京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 12(東門と周辺)

京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 12
(東門と周辺)

本編は、2016年春から2017年初冬までの
期間にわたり、取材したものです。

●東門は、
北野天満宮の本殿から上七軒に抜ける御前通り
に面してある。
切妻造り、胴葺きの四脚門。重要文化財。

東門の石鳥居
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東門(重文)

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東門造立の経緯。
北野天満宮社報20号によると・・
・・本殿再興より17年前の天正18年(1590)
9月朔日に周航した東門の屋根瓦には、
金箔が置かれて、巨材に目も あやな桃山式
金瓦を戴いた東門が、燦然(さんぜん)たる
壮観を呈したとあり、今なお天満宮宝物殿には
金箔瓦が収蔵せられている。

これについては、天正17年ご修理が必要な状態
になり、8月3日の条に「天神さま御門柱の事」
を初見として、8月14日には、松梅院禅永が、
ご用材を周旋する嵯峨の弥平次という者へ
修理の礼に出かけている。
とにかく東門は正門にも匹敵する通用門で人目に
つきやすいので修理も急がれた事だろうが、
今急に改築するわけにもゆかず、(8月)17日に、
結局「門のゆがみ なをす也」と弥縫策を
講じている。
しかし11月4日にいたって、ようやく東門
改築工事が始められ、7頭の牛によって
牽引された石材が、北野社に到着し、翌日は
びわ湖の向いから船便で大津へ荷揚げした用材が
着き、不足した分は(天正)18年5月8日には
大阪から船で、鳥羽に到着して、
いよいよ5月13日には造立の工程に入り、
「門の土ならし仕候」とあり、当事者であった
松梅院は、家来稲葉等の勧説によって、
6月4日に大将軍(*地名・上京区大将軍)
の衆が労役を受け持つことを快諾、建築は
時日の問題となった。
翌(6月)5日は快晴であり、三衛門という
棟梁と同一人によって古い御門をとり除き、
前述の(天正18年)9月1日、朝日、夕日に
輝く御門はめでたく完成したのである。
           と、ある。

強健豪放な造りの東門(重文)
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●東門の手水舎は、
北野天満宮の東門を潜り、東北約50mの
南面にある。

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北野天満宮社報20号によると・・
・・手水舎は井戸の周りを格子で囲って、
南側正面には大小二つの手水鉢を据え、両者の
縁へまたがって小さな石の牛が置いてある。
昔 25日には楼門の井戸と共に一日中酒屋の杜氏が
くみ上げたが、今はポンプで汲み上げて、その牛の
下から左右の手水鉢へ流れ込んでいる。
手水鉢に陽が射して格子に水陽炎が動く。
なかなか立派な手水舎だ。
井戸は底ひろがりの巾着井戸で、物を落とすと
なかなか上がらない。

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かつては・・・きれいな水を飲料水用にと、附近の
住民が列をなすときもある。
この井戸の井筒には、江戸初期の寛文10年(1670)
の刻名がついている。
31年後の元禄14年(1701)、浅野の刀傷事件が
起こる前月の2月に、京都町奉行だった
滝川山城守利庸が、長さ150センチほどの石の
手水鉢を寄進した。
皮肉にも吉良上野介は上使として、元禄15年が
800年の御忌に当たることから、普請の検分に、
同年1月19日来宮している。
従って元禄の忠臣蔵の砌(*みぎり)には、
「口外無用」として緘口令(*かんこうれい)を
一山に布いている。(社報32号参照)
140年たった幕末、外船が浦賀に出没して、
海防が叫ばれはじめた弘仁3年(1846)
“手洗講“と”洗替講“がもう一つの手水鉢を
奉納した。
幅は同じだが、長さは50センチ長く、
二つの手水鉢が並ぶようになった。
文久元年(1861)井戸と手水鉢との間に背の低い
石燈籠が二基建った。
竿に松と梅を浮彫にした凝った燈籠で、これも
手洗講の奉納である。
13年後の明治6年、二基の手水鉢を一つに
囲い込んで、石の囲いが出来た。
ポンプ式になったのは、昭和42年である。
一つの井戸が300年かかって立派な手水舎に
成長していくのが、天神信仰のひろがりを
示しているようで興味深い。・・・
(参照)京洛名水めぐり 駒敏郎著より。
       と、ある。

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●二つの和魂漢才の碑

(1) 北野天満宮・東門を入った紅白梅の植込みの中、
南面にある。

覆屋がない頃。
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覆屋のある光景。
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【本文】
凡神国一世無窮之玄妙
者不可敢而窺知雖学漢
土三代周孔之聖経革命
之国風深可加思慮也
凡国学所要雖欲論渉古
今究天人其自非和魂漢
才不能闞其閫奥矣
嘉永元年四月応右兵衛大尉紀維貞需 菅原聰長
右遺誡要文二則宜為後世亀鑑■請其三十一世東坊城
黄門公書属慶延坊卜 神意維卜協便勒石建之廟東
以示諸人云 嘉永戊申初夏 右兵衛大尉紀朝臣維貞


(2)梅苑内・紙屋川畔の一番北、南面にある。

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【本文】( ■は、判読不能)
凡神国一世無窮之玄妙
者不可敢而窺知雖学漢
土三代周孔之聖経革命
之国風深可加思慮也
凡国学所要雖欲論渉古
今究天人其自非和魂漢
才不能闞其閫奥矣
御遺誡 明治四十一年五月 応■君之■
北野神社社司正六位■見資胤謹書」

(本文・.読み下し)
凡そ神国一世無窮の玄妙なる者は、
敢て窺い知る可(べ)からず、
漢土三代周孔の聖経を学ぶと雖も
革命の国風は深く思慮を加う可き也

凡そ国学の要とする所論古今に渉り
天人を究めんと欲すと雖も、
其の和魂漢才に非ざるよりは、
その閫奥(こんおう)を闞(うかが)う
こと能わず

この意は、
北野天満宮・社報171号によると・・
・・前者は支那の聖人のものを学んでも、
革命の国風には注意せねばならぬとし、
後者は、日本の国体を主としたもので、
菅公の精神を伝え、後明治の五箇条の御誓文中の
「知識を世界に求め、大に皇基を振起すべし」
として日本の新理念となるのである。
  と、ある。

「和魂」は日本固有の精神で、
「漢才」は中国の学問・知識の意。
日本古来の精神を失わず、中国の学問を消化し
活用すべきである、の意。

北野天満宮・社報171号によると・・
因に和魂漢才の碑は、
高雄神護寺の和気清麻呂公の墓の左側に、
嘉永4年建碑(、)同5年には大阪の天満宮に、
安政5年(1858)は太宰府天満宮に、其の他
東京の湯島神社には福羽美静が大国隆正の筆で刻し、
同じく東京都和泉神社にも明治27年に建てられ、
幾多の参詣人に感動を与えて来た。・・と、ある。

(1)の説明文によると・・
「菅家遺誠」の中の和魂漢才に関する
二章を記したもので菅公の御精神を
周知せしめるために嘉永元年に
座田維貞が東坊城聡長に揮毫を
請うて建碑したものである。
        と、ある。
座田維貞(さいだ これさだ)は、
幕末、京都の漢学者。
儒学と国学を兼ねた学者で
尊皇思想の実践家として重要な働きをした。
また、東坊城家は、代々天皇の侍読(教授)を
務める家柄であった。

(2)の説明文によると・・
菅原道真公の「和魂漢才(わこんかんさい)」の
精神は、明治に入り「和魂洋才(わこんようさい)」
の言葉に置き換えられ、日本の近代化に寄与し、
今なお その意味するところの重要性が指摘されて
います。
この碑は明治41(1908)年に建てられ、
『菅家遺誡(かんけ いかい)』から「和魂漢才」
の語を含む二か条を抜き出したもの。
『菅家遺誡』は公家のための訓戒を菅原道真公に
仮託(かたく)して著されたもので、
その書中に現れる和魂漢才」は、幕末から明治にかけ、
国学者を中心に盛んに唱えられてきました。
また、当宮本殿東側(1)嘉永元(1848)年に
菅原家の後裔(こうえい)東坊城聰長によって
揮毫(きごう)された和魂漢才碑があります。
            と、ある。





●艸冢銘(そうちょう の めい)

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北野天満宮・東門を入った紅白梅の植込みの中、
南面にある。
艸冢銘の艸は、草の漢字。
寛保3年(1743年)、堀 景山(*後述)が作った銘・
四字を一単位とする韻文を、書家・松下烏石
(まつした うせき)が揮毫し、建立した。

艸冢銘は、拾遺都名所図会・巻一によると、
当初は、絵馬堂の西に建てられていた。

艸冢銘【篆額】
鳥蹟已隆人文聿興衣(帛)木葉 
亦與斯文惟顛将聖克(念入神) 
書草蘊崇功進成山肯比(鶏肋)
宜貽子孫分而為石石可(與言)
龍蛇所蟄毋乃生雲藤康(桓篆)
屈正超銘寛保三年癸亥夏四

( )の文字は、拾遺都名所図会・巻一
の描写より判読。

(読み下し)
鳥蹟(うせき・文字)すでに盛(さか)んにして、
人文(文化)、聿(とも)に興(おこ)る。
衣帛(いはく・衣)は、木葉、
亦(また)、斯(こ)の文に與(あずか)る。
惟(おもう)に顛(いただき)は
将聖(しょうせい・
今にも聖人になろうとしているひと)、
克(よ)く神(しん)に入(い)ることを念ず。
書は、草(下書き)の蘊崇(うんしゅう・
高く積み上げること)、
功(こう)進みて山となれば、
肯(あえ)て鶏肋(けいろく・
あまり役に立たないが捨て難いもの)
に比(ひ)せん。
宜(よろ)しく子孫に貽(のこ)し、
分けて(とりわけ)、石(碑・いしぶみ)と為す。
石は與(とも)に言うべし。
龍蛇(りゅうじゃく・時機を得ない君主)
蟄(かく)れる所、
毋乃(むしろ)雲を生ずと。
藤康(本多藤康・人名)桓篆(てん)
屈正超(ほり まさのぶ・堀 景山)銘。
寛保3年(1743年)癸亥夏4月、
鳥石山人、北野廟側に立つ。

以上、北野天満宮からのご助力を得て、
読み下しました。感謝、致します。

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北野天満宮・社報214号によると・・
・・(この碑は) すなわち“艸冢銘”として
文章の下書きの碑で、高さは1.6メートル、
幅50センチ、厚さ24センチの大きさである。

要旨は、文字(漢字)が生まれて以降、
人間の文化が発展し始め、書道のことがおこった。
思うに書道を能くし、一流に達しようと
する者は、自己の技を極めることが大切である。
そのためには、手習いの下書きが山となる程
修行に努めることが大切である。
それは鶏肋(けいろく・鶏がら、でスープの材料に)
のたとえがある如くきっと無意味な修行でないはずだ。
この教えを石碑として子孫に遺しておこう。
この石碑の教えは、地中の龍がやがて天に昇って
いくが如く、必ず子孫の上達に役立つはずである。
寛保3年(1743年)癸亥夏4月、鳥石山人、
北の廟側に立つ、とある。

(松下)烏石については、葛烏石とも云い、
書家で名は辰、一の名は曇一、字は君厳、また龍仲、
あるいは神力といい、烏石は号である。
江戸に生れ、住居を古川に卜(ぼく)した処、
(ここでは、住居を古川に定めた処、の意)
烏石(からすいし・漆石、石炭の異称)
があったので号とした。
姓は源、松平氏にして、書札に葛と云った。
若い時は遊蕩して家産を治めなかったが、
後年 書を読み、細井広沢【1】を師とし、
さらに欧陽詢【2】を敬仰して、一家を為した。
後、晩年事情があって、江戸を去り、京都に来て
本願寺の賓客となった。
安永8年(1779)10月22日、80歳にて卒した。
烏石は書を模写するのが巧みで、古帖を偽作して、
細井広沢に示した処、真物としたので、
烏石は笑いながら事実を告げたので、
以後 仲違いとなった。 
・・とある。

【1】細井広沢(ほそい こうたく)
江戸中期の儒学者。
堀部武庸を通じ、赤穂浪士に協力し、
討ち入りの口述書の添削を行う。
日本篆刻の先駆・初期江戸派のひとり。

【2】欧陽詢((おうよう じゅん)は、
中国、初唐の書家。初唐四大家の一人。 
後、服部南郭の門下生となってからは、
にわかに有名になった。
服部南郭(はっとり なんかく)は、
江戸中期の儒学者。漢詩人、画家。
赤穂義士切腹論の荻生 徂徠(おぎゅう そらい)
の高弟として知られる。

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◆堀 景山 について。
堀 景山(ほり けいざん)は、
江戸中期の儒学者・儒医。
名は正超、通称は禎助、字は彦昭、君燕。
京都生まれ。
京都に遊学していた本居宣長に約3年間、
儒学を教えたことでも知られる。
(本居宣長が堀 景山宅 に寄宿)
下京区綾小路通新町東入南側に
【石碑】本居宣長先生修学之地
がある。
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(左側面)
堀景山宅 綾小路通室町西入南側
武川幸順宅 室町通綾小路北上
西紀一
昭和二十六年 先生百五十周年祭記念
九五一
本居宣長翁遺蹟顕彰会
(右側面)
先生伊勢の人 宝暦年間 今より二百年前
二十三歳にして京に出で此町の堀景山に
漢学を修め近隣の武川幸順に医術を学ぶこと
五年 郷に帰つて遂に国学を大成す
新村 出 撰文並書
(*吉川幸次郎・本居宣長、より)

墓は南禅寺塔頭・帰雲院(非公開)にある。
南禅寺塔頭・帰雲院
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 (北野天満宮の全貌13 に続く)



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