え、修祓、三石の餅撒きを行う予定であったが、
約2万人の群衆のため、危険至極につき中止し、
講員が関係諸方に配布した。
そして5月22日午後2時より宮司以下にて、
鳥居奉納奉告祀を行い、祭典後 神苑に趣き、
宇治橋渡始式に準じ、通初式を行った。
まず修祓、事業報告、除幕、来賓祝辞、
万歳三唱後、行列・・道楽(みちがく)を
奏しつつ行進、沿道は来観者にて盛況を呈し、
一同 拝殿にて列拝して式を終え、夕刻
北野倶楽部 及び社務所で祝賀会を行った。
この大鳥居が現在位置に移されたのは、
西陣警察署に南神苑を譲渡したため、
昭和41年11月13日より、・・移転工事に着手、
17日、文字を金メッキした額をとりつけ
無事終了した。
       と、ある。
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大鳥居の狛犬

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北野天満宮・社報208号によると・・
・・皆燈講は、・・(*大正10年)11月、
此の鳥居の前に隻狛を計画し、13年目の
昭和9年10月23日に出来上がり、
宝物殿前の仮置場に搬入されたと日誌にあり・・
狛犬の高さは2m、金質は銀銅四分の一、
重量は2,600キロ、狛犬の大は御影石にて
下部は大崩石積で、台の高さは3m余、
台の幅は3.2m、全高は5m余にて考案並に
鏡石は竹内栖鳳画伯の、西側は白梅、東側は
紅梅の図である。
銘文は従三位勲二等 文学博士 狩野直喜先生
の撰文で・・銘文の書は・・山田得多先生・・

(*参考・銘文)
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隻狛銘并序
贈正一位太政大臣  菅公之祠偏于海内
三尺童子猶知崇之  而世所稱北野天満
宮戴于祀典列于官  幣宗宇架構之靚深
堂廡刻鏤之絢麗與  夫豆觥粢醍之豊潔
足以昭 國家崇報  之厚副士庶敬仰之
盛傳曰及前指令徳  之人所以為明質也
前賽神之徒胥謀結  作講約名曰皆燈輸
財致力祠事維供子  孫相承至今不廃頃
者銅鋳隻狛置諸筆  表之前介宮司山田
君謁直喜銘直喜與  君善不敢辞銘曰

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於穆神廟禮禋孔崇  誰其享之赫赫菅公
身起儒門位升台輔  忠亮翼弼哀関是補
致君澤民維國之柱  龗辱靡常春輝冬凛
詎彼讒慝織成貝錦  誠不可揜天定勝人
生為賢相歿作天神  聡明正直籲禱必應
福善禍淫無物不澂  有菀其菀維梅維松
呑矯龍榦的皪玉容  廟門之南華表之側
虔安雙狛以衛霊域  千秋萬歳不仰神徳
 昭和九年歳次甲戌十月
  従三位勲二等文学博士 狩野直喜撰文
   京都逞士 山田得多 敬書
      時年八十有三



●さて銘文についての大要は、

贈正一位太政大臣 菅原道真公を祀る天満宮は、
国の内外に亘り、御神威遍く、三歳の童子も
よく崇(あが)め尊んでいる。
そして北野天満宮は立派に祭儀が行われ、
官幣に列し、社殿、廻廊は何れも荘厳華麗にして、
種々彩々の御神饌が山のように盛られるのを見ても、
国家を始め、庶民に至るまで、古来より敬仰の誠を
捧げて来た賜で、是は偏に御神徳の所以である。

この皆燈講の人々は、代々私財を投じ、
率先して尽力され、子々孫々 現在まで 受けつがれ、
ここ大鳥居前に一対の狛犬が建立された。

そこで山田宮司は、わたし、(*狩野)直喜に
銘文を依頼された。

想えば当宮は朝野の崇敬篤く、御祭神菅公は学者
より宰相にまで昇り、天皇に忠勤を励んで仕え、
よく天使の失態をいさめ、輔弼(*ほひつ・天子の
政治を助けること)の任を全うされ、君に忠に、
民に恩沢(たく)を施し、日本の柱石であった。
然るに天子の限りない恩愛をねたんで、纔訴する
とは何事か。
どうして美しい錦織りなす心を、覆いかくす事が
出来ようか。
公は人に秀(すぐ)れ、世にあっては、賢相となり、
薨じては天神となられ、聡明正直の神で、
祈り需(もと)むる者には、必ず幸福利益を与え
給い、勧善懲悪を示し給うのである。

梅松立ち栄える神苑の風光は洵(まこと)に
見事であり、その楼門の南、大鳥居の側に、
安置された一対のこの狛犬は、幾千載までも霊域を
守り、永久(とわ)に御神徳を仰ぎ見ることで
あろうと銘記されている。

狛犬はもと南神苑にあったが、大鳥居と共に、
昭和41年、現在地に移転された。
“幾千年風雪に耐え 御垣内畏まりてぞ守る 狛犬”
(註)撰文の解読は塩小路 光孚氏に御協力
頂いた事を付記する。
         と、ある。

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また、正面左側の東面には、
下記のようにある。
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社頭雙狛成る其作に従ふ者皆
是當代の名匠各其の精妙を極む
以て神慮を慰め霊域を飾るに足る
是を献する者皆燈講なり結講以来
累世相禀け報致維れ務む囊日
稀有の大鳥居を建て今復此挙
あり崇敬の至誠神明正に納受
すへし 予深く其篤志に感あり
無言以て之を記す
 従四位勲三等 山田新一郎



大鳥居 (一の鳥居) の左側に
●新門辰五郎・寄進の常夜燈 が、ある。

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新門辰五郎(しんもん たつごろう) については、
かつて、京都史蹟散策59・江戸侠客の宿舎・来迎寺
(2013-10-30)で、少し掲載している。
この地には、禁門の変で戦死した若衆40名を
埋葬した供養碑(元治2年建立)がある。

このほか、
出世稲荷神社(旧・千本丸太町、現・左京区大原)
に 石造り狛犬(慶応2年)を、また、
辰五郎・妻女の重病全快の御礼に常夜燈を
伏見稲荷(安政元年)に奉納している。

そして、ここ北野天満宮には、石鳥居と常夜燈を
元治2年(1865年)2月23日に寄進している。
大鳥居の左側にある常夜燈(後述)が、それである。
先述の日記では、元治元年(1864年)に京に入りと
記しているように、この頃、来迎寺に宿を取り、
その翌年に、この常夜燈を寄進したとされる。

北野天満宮・社報172号によると・・
・・新門辰五郎については、幕末に東叡山の衛士、
町田仁右衛門の女婿となり、火消として活躍、
遇々(たまたま)柳川候の丁卒の凶険威【1】
を逞(たくま)しうするを圧(おさ)えて名を挙げ、
弘化3年(1846年)伝馬町の獄舎の大火には、
これを防いで功があった。
【1】 柳川藩の大名火消し相手の喧嘩を指す。
これにより、18名が死傷した。

・・やがて戊辰の役に敗れ、公(徳川慶喜)俄に
大坂城より海路 東帰するや、城内に
金扇馬標(うましるし)の遺(のこ)れるのを知り、
身を躍らして入城、之を取り返し、(辰五郎は)
(徳川慶喜)公のあとを追ったが、己に出航した
ため、東海道を馳せて箱根に至る。
幕吏が行券(てがた)を検(証)するや、
辰五郎 罵(ののし)り、
「敗軍(徳川軍)に誰が給するか」と一喝、
幕吏は始めて ことの次第を知った という。

新門の名は、輪王寺宮より浅草寺警固を命ぜられ、
新に通用門を造り、守らしめられたによる
と云われ、常に観世音菩薩を信仰、
堂(の)下に死なむとの願い通り、明治8年9月19日、
76歳で亡くなった・・・
           と、ある。

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大鳥居 (一の鳥居) の左側の常夜燈に挟まれた奥に
●【道標】がある。

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(北東側)右 天満宮
     ひだり さか あたこ
(南東側) 講中
        松梅院
(北西側) 寛政二年
        庚戌春

天満宮・嵯峨・愛宕道の道標で、光格天皇の御代・
徳川家斉の時代で、天明の大火の2年後、
寛政2年(1790年) 建立のものである。
講中は、講を作り神仏に詣でたり、祭りに参加など
する信仰者の集まり。

また、一の鳥居を潜ると、目の前に飛び込んで
くるのが、
●影向松(ようごうのまつ) である。

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影向という言葉は、神仏がこの世に仮の姿で、
現れる、ことを意味するが、
説明板によると・・
影向松(ようごうのまつ)
初雪の日 御祭神 この松に影向(降臨)ありて
歌のよみ給うと古くより伝えられ 毎年
初雪の日(三冬の内)この大前にて
初雪祭を行う
   とある。
また、近世の京都の案内記である、
秋里 籬島(作) 秋里湘夕(著)
寛政5年(1793年)刊 の
都花月名所(みやこかげつ めいしょ)によると、
○雪看  の項で、
○北野社(キタノヤシロ)
初雪には、一夜松へ菅神(カンジン)
影向ましますとて 聖廟へ詣して詩歌を献る事は
古よりの流例として 今もたへせず詣人多し
これ風雅の盛徳いちしる記 なるべし
    とある。
菅神とは、菅原道真の尊称。
影向松と名付けられたこの松は、北野天満宮の
創建からこの地にあると伝わる御神木である。

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  (北野天満宮の全貌3 に続く)



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