京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 9(三光門と門前)

京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 9
(三光門と門前)

本編は、2016年春から2017年初冬までの
期間にわたり、取材したものです。

●織部形灯籠

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川端康成・古都の一節。
・・すみれの花の下あたり、もみじの根かたには、
古い灯籠が立っている。
灯籠の足にきざまれた立像を、千恵子の父は
キリストだと、いつか千恵子に教えたことがあった。
「マリアさまやおへんの?」と、
その時、千恵子は、
「北野の天神さんに、よう似た大きいのが
ありましたえ。」・・

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これが、織部形灯籠で、三光門の手前、右側、
二つ目の石灯籠である。
(*は、付記)
北野天満宮・社報12号によると・・
古田織部は茶人として有名である一面
クリスチャンでもあった。
したがって茶人仲間では異色の存在である。
織部の考案した燈籠
(*国史大辞典の第4巻によると、
石燈籠の一種に織部灯籠と呼ばれるものがあり
古田織部の考案というが確証はない、とある。
また、織部灯籠とキリシタン灯籠の関連は、
杉野榮著・京のキリシタン史跡を巡る
(2007年刊)によると、北野天満宮、
桂離宮がそれである、との二つの説がある。)
は織部灯籠の名が高い。
天満宮三光門の向かって右側にはそれが奉納
されている。
しかしこの燈籠の正面には、像が刻まれているが、
能く見ると単なる仏像や神像でなく、キリスト教の
女神マリヤ像であることがはっきりわかる。
その当時御禁制であったマリヤ像を彫刻することは
お上への遠慮もあったらしい。
天満宮の燈籠も実は初めから現在のところに
設けられたものでなく、社前に安置されていた
ものである。
燈籠の横にある由緒によると、
(*江戸時代、徳川家光の世・正保2年(1645年)
の銘があり、一時流出するも)
後日になって(*明治14年に)発見され、
現在の処に安置したものであるらしい。
畑成文という人の由緒書(*現認不可・詳細不明)
にはそのことが記されている。
     と、ある。
これを踏まえて、
説明板によると、
織部形石灯籠
茶人好みの形式の一つにて古田織部重然
(元和元年六月十一日没)の墓にあるものの形に
因んで名付けらる
マリア像の彫刻あるにより俗にマリア燈籠
切支丹燈籠ともいう
      と、ある。

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●世継ぎの梅
織部形灯籠の右横にある。

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立札の説明文によると・・
照憲皇太后(*明治天皇の皇后)御献進紅梅
世継の梅
御幼少の頃より当宮の崇敬厚く
慶応三年 御入内
(*じゅだい・皇后、中宮、女御になる人が、
儀礼 を整えて正式に内裏に入ること。)
御治定
(*じじょう・決定すること)に付き
同年九月 御参詣の上
御邸内(*実家の一条家のこと)
の梅樹(*珊瑚梅)を御献進遊ばされ
然る処 先年 樹齢尽きたる為
京都御所より拝受致し
世継の梅として永く世に伝える
     と、ある。

この梅の開花は、それほど早くなく、
北野天満宮のなかでは、
左横、織部形灯籠前の紅白の梅に比べて
約2週間ほどの遅咲きである。

照憲皇太后は、
一条 忠香(いちじょう ただか)の三女
として(生母は側室)誕生。
旧名・一条美子(いちじょう はるこ)。
はじめの諱は勝子(まさこ)。
通称は富貴君(ふきぎみ)、富美君(ふみぎみ)など。
慶応3年6月28日(1867年7月29日)
新帝明治天皇の女御(にょうご)に治定し、
明治元年12月28日(1869年2月9日)
入内。皇后冊立。
史上初めて洋装をした皇后で、
維新期の皇后として社会事業振興の先頭に立ち、
現・学習院女子高等科、お茶の水女子大学の設立、現
在の日本赤十字社の発展に貢献した。
明治45年7月30日、明治天皇が崩御し、
皇太子・嘉仁(よしひと)親王が
践祚(せんそ・天子の位を受け継ぐこと)
すると同時に、皇太后となった。

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●大黒像の燈籠

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三光門手前、右側参道の南側の四つ目にある
燈籠で、大黒像の燈籠と云われる。
大黒さまの口や鼻の穴に、小石を乗せることが
できれば、金運アップ・試験の滑り止め、とか。

だが、こんなご利益のある大黒さまの燈籠にも
こんな謂(いわ)れのある隠れた歴史がある。
北野天満宮・社報65号によると・・
(前略)・・・先祖の燈籠を拝見に・・
話によると初代 大黒屋長兵衛(元禄―享保)は
河原町正面に住み、質商と両替商を営んでいたが、
ある日、古道具屋商から木造の大黒天像を求め
祀ったところ、次第に富み栄え、屋号も大黒屋と
改め、二代治助(59歳歿)三代勘兵衛、
四代新助(61歳歿)とつづき、一時は島原にも
廓を二軒もち、煙草、花札も商い、小野組【1】と
肩を並べたという。
【1】小野組
近江八幡から出て、京都に本拠をおき元禄ころには
糸割符商人。
のち両替商となり、慶応2年(1866)江戸の
本為替仲間に加入、京都、江戸で活躍した
明治初年の政商、めいじ元年当主小野善助は三井組、
島田組とともに明治政府の為替方を命ぜられたが、
明治7年政府に官金を回収され島田組とともに破産
(している)。

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この燈籠は安政二歳(1855)乙卯十月吉日、
徳勝院とあり、大黒組の台座の周りに、
判読しにくいが、寄進者の名が見えるのは、
大黒屋を中心とした質商組合の奉納であることが
わかる。

ところが元治元年(1864)7月の蛤門の変で、
俗にドンド焼のため類焼し、五代新吉の時、
みの屋と改め、六代は本田姓を名乗り、
本田亀吉といい、七代本田由之助、八代本田芳次
(60歳歿)とつづくが、祖父由之助の明治30年頃
硝子商売に転職。 
京都、東京、大阪に移転に現代にいたる。

往時は菩提寺知恩院の檀徒総代も勤められた
というが、過去帳も戦災で焼失・・・
今も大黒様の口に小石が詰ると願いが叶うという
庶民の信仰を集めるご先祖様奉納のゆかりにより、
・・一日も早く家運を復興されるのを
祈るのであった。
           と、ある。

いつまでも石灯籠を壊さず、注意して、
ご利益をいただき続けたいものである。


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●三光門(中門)

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説明板によると・・
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◆日・月・星—三辰信仰(さんしんしんこう)
御本殿前の中門は、日(太陽)・月・星の三つの
光の彫刻があることから三光門と呼ばれる。
古代より、太陽・月・星の運行が天皇・国家・
国民の平和と安寧にかかわるとして崇拝する
信仰・三辰信仰がある。
天神さまの御本殿前に配した三光門。
天神信仰を物語る門である。

◆天空—宇宙を司る神、天神
天満宮は菅原道真公の御神霊を祀った神社、天神さま。
平安京の北野の地は乾(北西)に位置。
天門、天のエネルギー、パワーの働く地。
ものは「天神地祇」を祀り、「雷神」を祀った聖地
に道真公を併せ祀ったのが天満宮。
天空を司る天神を祀る神社である。

◆星欠けの三光門
三光門の彫刻には、日と月と三日月はあるが
星はないといわれる。(*新撰京都名所図会による)
平安京当初、大極殿が天満宮の南方位に位置、
帝が当宮を遥拝される際 三光門の真上に瞬いていた
ので星は刻まれていないと伝えられている。【1】

◆日光東照宮の建築と国宝北野天満宮本殿
徳川家康公を祀り、家光公によって建て替えられた
華やかな日光東照宮の建物。
実在の人物である道真公を祀る北野天満宮の社殿
の形式、権現造が東照宮に用いられた。
北野天満宮の建造物は、豊臣秀吉の子、秀頼公に
よって(*本社と同じ慶長12年(1607)霜月13日に)
建てられた桃山時代を代表する神社建築である。

◆三光門と陽明門(ようめいもん)
日光東照宮に有名な陽明門がある。
北野天満宮をモデルにたたといわれる東照宮。
本殿をはじめとした権現造の建造物の中門として
建てられた陽明門は、北野天満宮の中門三光門に
対して建てられたのであろうか。

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北野天満宮・社報274号によると・・
・・標記三光門の名の由来は 日月星辰が彫刻
してあるためで、十返舎一九の東海道膝栗毛に
「綱の名は今だに朽ちぬ石燈籠
  昔を今に三つ星の門」とあり、
傍らに渡辺綱 奉納の石灯籠(京都市内で最古)が
建つためであり、燈籠と三光門を詠み込んでいる。
三光門は北側敗風の彫刻に波上を飛ぶ二匹の兎の
中央に三日月【赤の囲み】が、
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南側には、後西天皇の
【*淳和(じゅんな)天皇の別名・西院(さいいん)帝の
名を受けたもので、後西院天皇とも呼ばれる。
だが、天皇と院と両方つくのは紛らわしいので、
後西天皇となった。】
御宸筆の天満宮の勅額が掲げられ裏面の梁に
真紅の太陽が、
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それと相対する位置に星が彫られ【1】、
今千本丸太町の旧大極殿跡からは真北に当り、
代々天皇が北野天満宮を通拝されると、
門の真上辺りに北極星が瞬くとの伝承がある。
【1】現在もこの位置には、黄色い月のようなもの
があり、かつて、また一説と言った方が良いかも
知れないが、これが星で、丸く表現されている。
との説明がなされていたことがあった。
【月とも、星とも】
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同様に皇居の東方に当たる大和の大神神社
【おおみわじんじゃ。*奈良県桜井市三輪にある。
別称、三輪神社、三輪明神。
現在は、神社本庁が包括している別表神社】
にも三光紋がある。
即ち寛文4年(1664年)竣工の拝殿(重文)の
注連縄金具に判然とのこされて着いているのは、
三光紋が三輪社の神紋との由縁であろう。
(*この拝殿は、徳川家綱の寄進によるもの。)
・・・  と、ある。

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 (北野天満宮の全貌10 に続く)




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