京都史蹟散策121 北野天満宮の全貌・関連(御旅所、七之保社)

京都史蹟散策121 北野天満宮の全貌・関連
   (御旅所、七之保社)

●北野天満宮・御旅所

【位置】上京区御前通今出川上る馬喰町
【交通】市バス・北野中学前、徒歩7分

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本社より南十町西寄りにある。
御旅所は、お神輿を担いで神様が巡幸する際、
一時的に神輿を置いておく所。
ずいき祭は、村上天皇の御代・天慶9年~康保4年
(946~967) に始まるとされている。

境内の北東に一角に御輿岡神社がある。
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説明板によると・・
御輿岡(みこしが おか)神社
祭神 大巳貴命(おおなむちのみこと)
神徳 土地の守り神

祭神 少彦名命(すくなひこなのみこと)
神徳 医薬・病気平癒の神

祭神 菅原大神(菅原道真公)
神徳 学徳成就の神

太古 この付近は神楽岡と称する大きな森林であり、
大巳貴命・少彦名命の二神、は鎮守の神として
祭られてきた。
天歴元年(947)北野に天満宮が創建されて、
初めて神輿がこの場所に渡御したことにより
御旅所と定められ、地名も御輿岡に改称された。
(*御旅所前の細流を今なお神楽河と云う。
又、この地は代々藤原氏の所領で、宇治大納言隆国の
御代に至り、北野天満宮に寄付され、以後、足利時代
までは境域約7町歩もあるも、文安・応仁にわたる
戦乱で変じ、遂に昔の1/50にも及ばなくなった。)
さらに、菅神を合祀して北野天満宮の境内外末社
となる。
慶長12年(1607)(*豊臣秀頼公が片桐且元を奉行とし)
天満宮本社造営の際、西ノ京氏子の人々が
これを祀って新鮮な農作物で神輿を作り、
9月4日神前に奉納したのが
今に受け継がれる ずいき祭の発祥である。

毎年ずいき祭期間中の10月1日より3日まで、
当所には三基の鳳輦(ほうれん)とずいき神輿が
駐輦し八乙女舞(やおとめまい)や献茶祭などの
祭典・行事でにぎわう。
         と、ある。

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北野天満宮社報・100号によると・・
・・さて明治6年になって、慶長年間再興の神殿は
大破し、境内に繁茂した松の巨木は、鉄道用材に
伐採せられ、はなはだしく風致を害したので、
古代の神殿を取り払い、元七保の神供所にあった、
神殿、拝殿、鳥居、石燈籠をここに移し、境内の
整備をした。
こうして明治8年、梅風講社を組織し、
渡御祭を再興し、10月1日を神幸、4日を還幸の
式に定めた
爾来 紆余曲折はあったが、一千年祭すなわち
明治35年を期として、整備を企画し、本殿、拝殿を
修繕し、神輿殿、神饌所、勤番所を新築し、
大いに境内の整理を行い、旧例に復した。
      と、ある。


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●安楽寺天満宮(一之保社)

【位置】上京区北町,天神通仁和寺街道下る三筋目北側
【交通】市バス・北野中学前、徒歩10分

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案内板によると・・
ようこそ安楽寺遺趾へ。
我々の主人(あるじ)、菅原道真公は、
藤原時平(ときひら)公のざん言(げん)により、
昌泰(しょうたい)4年(901年)、
太宰権師(だざいのごんのそち)に左遷となり、
我々の先祖(おやたち)は、同行いたしました。
藤原時平公の弟、忠平公と菅原道真公は、大親友で、
御兄弟の関係もありますが、道真公が、
九州太宰府へ出発される際、京の端まで、お送り
くださいました。
菅公は延喜3年(903年)2月25日に、亡くなりました。
我々の先祖(おやたち)に遺言を託されました。
京の都へは、帰らない。
当時、菅公は、朝敵でいた。
亡骸(なきがら)を牛に引かせ、どこかで、お世話にと
動きましたが、なかなか受け入れは、ありませんでした。
牛が疲れて、へたりこみました。
近くに、安楽寺と言う、お寺があり、時の住職に事情を
説明し、受け入れていただきました。
先祖(おやたち)は、安楽寺の住職に、もし、京の都へ
帰られたら、菅公、手彫りの御自身像を祀(まつ)りたい。
朝廷の帰京の居かが出れば、都で、安楽寺の寺号を、
名のる事の許可を、得ました。
太宰府から先祖(おやたち)は、菅公が亡くなったと、
藤原時平公に、朝廷への口ききを、お願いし
延喜5年(905年)、ここ北町の地に帰ってまいりました。
これが、京都における最初の天満宮と、言われています。
(上京・史蹟と文化、第40号、上京区役所・
出雲路敬直氏の文を、一部引用させていただきました。)
その後、先祖(おやたち)は、第一之保から
第七(なな)之保までの御供所(ごくしょ)を、
建てました。
  ◆へ、続く。


北野天満宮・社報96号によると・・
・・一之保については、往古 西ノ京に七保と称し、
七ヶ所の神供所 すなわち、一ノ保安楽寺、
二ノ保東光寺、三ノ保長宝寺、四ノ保新長谷寺、
五ノ保満願寺、六ノ保阿弥陀寺、七ノ保成願寺を
定め、従前 安楽寺に奉仕したものを七組に分け、
各保に属し、神事に奉仕し、七保の称は、
大永3年(1523)6月、「北野天満宮文書」に、
「西ノ京七保神人中人夫役之事」とあるのが
初見であるが、中古に二ヶ所廃絶し、
残り五ヶ所の内、四ヶ所も追々廃絶、大破し、
一之保のみが残った。
         と、ある。

安楽寺天満宮 安楽寺旧跡
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【七之保社・所在地の概略】
●一之保社(安楽寺天満宮)
   ・上京区北町,天神通仁和寺街道下る三筋目北側

○二之保社・上京区上ノ下立売天神道西入堀河町
      紙屋川の東岸。
      (現在の上京区 五台山竹林寺 北辺り)
文正9年(1826年)社殿が取り払われ、祭神は、
本社(北野天満宮)に合祀された。

○三之保社・上京区二条通紙屋川東岸 。
野見宿称を祀り長宝寺と号したが、
本社(北野天満宮)に移された。
 菅公が梅の木で作ったと云われる本尊・
 十一面観音の仏像の行方は不詳とされる。

●四之保社・上京区下立売通西大路西入西ノ京中保町
新長谷寺(廃寺、石標あり)

○五之保社・上京区神通下立売通上ル・玉房稲荷神社
(かつての満願寺・移転)

●六之保社・下立売下ル華開院前の幼稚園・旧阿弥陀寺
(廃寺・移転、石標あり)

●七之保社・花園艮北町・本門法華宗 成願寺
(現存、石標あり)

七之保社・所在地の概略図
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◆(続き)
安楽寺は、第一之保御供所と称し、西京神人の
責任勤番制で、おまもりしてきました。
不動石は、文安元年(1444年)、
麹座(こうじざ)の合戦、つまり東京(ひがしのきょう)
の酒屋との合戦に敗れ、木曽福島へ逃れる際、
御神体を、第四之保御供所の、北側の竹林に埋め、
目印として置いたものです。
20年後、ご時の管僚 細川氏に侘びを入れ、
ここ北町に帰ってまいりました。
安楽寺天満宮の運命を変えたのは、明治政府の上地令で
反抗は、出来ませんでした。

明治6年、上地され御神体は、北野社へ、移さざるを
得ませんでした。
●安楽寺の矢止め地蔵尊は、初め、千本出水の浄土宗
正覚寺に、かくまっていただきました。(*後述)
同じく、第四之保御供所 東光寺の薬師如来像、
脇士十二神将も、現在は、他の寺に預けています。
明治39年、7月12日、明治政府の廃佛棄釈も時間がたち、
払下げを受けられました。
当時の選佛寺の住職の御好意で、安楽寺遺趾として、
現在に至っております。
 西京神人末裔七保回  敬白
                と、ある。

本殿の左側に
○安楽寺天満宮旧跡
の大きな石碑があり、石鳥居のすぐ右に
不動石を祀る社がある。

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本殿の右側には、
○熊鷹稲荷がある。
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説明板によると・・
由緒
熊鷹稲荷は、島津製作所、島津源蔵さんが円町で
電球をつくっておられ、利益を得られました。
(当地の古老より)
島津源蔵さんは、その利益で、河原二条の地へ、
移られました。
感謝の気持ちで、今の円町児童公園の東側に、
熊鷹稲荷を、祀られました。
古老によりますと、島津源蔵さんは、
電気自動車(今でも、嶋津製作所記念資料館に
あります。)でお参りに来ておられたとの事です。
昭和62年 地主の不始末で、重大な問題が生じ、
御旅商店街の守護を、えられなくなりました。
我々は、島津源蔵さんの、当地への感謝の気持ちを
考え、ここ安楽寺へ、祀られせていただきました。
 第一之保御供所 安楽寺天満宮 敬白
         と、ある。

又、その左側に小さい祠がある。
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説明板によると・・
由緒 
小さい祠は選佛寺の鎮守の稲荷社です。
(昭和8年4月)
第四之保御供所 安楽寺天満宮 敬白
       と、ある。

熊鷹稲荷(右)と選佛寺の鎮守の稲荷社(左)

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また、熊鷹稲荷のさらに右側には、
玉光大神・立長大神 と 熊鷹稲荷大神
の石碑がある。
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●安楽寺の矢止め地蔵尊

弘誓寺
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北野天満宮・社報276号によると・・
・・上京区下立売紙屋川上ル中保町にある、
浄土宗弘誓(ぐぜい)寺・・内の地蔵堂の
矢止地蔵は、もと北野天満宮の西ノ京七保の
御供所の内、第一の保の安楽寺に安置されて
いたもので、仏師法眼定朝の作と伝えられ、
円い光背を付け、玉眼で、極彩色の襞(ひだ)は
細やかな彫で、錫杖で宝珠を持たれ、
美しい蓮華を重ねた台座に座す尊像である。
明治6年、神仏混淆(こう)を区別された
上地令により廃寺となったが、
信仰の厚かった矢止の地蔵は、
●始め七本松出水上ル浄土宗 正覚寺に預けられた●
が、同寺が大原野に移転したため、大正9年に至り、
西ノ京弘誓寺に改めて安置される事となった。
この間七保会の川井清胤氏は信仰篤く、
尊像を修補し、開眼供養を大本山 清浄華院の
法王に依頼し、更に御厨子を作製し、扇に由緒を
記されている。
・・今昔、合戦の毎、無事矢に当たらず都に
帰れる様に祈り合戦に参加した事により、
矢止の地蔵と言われた。
その後 江戸時代に入り、京都市中に眼疾が
流行(はや)り、この矢止の地蔵を信仰すると、
霊験あらたかな効果が認められた事により、
眼疾地蔵と称される様になった。

弘誓寺・境内にある眼疾地蔵
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因みに眼疾(めやみ)地蔵は、
東山区四条通大和大路東入ルの仲源寺にもあり、

仲源寺の眼疾地蔵
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この地蔵像は寄木造りの丈六の巨大な玉眼入りの
座像である。
一説に往来の人驟雨の時、この堂に宿りしため
雨止地蔵とも言う。
定朝の作と云う。
なお、一之保社は明治6年7月本社境内に遷座・・
     と、ある。

弘誓寺・本堂
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●北野天満宮 四之保社跡・威徳水

【位置】上京区下立売通西大路西入西ノ京中保町
【交通】市バス・北野中学前、徒歩3分

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駒札によると・・
四之保社(よんのほやしろ)趾 
威徳水(いとくすい)
この地は、北野天満宮「七之保社(ななほのやしろ)」
のうち四番目に当る「四之保社」があったところ
である。
「七之保社」とは菅原道真(すがわらのみちざね)が
太宰府(だざいふ)で亡くなった後、随従の人々が
右京の地に建てたと言われている七ヶ所の御供所
(ごくしょ)(お供え物する小さな社)である。
「保」とは、神社の神人(じにん)(神社に仕えた人)
居住区域を意味し、商業などに従事する傍ら、
神供調進にあたったといわれている。

当初、新長谷寺が管掌し、藤原道長自作と伝える
観音像を祀り、多くの帰依者を集めたが、
元文(げんぶん)5年(1740)に廃社となった。

現在は、「威徳水(いとくすい)」と呼ばれ、
病気平癒の御利益があるとして人々の信仰を集めた
水が湧く井戸跡のみが残されている。
「威徳」とは三面(顔)六臂(腕)六足で
憤怒相、水牛の上に乗っている大威徳明王
(ぢいいとくにょうおう)のことであり、
不動明王を中心とする五大明王の一員でもある。
その明王の凄まじいばかりの力を借りようと
修法するおり、閼伽(あか)水(仏に供える水)を
この井戸から汲んだことに由来する名前と
されている。
なお、この付近の町名である中保町は、七保社のうち
真中の四番目の保であったころから、このように
呼ばれるようになったのである。
            京都市
               と、ある。

南面に、
石標・北野天満宮七保ノ内新長谷寺古跡
(裏面・明治三十年四月建之 有志中)
があり、その背後の東面に祠がある。
その手前が、威徳水の井戸跡である。

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●北野天満宮 五之保社
【位置】上京区天神通下立売通上ル
【交通】市バス・北野中学前、徒歩10分

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北野天満宮・社報115号によると・・
・・玉房稲荷神社を祀るところで、満願寺と
いったが、元禄3年(1702)岡崎に移された。
今、境内にある鎮守の文子天神社は菅公を
祀っている。・・  と、ある。

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●北野天満宮 六之保社跡
【位置】上京区天神通下立売通上ル
行衛町(京和幼稚園前)
【交通】市バス・北野中学前、徒歩10分

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北野天満宮・社報115号によると・・
・・同所(*五之保社)より南にあり、
華開院の前にあって、阿弥陀寺と号したが、
寛保3年(1743)廃された。         
・・と、ある。
○この阿弥陀寺の跡には、現在、石標がある。

華開院
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元阿弥陀寺の石標
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(正面)
元阿弥
    慈雲尊者遷化之霊地
陀寺跡
(*慈雲尊者は飲光のことで、
正法律派を興した真言宗僧である。)
(右側)
洛北 神光院
有志者 洛西 長福寺
    同 三宮寺
(左側)
  京都 地福寺
有志者 同 鳩居堂
  同 教行院





●北野天満宮 七之保社跡
【位置】右京区花園艮北町 成願寺内
【交通】市バス・北野中学前、徒歩10分

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北野天満宮・社報115号によると・・
・・七之保社は、・・松樹山 成願寺と号したが、
元和2年(1616)日蓮宗になった。
元禄3年の寺域は現在の3倍、約3千坪もあり、
今の山城高校の運動場もとり入れて居り、
用水池もあって、本堂は東面していた。
其の後 三井家により再建されて南面、
その祈願所となり、同家の位牌が祀られている
七保天満宮の拝殿は北野御旅所に移築され、
ここにあった菅公御自身作と伝える十一面観音像は
下ノ下立売御前通り東入ルの西蓮寺に移された。
        ・・と、ある。

西蓮寺
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○この七保天満宮旧蹟には、現在、
成願寺を示す石標がある。

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(正面)
元七保天満宮
    成願寺
三井家 祈願所
(右側)
平成十七年四月吉日建立
   第十七世 真隆代
(左側)
木原家先祖代々之霊苔堤
寄贈 木原忠雄
      圭子

七保天満宮 (成願寺 内)
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       (この編・了)



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