京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 17(御土居と周辺)

京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 17
(御土居と周辺)

紅葉の紙屋川
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手向山の楓樹の東南に
神明社と文子社 が、ある。

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●神明社(しんめいしゃ)
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祭神・天照大御神、豊受大御神
神徳・家内安全・家業発展

北野天満宮社報・16号によると・・
式内社(註1)であって、祭神は内宮、外宮で
あり、高橋氏の祖神ともいわれる。
[註1]
「延喜式」神明帳に記載されている神社、式外社に
対するもので、全部で3132座、2861所
(座は祭神の単位、所は社の数)これらは、
「延喜式」編纂当時 官幣もしくは国幣になっていた
もので、それが決定されたのは だいたい
元慶(877-884)の頃までと推定される。

鎮座年月は詳(*つまび)らかではないが、
口碑(*こうひ・言い伝え)によると、
高橋神社は元、大和国添上郡にあったが、昔、
愛宕郡と葛野郡との境であった当宮より二丁余
北の神明町に地に遷祀されて、神明社と称したが、
文化10年(1813)7月3日 現在地に御遷座に
なったといわれる。

式内社 高橋神社については、姓氏録によると、
「神別にして、高橋 連(むらじ)は神饒速日命
(にぎはやひの みこと)[ 註2] 七世の孫にて、
大新河命之後也。」とある。
[ 註2]
天忍穂耳尊(あめのおしほみの みこと)の子、
天孫降臨に先だち河内国に降り、大和国鳥見(とみ)の
白庭山に遷って長髄彦(ながすねひこ)の妹
御炊屋姫(みかしやひめ)を妃としたが、
神武天皇 東征の時、長髄彦を誅(*ころ)して天皇に
帰順したという。
物部氏の始祖と伝える。

また親長卿記【1】には、
「明應5年正月16日、五霊高橋神明に参詣す。」
とある。
【1】 親長卿記(ちかながきょうき)
室町時代後期、公家・甘露寺親長の日記。
当時の 政治状況や社会・経済の動向を記した
貴重な史料。

内宮、外宮については、伊勢市にある皇大神宮と、
豊受大神宮の総称で、
内宮は天皇の祖神とされる天照大神を祭り、
垂仁天皇の時、現在の地に創建されたといわれ、
外宮はトヨウケオオカミを祭り、雄略天皇の時、
現在の地に御饒津神(みけつかみ)として鎮座と
伝える。
皇室の特別の崇敬待遇を受け、始め一般の私幣は
厳禁され、のち次第に一般の参宮もはじまり、
中世には御師(おし)が全国の信者を導き、
近世には伊勢講などによる民間の参詣が盛んとなり、
御陰参りも起こった。
明治以後は官社、諸社の第一に位する神宮とされ、
現在は全国約8万の神社を包括する神社本庁の
本宗である。
           と、ある。

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●文子社(あやこしゃ)
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祭神・多治比文子(たじひのあやこ)
(相殿)
神 良種(みわの よしたね)
太郎丸(たろうまる)最鎮(さいちん)

北野天満宮社報・16号によると・・
南横の文子社は、明治15年8月の創立であって、
毎年6月9日の本社御鎮座記念日である。
宮渡祭には このお社に奉饒、宮司以下列拝する。
御祭神は多治比文子【1】であって、
相殿に神(みわ)良種、太郎丸、最鎮の霊を祀る。
従って当社は北野に鎮座の功労者の霊の招魂社
と思われる。
【1】北野天満宮の全貌 13文子天満宮を参照。
           ・・と、ある。

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連棟7社の南隣りには

●史跡 御土居の紅葉 がある。
この石碑の裏面には、
 平成十九年十月吉日
 史跡御土居の紅葉 公開記念之建
     とある。

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その左側に
○豊臣秀吉公の都市遺構
史跡(しせき) 御土居(おどい)の
説明板がある。
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それによると・・
御土居とは天正19年(1591)豊臣秀吉公が、
長い戦乱で荒れ果てた京の都市改造の一環として
外敵の来襲に備える防塁と、鴨川の氾濫から市街を
守る堤防として市街を守る堤防として市内四囲
約23キロにわたり築いた土塁のことです。
御土居は当宮を含め九か所、史跡として指定されて
いますが、特に北野天満宮境内の御土居は平安京の
北西(乾)にあたる最も重要な箇所とされ、
「切石組暗渠(あんきょ)」が残存するなど、
その歴史的重要性が指摘されています。

切石組暗渠
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千有余年の昔、平安京の大内裏が現在の千本丸太町
にあった頃、北野天満宮東側には西大宮川(松葉川)が
流れており、その水は大宮御所の御用水として
使用されていたことから、北野は特に清浄の地と
されました。

天正19年、秀吉公は御土居を築くにあたり、
この清浄なる境内に水が溜まらないように、
洛中で唯一この地だけに御土居を貫通する
約20メートルもの暗渠(あんきょ)(悪水抜き)を
造り、境内神域を守りました。

昭和40年に「史跡」の指定を受け、悠久千年の都・
京都の都市計画の重要な遺稿として受け継がれてきた
御土居は、四季を通じて魅せる紙屋川の
美しい景観とともに境内西側に広がっています。
      と、ある。

この説明板の左側・御土居の入り口の右手前に
●石製灯篭
(慶応3年 禁裏駕輿丁・安元秀綱奉納)
が、ある。

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北野天満宮・社報
(季刊v.13新年号・平成29年1月)
によると・・
・・朝廷と北野天満宮との密接な結びつきを示す
事実が北野祭礼の中に存在します。
・・この禁裏駕輿丁(きんり かよちょう・
*朝廷に所属し、高貴な人物の載る駕輿
(がよ、 鳳輦や輿の意)を担ぐことを主たる
任務とした職員)
は、左右近衛府・左右兵衛府の四府に所属する
ことから、「四府駕輿丁」とも呼ばれますが、
通例は、天皇が御所から外出する際、
天皇が乗る輿(*こし)を舁(*か)くひとびとでした。
このような禁裏駕輿丁の北野祭礼への奉仕は、
応仁・文明の乱によって祭礼が中断に追い込まれる
まで持続し・・中絶から四百年程度、孝明天皇の
段階で北野祭礼は臨時祭として復興を遂げます。
慶応3年8月に左右近衛府駕輿丁の代表である
安本秀綱という人物が寄進した石製燈籠が今も
境内に残っていますが、これは幕末から近代に
おける禁裏駕輿丁と北野天満宮の再接続を
雄弁に物語っているのではないでしょうか。
(京都文化博物館学芸員 西山 剛 筆)
  と、ある。

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御土居の入口から階段を昇りきった右側(南面)に、
菅公の歌碑 が、ある。

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左側・下にある説明板によると・・
●史跡 御土居のもみじ 歌碑
菅公御歌
      ぬさ      たむけやま
 このたびは 幣もとりあへず 手向山

 もみじ にしき かみ
紅葉の 錦  神のまにまに
   (古今和歌集より)

菅公が昌泰元年(898)、宇田上皇の大和の国
巡幸のみぎりに供奉せられ、手向山八幡宮
(*たむけやま はちまんぐう・*奈良市雑司町。
東大寺大仏殿前の東の正面にあり、北には
東大寺法華堂(三月堂)がある。
また、この境内には、上記と同じ歌の歌碑と
菅公の腰掛石がある。)
に参拝された折にお詠みになられた御歌である。

この意は、手向山八幡宮への突然の参拝に、
お供物を用意いたしませんでしたが、美しく
織りなされた錦のような境内の紅葉を、御神前へ
お手向けいたしましょうというものであり、
梅と同じく紅葉もこよなく愛された菅公との
御縁深き逸話として語り継がれている。
 書家 日比野 光鳳
  日本芸術院会員・文化功労者・日展顧問

            と、ある。

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また、すぐ右側には、大きな欅(けやき)の木 
が、ある。

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説明板によると・・
〇御土居の大欅(ケヤキ) 東風(コチ)
樹齢 およそ600年 幹回り6メートル
このケヤキは豊臣秀吉がここに御土居を築いた
当時から成長を続けてきました。
京の地より天高く太宰府へ東風を吹かせ続けて
います。
    と、ある。

また、この大欅前には、位置関係がよく分かる
○史跡御土居 もみじ苑イラスト マップ
がある。
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御土居の大欅の左側には、
○舞台 が、見える。
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舞台の背面(東側)には、
○茶室・梅交軒 が、ある。
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一方、舞台からは、右の階段下に
紙屋川の美しい景観を際立たせる
●鶯橋(うぐいすばし)が、ある。

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説明板によると・・
命名は文字通り季節にはこのあたりを鶯が
囀(さえず)ることに由来する。
昭和8年4月に現在の位置より少し上流に
架けられたが、昭和10年の豪雨で流失、
その親柱のみが現在の場所あたりに流れ着いていた。
平成19年11月、史跡の紅葉苑開苑に際し、
木製太鼓橋として再建したものである。
     と、ある。

青もみじ、の頃の鶯橋。
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青もみじの頃、の紙屋川。

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紅葉の頃、の紙屋川。

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 (北野天満宮の全貌18 に続く)



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