京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 16(連棟四社・七社)

京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 16 (連棟四社・七社)

本編は、2016年春から2017年初冬までの
期間にわたり、取材したものです。

本殿、東北の隅、連棟八社の手前、左側に
●山国隊奉納の石燈籠、がある。

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この石燈籠は、京都京北・戊辰戦争の
金字塔でもある。
山国隊(やまぐにたい)は、
丹波国桑田郡山国郷(現・京都市京北区)で
結成された農民の隊で、因幡・鳥取藩に
附属して官軍に加わり戊申戦争を戦う。

北野天満宮・社報208号によると・・
宮さん宮さんお馬の前のぴらぴらするのは
なんじゃいな トコトンヤレトンヤレな

明治維新にさいし、錦御旗を揚げて、
有栖川宮熾仁親王を総督として従軍し、
農民兵の嚆矢(こうし)【1】として幾多武勲を
輝かした、山国隊奉納の石燈籠が、天満宮本殿の
北東の隅にある。
【1】 嚆矢
かぶら矢、の意。転じて、物事の始まり。

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高さは3 メートル位、竿の東面に常夜灯、
南面に御師森川勘解由とあり、
北面に明治二己巳歳春二月念五月 建之と彫られ、
台石には、願主 山国隊、辻 肥後景光以下三十九
の名が連ねられ、その中に発起、藤野近江守斎穆、
水口備前守隼人部義永の名がある。

すなわち丹波山国は、代々皇室の御料地であり、
郷土の勤王の志篤く、王政復古なるや いち早く
郷土隊を結成して奉公の日を待っていたが、
時あたかも因州藩の奨めにより、慶応4年(1868)
2月1日出陣、
(*これより先、1月18日に岩倉具視の指示で
山国隊が誕生。)そのさい全員天満宮に参拝、
国家の安泰と自隊の武運長久を祈願した。

時に世上に伝えられる太田垣蓮華尼が西郷隆盛に
贈った歌
 討つ者も討たるる者も心せよ
 同じ御国のみ民ならずや
は有名である。

東征途次、4月22日 安塚合戦に田中浅次郎、
高室治兵衛、新井兼吉を失い5月15日、
上野の彰義隊討伐戦に田中伍右衛門が戦士したが、
凱旋后(*ご・後)、11月29日、有栖川宮より
警衛者として慰労の酒肴を下賜されるや、
翌30日早朝 一隊はただちに天満宮に参詣
12月1日には全員参拝し、12月16日には
報謝の印としての燈籠建設地を相談、
翌明治2年1月1日、4日、25日、28日、
それぞれ社参、千燈、千度(せんど)を
献じている。
・・・いま、往時を懐想すれば石灯籠は、
日本の夜明けの鼓動を奏で、山国の人々の忠誠と、
天満宮信仰を吾人に語りかけるようである。
(註)現在 時代祭行列の先駆をなす山国鼓笛隊は
明治28年の第1回目より参加し、まづ全体
天満宮で勢揃いし、それより平安神宮に進発した。
       と、ある。

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連棟八社の左側(南)の東面に
●連棟四社 がある。

手前、四社。
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北から南へと見て行くと、
(四社)
夷社
松童社
八幡社
若松社

◆夷社(えびすしゃ)
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祭神・事代主命(ことしろぬしのみこと)
神徳・漁業・商業繁盛の守護神

北野天満宮社報83号によると・・
・・鎮座年月、由緒は未詳であるが、
元楼門の外、西にあり、「和歌昧所巡考」には
古代より北野にあったとある。
また一名 三郎殿とも呼ばれた。
「慶長造営指圖」には、夷宮、三郎宮とある。
夷は西ノ宮の南宮に御座、三郎殿は夷の御子、
虚空石と申也とあるように、初めは夷、
三郎は別であったが、いつか夷三郎と一社と
なり、後世には三郎の名の方を除き、姓字の夷
となったときく。
 事代主神については異説が多く、イザナギ、
イザナミの命が生んで流し捨てた神話にある
蛭子(ひるこ)とも、大国主命の子である
ともいう。・・・
 なお大国主神を大国(だいこく)とし、
事代主神を魚を抱えた夷として祀られる事
となった。
1月10日の十日戎、10月20日の二十日戎は、
摂津西ノ宮、大阪今宮神社が有名である。
なお、漁民、商業の守護神で福の神として
祀る。 
すなわち天照大神、天孫をこの国土に降臨せん
として、まず武甕槌(たけかみづち)、
経津主(ふつぬし)の二神を使として、
出雲国の大国主命に大命を伝え、
「この国を天孫に奉献するや。」と問われた処、
大国主命 答えて、「我が子 事代主命に問いて
確答せん」と述べられ、相談されると、
「勅命に従い奉らん」と申され、帰順の意を
表されたので、神霊を大和国宇奈堤(うなで)
に祀って、皇室の守護とされた。
後、神功皇后の三韓征伐に際し神徳を顕わされた
ので、皇后、神勅により長田神社(神戸)に
奉斎された。
なお国譲りの故地、出雲国美保神社にも
祭られた。 


◆松童社(まつどうしゃ)
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祭神・神太郎丸(みわのたろうまる)
神徳・厄除け
北野天満宮社報83号によると・・
・・祭神は、応神天皇とも、神(みわ)
良種の子、太郎丸ともいわれる。
鎮座年月は未詳、応神天皇は、
日本書紀によれば、仲哀天皇の皇子、
母は神功皇后とされる。
名は譽田別命、この時期に大和朝廷の
勢力が内外に飛躍的に発展した。
陵墓は大阪府羽曳野(*はびきの)市に
ある。
日本第二の大きさである。
 また太郎丸については、北野に菅公、
御鎮座に付託宣あり。
その時一夜に松 生ずるにより、松童と
いわれる由。
      と、ある。


◆八幡社(はちまんしゃ)
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祭神・誉田別尊(ほんだわけのみこと/応神天皇)
神徳・厄除け

北野天満宮社報84号によると・・
・・元は松童八幡と申し、室町以後に、
松童社、八幡神社二社となり、
慶長時代(*1596-1614)には
単に八幡のみで松童の名はなく、
寛文(*1661-1672) には分かれている。
神記によると、正八幡大神の御事也。
とあって、この宮を松童と申し、竹内宿弥作の
三韓征伐記に、「兵具ヲ調へ西海二向ヒ入定シ
給ヒテ八ノ幡ヲ三迊(そう)シテ八ノ松ヲ
生して住ミ給ヘル城 即チ正八幡是ナリ」とあり、
さらに「異国降伏の御徳を顕して八の松を
生じて長久の鎮護を成賜へり、
故に松憧とは申也。
憧とは幡なり、垣憧幡と云へる是心也、
異国の慢憧を折て日本秋津島の長久に
繁昌す可し 故に松憧とは申也」と記されている。
さて八幡信仰については、
豊前の宇佐八幡宮は最も古いもので、
奈良時代大仏鋳造を機に中央に進出し、
東大寺の鎮守となる。
(手向山八幡宮)平版初期、貞観2年(860)
行教によって、山城の石清水に勧請され、
朝廷はこれを祖神および、京都の守護神として
あがめたため、伊勢に次ぐ本朝第二の宗廟と
いわれるにいたった。
やがて清和源氏の氏神とされるにいたって、
広く武人の守護神として全国に勧請され、
11万有余社の神社中、その数は稲荷社と共に
最も多い社とされ、一般民衆の間に広がって
いった。
源頼朝が鎌倉に鶴ケ岡八幡宮を建立したのは
とくに著名である。
ちなみに源義家は石清水八幡宮で元服し、
八幡太郎源義家の称し、
当宮御祭神の菅原道真も、この社で元服された。
その時、母伴氏が「ひさかたの月の桂も折るばかり
 家の風をも吹かせてしがな」の歌を贈られた
のは有名であり、家の風すなわち家風を
大切にしろと、教えられた。
これは菅家の学問である。
         と、ある。


◆若松社(わかまつしゃ)
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祭神・若松章基(わかまつあきもと)

北野天満宮社報84号によると・・
・・古図に若松章基祠は今の大杉の西にあり、
祭神は若松章とも、老松社のことでもあるという。
・・若松章基については こんごの研究に
またれる。・・  とある。

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本殿の西側、連棟四社の左側(南)の東面に
●連棟七社、がある。

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北から南へと見て行くと、
(七社)
那伊鎌社
一挙社
周枳社
宰相殿社
和泉殿社
三位殿社
大判事社

◆那伊鎌社(ないかましゃ)
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祭神・建御名方命(たけみなかたのみこと)
神徳・農業の守護神

北野天満宮・社報85号によると・・
・・小神次第によると、当末社は鎌倉時代より
あるといわれ、神記には、伊弉諾尊
(*いざなぎのみこと)より三代目に当り、
天照大神は経津主(*ふなつぬし)、
建御雷(*たけみまづち) 二柱の神を下して、
国土を譲り給えと、大国主命に詔(みことのり)
されたところ、大国主命と、長子の事代主命は
承諾されたが、次子 建御名方命はこれを拒み、
建御雷命に抗して敗れ、信濃国の諏訪に退き、
大国主命の詔(みことのり)を奉じた。
元官幣大社 諏訪神社上社は この神を祀り、
武神または農業神として尊崇されている。・・
さて那伊鎌については、諏訪大明神の御神幸の行列に
立て飾る威儀物の一に、薙鎌(なぎがま・
武器として使われる長柄の鎌)がある。
これは日本武尊が、天皇の御位の御しるし
三種の神器の一である天叢雲(*あめのむらくも)之劍
で、草を薙(*な)ぎ払ってより、これを草薙の劍
と言ったごとく、草薙の鎌である。
諏訪神社には その型を異にした薙鎌があり、
切れが最も古い型である。
神代より上古の人達は すべて左利(*き)で
あったといわれ、劍でも鎌でも これを使用するには
左手に持ったのである。
故に薙鎌の型の新古を判断するには これらの事を
参照する必要がある。・・
また御分霊を勧請した社では・・七年目ごとに御神体を
新にする慣例であったという。
この事から類推して当社の御神体が薙鎌であろうという
説を唱えた人もある。


◆一拳社(ひとこぶししゃ)
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祭神・一言主神(ひとことぬしのかみ)
神徳・一願成就の神

北野天満宮・社報86号によると・・
・・祭神は、葛城一言主神である。
 葛城の神やまつらむ 夜半の雪
         昌叱
の句があるようり、御事歴については、
古事記に
「雄略天皇、葛城山に登り幸でました時、
百官(つかさづかさ)の人等はすべて紅紐の
著(*つ)いた青摺(あおずり)の衣(きぬ)を
給(*たも)うて着た。
その時に向いの山の尾より、山の上に登る人が
あって、天皇の御幸(みゆき)に等しく、
その装いも同じである。
そこで天皇は
「この大和国に我を除いて王(きみ)はないのに、
お前は誰か」と問われると、
相手も同じように答えるので、天皇は大いに怒られ、
天皇始め百官が矢を射かけようとすると、
相手もことごとく矢を射かけようとした。
そこで天皇は、また
「それならば貴方の名を告げなさい。
その上で矢を放たう」といわれると、
相手は
「問われたからには先づ我が名を言う。
我は悪事(まがごと)も一言、
善事(よごと)も一言にいい離(はな)つ神、
葛城の一言主の大神である」と申されたので、
天皇は畏(かしこ)まれて、
「恐れ多いことである。
現人神(あらひとがみ)であるとは
存じませんでした」と仰せられて、
大御刀(おおみたち)弓矢などを始め、
百官の着ている衣服を脱がせて拝まれますと、
一言大神は手を打って、その捧げ物を受けとられた。
そこで天皇がかえられるときには、
「大神は奥山より長谷(はせ)の山の口まで
送ってこられた」とあり、・・・
(*日本書紀にも同じようにあり)
・・いづれにしても、上代において
神威顕著におわしました神であるとし、
舊事紀には素戔嗚神の御子であるとしている。
この神は文徳天皇、嘉祥三年(*850年)、
正三位を奉られ、延喜の制にも、名神大社に
列せられた。
今は奈良県、葛城座一言主神社、その他
土佐神社、松尾大社の境内に祀られている。


◆周枳社(すきしゃ)
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祭神・天稲倉宇気持命
(あめのいなくらうけもちのみこと)
豊宇気能媛(とようけのひめのみこと)
神徳・縁結び 夫婦円満の守り神

北野天満宮・社報87号によると・・
・・御祭神は、丹後二ノ宮ノ神、すなわち
宇気能媛神であるといわれる。
鎮座年月は未詳であるが、祭神記によると、
「愛法を人に与える神なり。
夫婦男女等の敬愛を此神に祈るなり。」とある。
さて丹後二ノ宮とは、府社 大宮売神社(式内社)で
中郡周枳村に鎮座(*現・京都府京丹後市大宮町周枳)、
天稲倉宇気持命、豊宇賀能咩(ひめ)命を祀り、
創始は不明であるが、上古の斎祀考によれば、
丹波道主命が奉じてこの地に鎮座と伝えられ、
貞観元年(859)3月27日に
「丹后国二従五位下ヲ大宮売神二従五位上ヲ授ク」
とあって、御神体は木造二体であると
記されている。
 この周枳(すき)については、
大嘗祭の悠紀殿、主基殿のことではないかと
思われる。
というには、類聚国史大八神祇部八に、
「弘仁十四年十一月唯斎院と筮二依リ之ヲ定ム。
以テ宮内省ヲ悠紀所ト為シ、
中務省ヲ以て主基所ト為ス。
借屋ヲ作リ之ヲ用ウ、但 斎場ハ例二依リ
北野二定ム」とあり、
また明徳記には、
「佐々木治部少輔高詮 七百余騎にて一条大路を
前に当て北野の森を後にして、大嘗祭畠に
陣を張る。」
また、源平盛衰記には
「大嘗祭会は十月の末に東河に御幸し玉ひ御禊あり。
大内の北野に斎場所を造り」と記されている。
その他 十訓抄、百錬抄にも「北野斎場所」と
あることから往古は、大嘗祭の神殿の悠紀殿、主基殿
を北野に造られたと思われる。
           と、ある。


◆宰相殿社(さいしょうでんしゃ)
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祭神・菅原輔正卿
(すがわらのすけまさきょう)
神徳・学業成就の神

北野天満宮・社報88号によると・・
・・神記には、一位殿とあり、
「第三の長者 輔正の御事也。
宰相殿社と申し、是也。
元徳に正一位を贈らせ被レ畢」
と記されている。【1】
鎮座年月日は未詳であるが、当宮の七摂社の
一である。
【1】菅公の系図1
菅公 一 高視・・・
  |
   一 淳茂 一 在射 一 輔正(宰相殿)

すなわち菅原道真公の曽孫 在射卿の子であり、
博学令聞(*れいぶん・知れ渡るの、意)にして
侍読(天皇に学問を授ける役)となり、
寛弘6年(1009)12月 85歳で卒す。
壽永3年(1184)3月27日 正二位を贈られ、
さらに元徳2年(1330)11月24日に正一位を
贈られたことは、後醍醐天皇が、平野、北野
両者に一度に行幸なり、と「増鏡」にあり、
さらに「古今著聞集」には、
北野宰相殿は天神四世の苗裔(*びょうえい・
遠い親戚)にて 圓融天皇の御侍読として、
家業を立派に継ぎ、誉れも高くおわしましたので、
天元4年(981)に大宰大弐に任ぜられ、
同5年9月に大宰府に着かれ、安楽寺を巡礼
されたところ、塔婆(*とうば・墓)はまだ
たってなかったので、御造営を早速始められたところ、
聖廟(天満大神)は大変お喜びになって、
永観6年(988)6月29日の御神宜に申されるには
「大弐朝臣 兼 式部大輔事は非常に奇特なことであり、
この菅原家のために名誉なことである。
大弐朝臣は嫡流、庶流 共の末孫で信仰心が篤く、
造塔 写経の大願をおこした企ては、
ことに嬉しい限りである。・・・」と仰せられた事を
安楽寺の別当 松寿という社僧が自ら筆をとり
書き記している。

そこで大宰府の長官である輔正卿は いよいよ信仰心を
おこして、二年の間に、多宝塔 一基を建て、
その中に胎蔵界の五仏を安置し、法華経千部を
納め奉った。
これを東の御堂と名付け、常に僧侶をおかれ、
怠りなくお勤めをなされた。
輔正卿は大宰府にいられる間、こうして安楽寺の
仏事や神事の儀式、なさねばならない寺務を、
三巻の書に委しく記されて宝蔵に納められたのが、
今も伝えられている。
任期が満ちて都へ帰られてからは、長徳2年に
参議となり、亡くなられて後は、神として
天満宮のほとりに、社を建て、祀られ給うた」
と記されている。・・   と、ある。

●増鏡(ますかがみ)は、南北朝時代の歴史物語。
鏡物(かがみもの)と云われる
四鏡(しきょう・大鏡、今鏡、水鏡、増鏡)
のひとつで、成立順では 最後に位置する。

●古今著聞集(ここんちょもんじゅう)は、
鎌倉時代に伊賀守橘 成季
(たちばな の なりすえ )
により編纂された世俗説話集で、
単に著聞集とも云い、今昔説話集、
宇治拾遺物語とともに日本三大説話集とされる。


◆和泉殿社(いずみでんしゃ)
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祭神・菅原定義卿
(すがわらのさだよしきょう)
神徳・学業成就の神

北野天満宮・社報89号によると・・
・・祭神は、・・菅公六世の孫、
高標の子である。【1】
【1】菅公の系図2
菅公 一 高視 一 雅親 一 資忠 一 孝標(* へ)
      *一 定義(和泉殿) 一 在良[次男]
      *一 孝標、女
[定義の妹で更級日記の著者]
  |
   一 淳茂・・・

明治10年3月21日 摂社に列せられる。
神記には「一位殿、第七の長者 定義の御事也。
和泉殿と申す此事也。
天徳、従一位を贈らせられ畢(*ひつ・おえる)」
とある。
雍州府志【1】には、「博学令聞、祖を恥かしめず、
筆を投じて、士籍入貢す。
寿永3年(1184)3月27日 正二位を贈らる」
と記されている。
【1】雍州府志(ようしゅうふし)
全10巻の山城国(現京都府南部)についての
初めての総合的・体系的な 地誌。

また北野誌の系図、定義の項には、和泉守文博士、
冊大学頭、長者、康平7年(1064)11月27日卒す、
年53とある。・・・
なお、定義の妹に、孝標の女として、有名な平安中期の
上流作家がある。
母は藤原愉寧であり、祐子内親王【2】の侍女として
「源氏物語」に心酔し、夕顔、浮船にあこがれ、
【2】祐子内親王(ゆうしないしんのう)
平安中期から後期にかけての後朱雀(ごすざく)天皇
の第3皇女。
30歳をすぎてから、橘 俊通と結婚、
著書に「更級日記」「浜松中納言物語」
「夜半の寝覚」などがある。・・・
(註)輔正(前述、菅公の系図1参照)の
一位に対し、定義を新一位ともいう。 と、ある。


◆三位殿社(さんみでんしゃ)
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祭神・菅原在良卿
(すがわらのありよしきょう)
神徳・学業成就の神

北野天満宮・社報90号によると・・
神記には第十の長者 在良の御事也、大輔殿と申し、
新一位殿 定義の御子なり、元徳に三位を
贈らせられ畢(*ひつ・おえる)。
以上宰相殿社、和泉殿社、三位殿社は
菅原の長者也。
とある。

雍州府志、本朝諡号雑記【1】には、
在良は定義の次男にして、善く家業を継ぎ、
鳥羽帝の侍読にて翰林学士【2】に任ぜられ、
文章博士となり、摂津守策、式部大輔であり、
儒者にして、母は実方式部中条女で、
保安3年(1122)10月23日 薨ず、80歳、
菅廟の傍に従祀す。
後醍醐天皇の天徳2年(*958年)、
銀青光禄大夫黄門侍郎を追賜す とある。
【1】 本朝諡号雑記(ほんちょうしごうざっき)
天皇以下、公卿等の諡号(しごう・生前の事績へ
の評価に基づく名)を記した書。
【2】 翰林学士(かんりんがくし)
主に詔書の起草に当たった天子直属の役所の学士。

その他 古今著聞集には、永久3年(1115)7月5日、
式部大輔 在良朝臣が御侍読として、始めて御前に
参り、先づ朝詠された。・・・と、書かれている。
また北野文叢六十四には、式部大輔在良という人、
三条壬生に住んでいられたが、ここは昔 菅原道真公も
住んでいられてとことであって、道真公が夢の
お告げで「あなたは住んではならぬ」と仰せられたが、
在良が年老いて病みついて後、果たせるかな
この家は焼けてしまったときいている。

在良朝臣集が北野文叢書九十四には所載され、
主な歌に、
 花落薫衣
散りかかかる花や むかしの わぎもこ【3】が
かさねし袖の 匂ひ成らむ
【3】 わぎもこ(吾妹子)
わぎも(吾妹)と同じで、男性が妻や恋人を、
また一般に、女性を親しみの気持ちを込めて
呼ぶことば。

なおこの在良は唐橋家の先祖であって、
林丘寺寺門跡 唐橋慈正尼、
新宮神社宮司 唐橋在知氏(子爵)は
いづれも故人となられたが、最近まで当宮の
献詠歌、余香祭に お世話下さった方である。
           と、ある。


◆大判事社(だいはんじしゃ)
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祭神・秋篠安人卿
(あきしののやすんどきょう)
神徳・立身出世の守り神

北野天満宮・社報90号によると・・
・・神記には、章行(あきゆき)朝臣也。
天神を信じ申て、御眷属(*けんぞく)と成也。
安楽寺(*太宰府天満宮は、かつて安楽寺天満宮
とも呼ばれる大寺社だった)等には其例多し、
御本地不動とある。
梅陰随徳録には、祭神を秋篠安人ともいっている。
この人のことは、北野文叢 上巻三十に、
光仁天皇天応元年(*781年)
野見宿祢(のみの すくね・国技相撲の神。
殉死を埴輪に替えた土師(はじ)氏の祖。
菅原 道真公の先祖)
の後、遠江介土師の宿祢古人(すくね ふるひと)、
散位土師 宿祢道長(すくね みちなが)の
二人が、住んでいる所の菅原の名により、
土師を菅原の姓に改めんことを朝廷に願い出て、
許されてから、桓武天皇の延暦元年(*782年)に、
少内記、正八位 土師 宿祢道長も、土師を改め、
秋篠姓を賜った。
延暦4年(785)冬12月 勅があって、
菅原宿祢古人は侍読であった功労により、
四人の子供にそれぞれ着物や食物を賜り、
学業に励むよう仰せられた。
すなわち、奨学金の支給である。
また延暦9年冬12月に詔があって、
菅原真仲と、土師菅麻呂に、以後
大枝(江)朝臣と名乗るよう仰せられた。
菅原宿祢道長と、秋篠宿祢安人に詔(みことのり)
されて、二人に朝臣と名乗るよう申され、
土師宿祢諸士には、大枝朝臣という姓を賜った。
とある。
北野文叢 巻三十七の系図には、
秋篠安人は、土師宇庭(従五位下 、遠江介)
の子で、土師古人とは異母兄弟で、
嵯峨、仁命 二帝の侍読であり、大内記、少内記、
佐兵衛、左少弁、左近中将、少納言、勘長官、
大判事、春宮大夫、参議、従三位西大寺長、
備前、備中守に累進し、御社名も、
官職の大判事をもって名付けられたのであり、
裁判の長官を掌られたものと思われる。
なお章行朝臣については、こんごの調査を要す。
         と、ある。

連棟七社前の「源平咲き分け」
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 (北野天満宮の全貌17 に続く) 

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