京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 15(絵馬掛所の周辺)

京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 15
(絵馬掛所の周辺)

本編は、2016年春から2017年初冬までの
期間にわたり、取材したものです。

地主神社・末社 老松社の南側(本殿背面)に
●御后三柱(ごこうのみはしら) がある。

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一般的に、神社は、
本殿の前から参詣するように造られて
いるが、北野天満宮では、本殿の背面にも
御后三柱(ごこうのみはしら)と云う御神座
がある。
ここには、天穂日命(菅公の祖先神)・
菅原清 公卿(菅公の祖父)・菅原是善卿
(菅公の父)が祀られている。

北野天満宮社報・72号によると・・
・・天穂日命(*あまのほひの みこと・
天照大神の子)は管公の遠祖で、素戔嗚尊
(*すさのおの みこと)、天照大神と御誓約の時、
気噴の中に化生せられた五男神中の神で、
天孫 瓊瓊杵尊(*ににぎの みこと)と和し、
神裔(*しんえい・神の子孫)永く
大己貴命(*おおなむちの みこと・大国主の別名)
の祀を奉じ、連綿として出雲国に永住した。

菅原清公卿は、天穂口命 十四世の孫、
野見宿祢(*のみのすくね・土師氏の祖として
日本書紀などに登場する人物)の十六世の孫、
古人の四男で、菅公の祖父である。
幼少から学問を好み、延暦3年(*784年)
文章生となり、延暦23年(804)遣唐使判官
として、僧 最澄等と入唐し、使命を果し、
翌24年無事 帰朝した。
・・承和6年(839)6月7日 従三位参議に
昇進、承和9年10月17日 73歳で
他界された。・・

菅原是善卿は清公卿の四男であって菅公の父
である。
幼少から聡明であって、わずか11歳で殿上に
伺侯(*さもらい・様子を見る)し、嵯峨天皇の
御前で書を読み、詩を賦した。
承和2年(*783年)文章生に補せられ、後
文章博士、大学頭、東宮学士、従三位参議、
勘解答由(*かげゆし・地方行政の監査)長官に
任ぜられた。
文徳、清和二朝の待読となり、文選、のち漢書等を
進購した。
・・著書もすこぶる多く「貞観格」「文徳実録」
等がある。
かくて元慶4年(880)8月30日 69歳で学問教育に
余念なき一生を閉ぢられた。
             ・・とある。

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本殿・北側の十二社連棟の左手、西側の赤鳥居を
くぐると、
●牛舎・一願成就のお牛さん・乾さん、がある。

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撫でると一つだけ願いが、叶うと云う。
元々は、この場所にあったが、一時期は、
本宮の南西隅にあった。

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北野天満宮・社報208号によると・・
・・戌亥の方向にあったので、乾さんとも呼ばれ
親しまれた臥牛の石像で、頭は少しかけて、
台座の御影石に、弘化二巳己歳年(1845)
卯月吉日と刻まれ、宿坊 光乗坊、
願主 藤原與平治とあり、石工 伏見京町、泉清と
判読されるが、台座の石とはかなり古いように
思われる。
大きさは、高さ20cm、縦25cm、横40cm である。

(*元々の)祠堂は何時頃建てられたか不明で
あるが、享和2年(1802)の九百年祭絵図にも、
嘉永5年(1852)の九百五十年萬燈絵図にも
載っている。
東側(*現在は絵馬掛所の西側)に柵をめぐらした
(*現在は石柱をめぐらした)亀石があり、
陰石ともいわれるので、牛の石像は陽石を象徴して
いるようにも思われる。
これは古代信仰の名残りかも知れない。
(故井上頼寿氏談)

亀石
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・・・またこの祠は一願成就の祠といわれ、
昔は思い思いの絵馬を持ちより、裏に願い事が
係れ、勧学の他 病気平癒、心願成就、訴訟等、
中には呪いの字句も見られた。
・・・(*その後)昭和49年6月19日夜、
御遷座、6月20日に奉祝祭を執り行い、
崇敬石田良三、千代ご夫妻達他のご協力を得て、
6月25日装いも新たに御建立 今日に至っている。
          と、ある。

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この背後に
●絵馬掛所 が、ある。
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楼門を潜って左側に絵馬を書く場所がある。
ここで絵馬を書いて、この絵馬掛所に掛ける。
多くは学業成就、合格祈願などで、その数は、
毎年10万枚にも及ぶと云う。





●北野天満宮 七不思議・天狗山(てんぐやま)
境内の北西の角にある。
北野天満宮・社報208号によると・・
・・古来よりこの地は、末社整理にも触れぬ
ようにと、古老の談にも魔所として伝えており、
室町時代の「北野曼荼羅」
(*『社頭古絵図』(北野参拝曼荼羅) )にも
後に天狗様を描き、今も裏手を天狗山と
称している。
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牛舎・一願成就のお牛さん・乾さんの
左側(南)の東面に
●連棟八社 がある。

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北から南へと見て行くと、
(八社)   
福部社
高千穂社
安麻社
御霊社
早取社
今雄社
貴布禰社
荒神社


◆福部社(ふくべしゃ)
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祭神・十川能福(そごうのうふく)
神徳・開運招福の神

北野天満宮・社報61号によると・・
・・福部社の御祭神も御在世の舎人(とねり)で、
十川能福、紅梅殿ともいわれ、元は・・本社の東、
老松町、毘沙門町にあった境外社を
天保6年(1835年)12月 境内に遷座、
明治10年3月31日、摂社に列せられている。
        ・・とある。


◆高千穂社(たかちほしゃ)
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祭神・瓊瓊杵命(ににぎのみこと)
   天児屋根命(あめのこやねのみこと)
神徳・五穀豊穣の守り神

北野天満宮・社報79号によると・・
(*この連棟八社は) 旧記には八処とあり、
元 別殿であったが、寛文7年(1667)9月3日
修造の時 集められたという。
・・高千穂社は、瓊瓊杵尊(*ににぎのみこと)
といわれ、匡房卿記(*まさふさきょうき・
大江 匡房は、小倉百人一首では前中納言匡房。
平安時代後期の公卿、儒学者、歌人で、
その学才は時に菅原道真と比較された。)
には天津児屋根命(*天児屋命
(あめのこやねのみこと)のことで、
春日権現(かすがごんげん)、春日大明神とも云う 。)
との説もあり、天神七代 地神三代の尊に
当られるので、十を師に禅(ゆ)ずる意、
すなわち十禅師と往古(*昔)は称され、伝教大師
天悌の峰(*比叡山三大魔所のひとつで、魔所とは
恐ろしい所ではなく、清浄地のこと)で十禅師に値い、
委細をお尋ねになったところ、尊体を造り安置せよ、
と仰せられたので、その尊像に自筆で皇御孫尊と
書かれたと伝えられ、十方衆生に禅悦の楽を与える
師であるから、十禅師と申すといわれる。
 さて、瓊瓊杵尊については、天照大神の孫、
天忍穂耳命(*あまのおしほみみのみこと)の子で、
天照大神の命より、この國ぢを統治するため降臨
されるに際し、天照大神は 授くるに三種神器を以てし、
とくに この神鏡は御手づから持たせ給い、
「この宝鏡を視ること、常に我を見る如く、
同床共殿して祀りなさい」と申され、
また天壌無窮の神勅を降し給い、天津児屋根命、
大玉命、天鈿女命(うずめのみこと)、
石凝命(いしころどめのみこと)、
玉祖命(たまのおやみこと)の五部神以下
百八十伴 雄神を随え、天の雲を押し分け、
高天原から日向国の高杜穂に降り給うた神話は
有名である。
 そして大山祇神(*おおやまつみ)の女、
木花之開耶姫(*このはなのさくやびめ)を娶り、
火闌命火明命(ほすせりのみこと)、
彦火火出見命(*ひこほほでみのみこと)を
生まれた。 ・・と、ある。


◆安麻神社(あまじんじゃ)
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祭神・菅原道真公のご息女
神徳・悩み事・憂い事の救済の神

北野天満宮・社報79号によると・・
安麻神社は菅公の御息女であるが、鎮座年月は未詳、
尼神とも書き、宇多天皇の室、英明中将
(*源 英明(みなもと の ふさあきら))の
御母ともいわれ、一切衆生の憂歎(うれい)を
救うとの御請願がある。


◆御霊社(みたましゃ)
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祭神・菅公の眷属神(けんぞくしん)の
御霊(みたま)
神徳・開運招福の神

北野天満宮・社報80号によると・・
祭神は御霊八所、大門内供奉ともいわれるが、
菅神の御眷属の御霊を祀るともいう。
西ノ京 一ノ保社にあった御霊社を
明治6年 当社に合祀した故に、2月25日には、
今も梅花の御供えの小型を、一ノ保社と御霊社に
お供えするを例とす。
神記によると、
「建武二御霊異在之故二重テ別社二奉祝之云々」
とあるところから、
鎌倉時代以後の御鎮座かとも思われる。


◆早取社 (はやとりしゃ)
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祭神・日本武尊(やまとたけるのみこと)
神徳・災難厄除けの神

北野天満宮・社報80号によると・・
早取社は、日本武尊、または須佐雄尊ともいわれ、
百錬抄(*鎌倉 時代後期に成立したとみられる
公家の日記などの諸記録を抜粋・編集した歴史書。)に
「建長四年十一月十八日戊戌卯時、北野早取ノ社ノ後
自リ 芝上出来ル炎ノ高サ五丈許 椙(*すぎ)ノ梢二
登ル 即チ其間 雷鳴二及ブ」とある。
 日本武尊については、景行天皇の皇子で、
名は小碓命(おうすのみこと)といわれ、
天皇の命を奉じて九州の熊襲(*くまそ)を征し、
誅伐(*ちゅうばつ・罪ある者を攻め討つ)われた
川上梟師(たける)は死に臨み、その武勇を嘆賞し
日本武の号を献じた。
後 東国の蝦夷(えみし)を鎮定、往途、
駿河で天叢雲剣(あめのむくもつるぎ)によって野火の
難を払い、走水(はしりみず)の海では妃弟橘媛
(おとたちばなひめ)の犠牲によって海上の難を
のがれられた。
帰途、近江伊吹山の族徒を征伐のさい 病を得、
伊勢 能褒野(のぼの)で みまかれた。


◆今雄社(いまおしゃ)
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祭神・小槻宿祢今雄(こづきのすくねいまお)
神徳・仕事の守り神

北野天満宮・社報80号によると・・
今雄社は、垂仁天皇の皇子、池速別命の後胤、
小槻宿祢今雄を祀るといわれ、壬生官務家の先祖
である。
近江国 栗田郡小槻邑(*村)に住んだことから
小槻を氏とした。
いまに小槻神社がある。
氏は清和天皇 貞観17年、左大史【1】
小槻山公今雄、阿保朝臣を賜う。
【1】 太政官の官位のひとつ。
史は、左大史・右大史・左少史・右少史に
各2名合わせて8名存在することから八史
(はちし)とも呼ばれた。

二男 当平 同じく左大史となる。
円融天皇の時、奉親左大史となり、算博士を
兼ねたので、子孫 相継ぎ、宮中の事を行った。
これを宮務という。
長承 年中(*年間)、正重、常陸、吉田神社の社務
となり、摂津守に至る。
二条天皇の御代、隆職、広房、叔父、甥の間で
互いに其職を争ったが、長観3年(1156)綸旨
(りんじ・蔵人が天皇の意を受けて発給する命令文書)
を以って、五位史を隆職 子孫が相 預り、
大政官の文書をも預(*か)った。
もっとも重職である。
また広房の子孫にも相 預(*け)させた。
このより二派に分れ、広房に流を大宮と称し
隆職の流を壬生と称した。
壬生は宿祢の儀である。

◆貴布禰社(きぶねしゃ)
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祭神・高A神(たかおかみ)
神徳・水の守り神 運気発祥の神

A の漢字
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北野天満宮・社報81号によると・・
・・古くは、地主社の西にあったが、
寛文7年(1667)八所連棟建造の時に
合わせたものである。
祭神は高A神(たかおかみ)、鎮座年月は未詳である。
御由緒については、伊邪那岐命が十挙劔
(とつかのつるぎ・神々が持つ神剣の 総称)を以て、
加具土神(かくつちのかみ)の顎を斬り給うた時、
劔頭より滴る血が手の俣(くま)より漏れ出でて
成りませる神で、高に闇に対する語であり、
(*闇A神と高A神は 同一の神、または、
対の神とされる、の意)
また山峯を意味し、A(おか)は竜神で雨を掌る
神をいう。
古来 闇A神と共に祈雨、止雨の神として、
信仰さられ、大和の丹生川上神社、京都の貴船神社は
有名である。


◆荒神社(こうじんしゃ)
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祭神・火産神(ほむすびのかみ)
興津彦神(おきつひこのかみ)
興津媛神(おきつひめのかみ)
神徳・火と台所の守り神

北野天満宮・社報81号によると・・
・・もと、御前通今出川下る東側
(北野学堂 古文書)にあった。
檜皮葺(*ひわだぶき)で荒神宮といい、
表5尺4寸、奥行5尺1寸、
御拝4尺5寸で八幡造り【1】であった。
【1】 八幡造り(はちまんづくり)
日本神社建築用様式のひとつ。
大分県の宇佐神宮に代表される。
切妻造・平入りの建物が前後に二棟並ぶ形で、
後ろの建物は内殿、前の建物は外殿と呼ばれる。
八幡造の派生として、日光東照宮・権現造りが
あるとされる。

・・火産神は伊邪那岐命、伊邪那美命の二神の
御子で、伊邪那美命(*が)この神を生み給うた時、
御陰(みほと)焦(や)かれて神 去り給うたという。
御名の火(ほ)は火(ひ)、
産(むすび)は物を生成する神霊(みたま)をいう。
本居宣長は吉凶を兼ねて神と説いている。 
 興津彦神、興津媛神は竈(かまど)の守護神で、
大年神【2】の御子で、御母は天知迦流美豆比売
(あめしるかるみぐひめ)という。
【2】大年神(おおとしがみ)
毎年、正月に各家にやってくる神で、年徳神とされ年、
徳さま、お正月様、恵方様など言われる。
【3】天知迦流美豆比売
天(あめ)が、領(しるかる)瑞日(みづひ)の女(め)。
生命力に満ちた太陽の女神であるとの説もある。

南から北を見る。
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連棟八社の左側(南)、に
御神用水井戸、があり、その傍らに
●手向山の楓樹、がある。

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北野天満宮社報・16号によると・・
御本殿の西側、御神用水井戸の傍に非常に
葉のこまかい一本の楓がある。
幹の周りは80cm余、高さは6mくらいで春は
煙るように芽が萌え、秋は朝陽、夕日に照り映えて
附近の梅、桜、榊の木々の中にしっかり根を張って
こんもりと立ち栄えているが、幹には苔がすき
老齢を想わせる。

石標には正徳六歳次丙申(一七一六)春二月
とあり、和州手向山楓樹と刻まれてあるから
樹齢258年(*今年で300余年) におよぶ。
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管公と楓については小倉百人一首の第24番目に
 このたびは 幣(ぬさ)もとりあえず手向山
   紅葉のにしき 神のまにまに
とあって、管公が昌泰元年(898)54才の時、
宇多天皇の大和の国 巡幸のみぎり、供奉されて、
手向山八幡宮に参拝の時のお歌である。

この意は手向山八幡宮におまいりしたが、
突然の事とてお供物も準備いたしませんでしたが、
ちょうど美しく織りなされた錦のような境内の
紅葉をかわりに御神前へお手向けいたしましょう、
というのであって、いまも同八幡宮には、
「管公腰掛の石」がある。
そのゆかりにより往昔八幡宮より当宮へ苗木を
奉納されたものであろう。

爾来 管公が八幡宮への手向の楓は今も繁茂して、
御祭神を但夕お慰めし、仰ぎみる参拝者に御芳徳を
語り伝えている。
          ・・とある。

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 (北野天満宮の全貌16 に続く)

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