京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 11(社殿の彫刻)

京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 11
(社殿の彫刻)

本編は、2016年春から2017年初冬までの
期間にわたり、取材したものです。

社殿の彫刻
北野天満宮・社報131号によると・・
当宮の彫刻は、桃山文化の満開期で、高潮に達した
黄金時代であり、善美を尽くしたものであった。
即ち関ヶ原役7年目、慶長12年(1607年)
豊臣秀頼の建立で、今日現存する桃山建築中の
第一級で、国宝に指定され、徳川方の強制による
豊臣家の失費を意図したものとはいえ、
豊臣秀頼の名は普及に伝えられ日本美術史上
その彫刻は、典型的な特色を発揮している。

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この建築の特徴は絵様彫刻である。
これは蟇股(かえるまた)、欄間(らんま)、
拳鼻(こぶしばな)それに手挟(たばさみ)
などである。
蟇股は本来建築の上部からの圧力を支える部材で、
貫(ぬき)と桁(けた)の二本の水平材の間に
配置される山形の板で、已(すで)に天平建築
よりあり、藤原時代になると支重的機能が装飾的に
変化し、板蟇股から中間が刳(えぐ)り抜かれて
スマートな姿となった。
それは中尊寺の金色堂に見られ、鎌倉時代になると、
両脚に唐草様の透彫を加え、室町時代には
唐草が牡丹や蓮を意匠化した絵画的なものとなり、
桃山時代は花鳥、故事人物と精微は刀技を見せ、
豊富な表現の充実そして逞しさにおいて
日本美術史上顕著な特色を発揮した。

そして蟇股は(北野天満宮では)
拝殿・石ノ間・本殿の内側と外廻りに百を下らない
彫刻が施されている。・・
前拝(本殿の内側)には、中国の神仙列伝、
本殿、拝殿には桃や虎の彫刻、
馬、狐、鹿、雉(きじ)、兎、鶴、亀、鷺(さぎ)、
鴛鴦(おしどり)、
三光門には日月星が刻まれ、・・火難より護ろうとした
呪術的な願いがこめられているといわれる・・
          と、ある。





●前拝(本殿の内側)の蟇股。 
西側から桃・黄安・李鉄拐・王子喬・黄初平・菊慈童・
蝦蟇仙人・碁を打つ老人(王質の話)・瓜と並ぶ。

●桃
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北野天満宮・社報132号によると・・
桃は古来、古事記の神話にもある通り、伊邪那岐命
(いざ なみのみこと)が黄泉国(よみのくに)から
逃げ還(かえ)られ黄泉軍が黄泉 比良坂迄迫ってきた時、
桃樹の実三つをとって待(ち)撃ち 退却せしめられた
とあるように、災難を救う果実であり、
桃太郎の昔話にも神秘な霊力が宿ることを語り、
延喜式には12月晦日(後世は節分の前)桃の弓、
葦(あし)の矢を持って追儺(ついな・鬼払いの儀式)
の用具とした事を伝え、中国にても西王母の伝説に
見られるように、漢の武帝が、長生きを願っていた時、
西王母が天井から降り、仙桃七頴を与えた事や、
前漢の東方朔が、武帝に仕え、西王母の桃を盗食して
三千年の長寿を恣(ほしいまま)にした故事は、
日本にも伝えられ、
平安朝の歌人であり、古今和歌集の選者、凡河内躬恒が、
拾遺和歌集巻五に、「三千年になると桃の今年より花咲く
春にあひにける哉」と詠み、この歌はよく桃の節句に
掲げられる。・・
桃の彫刻は、・・二条城二の丸御殿の欄間(国宝)他
木鼻や扉等に多い。
   と、ある。


●黄安(こうあん)
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通称、亀仙人で知られる。
この亀は、3千年に1度しか
首を出さず、黄安は、5回、見たと云う。
北野天満宮・社報134号によると・・
・・中国の古書洞冥記に依れば、
黄安は五神山に棲(す)む不老不死の仙人で、
大亀を背負ったところから、亀は長寿の象徴とされ、
且つ仙人と亀との関係も、これから生じ、
浦島太郎の伝説にもつながるのではなかろうか。
と、ある。
二条城の唐門の蟇股でも彫刻されている。


●鉄拐仙人(てっかいせんにん)
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八仙のひとり、李鉄拐(り てっかい)。
鉄拐とは、杖(つえ)のことで、彼は鉄の杖を
ついて歩いたので、この名があると云う。
北野天満宮・社報134号によると・・
・・神仙列伝にでてくる物語で、彼はある日
老子を訪ねるにあたって、7日後に帰ると留守居の
者に云い、己(おのれ)のたましいを預けて出かけた。
元来人間には陰陽の二つの霊があり、前者を魄といい、
後者を魂というが、彼は出発に際して、留守番に
魄を残したが、留守番も母の病気のため急に我が家に
帰ったため、6日目に我が家へ帰るに当って、
老子の家に魂をのこしたので、わが(たましい)を
ふたつ共失った。
そこで乞食のようにみすぼらしい相貌になって
(我が家に)帰って来たというのである。
         と、ある。


●王子喬(おうしきょう)
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北野天満宮・社報135号によると・・
・・列仙伝によると、周の霊王(第23代の王)の子、
38人のうちの太子晋(しん)のことである。
巧みに笙(しょう)を吹いて鳳凰の鳴くような音をたてた。
伊川と洛水の流域、伊洛の地に遊歴の砌(みぎり)、
天台山の道士 浮丘公というものが、これを伴って、
五獄の一つである崇高山(すうこうざん)に登ってしまった。
30余年の後に、これを山上で捜すと、友人の桓根という
ものの前にあらわれて、「7月7日、
予を緱氏山(こうしさん)の頂上で待っているように、
家人に伝えてほしい」といった。
その日になると、果して白い鶴に乗ってきて山頂に
とまった。
遠くからは見えても、そこまで行くことができない。
手をあげて人々に分かれを告げ、数日して飛び去った。
後日 緱氏山の麓や嵩山の頂には、その祠(ほこら)が
立てられた。
         と、ある。

東京・柴又帝釈天でも何ヶ所かに彫刻されている。

『列仙伝』28王子喬 。
王子喬者、周靈王太子晉也。好吹笙、作鳳凰鳴。
遊伊洛之閒。道士浮邱公、接以上嵩高山。
三十餘年後、求之於山上、見桓良曰、告我家、
七月七日、待我於緱氏山巓。至時、果乘白鶴駐山頭。
望之不得到。擧手謝時人、數日而去。
亦立祠於緱氏山下及嵩高首焉。


●黄初平
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北野天満宮・社報135号によると・・
・・彼は(中国)丹渓の人であった。
年15の時、家ではこれに羊飼いをさせた。
一道士がその実直なのを見込んで、金華山の石室に
つれて行ったまま、40余年の間 家のことは
思い出さなかった。
その(初平の)兄の初起というものが、山へ行って
初平を捜索したが、幾年かかっても発見できなかった。
市中で一道士に遇(あ)ったので問うでみた、
「私には弟があって、初平という名ですが、
羊の番をさせておいた所、失踪したまま40余年も
生死所在がつかめません。どうかあなたに占って
いただきたい」。
すると道士が答えた、
「金華山に羊飼いの子が一人いる。
姓は黄、字は初平、弟さんであること疑いなしじゃ。」
初起はこれを聞くと、すぐさま道士について行って
弟を尋ね、ついに再会することができた。
悲喜交々の話が終わると、初平に羊のありかを訊いた。
すると、初平は
「すぐ山の東かたにいますよ」と答えた。
初起が行って見廻したが見つからない。
ただ白い石ばかりしか見えなかったので戻ってきた。
「山の東かたには羊がいないぞ」と初平にいうと、
「羊はいますよ。
ただ兄さんには見えなかっただけでしょう」という。
初平が初起と一緒に行って見渡す。
初平が「羊よ、立て」と叱ると、白い石は悉く変じて
数万頭の羊になった。
初起が、「お前は仙道を体得したから、
こんなことができる。
わしにも学ぶことはできないだろうか」というと、
「ひたすら仙道に熱中しさえすれば、やがて体得は
できるものです」と答えた。
かくて初起も妻子を棄ててそこに住みつき
初平について学び、共に松脂や松の根に生ずる
菌の一種である茯岺(ぶくりょう・利尿作用、
滋養、鎮静、血糖降下などに効果がある)を服用した。
500歳になると、坐せば姿が見え、立てば姿が消える
という術を会得し、日中を歩いても影が映らなくなった。
社報135号によると・・(続き)
黄初起の顔色は童子のようであった。
のち一緒の黄初平と郷里に帰ってみたが、
親族はほとんどの死に絶えていたので再び金華山に
引き返した。
初平はよび名を改めて赤松子(せきしょうし)となり、
初起は改めて魯斑となった。
その後この茯岺等の薬を服用して仙道を得たものが
数十人もあった。・・
       と、ある。

列仙伝に登場し、前述の王子喬(おうしきょう)と
並び称される。
『列仙伝』巻上一。
赤松子者、神農時雨師也。
服二水玉以教神農刊能入火自焼。
往往至毘嵜山上常止西王母石室中随。風雨上下。
炎帝少女追之、亦得仙倶去。至高辛時復為。
雨師今之雨師本是焉。





●菊慈童(きくじどう)
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能楽事典によると・・
魏の文帝に仕える臣下が酈縣山の奥を訪ね、
周の穆王[ぼくおう]に召し使われていた
慈童と名乗る少年と言葉を交わします。
周の時代は、魏の文帝より七百年も昔のことなので
臣下は大いに驚きます。
慈童は仏徳を讃える偈[げ]を記した枕を帝から
賜わったことや、この偈を菊の葉に書き写すと
葉の上に集まった露が薬水になったことを語ります。
そしてその薬水を飲んで不老不死になったと告白し、
御代を寿いで「楽」の舞を菊の花に戯れるように
軽快に舞います。・・と、ある。

枕慈童(まくらじどう)とも。
平成19年・照の会 
「菊慈童」シテ上田宜照によせて、によると・・
周の穆王 (ぼくおう) に仕えた
慈童と名のる人物が帝の不在時に誤って
帝の枕の上を越えてしまう。
群臣は議して、死罪一等を免じ、生きて帰れぬ、
とされる酈縣山(れっけんざん)への流刑と決めた。
穆王は慈童を哀れみ普門品にある二句の偈
「具一切功徳慈眼視衆生、福聚海無量是故応頂禮」
を密かに慈童へ授けて、毎朝に十方を一礼して、
この文を唱えるように言う。
慈童は、側の菊の下葉にその文を書きつけると、
この菊の下葉の露が僅かに谷の水に滴り、
天の霊薬となり、その味わいは天の甘露の
ようだった。
慈童はこれを飲み仙人となった。
         と、ある。

○日本では、謡曲・四番目もので観世流で
菊慈童と云う。
能の分類で、正式な五番立ての演能の際に、
四番目に上演される曲。
魏の文帝の家臣が酈県山 (れきけんざん) 
を訪ねると、周の穆王 (ぼくおう) に仕えた
慈童と名のる人物が現れ、
不老不死の菊の露の酒を勧める。


●蝦蟇仙人(がま せんにん)
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劉海蟾(りゅう かいせん)とも云う。
劉海蟾
正統な道教の大蔵経・金蓮正宗仙源像傳では、
名を操、字は宗成、海蟾子という道号を持つ。

斎藤隆三・畫題辭典によると・・
海蟾。姓は劉、名は嚞。
支那渤海(ぼっかい)の人。
金に仕へて相位に至る。
後、印を納めて、終南に入り道を学びて
仙(仙人)となる。
今蓬頭洗足嘻笑の人。
(蓬 (よもぎ) のように、ぼうぼうに伸びた
頭髪、裸足で、喜び笑う人、の意)
手に三足の蟾(ひきがえる)を持ち之を
弄する(もてあそぶ)形を描き、
劉海戲蟾の圖(図)といふ。
通常は蝦蟇(がま)仙人を以て最も多く知らる。
鉄拐仙人(てっかいせんにん)と對幅とし
古く宋元の頃より道釋
(どうしゃく・道教の説明、解釈)
の一(ひとつ)として畫(画)かれ、
本朝(我が国)にては狩野派諸家の筆多し。
    と、ある。
この解釈では、海蟾。姓は劉、名は嚞。
金の宰相であった、とされる。


●碁を打つ老人(王質の話)
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菅原道真の菅家文草に収載される「囲碁」と
云う詩によると、
若得逢仙客 樵夫定爛柯。
もしも仙人に逢えば、樵(きこり)の斧の
柄は腐るだろう、と結ばれている。
この典拠は、中国の爛柯(らんか・囲碁の別称)
の故事によるものであろう。

著名な話から、中国・南朝の時代、
江南(こうなん)にあった梁(りょう、502-507年)
と云う国の述異記・上巻の故事によると、
衢州(くしゅう、現・浙江省)に王質という
木こりがいた。
ある日、山に入り信安郡の石室山で木を
伐っていると、石室(いしむろ)の中で童子が
歌いながら碁を打っていた。
すると、童子がナツメの種のようなものを
くれたので、口に入れてそれを見物していると
童子に、ずいぶん月日が経ちましたよ。
斧の柯(え)が腐ってますよ、と言われた。
見ると、まさに斧の柯(え)は、すっかり
腐っていた。
後、山から里に帰ると、(百年、)時が過ぎ去り、
知っている人は誰一人いなかった。
 と、いう山版の浦島太郎みたい話である。
類似の故事には、虞喜・志林(325年)、
北魏の酈 道元(れき どうげん)などがあり、
明の時代・絵図列仙全伝では、その後、
王質はふたたび山に入り仙人となっている。
また、その他、いくつかの類似の伝説がある。
ここに描かれている碁を打つ老人が王質ならば、
王質が仙人(?)になっているのかな、と
思われ興味深いが、いずれにせよ菅原道真の
菅家文草から、爛柯(らんか・囲碁の別称)の故事を
想起させるものと、なっていることには違いない。

また、この隣に、瓜(うり)がある。
●瓜
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古来、瓜田不納履、李下不正冠
李下で冠をなおしたり、瓜畑でくつをなおすと、
盗むと疑われる、とある。
また、瓜は、家紋としても使用され、中でも、
木瓜紋(もっこうもん)は、子孫繁栄を祈る
家紋でもある、とされる。





■前拝(本殿の手前)の蟇股。
西側から。


■獏(ばく)に花
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北野天満宮社報142号によると・・
獏の彫刻が、拝殿の蟇股や、
三光門(社報129号)の木鼻にもある。
これは可動性の長い鼻を持った原始的な
奇てい類(*奇蹄類・類はウマ・バク・サイの
3科で蹄(ひづめ)を持った草食動物)で、
マレー地方と中・南米の草食動物のみで、
日本の文様は空想獣で「夢を食う動物」と
されて来た。
蒔絵枕や鏡の裏に獏を配したのは、
悪夢を食うところから相応しい文様として
珍重され、南天に獏を配した鏡の柄紋も、
南天は難を転ずるという音に通ずるために
端祥(*ずいしょう・めでたいことが
起こるという前兆)文として喜ばれた。・・
    と、ある。


■龍馬に水波
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■龍に瑞雲(ずいうん)
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龍に瑞雲の瑞雲(ずいうん)とは、
めでたいことの前兆として現れる雲のことである。
北野天満宮社報142号によると・・
龍は中国では九種の子を生むが皆 龍に以ず、
それぞれ好みも別だという俗説がある。
ものもと説話と空想上の形態との二つの
要素の上に誕生した龍であるから、
何でもかんでも龍の子供で、それ程龍は偉いのだ
と古今の中国の衣食住のすべてに密接に
かかわって居り、最も中国的存在といえる。
この他 麒麟(*きりん)、鳳凰、亀を加えて
四霊といい、古くから、最高の吉祥とされているが、
特に龍は非常に古くから天子と密接な関係を
もち、龍そのものを天子に見立て、龍顔、龍体、
龍衣、龍駕、龍旗と20以上もあり、龍こそは
人間以外の動物の中で最高の存在であった。
従って龍紋様が天使の象徴としてつかわれ,
日本の天皇旗に当るものである。
又 古代においては殆ど凡て(*すべて)の龍が
翼をもち、龍が昇天するのに関係があるようだ。
薬師寺須弥壇の龍などはその適例である。
そして漢時代の有翼龍は唐代には有焰龍となり、
日光輪王寺天井の鳴龍は火焰をもっている。
・・当宮には、国宝 海北友松筆の雲龍の屏風
がある。
         と、ある。


■虎と竹と雲
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北野天満宮社報133号によると・・
・・上に雲、下に竹の葉の一部、それに虎の尾が
不自然なく輪郭にかかっているが、さすがに
傑作の一つである。
尚 竹に虎の歌が、中務卿(*中務省の長官)の皇子
(六帖題・*和歌集のひとつ)の詠に、
“誰れか今 竹の林に身を捨てん、
飢えたる虎は ある世なりと“ がある。

さて虎は日本に棲息(*せいそく)しなかったので、
日本人は虎の皮や絵画、文章を通じてしか
知らなかったが、豊臣秀吉の時、朝鮮に出兵した
大名の吉川広家が、長(*ながさ)一丈ばかりなる
大虎を日本に送り、秀吉公 始め、御局方、家康公
外 諸大名が見たこと、「安西事作」巻七にある他
「常山紀談」巻十【1】には、加藤清正の虎退治の
事が審らか(*つまびらか・詳細)に記されている。
【1】 常山紀談(じょうざんきだん)
簡潔な和文で書かかれた江戸中期に成立の逸話集。

即ち、「一疋(*いっぴき・一匹)の虎、
生い茂りたる萱原(*かやはら)をかきわけ清正を
目がけて来る。
清正、大きな岩の上に在りて鉄砲を持ち 狙わるるに、
其の間 30間許り、虎、清正を睨(*にら)みて立ち止る、
人々鉄砲を揃えて打たうとすを、打たせず
自ら打コロそうとすのを、虎 間近く猛(*たけ)り
来たり、口を開いて飛び懸る処を、喉に打込めば
倒れて起上がろうとしたが、痛手にて死しぬ」
とある。
             と、ある。

■麒麟に瑞雲
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北野天満宮社報140号によると・・
・・鳳凰と同様、麒を雄、麟を雌といい、
「仁徳(*天皇)の世に始めて出現す」と言われる。
体は鹿、頭は狼、尾は牛、脚は馬に以(*にて)、
背毛は五彩で黄色、頭上に肉に包まれた角がある。
後世になると火焔上の翼をつけたものがあらわれる。


■獏に唐松
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獏(ばく)については前述の 獏(ばく)に花 
を参照。


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 (北野天満宮の全貌12 に続く)



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