京都史蹟散策123豊国神社と豊国廟 2

京都史蹟散策123豊国神社と豊国廟 2

●豊国神社・豊国廟(ほうこくびょう) 

【位置】東山区今熊野北日吉町
【交通】市バス・東山七条 徒歩7分

東山通り、七条交差点に巨大な石標・豊国廟参道
がある。
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この参道を登って行くと、右手に石鳥居がある。
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この鳥居が豊国廟の鳥居である。
その右手にある新日吉神宮の石鳥居ではない。
豊国神社に問い合わせたところ・・
この鳥居は、後に車道が横にできたもの。
明治36年、高木秀太郎 著・近畿名所に
掲載の写真を見ると、石灯籠から
豊国廟の参道の階段、五輪石塔が一直線で
結ばれていました。
現在は、道路の右側に寄った位置になって
います・・とのことであった。
なので、これを潜り、さらに登ると、
左右に石灯籠のある43段の階段がある。

43段の階段
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登りきると境内で平地になり、右手はバスの
駐車場になっている。
境内・中央に拝殿があり、真っ直ぐ石畳を進むと、
正面が入口で、左側に受付がある。


入口・横の駒札によると・・・
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豊国廟(ほうこくびょう)
豊臣秀吉の廟所である。
天下統一を果たした秀吉は、
慶長3年(1598)8月18日、伏見城で63歳の
生涯を閉じ、遺骸は遺命により、ここ阿弥陀ヶ峰
(あみだがみね)に葬られた。
翌年4月18日、秀吉は後陽成天皇から正一位
豊国大明神(とよくにだいみょうじん))の
神位・神号を賜り、山腹には境内域三十万坪、
社領一万石を誇る壮麗な豊国社(とよくにのやしろ)
が創建された。

以後、毎年4月と8月の18日には勅使や北政所
(きたのまんどころ)、豊臣秀頼の名代を迎え、
盛大な祭礼(豊国祭)が執り行われたが、
慶長20年(1615)豊臣家が滅びると、
幕府は豊国社の廃祀を命じ、
以後は墓参する人もなくなった。

現在の廟は明治31年(1898)、豊太閤三百年祭に
際し、豊国会により全国からの募金で整備された
もので、そのとき墳上に高さ約十メートルの
巨大な五輪石塔(伊東忠太設計)が建てられた。

なお、豊国神社は明治13年(1880)、
方広寺大仏殿跡の地に豊国(とよくに)神社
として再興されている。
         京都市
            と、ある。

ここでは、参拝する前に、最初に境内を見ることが大切。
何故なら、参拝のあとでは、足が笑っているかも
知れないので。

受付の左側奥に
●豊臣秀頼の子・国松丸と、秀吉側室・松丸殿の
二つの五輪塔がある。
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左側が、豊臣秀頼の子・国松丸の五輪塔。約1.3m
最下段に 漏世院殿雲山智西大童子 とある。
国松丸の母は側室・伊茶
(他説あるも、最近では渡辺五兵衛の娘説が有力)で、
慶長19年(1614年)大坂冬の陣で、常高院
(浅井三姉妹の次女・初)と共に大坂城入城した。

右側が、秀吉側室・松丸殿の五輪塔。約3.2m
最下段に寿芳院殿月晃盛久 佐々木京極女為二世安楽
とある。

その右横に、
●漏世公子(ろうせいこうし) 及
寿芳(じゅほう)夫人遷墓碑(せんぼのひ)
がある。
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漏世公子及寿芳夫人遷墓碑
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(表面)公子
漏世公子及寿芳夫人遷墓記

名国松右大臣豊臣公之子也生母成田氏
大阪城陥公薨公子年甫八歳
與傅田中六郎左衛門及乳母某匿伏見徳川家康
捕之乳母固称己子請命不
許遂歿於六条磧六郎殉焉実元和元年
五月二十三日也寿芳夫人収葬之於
京都誓願寺中法謚曰漏世院雲山智西夫人
名龍子京極高吉女美而貞淑被
寵於豊国公寛永十一年九月朔卒謚曰
寿芳院殿月晃盛久葬於公子墓側蓋
従其志也夫大阪之亡也諸侯皆遺義趨利無顧
旧恩者而夫人独以一婦人不
屈威武能尽礼於公子可謂義烈矣明治革新後
商買多移居夾墓余深憂其地
陜隘囂塵祀事難行且懼受狂暴慢侮請官遷墓
於東山豊国公廟域嘱京都内
貴甚三郎君董督其事君素好義常傷公子不以
寿終而欽夫人之節烈也喜諾
之尽力経営今茲辛亥十月四日備礼遷新壙
於是英霊永得所安而祭祀可行
無復受侮之虞也余因刻其由於石以建墓左云
明治四十四年十月
高吉十一世孫子爵京極高徳謹撰
山田得多敬書

(裏面)
委員長 (以下、人名記載につき略)

【表面の意訳】
公子・国松は、右大臣・豊臣(秀頼)公
の子なり。生母は成田氏。
大阪城陥落し、(秀吉)公、薨する時、
公子、年は、八歳甫(はじ)めだった。
傅に與(よ)ると、田中六郎左衛門
および乳母と伏見・某所に匿れるも
徳川家康に捕縛され、乳母、固くなに
己子(わがこ)と請命するも許されず、
遂に六条磧(せき)において、公子、
六郎とともに殉する。
この日、元和元年五月二十三日なり。

寿芳夫人は、(遺体を)収め、
これを京都誓願寺に葬むる。
法謚は、漏世院雲山智西。
寿芳夫人、名は、龍子、京極高吉の娘
で美しく貞淑で豊国公に寵愛を受けた。
寛永11年9月1日逝去。
謚号は、寿芳院殿月晃盛久で公子墓の
側に葬られた。
其の遺志に従うものかな。
大阪(豊臣家)滅亡、諸侯・皆、
自身の益を遺し、旧恩を顧みる者居らず。
而して、(寿芳)夫人、一婦人、独りで以て
武(徳川家)の威圧に屈せず、公子に
礼を尽す。
義烈と謂うべき矣なり。

明治維新後、
商買人、墓のわきに多く移り居住す。
(新京極が開かれたことを示している)
余(筆者)、其の地(墓)狭く、囂塵(俗塵)に溢れ、
祀事行いし難く、且つ、狂暴慢侮を受けることを
深く憂い、官に東山豊国公廟域嘱に遷墓を請い、
京都・内貴甚三郎君に其事の監督を依頼した。
(内貴甚三郎)君、素より義を好み、
常に公子の寿終(死)の事、心傷み、
而して夫人の節烈を敬い、喜んで受諾し、
その経営に尽力した。

今、ここに、辛亥(明治44年)10月4日
新たに遷墓の礼を挙行した。
是に於いて英霊、長く安住所を得、
而して祭祀も可となり、受侮の報復も無くなった。
余、その由を(石碑に)刻み、
以て、墓の傍らに建てるものである。
高吉十一世孫 子爵 京極高徳 謹撰
山田得多敬 書



お気づきだと思うが、秀吉側室・松丸殿の父は、
京極 高吉。その子孫・十一世がこの碑を著述した
京極高徳(たかのり)である。
高徳は京極高岑(たかみね)の子で、明治15年、
養父が没し家督を継ぐ。2年後、子爵。
明治23年、貴族院議員。
明治30年、北海道ワッカタサップ番外地
(現・虻田郡京極町)に農場を拓き現・町名の
由来となった。
なお、国松丸。大坂夏の陣後、薩摩への逃亡説も
あることを付記しておく。



さて、入り口に戻り、今度は入口・
右側に行くと、もうひとつ石碑がある。
●豊太閤三百年祭記念碑である。


(表面)
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(裏面)
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(裏面)
振兵威於異域之水
施恩沢於率土之間

(表面)
豊太閤以慶長三年八月十八日薨
春秋六十三葬東山阿弥陀峰
後陽成帝詔贈正一位賜号豊国明
年四月十七日 宣命使詣新廟告
祭碑面所刻即係 宣命第一語方
今五洲争■列国競武民之助深有
欽乎公之偉勲適会公三百年大祭
乃録其由以垂不朽焉
明治三十一年四月
 上毛国人 久米民之助建

■石ヘンに角

【意訳】  *は、付記
(表面)
豊太閤、以って慶長3年8月18日、蒙する。
享年六十三。
東山・阿弥陀峰に葬られる。
後陽成帝(*天皇)、正一位を贈られ、豊国の号を
与えられる。
明年、四月十七日、
(*朝廷の)使者、新たに廟を詣で、その命を
述べる。
祭碑の面所(*文字)は、すなわち、第一語
(振兵威於異域之水施恩沢於率土之間)
の宣命の係わり(ことば)を刻む。
方今(現在)、五洲(*世界)は争い、
列国、武を競い、民の助けが必要である。
これにあたり、(*秀吉)公の偉勲は、適合す。
乃(すなわ)ち、公・三百年大祭にあたり、
其の事由を以って、永遠に記(*録)するものである。

(裏面)
兵、その威容を異域の水に振い
恩沢を率土の間に於いて施す

この文言、当時の国情をまさに投影するかのようで
現在、我々の時代にそぐわないように感じるのは
何故であろうか・・
 と思いつつ、手前に平がる境内を横目にしながら、
心おきなく、再度、入口へ。

いよいよ、参道である・・

見上げる参道の階段、313段。
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だが、この階段、余裕で登れるかも。
それは、階段の幅が物語ってくれる。
勾配、それほどなく、階段の高さが低く、
6~7段ごとに少しだけ幅が広い。
さらに61~63段ごとに、踊り場がある。
しかし、この踊り場が4ヵ所。
すなわち、61.63.63.63.63で
計、313段になっているわけである。

1・2・3・4・・・・・

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    ・・・310・311・312・313(まる)

で、正直、やっとの感じで登りきりました。

振り返ると、朱色の門扉が、かすかに見えます。
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しかし、このあと、驚愕の光景が・・・

(京都史蹟散策123
   豊国神社と豊国廟 3 へ 続く)



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