京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 13(名月舎の周辺)

京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 13
(名月舎の周辺)

本編は、2016年春から2017年初冬までの
期間にわたり、取材したものです。

東門を潜り、東北約20mに、南面に
●竈社(かまどしゃ)が、ある。

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説明板によると・・
末社 竈社(かまどしゃ)
祭神 庭津彦神(にわつひこのかみ)
   庭津姫神(にわつひめのかみ)
   火産霊神(ほむすびのかみ)
神徳 台所の守り神
例祭日 6月17日

庭津彦・庭津姫神の「庭」は家庭の意味で、
この二神は家庭の(*また、家屋の庭園の)守護神。
また火産霊神は、火をつかさどる神である。

古来この三柱(みはしら)の神は、かまど・台所の
守り神として私たちの日常生活と密接に結びつき、
各家庭で大切に守られて来た。

この神々はもともと天満宮の御供所(ごくしょ)
(神さまへのお供えを調理する台所)のかまどに
祭られていたもので、昔から使われてきた大釜が
社殿の床下に納められており、かいま見ることが
できる。【1】
なお、かまどの神については中国にも同様の信仰
があり、この神を台所に祭ると福を招くとして
守り継がれている。
          と、ある。

【1】北野天満宮社報101号によると・・
・・土俗には弁天様といい、嘗って竈の中に
白い蛇のいたことがあったと伝えている。
・・また当社の御供所は【八島屋】と称し、
古来から御供所の東側下屋に祭っていたのを、
明治以後 献茶のため御供所の一部を名月舎と
称した。
そして大正5年 御供所を本殿西に新築し、
御供所は今熊野神社の社務所として移転し、
その跡地に名月舎を新築し、
大正6年落成後は、その下屋に現形の社殿を建立し、
本殿の床下に旧時の竈を収めた。
         と、ある。

また、北野天満宮社報102号によると・・
○【八島屋】
加納緒平翁著の「竹取物語考」に、
「八嶋屋はかまどのことである」と述べられている。
・・さらに八嶋については、
伏見稲荷大社の摂社に、八島神社とあるが、これは
古い御供所の跡と思われる。というのは
この社より南50mの所に新御供所というのがあり、
さらに千本鳥居の突当りに後膳所というのがあって
御供所の変遷を思わせる。
したがって(*伏見の)八島神社の地が最も古い
御供所であろう。
         と、ある。

竈社の鳥居を潜り、二つ目の鳥居が
●明智の鳥居 である。

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北野天満宮社報25号によると・・
明智の鳥居
鉄火【2】の神事のこと。
【2】中世の裁判法のひとつで、神前で真っ赤に
焼けた鉄を握らせ、火傷の程度によって
判決を下した。

「時は今 天(あめ)が下(した)たる五月かな」

愛宕百韻に参列した社僧の連歌師 里村紹邑【3】
は、帰参後、明智光秀のこの句を評して、
ただ事ならず と報告しているが、
当宮 東門を入った北側に竈社(かまどしゃ)が
あり、その前の鳥居は古来より「明智の鳥居」と
いわれ、「明智氏、光隆」の銘があり
正徳五乙未(1715)6月吉日の奉納である。
【3】里村紹邑(さとむら じょうは)
本姓は松井氏とも云われ、臨江斎・宝珠庵と号する。
奈良の生まれ。
周桂(しゅうけい)に連歌を学び、
周桂の死後、里村昌休(しょうきゅう)につき、
後、里村家を継ぐ。
明智光秀、豊臣秀吉などの武将と交流があり、
愛宕百韻(あたごひゃくいん)は、
本能寺の変の直前に、明智光秀が愛宕山で、
張行した蓮歌のこと。

(向かって左の裏側に「明智氏、光隆」の銘がある.。
写真は、反対側からのもの。)
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(本文続き)
さて この竈社の祭日は6月17日であり、
そのいわれは、天正の昔、本能寺の変おこるや、
秀吉は6月13日に光秀を山崎に破り、
光秀とその家臣 斉藤内蔵助【4】の首級は、
粟田口の刑場の獄門にあげられた。
【4】別称、斎藤 利三(さいとう としみつ)。
通称、内蔵助(くらのすけ)。
一説では、利三の父の妹が光秀の叔父に嫁ぎ、
光秀の妹は利三の母である とされている。
山崎の戦いで羽柴秀吉と激突し、利三は
先鋒となり奮戦するも秀吉軍に敗れ、
斬首された。
子に、利宗、春日局(福)がいる。

しかるに その一子 斉藤伊豆守利光は
16歳で武勇絶倫なれば、ある夜 番兵の閑に乗じて、
2個の首級を盗んで逃げ、途中かねて父と深交の
あった、三条堀川に住む郷意密という者の宅に
立ち寄り、妙心寺に葬ろうとして その家を出た。

時に秀吉 市井(*しせい。まち)に触(ふれ)を出し、
「曲者を申し出し者には恩賞をとらし
隠(かくせる)者は同罪なり」とあれば、
郷意密は もともと良からぬ者ゆえ、
明智方の大恩を忘れて訴え出た。
秀吉 お触は世上の表なり。
憎き郷意密をと内心は思いながら、利光を捕らえ、
二人を奉行所に対決させた。
しかし水掛論に終り、ついに北野天満宮に
請い奉り、鉄火の神事を行いて、二人の決着を
定められる。
翌くれば(*暦をめくれば、の意)6月17日、
松梅院を始め、社僧神人 参集する中に、
作法の如く、石爐に火を熾(*おこ)し
燃え上がったところへ三尺ほどの鉄棒を二本入れ、
真赤になったのを、三宝に載せると、
たちまち肌を焦がす。
第一番に郷意密が鉄火をもって握ると、
アラアッヤと 声を上げて投げ出す。
第二番に斉藤伊豆守利光が鉄火の前に進み、
天満宮に祈願し、首級を盗んだのは一身のため
ならず、忠孝二道(*君主に対する忠義と親 に
対する孝行)を全うせんためなりと、
影向の松の上にありありと御尊体が
現れ給(*たま)う。
ここに肝銘し 悠々と三宝(*さんぽう。仏・法・僧の
三宝を祀るための仏像で、様々な形式がある。)
に進み、鉄棒をとり、また本の座に直したのに
一同 感じ合ったという。
奉行 浅野長政、郷意密を磔(*はりつけ)に
掛ける。
利光は虚名 晴れ、加藤清正に預けられ、後
妹 春日局の縁により徳川家に仕え、従五位下に
叙せられ84歳で死んだ という。
のち利光が御霊験を拝した北野影向の尊像は
狩野画家に描かせ大切に斉き(いつき・身を清め
神に仕え)祀った。
神事の日を御祭日と定むとあり、鳥居は明智氏の
後裔(こうえい・子孫)が報恩謝得のため奉納した
ものと思う。
とある。

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明智光秀は、美濃国の斎藤道三の家臣だった
明智光隆の子として誕生。
明智光隆のほか、明智光綱、明智光国の説もある。
塙保己 一(はなわおきいち)」の著書
「続群書類従」の「明智系図」の中に
「光秀は明智光隆(美濃国の斎藤道三の家臣)
と妻( 若狭の守護大名武田義統の妹)との間に
生まれ、と、ある。
明智光隆は、『明智氏一族宮城家相伝系図書』
では、本名とされる。
だが、現在でも確たる立証はない。

竈社の後ろに、
●茶室・名月舎 が、ある。

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名月舎の門を入り、竈社の後方に回ると
名月舎が、ある。

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北野天満宮社報24号によると・・
・・毎年12月1日の献茶祭りを始めとして、
春夏秋冬1日、15日には月釜がかかり終日、
数奇者で賑わう。
         と、ある。





●北門
北野天満宮の最北端にある。

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切妻造り、胴葺きの四脚門。
門の左右には阿と吽の狛犬が鎮座し、
梅と松の提灯が掲げられている。

また、左側の狛犬の前に、
正面・禁煙、
左側・講中安全 
と、刻まれた石標がある。

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近年の凹型の彫り方ではなく、
V字型の谷となる薬研彫り(やげんぼり)
で刻まれている。
この禁煙の意は、たばこ禁止の意でなく、
おそらく火を焚くことを禁じる、の意と、
推測される。
だが、喫煙者にとっては、
一瞬なりとも、心、穏やかならず、である。
また、門を潜ると、現代文で、
この境内全域 たばこは、禁止します
の看板がある。
ちなみに、この看板があるにもかかわらず、
喫煙者が一服したい時は、絵馬所
(楼門裏・西側)に行けばよい。
看板と矛盾して、ここでは境内、唯一、
灰皿が設置されているので、
安心して喫煙できる次第である。

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北門を潜り、南へ進むと、左側・南面に
●文子天満宮(あやこ てんまんぐう)が、ある。

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説明板によると・・
末社 文子(あやこ)天満宮
祭神 菅原大神(菅原道真公)
神徳 入試・学徳成就
例祭日 4月第2木曜 神幸祭
    4月第3日曜 還幸祭

道真公が大宰府で生涯を閉じられて40年を経た
天慶(てんぎょう)5年(942)、
右京七条二坊(現在の京都下京区千本通り七条辺)
に住む巫女(みこ)多治比文子(たじひのあやこ)
に菅公の神霊より、わが魂を右近馬場(現 境内地)
に祭れとのお告げがあり、文子はとりあえず
自宅に菅公の御霊(みたま)をお祭りした。【5】
これが北野天満宮の発祥である。
【5】文子(童女)の家は貧しく、家の辺りに
瑞籬(みずがき・垣根)を結んで5年の間、崇めた。

その後、他の霊能者にも同じご神託が相つぎ、
天暦(てんりゃく)元年(947)天満宮は
現在地に移された。【6】
【6】北野天満宮社報71号によると・・
・・近江国 比良の神主 神(みわ)の良種の子
太郎丸にも同じく神託があった・・とある。

文子の住居跡は神殿につくり改め文子天満宮と
称されてきたが、やがて西の京に移され、
さらに明治6年この場所に遷座(せんざ)された。
         と、ある。

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 (北野天満宮の全貌14 に続く)



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