京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 8(三光門前の摂社)

京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 8
(三光門前の摂社)

本編は、2016年春から2017年初冬までの
期間にわたり、取材したものです。

絵馬所から
三光門・社殿に向かう参道の左側に、
摂社・福部社と摂社・老松社がある。
ちなみに、摂社は、世界大百科事典によると、
神社内で本社に付属する小社で、・・明治の制で、
伊勢神宮、また官国幣社において、本社に付属する
関係深い社を摂社,それにつぐ小社を末社と
称することと定めた。と、ある。

●摂社 福部社

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説明板によると・・
摂社 福部社(ふくべしゃ)
祭神 十川能福(そごう のうふく)
神徳 開運招福の神
例祭日 3月12日

祭神 十川能福は、菅公に仕えた舎人(とねり)
(牛車を引く牛の世話役)であるが、
その祭神名や社名より、いつの頃よりか金運と
開運招福をつかさどる「福の神」として崇敬を
集めるようになった。

毎年節分の日に、茂山千五郎社中により奉納される
追儺狂言「福の神」は、この社の祭神を主人公に
した創作もので、天満宮参拝の人々に悪事を
はたらく鬼を福の神が退治する筋立てが上演される。
            と、ある。

北野天満宮・北野誌、社報61号などによると、
元は、本社の東・毘沙門町にあり十川能福、紅梅殿と
称したが、天保6年(1835年)12月、境内に遷座。
明治10年3月21日、摂社に列せられる。

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●摂社 老松社

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説明板によると・・
摂社 老松社(おいまつしゃ)
祭神 島田 忠臣(しまだ ただおき)
神徳 植林・林業の神
例祭日 3月12日

祭神の島田 忠臣は、菅公の家臣と伝えられ、
また一説には公の岳父(がくふ)(夫人の父)
ともいわれる。

忠臣は、菅公が配流先の大宰府で、自らの無実を
天の神々に訴えるため天拝山(てんぱいざん)
に登られた時、公の笏(しゃく)を預かって
お供をした人物で、後に菅公は忠臣に松の種を
持たせ当地に撒くように託された。
道真公のご心霊がこの地に降臨される時、
多数の松が一夜にして生じたという伝説は、
この事績にもとづくものといわれる。
        と、ある。

北野天満宮・北野誌、社報61号などによると、
元は、本社の東・今老松町にあり、
天保6年(1835年)12月、境内に遷座。
明治10年3月21日、摂社に列せられる。

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摂社 老松社の右側にある臥牛像
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一方、三光門・社殿に向かう参道の右側に、
摂社・白太夫社と摂社・火之御子社がある。

●摂社 白太夫社

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説明板によると・・
摂社 白太夫社(しらたゆうしゃ)
祭神 渡会 晴彦翁(わたらい はるひこ)
神徳 子授けの神
例祭日 1月9日

文章(もんじょう)博士 菅原 是善
(すがわら これよし)卿は、世継ぎの誕生を
伊勢神宮の青年神官 渡会 晴彦に託して
豊受大神宮(外宮)に祈願された。
そしてお生まれになったのが、道真公である。

それ以来、数十年にわたって守役として、
菅公に仕え、中世を尽くした翁は若い頃より髪が
白く人々より白太夫と呼ばれた。
各地の天満宮に白太夫と称えて、必ず翁を祭るのは
このようないわれによる。
     と、ある。

北野天満宮・北野誌、社報69,249号など
によると・・
遷座の年月日は詳しくないが、
明治10年3月21日、摂社に列せられる。
社記などによると、菅公の左遷の時、白太夫は
70余歳だったが筑紫まで送られ、公蒙去の後は、
遺言により菅公の長子・高視(たかみ)朝臣【1】
【1】 菅原 高視.
昌泰の変(しょうたいのへん)により、父・
菅原道真に連座して延喜元年(901年)、
土佐に左遷され、父の死去の報を聞いた。
そして潮江天満宮(うしおえ)を創建。
住居のある山は、高視にちなみ、高見山、
と呼ばれている。

のいる土佐国・潮江村へ、公蒙去の2年後、
延喜5年(905年)3月7日、大宰府を出発し、
国々を経て、伊予国に渡り、遺物(御璽、観音像)
を奉じに行くが、高視に会えることなく同年、
長岡郡大津村船戸(現 高知市大津舟戸)の
霊松山 雲門寺(現在はない)において病を発し、
12月9日、歿。享年79歳と伝わる。
墓は、岩崎山(現 高知市大津北浦)の
白太夫神社の五輪塔。
明治39年、菅公侍臣白太夫遺跡碑が建てられた、
とされる。

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この左横に、摂社 火之御子社 がある。
●摂社 火之御子社

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説明板によると・・
摂社 火之御子社(ひのみこしゃ)
祭神 火雷神(からいしん)
神徳 雷除け・五穀豊穣の神
例祭日 6月1日
(午前4時祭典、午前5時より夕刻まで守礼授与)

ご祭神・火雷神は、天満宮鎮座の天暦元年(947年)
以前に、この地に「北野雷公」と称え祭られ、
雷電・火難・豊作などの守護神として、広く人々の
崇敬を集めた。

古い記録によれば、元慶(がんぎょう)年中
(880年頃)太政大臣 藤原基経【2】
【2】藤原基経(ふじわら もとつね)
菅原道真公を陥れた中心人物・藤原時平の父。
宇多天皇は、藤原基経の推薦により天皇に即位。
だが、この後、藤原基経との間に政治紛争が
起こる。阿衡事件(あこうじけん)

が、五穀豊穣を祈願するため、この北野雷公を
お祭りしたとあり、以来毎年丁重なる祭典が
続けられてきた。

現在午前4時に当社前にて、古式にのっとり
火鑽式(ひきりしき)を行い、その斉火(いなび)
(聖火)を点じて「雷除守札」に祈願を込め、
その後参拝の人々に授与されている。
平安時代、朝廷では主として雷神に雨を祈り
豊作を祈願したが、雷の多い年は豊作である反面
その害も少なくないため、五穀豊穣とあわせて
雷害のないことを祭神に祈願するようになった。
それが時代とともに雷除けが主となり現在に
至っている。
北野天満宮・社報42号によると・・
(一部、意訳)
・・特に平安時代、主に雷神に雨を乞うて豊作を
祈願したのは、雷が稲妻といわれる所以であり、
菅公大宰府では、菅原道真公が亡くなった翌年、
延喜4年(904年)2月19日、朝廷から
藤原左衛門督が使いとして北野雷公のお祭りをした。
(「西宮記」巻七裏書による)
その折、有司が、その主意を(菅原道真公を陥れた
中心人物の)左大臣・藤原時平に伺ったところ、
この神は(時平の父である)故太政大臣・
藤原基経公が元慶年中に五穀豊穣を祈るために
祭られた、と述べ非常に感応があった・・
(ちなみに、この5年後、藤原時平は、延喜9年
39歳の若さで病死している。*)
今の社殿は、慶長12年(1607年)、本社修造と同時に
時の右大臣・豊臣秀頼が片桐且元を奉行として
改造したので、その棟札は今も保存されている・・
           と、ある。

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摂社・白太夫社と火之御子社の間に
●菅原道真神製碑 がある。

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元・加賀藩主・前田斉泰、慶寧、父子が
北野天満宮に奉納した菅原道真作五言律詩を
刻した碑である。
五言律詩とは、中国の唐の時代に完成した近体詩
の代表的な詩型ひとつで、五言の句 が8句から
成っている漢詩のこと。

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記された詩は
(1)菅家文草・巻一から九日侍宴同賦喜晴応製、
(2)巻三から賦得春之徳風
の五言律詩二首。

神製【題額】
(1)和風期五日徳化在三春遠近吹無
頗高低至有隣開花驚老樹解凍放
潜鱗号令今如此応知養長仁
     正三位菅原朝臣斉泰敬書

(2)重陽資飲宴四望喜秋晴不是金飆
払応縁玉燭明無為玄聖化有慶兆
民情献寿黄華酒争呼万歳声
     従三位菅原朝臣慶寧謹書

前摂政二条藤公嘗以斉泰為 
菅神裔勧建碑祠前乃選菅家文草
中五律二篇父子各書一首又命第七子
十四位菅原朝新人市長が梅
花扁題則有栖川中務卿一品親王所書
併勒以建焉明治二年歳次
己巳秋七月斉泰拝識
     孫 従四位菅原朝臣利嗣謹書
東京
廣羣鵬刻

北野天満宮・社報67号によると・・  
・・明治27年7月に前摂政・二條斉敬公の勧めで、
菅公の裔(子孫)である前田斉泰(なりやす)【3】
【3】菅原道真公の後裔にして、前田利家は、
豊臣氏の元老として威望あり、加賀百万石の太守
として歴世相 伝う。
斉泰 久しく藩治を統べ(統括し)、
維新前 公武の間に斡旋し、京師(京都)を守護す。
慶寧また能く父を助け、戊申の際には、
奥羽征討に殊功を顕(あら)わし章典を賜わる。

慶寧(よしやす)父子が祭神の家集「菅家文章」
中より五律二篇の春秋の詩を選び、
各々一首を謹書し、斉泰の第七子利鬯(りか)が、
梅花を画き、「神製」の題字は
有栖川宮熾仁(たるひと)親王の染筆にて建てた
ことを、斉泰の孫利嗣が敬書している。
実に三代に亘っての敬神の建碑であり、
彫刻は東京の(伝説的な石工)広群鵬である。

(1)詩の意は、
やわらかな春風が五日に一たび吹くのは、
大平の瑞応で万物に徳を敷き、化を布く。
そして春風は遠近に吹きわたって、
その徳を及ぼすに偏(かたよ)りがなく、
高きにも低きにも吹いて、
そのめぐみをしきひろめるから、
隣あるように誰からも親しまれる。
ちょうどそれは春風が、
冬眠していた老木を驚かせて花を咲かせ、
かたくはりつめていた池の氷を解かせて、
底にひそんでいた魚たちを自由に泳がせ、
天地万物に号令を出すように、
わが君の仁徳があまねく行われ、
万物を長養させていることを知るべきである。
(正三位菅原朝臣斉泰敬書)

(2)詩の意は、
貞観10年(868)9月9日、
清和天皇は群臣を召して宴会を催されたところ、
雨が霽(は)れ上がって、どちらを見ても
すっきりした嬉しい秋晴れである。
これは秋風が雨雲を吹き払ったためではなく、
四時の気候が調和して万物が玉の燭(ともしび)の
ように明らかに光りかがやくためであろう。
わが天皇のめぐみの深さも人為をこえて、
深遠偉大な徳化であって、万物は季節が調和し、
寒暑が順当であれば、豊年疑いなく、
ことごとく平和を謳歌する。
されば菊花酒を祝って、侍臣一同こぞって
万歳を叫んで君に不老長寿を献じたい。
(従三位菅原朝臣慶寧謹書)

古来より史書は舎人親王、文章は管公といわれる
だけに、公の詩文には漢籍の故事が多く引用され、
文学の祖神と仰がれ、大江匡衡をして
「文道の大祖、風月の本主」と讃えしめた所以
であり、春風秋雨幾星霜に亘って建つ碑は、
参拝者に日夕親しまれているのである。
       と、ある。

菅原道真神製碑の左側にある臥牛像
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 (北野天満宮の全貌 9 に続く)



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