京都史蹟散策123豊国神社と豊国廟 3

京都史蹟散策123豊国神社と豊国廟 3

●豊国神社・豊国廟(ほうこくびょう) 

313段の階段を登りきった光景は、
中門があり、さらに新たな階段のある光景だった。

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中門の屋根
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まさに、天空へ登るのか・・と目を疑った。
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だが、この光景。
まだ登っていないのに、何故か見たことがある。
思い出すに、
平成8年○○○の大河ドラマ・秀吉。
秀吉=竹中直人、信長=渡哲也が演じていた。
そのオープニング。
こども(日吉?)が中門を潜り階段をかけ登り、
左右から金色の滝が降りそそぐ、場面だった。
そして、途中で子犬とともに一休み。
そして、また、頂上へとかけ登るという場面。
と、古い記憶を辿り、中門を潜り階段を
再度、見上げる。

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この階段。
前の313段の階段に比べると明らかに勾配が急。
しかも階段の幅が狭い。
そのうえ段差も高い。

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では、と、
1・2・3・4・・・・(何という階段)
17・18・19・20・・(さすがに息が切れる)
97・98・99・100・・(こどものように小休止)
128・129・130・・・(体が後ろに倒れそう)
148・149・150・・(頂上が・・あと少し)
169・170・171・172! 遂に到達!!
到達しました・・・(しばらく放心状態)

(息を整えて)
最初の34段の階段から数えて、
総階段数は、・・523段だった。

受付で1コインの五分の一のコインを
支払った登拝券には、正面の階段489段と
記載されているが、これは、
313段と中門4段と172段の総計である。
入口から数えて489段、当然、正解である。

そして頂上にそびえるのは、大五輪塔と石灯籠だけ。
あとは、何もない・・

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墓所の石灯籠
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そして、拝観。後、あとは下るのみ。

やがて、中門まで下って来る。

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現在の駒札では、前述の如く、秀吉は、
「ここ阿弥陀ヶ峰に葬られた」とあるが、
以前の駒札では、
「ここ阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)【中腹に】
葬られ、墳上には祠廟、山麓には社殿が
建立された」とあった。
と云うことは、本来は、この中門辺りに秀吉が
葬られたとも推測できるかの記述が、
現在は、上述のように変更されている。

これはどういうことなのだろうか、
単なる表現の変更、
それとも、徳川家の破毀・に対する
豊臣家の歴史の評価史の微妙な変化であろうか。
と、独り言を言いつつ、
今回の登拝・豊国廟の編は、これにて閉じさせて
いただきます。
  ご同行、ありがとうございました。



附・歴史の見方 (豊臣家と徳川家)


およそ歴史と云うもの、勝者の歴史であり、
勝てば官軍に違わないが、
敗者の歴史が現存し、復興して行くのも
世の常道である。
豊臣家と徳川家の確執とその変遷もその例に
そぐわない。

豊臣秀吉 没後の徳川家康、徳川家の豊臣家に
対する京都・東山地区の土地政策を
見てみると・・

秀吉の没後の頃、江戸時代初期の家康の時代、
京都東山界隈、特に東山七条辺りは、
建物の位置関係として、東から、おおまか、
以下のように並んでいた。
1:豊国廟 
2:豊国神社 
3:祥雲寺 
4:方広寺(大仏殿、三十三間堂) 

この頃の阿弥陀如来の西方浄土の世界観は、
太陽の軌跡と同じく東で誕生、西で死亡を
繰り返すとされ、これは、この当時、
日本各地に広く流布していた・・・ので、
下記のような説もある。
すなわち、

【家康、徳川家は、この世界観・いわゆる秀吉
(豊臣家)の再生を阻止せんが為か、
豊臣家滅亡後、土地政策を以下のように
実行して行く。

1:豊国廟 
元和元年(1615)、豊国廟舎(びょうしゃ)
は、徳川幕府により破毀(はき)された。
これは、家康が亡くなる1年前のこと。

2:豊国神社 → 智積院・妙法院・新日吉神宮
  同、元和元年(1615)
  豊国神社付属寺院の土地建物が、智積院・
妙法院・新日吉神宮となる。
  特に、新日吉神宮の位置は、
豊国神社の参道の途中にあった。
ただし、 新日吉神宮の名前の日吉の字は、
秀吉の日吉丸の名から取ったなど、 
新日吉神宮は、豊臣家の隠れキリシタン的な
様相を呈した、と云われる。
逆に新日吉神宮側からすると、前述の【 】*
のように、新日吉神宮だったからこそ、
その義は実に大と説明している。
*【当時を憚り其の縁故ある社名を以って、
祭神の姓木下にかけたもので、公の神霊も
旧幕時代は僅かに此の如く苦心の中に其の
祭祀をたつことなきを得たのであるから、
その祠宇は小であったとはいえその義は実に
大なるるものがあると言うことが出来よう。】

後、明治30年、現在地に。

3:祥雲寺 
同、元和元年(1615) 智積院に。
ただ、この智積院は、天正13年(1585年)
秀吉の根来攻めで全山炎上した寺院。
逆に新義真言宗側からすると、十数年の
志がかなって再興できたことになる。

これらの建造物により、豊臣家は、再生
(太陽の軌跡が、東から西に入ること)
ができなくなった】
と説明するものである。

確かに、【部分的】には、そうでもあるが、
それを全体として曲解し過ぎてもいけないので、
紹介の枠に留めることにします。

なお方広寺は、 
妙法院の地域となるも境外仏堂・三十三間堂
として残り、明治3年、方広寺境内の大部分は、
明治政府により、収公され、現在の規模と
なっている。

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        (この編・完)




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