京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 19(絵馬所の西側)

京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 19
(絵馬所の西側)


○豊国神社、一夜松神社、野見宿祢神社を
合祀した社殿の左側(南側)、東面には、
●一之保神社、奇御魂神社を合祀した社殿がある。

画像


◇一之保神社(いちのほ じんじゃ)
祭神・菅原大神(菅原道真公)
神徳・学得成就

画像


説明板によると・・
この神社は、道真公が大宰府に残された手作りの
木造を(*西ノ京神人【1】が)持ち帰り、
【1】北野天満宮・社報96号の(註)によると、
(*西ノ京神人は)俗体をもって北野に奉仕する
団体で、「勘仲記」に弘安11年(1288)8月1日の
条「西ノ京神人之訴訟」とあるのが初見で、
現在は七保回を結成、梅花まつりの「梅花御供」と、
瑞饋祭の「甲(かぶと)の御供」奉饋を毎年奉仕され、
梅花祭の2月25日には、この社前で祭典が
行われる、とある。

西の京(京都市中京区南西部天満宮の氏子区域)
北町に建てた小さな社(やしろ)
に納め、これを「安楽寺(あんらくじ)天満宮」
と称して祭られていたもので、
明治(*明治6年7月21日)になって
当地へ遷された。
(*京都で菅公を祭った最初の社であるといわれる。)

「安楽寺」とは、菅公の墓所となった寺で、
大宰府天満の起源とされるが、
菅公のご遺徳を偲(しの)ぶ人々によって、
この寺に因(ちな)んだ神社名が付けられていた
と思われる。
         と、ある。

北野天満宮・社報96号によると・・
・・また一名 ほとゝぎす天満宮ともいわれる。
これは文安元年(1444)4月13日 北野天満宮
炎上の時、当 絵馬所の杜鵑(*ホトトギス)が、
自ら飛びでて、野寺の社の松の上にいたり、
高く鳴いたという。
それ以来、安楽寺天満宮の所蔵となって、
同社では、其形を刷って、痘瘡(*とうそう・
天然痘のこと)の御符として授与した。
現在この杜鵑(ほととぎす)は当宮宝物殿に
飾られている(社報27号)。
故に通称・杜鵑天満宮といい、
今 一之保神社の前の石鳥居は、元は
仁和寺88ヶ所の内、弁天前にあったのを
明治12年ころに買い入れたものといわれる。
なお一之保については、往古 西ノ京に七保と称し、
七ヶ所の神供所 すなわち、一ノ保安楽寺、
二ノ保東光寺、三ノ保長宝寺、四ノ保新長谷寺、
五ノ保満願寺、六ノ保阿弥陀寺、七ノ保成願寺を
定め、従前 安楽寺に奉仕したものを七組に分け、
各保に属し、神事に奉仕し、七保の称は、
大永3年(1523)6月、「北野天満宮文書」に、
「西ノ京七保神人中人夫役之事」とあるのが
初見であるが、中古に二ヶ所廃絶し、
残り五ヶ所の内、四ヶ所も追々廃絶、大破し、
一之保のみが残った。
         と、ある。


画像


◇奇御魂神社(くしみたま じんじゃ)
祭神・道真公の奇御魂
神徳・文芸・歌道上達の神

説明板によると・・
『奇御魂』とは さまざまな不思議や奇跡を
よびおこす特別な力を持った神霊のことで、
鎌倉時代の中頃 菅公のご神霊が、東福寺の開祖
圓爾国師(えんにこくし)の前に現れ
『私はこのたび宋に飛び、一日にして禅の奥義
(おうぎ)を修得した』と告げられた。
その時 菅公は唐衣(からころも)をまとい手に
一輪の梅の花を持たれていたため、以来このお姿を
『渡唐(ととう)(宋)天神(てんじん)』と
称え祭るようになった。

また昔 天満宮の境内でさかんにあった法楽連歌
(ほうらくれんが)(天神さまをなぐさめるため
人々が集い和歌を詠(よ)みあう会)は、
この『渡唐天神』の肖像(みすがた)の前で
行われたことにより、菅公は歌道・文芸上達の
守護神として崇敬されるようになる。
          と、ある。

北野天満宮・社報97号によると・・
・・奇御魂(くしみたま)については、
天神の渡唐による業(わざ)であるが、
この説話は、室町時代に起り、禅宗と結合した
ものである。
この信仰がとり入れられたのは、花山院長親の
「両聖記」にあって、鎌倉時代の中ごろ、
四条天皇の仁治2年(1241)に、京都東福寺の開山一
圓爾國師が宋より帰朝して、博多の崇福寺に住んで
いたが、ある夜 菅公は國師の前に出現して禅を問い、
自ら弟子たらんことを求めた。
そこで國師は、我は入宋して佛鑑(無準)を
師と仰いだので、この人に参禅するのが宜しかろうと
答えた。
そこで公はその指示通り、即日 神通力を発して、
宋國怪山に渡り佛鑑に見(まみ)れて衣鉢を受け、
即夜 ふたたび國師の前に出現して参禅の旨を告げ、
身につけた嚢(ふくろ)を示して、
佛鑑より渡された法衣を納めてあると告げた。
というもので、この渡唐天神像は、仙冠、道服に
袈裟を着けて嚢を帯び、手に一枚の梅花をかざす
立像で、画面に賛のあるものが多く、これにより
天神信仰が普及するにいたった。
なお明治元年まで、この連歌所に円照無準の
傳衣塔(五輪)があったが、今は東福寺山内に
遷された。・・・
   と、ある。



一之保神社、奇御魂神社を合祀した社殿の
左側(南側)、東面に
●稲荷神社がある。

画像


◇稲荷神社(いなり じんじゃ)
祭神・倉稲魂神(うがのみたまのかみ)
猿田彦命(さるたひこのみこと)
    大宮女命(おおみやめのみこと)
神徳・五穀豊穣、商売繁盛、火難除け

説明板によると・・
祭神は「稲生(いねな)りの神」と称えられる
通り、五穀(ごこく)(米・麦・泡・豆・稗(ひえ))
豊穣(ほうじょう)をつかさどり、また商売繁盛の
守護神としても代表的な神である。
 当社はまた、昔この付近に大火があった際、
この神社の手前で火の手がぴたりと止まったという
伝えによって『火除(ひよ)け稲荷』とも呼ばれ、
信仰を集めている。
       と、ある。

画像


北野天満宮・社報70号によると・・
・・現在地には西ノ京供所より明治6年7月21日に
移され、大正6年 瓦葺を檜皮葺に改められた。
元は、大野稲荷ともいわれ、初午祭は盛んで、
戦前までは上七軒の芸妓衆の名を書いた五色の
幟(*のぼり)を社前に建て 終日参拝が絶えなかった
といわれる。
・・社殿が朱塗でなく、白木であるのが特色・・
御祭神は・・元明天皇和銅4年(711)秦公伊呂具
(はたの きみいろく・*秦氏の祖先)が鎮守の神として
山城国紀伊郡に2月初午の日に創始したことから、
全国津々浦々 この日が祭日になっている。
因みに、「渓嵐拾葉集」(*けいらん しゅうようしゅう・
1311年から47年までの天台宗の伝承、その他、政治・
経済・文化などを記録した仏書。)によると、
北野天神が雷電となって内裏に乱入--- 障碍
(*しょうとく・妨げること)をなそうとしたとき、
公卿の僉議(*せんぎ・評議)があって
今日は三十番神(註)は何番に当っているかと
いっていると、そのとき稲荷大明神が雲に乗って
来現し、天神と神威を争って障碍がなかったので
北野と稲荷は仲が悪く、北野参詣の日には稲荷に
参詣しないということが記されている。
また「戴恩記」(たいおんき・江戸前期の歌学書)にも
菅丞相が百千の雷となり朝廷を恨み
本院時平公をコロし、昼夜雨風やまず、
雷鳴のため御殿も裂けるばかりであったとき、
天皇は今日の番神は如何なる神かと貞信公(藤原忠平)
に問われると、太刀の柄頭に城狐が現れたのを見て、
稲荷大明神の御番と答えると、ほどなく雷を止み
雨も晴れてしまったという。
         と、ある。

画像



稲荷神社の左側(南側)、東面に
●猿田彦社がある。

画像


◇猿田彦社(さるたひこしゃ)
祭神・猿田彦神(さるたひこのかみ)
神徳・交通安全
(相殿)大宮売神(おおみやめのかみ)
神徳・芸能・舞踏上達

説明板によると・・
猿田彦神は、日本の国をよく治めるように
という天照大神の命令を受けた瓊瓊杵命
(ににぎのみこと)が、高天原(たかまがはら)
(天上にある神々の世界)より地上に降り
立たれる際、先頭に立って道案内をした神であり、
この神話をもって交通安全の神として崇(あが)め
られてきた。
身の丈(たけ)二メートルをこえる巨体と長い鼻を
持ったこの神は、昔から「天狗さま」として
親しまれている。
大宮売神は、天鈿女命(あめのうずめのみこと)の
別名、弟神 素戔嗚命(*すさのおのみこと)の
乱暴なふるまいを嘆き悲しまれ、
天岩屋戸にお隠れになった天照大神を、軽妙な踊りで
なぐさめた女神であり、芸能上達の守護神として
崇敬される。
愛嬌のある顔立ちをされた神で、わが国に伝わる
「おかめ」というユーモラスな女性の顔は、
この女神をモデルにしたものである。
       と、ある。

左・猿田彦社。 右・稲荷神社
画像


北野天満宮・社報48号によると・・
・・元西ノ京供所の地にあったが、明治6年
7月に当地に移された。
猿田彦は国の神の一柱で、瓊瓊杵尊の降臨のさい、
天の衢(やちまた)にいて、
邪眼をもって神々を恐れさせたが、
天鈿女命(あめのうずめのみこと)に制せられ、
天孫の先頭に立ち、のち、筑紫の日向の高千穂の
峯に導き奉り、伊勢国 五十鈴川上に鎮座された。
容貌魁偉で鼻長七咫(あた)身長七尺余と
伝えられる。
日本書紀には、俳優(わざおぎ)または
衢の神とした。
中世にいたり、猿・申が同音相通ずるために
庚申の日にこの神を祀り、また同神が天の八衢に
立って天孫を嚮導(*きょうどう)した故事により、
道祖神と結びつけた。
当宮の神幸祭にも導山として行列の先頭に立ち、
三基の鳳輦(*ほうれん)に供養する。

相殿(あいどの)の大宮売神は太玉命の子で
天鈿女命の別名であって、天照大神、
天石窟に御幽居の時、巧みに俳優の行為を作し、
身振りおかしく歌舞伎したので、八百萬神共に
笑い、あまりに石窟の外が賑やかなので、
天照大神、不審(いぶ)からせ給い、
磐戸を細めに開けて窺わせ給うところを
天手力男命が引出し奉ったとあり、
後に子孫の猿女が、槽上に上って宮中で
歌舞するのはこれに倣(なら)うたものと
伝えられ、芸術の神とされる。
俗神の天狗と“おかめ“は、この二神をいい、
各地のお宮で祭礼に登場する。
現今猿田彦神の総社に伊勢市の椿の宮が、
大宮売神に京都府中郡大宮町
(*現・京丹後市大宮町周枳(すき))の
大宮売神社がある。・・  と、ある。

画像






絵馬所の西側、北面に
宗像社がある。

画像


◇宗像社(むなかたしゃ)
祭神・田心媛神(たごりひめのかみ)
湍津姫神(たぎつひめのかみ)
市杵島姫(いちきしまひめのかみ)
神徳・交通・海上運輸安全

説明板によると・・
ご祭神は、福岡県の北西部 玄界灘(げんかいなだ)
に臨む陸地(現在の宗像郡(むなかたぐん)玄海町)
とその沖あいにある二つの島にご鎮座になられた
「宗像の三女神」とよばれる神々である。
太古よりこの海域は、大陸との交流において
重要な道すじにあたり、海上交通の要所に
鎮(しず)まる宗像の三女神が、道をつかさどる
最高神として手篤(てあつ)く祭られてきた。
当社は、昔この社殿の西に池があり、水底にご鎮座
になっていたご神体をこの場所に遷(うつ)した
ものと伝えられる。
        と、ある。

画像


北野天満宮・社報99号によると・・
・・社は北向きで、安芸の厳島神社も同じく
北向きでありご祭神も同様である。
・・鎮座年月は未詳であるが、天祖 天照大神が
素戔嗚尊(*すさのおのみこと)と誓約(うけひ)
(*神にかけて誓うこと)のさい、素戔嗚尊の十握の剣
(*とつかのつるぎ・十束剣、十拳剣などと表記される。
束は、拳1つ分の幅の意味から長剣の一般名詞と
される。日本神話に多く登場する。)
を請け取って、これを三段に折り、
天真名井(*あまのまない・地名)に濯(*すす)ぎて
嚼(かむ・噛む)みて、吹き棄て給うた気息
(*きそく・息)より成りすました神で、天孫を助け、
天孫のために斎かれ(いつかれ・いつく、は、
心身の汚れを去り神に仕えること)給うために、
天降りました神たちであって、
湍津姫の後である阿田賀田須命(*あだかたすのみこと・
赤坂比古命と伝えられる。和爾神とも。)の
裔孫(*えいそん・遠い子孫)
胸形君(*胸形君徳善・むなかたのきみとくぜん・
7世紀前半の宗像君一族を代表する人物とされる。)
が斎(いつ)き(*神に仕え)奉った。
神功皇后 三韓征伐の時、神験とくに著しかったので、
爾来、事ある時には、必ず幣使【1】を奉られた。
【1】 幣使(へいし)
朝廷から毎年、神社に幣帛(へいはく・神前に
奉献するもの)を捧げるために遣わされる祭使のこと。

雄略天皇は新羅(*しらぎ・古代、朝鮮半島南東部の国)
討伐に際しても、この神を祀らしめ給うた。
神位は仁明天皇 承和7年(*840年)に従五位下を
奉られてから、以来 貞観元年(859)には累進して
正二位にいたり、天慶(*てんぎょう・938-946)年中
には、正一位勲一等に昇られた。
延喜(*901-922年)の制には、名神大社に列し、
地方屈指の大社とせられた。
ご本社は、福岡県宗像郡田島村に、辺津宮すなわち
御祭神 湍津姫神を祀り、大島村に、中津宮、
御祭神 市杵島姫を、沖ノ島に、沖津宮、御祭神
田心媛神を奉祀し、代々皇室、幕府武将の崇敬をあつめ、
元徳2年(1332)には、幕府中津宮を造営し、
弘治3年(1557)4月、社殿 廃燼に帰したが、
天正6年(1578)5月、大友氏貞 造営し、
天正18年(1578)、小早川隆景は拝殿を、
次いで黒田氏は世々 社殿の修造、寄進を怠らず、
明治34年には官幣大社に昇格した。
例祭は11月15日に行われる。
なお各地に宗像神社は鎮座されている。
と、ある。

(註二)神にかけて誓うこと。
日本書紀、神代巻に、素戔嗚尊が天照大神の御詰問
に対し、私の子が女であれば濁れる心あり、
男であれば清き心なりと、答えられたのが
最初である。
(*現代では、考えられない男○女○であるが・・)

画像





絵馬所の右側(西側)、東面に
●大杉社 がある。

画像


◇大杉社(おおすぎしゃ)
当宮随一のご神木

大杉社幹のみ残し、最上部に屋根で蓋が
してある。

画像


説明板によると・・
当宮随一のご神木である。
室町時代に作成された
「社頭古絵図(しゃとうこえず)」には、
すでに樹齢数百年らしき二又の杉の巨木が
描かれており、これより推定しても一千年以上の時を
経たものと思われる。
神仏習合(しんぶつしゅうごう)の室町期には、
「聖歓喜天(じょうかんぎてん)」の宿る諸願成就の
神木として一層の信仰を集めた。
のち落雷によって惜しくも二又の幹はくじけ、
根幹を残すのみとなったが、その威容は多くの崇敬者に
よって守り継がれ、いささかも衰えることはない。
    と、ある。

北野天満宮・社報91号によると・・
・・この大杉はおそらく千年以上経ち、
菅公 御在世時分よりあったと思われる。
というには、文安元年(1444)の社頭古絵図に、
境内第一の大木に描かれ、この図からして
此の時すでに、五、六百年以下のものではないから、
文安元年より昭和55年(*社報99号、発刊時)
までで、536年経つから前後合算して、
一千年以上になるわけである。
 ともあれ この杉は、看聞御記(御崇院 著)の
応永23年(1416)4月25日の項に、
「北野社に今夜怪鳥あり、声は大竹をひしぐが如く、
社頭も鳴動す。
二又の杉に居て鳴く。
参詣の通夜の人、肝を消す。
宮仕の一人 弓を以って射落とす。
其の形、頭は猫、身は鶏なり。
尾は蛇の如く、眼は大いに光あり。
希代の怪鳥なり。
室町殿へ注進申した処、射た宮仕に対し大変
関心され、錬貫(ねりぬき)一重、太刀一振
下され、鳥は河に流す様 仰せられた」と
誌されている。
また神記には、「長亮3年(1489)此杉をば
御神体の杉と言い伝え、聖歓喜天であると申し、
万事の願いは叶えられ、神は杉に降臨され、
杉は正直の形故、神は正直の頭に宿る所以で
ある」と書かれている。
  なおこの杉は、後に雷火に討たれ、
両幹もくじけ下部に大空洞を生じ、ために年齢の
割には大きくならず、昭和8年8月ころには
樹勢衰え、室戸台風により昭和10年には、
遂に枯死し、幹のみ残して、屋根の蓋をしたと、
元山田新一郎空自が、梅陰随得禄に書きのこされて
いる。
   ・・・と、ある。

室町末期 社頭古絵図(狩野松栄(1519-1592)・画)
北野天満宮・社報91号より
黄色の囲み部分。
右の塔は、かつての多宝塔で、
現在の宝物殿辺りに該当する。
また、右上の囲みは、絵図の上部左隅、
つまり「天狗山」の位置の拡大図で
鳥天狗が描かれている。

画像



これをもって、北野天満宮の本編を一応、
閉じさせていただきます。
以降は、北野天満宮の全貌・関連 に続きます。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック