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zoom RSS 歴史の流れ 防長回天史を読む9 第八章 毛利氏の財政(二)

<<   作成日時 : 2018/08/09 23:23   >>

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歴史の流れ 防長回天史を読む9

[ ] は、原文の注釈で、
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

●第八章 毛利氏の財政(二)

大階下の必要
○英雲公
○撫育局の創設
○英雲公の願文
○英雲公の遺訓
○天明の所帯分離
○本部の困難
○和姫の来帰
○天保2年の騒擾
○江戸藩邸の貯穀
○天保8年の災害
○忠正公の襲封

宝暦8,9年(*1758,1759年)頃、
英雲公(*毛利重就)は、本部の財政の
焦眉(*しょうび・*差し迫る状況)を見て、
その整理を企画するにおいて、英雲公は、
まず、一大新政を案出して子孫持久の
財政策を講じるべき必要を看破して、
宝暦8年(*1758年)、親しく坂 時存(*家老)
を召して、諮詢(しじゅん・*諮問)した。
次いで裏判役・高須就忠(平七)に
記録所役を兼ねさせて、坂 時存(*家老)と共に
改革の事を調査させ、毛利広胖(もうり ひろやす・
*毛利広定の別名。 以下、毛利広定と表記する。)
(通称、内匠) にこれを統率させた。
*毛利広定は、清末藩藩主・毛利匡広の三男。
後、宗家一門・右田毛利広信の家督を相続。
宝暦元年(1751年)、同母弟の弟・後の毛利重就
に仕え、宝暦4年に加判役(家老)となっていた。

記録所役は、藩主の親近の職名で、直ちに
公の旨を承るのに便利であった。
よって、(*高須)就忠を特に、この職に
兼ねさせた。
既に、坂 時存(*家老)は、意見七条を記して
毛利広定に呈した。

○その一 に云うには、
他領借(*起積)は、一時の急を救い、
未だ収められていない租税を、これを抵当として、
あらかじめ、積主に与える新穀出津(*輸出)
の証とする。
そのため、今年、来年のような、いわゆる、
蔵入の所務は、既に皆無に帰す。
危急と言わざるを得ない。
[他領借は、大阪・江戸の積主によらず、
隣国、あるいは藩内で起積することを云う。
出津とは、藩境から大阪などの地に輸出する
ことを云う。]

○その二 に云うには、
財政は、このようなので、今や宝蔵の貯金は、
既に空乏し、山内広通などが定める毎年増貯の法
(*正徳の仕組)は、また荒廃する。
藩国のことは、宜しくこのようになっては
いけない。

○その三 に云うには、
国中の用心米[非常貯蔵]は、非常に緊要とする。
山内広通は、特に心をこれに用いる。
正確には、大藩は自ら大藩の風であるべきである。
近時、功利の連中に動きがあれば、説をして云う。
貯穀を売って金とし、これをもって、大阪の藩積の
銷却(しょうきゃく・*売ってなくす)に充て、
貯穀に対しては、借用の証券を与え、(*利)息銀を
付せば、藩は(*利)息銀を境外に出すので損はなく、
貯穀は、(*利)息銀をえるので利益があると。
(*だが)この説は断じて用いてはいけない。
もし凶荒、享保 壬子(*17年、1732年)のような
ものがあれば、まさに、これをどうしようとするのか。

○その四 に云うには、
今や耕地は荒廃に帰するものが多い。
このため、年々、追損米を給付する現(*現在の)額は、
3,500石余となる。
これを時価に換算すれば、銀150貫目余に当たる。
これを空しく見過ごすことが出来ようか。
況(いわん)や、良田を荒廃に帰させる如きは、
政道(*では)、その宜しきを得たるもの(*それは良い)と、
云ってはいけないことにおいては。
[追損米とは、田畑に損害があって、公租を納めることが
出来ず、しかも検見を要請することに適さず。
官もまた、これを便(*都合が良い)とせず、
憫諒(びんりょう・*あわれみ)すべき
事情がある者に対し、官よりその不足を補給する
ことを云う。
後世の慣例によれば、千石以上の損害は検見を許す。
追損米を給するのは、それ以下の損害であると云う。
貞享の検地から、殆ど60年、寛保年間になり、
地力が変わり、租税の負担に耐え切れないものが
あった。
甚だしいのは、いわゆる、亡所(ぼうしょ・
*戦乱なので人がいなくなった所)になるものが
あっても、これを改訂すれば、一般の石高を
減少させられるので、官は、特に培養肥料を給する
名義で、官から予め一定額を約束して、
租税の欠損額を与えることが少なくなく、
これを定迫損米と云う。
本文の追損米は、すなわち、これである。
古記録に、*『追々 田畠入狂ひ 御定之物成難相備
定迫損米 余分被立下候ても 至秋検見願有之様相成』
*『』の意訳は、
追々、田畑に入って狂い、お定めの年貢は備え難く、
定迫損米の余分があっても、秋になると、
検見の願いがあるようになり

とあるものは、すなわち、これである。
これにおいて、当時の当職・山内広通石盛の改正の意
があり、小野某(なにがし)、佐野某(なにがし)に
諸郡を巡回させて実況を視察させたが、未だ、
これを決行するには至らなかった。
(*そして)又、10余年を経て、坂 時存(*家老)の
建議となった訳である。]
.

○その五 に云うには、
我、宗藩には、良港があり。
以前、急いで米を売る必要があり、これを
備後、尾道に郵送して売らせた。
福山藩主は、違言があり、柳井、馬関などは、
共に支藩の領土に属し、ここに良港を創設して
運輸の便を図るべきである。

○その六 に云うには、
歳入の歳出に称するものは、久しい。
加えるに、侯家、内府の所費用は、近時、
制限を超えて多い傾向がある。
正確には、時勢は、ようやく華美に向かうところで、
止むを得ないものが少なくない。
これに応じる策を計画するのは、歳出の増加の法を
講じるにあり、累世の才能ある臣・益田牛庵、
毛利就方(宮内)、毛利就信(六郎左衛門)、
毛利就直(蔵主)、佐世広長(主殿)、毛利広定(内匠)、
山内広通(縫殿)が、等しく力を新田開作に
尽くしたのは、このためであるが、そのことは難しく、
未だに速やかに、行われていなかった。
(*なので)老功の士に(*これを)専心、従事させる
ようにするべきである。

○その七 に云うには、
歳出を節制して、歳入を越えないようにして、
士民の馳走のようなものは、重大な国役、賦課に際し、
あるいは藩内の非常事態がある時に限り、臨時に
賦課する法を作るべきである。
従来の改革は、これを、その方針としていないので、
(*その)実効が、未だにあがっておらず、
現在の財政をもってすれば、この事は速やかに
数年を期せば、成就しないことはない、しかし、
節約、減省の手段は、少しでも、これを怠っては、
いけない。
ただ、節約、減省のことは、また、危急に臨み、
速やかにこれを稀と云えども、よく一朝一夕に
その功を奏することない。
かつ、数十年来の事(*であるので、)速やかにこれを
変更すれば、一利一害を招くものが、また多く、
硬直、剛毅、練達の士を待って、この事を委ねるべき
である。
坂 時存(*家老)の論じるところ、大要は、こう云うこと、
である。
そして、耕地野荒廃と、隠秘とを相殺すれば、
得る所は失うものより多い事が予知されるのである。
宝暦9年(1759年)、(*英雲)公(*毛利重就)は、
遂に、坂 時存(*家老)、および羽仁正之(五郎左衛門)、
佐々木 萬令(五右衛門)、粟屋勝之(六郎右衛門)の
四人を起こして、新たに、御前仕組方として大いに
整理の事を議論させた。
御前仕組方とは、特に君側にあって、整理改革方法を
審案(しんあん・*吟味)する職を云う。
ここにおいてか、選に預かる者を萩城・獅子の廊下に
一局を設けて、自ら討議に努めた。
村田為之(四郎左衛門、清風の祖父)は、また、
選ばれて、その屬吏(ぞくり・*地位の低い役人)の
中にいた。
仕組方が議論するところは、秘密に属するが、
坂 時存(*家老)の建議を根拠として審議、画策する
ところである。
この時に当たり、歳入は既に歳出を償うだけの歳計
をもって、限りなく需要に応じようとしたが、
到底、無駄であることを免れず、ここにおいてか、
本部の財源の他、別に独立の財府を設けて、
歳計の外に立てて、大いに蓄積の法を講じようとした。
但し、租税には自ら一定の率があり、それ以外に
新しい基本を求めることが出来ず、焦り、思慮し、
それを思う月日は過ぎて、遂に、土地広狭坪の一法
を案出した。
貞享年間(*1684-1687)、土地の広狭を測り、
士民の地区を検証して納税の率を定めてから
宝暦の当時に至るまでの既に70余年、
その間、一面、田畑は荒廃して収穫は、
昔のようにはならなかった。
一面には草原を開き湿地を埋めて新地を得て、
その利益を収める者が多かった。
荒地に対しては、往々、官から給される穀物
をもってこれを追補したが、
新地を広げる者は、未だ公租を納めない者もあり、
今、やるべきことは、この積幣を更改して、
その租の課すべきは課し、免じるべきは、
これを免じて、名を実とを明らかにして、
負担の均一を期すべきである。
これが、広狭坪を行う要旨である。
もし精細に測量して新地で荒地を補えば、
新地に余裕が出来るのである。
この余裕を新しい基本として、独立の財源を
開こうと欲するのが、仕組方の胸算用である。
事は、ようやく、僥倖(ぎょうこう・
*思いがけない幸い)に近く、又、自らの成算
(*成功する見込み)もあった。
獅子廊下の件(*御前仕組方のこと)は、
ようやく熟して検地のことが、ここに始まり、
布施光貞(忠右衛門)、都野祥正(正兵衛)を
その任に当たらせた。
当時、検地の名を避けて、広狭坪と称するのは
幕府に聞かれるのを憚ってのことであった。

(*宝暦)9年3月6日、
(*英雲)公(*毛利重就)は、まさに江戸に
参勤しようとして、改革の業が容易ではないこと
を思い、その前日に洞春寺に詣でて、洞春公
(*毛利元就)の神位に謁見して、願文を奉じて
瞑助(みょうじょ・*神仏の目に見えない助け)を
祈り、かつ、自ら厚く、自分を責めて、群下を
率いて祖業を潰(つい)えないようにする覚悟する
意を誓った。

(*宝暦)13年(*1763年)、(*英雲)公(*毛利重就)
は国にいて、4月に参勤の期に当たる折、
朝鮮修信使の来聘(らいへい・*外国使節が来朝して
礼物を献じること)があった。
長州藩は、これを赤間関に迎え、接待しなければ
ならなかった。
よって幕府に要請して、英雲公は、東上の期を
延ばした。
[旧記によれば、延享5年(*1748年) および
宝暦13年(*1763年) の両度の朝鮮来聘使に
関する長州藩の藩庫の費用は、合計4,870貫目と
見られる。]

時に、改革方案および検事の事結を告げる。
果たして(*案の定)、新地に余裕があった。
ここにおいて英雲公は、まさに一大革新の法を
敷こうとして、5月14日、当職・毛利広定
(内匠)を召して、手書きの令条を授けた。
令条は、すなわち、改革の綱領を列記したもの
である。
これに付して施工の細則がある。
今、その概略を説明するに当たり、広狭検地に
よって得るところの6万石余の地は、地下人民の
開作と士卒一部の(*開)墾地から成り、
公簿の外にあるので、官は、まずこれを収め、
さらに士卒の墾地に従事する者には、その費用を
聞いて、なお墾地の十分の四を与え、人民の
開作から成るものは、またその費用を償って
労に報いるところがあった。
また、以前の田畠に欠損、もしくは、いわゆる
入畝、すなわち尺不足があって、民が困難する
ものは、これを補足し、これらの平均のために
費やすところを2万石とし、乗ずるところ、
4万石の地を得た。
この検地は、一個人にあっては土地の負担を
増やしたのは少なくなかったのは勿論だが、
地力の厚簿に応じて負担の比例を平均にさせ、
かつ、4万石の地は、新たに藩庫の財源を
増やしたことは、明らかである。
そして、この財源(*藩庫の財源)は、全く藩庫
以前の公租の外にあるので、本部とその経済を異にし
[収入事務は、すなわち本部で一切、これを管理し
収入の後、現物を撫育局に引き渡すのである。]

これに課する租税および馳走米をもって別途の
資金として、これを蓄積し、特に一局を設けて
これを管理し、兼ねて運伝増殖を計画して、
その名を命じて撫育局と云う。
その意は、財政の困危を整理し士民を心配して
遂に、その馳走、減免を行い、衆庶(しゅうしょ・
*庶民)を撫恤(ぶじゅつ・*憐み慈しむこと)
することになった。
その他、広狭検地、収税の均一のため、
減滅にすべき追損米は、自ら本部の剰余をもって、
又、移して撫育局の資本に充てて、歿禄、減禄は、
その三分の一を収め
[当時、罪科があって知行を没収され、あるいは
削減され又は、嗣子がなくて減禄させられるものを
称して、入石、と云う。
昔は子なければ、その家が断絶するのは徳川の
定法で、諸侯は皆、この規定に服従して、
その士卒に対して等しくこの法を行った。
しかも、この法は、ようやく緩んで養子を
許されることとなったが、養子は時として、
その世禄を減じられることもあり、そして、
これらの歿禄、減禄は、又、他の功労者に与える
例となったが、必ずしも全て与えられず、毛利氏の
この整理においても、このように禄は、
その三分の二を有効な士卒に与え、三分の一を
撫育局の資本に充てることとした。]

旅役出米の増加
[士卒の旅役出米を納める際に、病者、幼者で、
全く本役を勤めることが出来ないものには、
その割合を倍加して賦課する出来額を云う。]

御用心米、入替米の貸付から生じる収益
[これは当時の一時のことであって、その
方法は、今、これを詳細に述べられない。]

と共に、皆、撫育局の資本に投じた。
[この他、海上受運上と称して、鮭の網に
4,5年の年限を定めて鑑札を与え運上を課す、
また、鮎川の運上あり、共に撫育の収入に
属するが、その額は少なく、かつ、その創設の
年限は未だ不詳である。]

これより先、宝蔵の貯蓄のように、別途、
金穀の類も本部財政の危急に臨んでは、
常に攪拌されると共に、空乏に陥ることは、
幾度も通常のことであった。
故に撫育局の経済に対しても、また本部役員も又、
口実を設けて、前の轍(てつ)を踏み、
撫育局を擾乱しないことは必ずなかった。

このように、これ(*撫育局)を認めて
その職に堪えられないものとし、もし、
非常支出の必要があれば、藩主自ら、これを命じ、
あえて臣下の建言を待たないことを法とした。
(*そして)撫育局は、ここに成り、
(*その)基礎は、ようやく固まり、ここにおいてか
大いに増殖のことを試みようとし、すなわち、
まず米殻の販路を模索し、大浜[今の中ノ関]、
今浦[下ノ関の西端]、室積[熊毛郡にある]の
三か所を選び、港湾を開築して、運輸の便に供し、
御馳走開作を奨励して、公田を増やさせ
[御馳走開作とは、長州藩が中世から始めたことで、
例えば、公許を得て十町の地を開作して、
その五町を官に納め、その五町を自己への下付に、と
要請する類を云う。
しかしながら、開作の業素(*仕事の性質)から
容易ではないので、衆力(*民衆の力)を合わせて、
その利便を得ることは出来ず、よって、この時、
下民が公に奉じようとする者が、各々、この目的に
出金することを許した。
(*そして)その資金を集めて、官が自ら開作する
法を作り、出金者に対して厚く賞与することとした。
その結果として、豪富で多く出金する者には、
名字帯刀を許して、士分の格を与える(*と云う)
例になった。
そのような人達を指して御雇士、あるいは御利得雇と
云う。]

又、米庫を十か所に置き、機に応じて貧民に貸与し、
(*利)息を収めさせ、あるいは、藍座を設けて
製藍の専売をさせる類(*など)孜々(しし・*熱心に)
として、怠らなかった。
[製藍は、明和年間(*1764-1771)から政府の専売
とし、撫育局の所管に属し、萩に藍座を立て、
これを製造し、文政年間(*1818-1829)に山口、
室積の両地に販売の会所を設けて販売させた。
天保2年(*1831年)の騒擾に際し、売買交換を
自由にして萩藍座の製造も、その業を縮小した。
以来、阿州藍の輸入が多く、損得は償わず、
よって他国(*から)の輸入、および人民の交換を
禁じたこともあったが行われず、
天保14年(*1843年)に至り、遂に、官業を
廃止した。
嘉永3年(*1850年)、再び藍座を復(*興)し、
他国の藍、普通品の輸入を禁じて、ただ
阿州上製藍玉150目以上のみに限り、俵別札銀
3匁の運上を課して入津を許し、そしてこれを
藍方(藍取締の役員)の雑費の中にこれを
充当した。]

(*そして)
人選を厳密にして授受を慎み、いやしくも
信用を失わないようにすることに努めた。
(*だが)未だにどうにもならず、その資本は、
倍々に加わり、倉庫に充ちて府庫は充足し、遂に、
よくよく進んで本部を救援し、その急に応じることが
出来た。
そして又、郡・村においては、広狭検地と同時に
多くの郡・村費節減を法を講じて、民の力の休養を
図った。
これより先、明和7年6月14日は、洞春公(*毛利元就)
二百年の忌辰(きしん・忌日)であって、
その(*6月)7日から14日まで、7日間の祭祀を
洞春寺の祖廟で行った。
時に、英雲公(*毛利重就)の新政の効験は、
着々として顕れた。
士民は歓喜し、各々、物を献じて金を納め、
祭典の盛り上がりを助けた。
英雲公は、日に祖廟に詣でて訓誠一篇を納めて
子孫に遺す。

その要に云うには、

家は、時が経てば 則ち、怠り易い。
なので、心を祭政の事に 用いなければならない。
洞春公(*毛利元就)の霊は、子孫、長く
その祀を粗忽にしてはならない。
およそ神霊を軽んじることは、亡家の元である。
私は今、身命を奉じて公の神霊に誓い、家を興す
ことを祈る。
幸いにして、上下和し、五穀熟し、二州の衆民も又、
その堵を安じ、正道により国政を行い、家声を起こし、
家格を勧め、寿を持って終ること得れば、これ、公の
神霊の吾を加護することである。
我が子孫たる者、よくこの意を体し、殊に追遠の
礼を慎むべし。
祖先が重くなければ、子孫の威はなく、よろしく、
この意を思うべし。
およそ政治を為す士民に罪があると云えども、
極悪でない以上は、刑は努めて軽きに従うべし。
これ、天職によるところであるけれども、
又、これをもって旧典が乱れないように期すべし。
撫育のことは、もし洞春公(*毛利元就)の
加護によってその功を大成することを得れば、
子孫は、長くその利(*益)を自分だけのものに
すべきではない。
まことに国家を安心させる一助になることを
請い願うに、出た子孫たる者は、よろしくこれを
思い、公益、その他重要なことがあれば、すなわち、
撫育の金で、これを助けるべし。
このこと、私が今、洞春公(*毛利元就)の
祭典に際し、特に神霊に誓って、子孫への戒めとする。
およそ子孫は、よくこれを訓育して一材、器のひとに
なるように。
これ(*こそ)祖先に対する第一の孝(*行)である。
顕貴(けんき・*高い位にある人)の家の
少幼(*の子ら)を(*教)育する。
又、(*その)意をここに注いで、成長の後、
国用に適するようにさせることを思うべし。
これを、菊花を愛育することに例えると、
厳冬から霜雪に備えて春夏に至り、
培養の労を尽くせば、秋に至ると
殊に美しい(*姿)を見ることが出来る。
ましてや、人においては、諸士の子孫と云えども、
又、よろしく、このようになるであろう。
小禄の士と云えども、子孫の薫陶(くんとう・
*人格が磨き上げられること)を婦女子に
一任してはいけない。
およそ子孫を教育するのは、もとはと云えば、
祖先の遺体、君上の客人を補管するのと
異ならない。
父兄に、もし忠孝の志があれば、これを導いて、
よく一材、器のひとにすることは、言うまでもない。
故に父兄が、親らしくなく、
放辟(ほうへき・*勝手気まま)の行いがあれば、
子孫の模範であることは出来ない。
すなわち、不忠の臣、不幸の子であることを
免れない。
歴世の記録、これは邪正、良否の鏡である。
よろしく、これに鑑みることである。
また、漠然として歳月を徒労に費やすべからず。
重臣は、殊に、そうすべきである。
君臣一体、上下一和と称するのも、
重臣の選択、その宜しきを得なければ、
得ることは出来ない。
主君、志あり。
そして重臣、よくこれを助ければ、主君の志、
益々進み、政治は、善良に帰すであろう。
およそ人を用いるには、よく廉恥礼節の士を
選び、重臣を任用するには、特に意を用いるべし。
重臣、よくその職に適するのは、自らその身の
材器を顕すゆえんである。
我が子孫たる者、百時、皆、神霊に誓い、
その私(*事)を用いるべからず。
私が子孫に戒めるところは、このようなものである。
これ皆、神に誓いて発するところである。
これを見て、私の私言としてはいけない。

と、英雲公(*毛利重就)の用意は、深く見る
べきである。
正確には、英雲公の意は、一面には藩吏をみだりに
撫育の資力と頼らず、一面には藩国の大事に際しては、
藩主は徒に惜しまないようにすることにある。

英雲公の願文および遺誠は、これを祖廟の秘賓として
世々の藩主が襲封(しゅうほう・*領地を受け継ぐこと)
して、初めて国に入る時、一回(*だけ)これを
被封薫誦(*諸侯となるため読んで薫陶を受ける)
することを例とした。
今、宝暦13年から安永7年に至る十有六年の間、
撫育局が為(な)したところを見ると、あるいは、
宝蔵の金を補充する少しの貫目
[安永7年(*1778年)の調査に(*よると)
2,000貫目余りとあり、そして当時、撫育局が
貯蓄するところは、仮に、撫育蔵の名称を以てしても、
事実は以前の宝蔵金に替えたものなので、
その目的において、同じであると云うのも
妨げられない。]

あるいは、本部に代わり、大坂負債の急(*務)に
返済を償うこと、2,000貫目で、その他、本部が
支払うべき債務に対し、これを分担するものは、
種々にして、その額、12〜13,000貫目に上った。
[ 例えば、安永7年(*1778年)、日光修繕に、
公が、(*その)役に費やした総計は、8,831貫目で、
その(*内)2,000貫目は、撫育局から、これを補助
した類のものである。
明和3年(*1766年) に、濃勢・二州の修河の費用も
その中から補助した。]
(*続日本王代一覧によると、明和3年9月、近畿、濃尾地方で
暴風雨で、河川が氾濫した、とある。その補修費のことか。)

その他、頼母子の出金を代償し、
[ 凶年、荒歳などに際して、領内1,2郡において、
頼母子を起こし、取り当てをしたものに、これを
付与して、その困難を救った。
そして、その掛金を撫育局から人民に代わって、
支払ったことを云う。*頼母子講、無尽のこと。]


武庫の兵器を修理し
[ 本来、本部の職掌であるが、会計困難のために
荒廃したものを撫育局から修復を加えた。]

荻城・天守台の朽損を修繕、補修し、
祈願所の廃典を再興し
[ 萩の満願寺は毛利氏の祈願所で、代々、
祈願の典があったが、経費不足のため
長く荒廃していた。]

洞春公(*毛利元就)の二百年祭に際して、
士卒の馳走を代償し
[ 明和7年(*1770年)、洞春公二百年祭に際して,
(*英雲)公は、士卒を慰撫のため、特に撫育から
当年の馳走出る米を代償した。]

士民を賑恤(しんじゅつ・貧困者・罹災者などに
金品を施すこと。)し
[鰥寡孤独(かんかこどく・身寄りもなく寂しいさま。)
に恵与し、および米価の高騰の年に低価で米穀を
売与する類。]

藩邸の新営を助成する
[ 江戸の両藩邸の類焼に際して新築費を
償った。]

の類(たぐい)の一々を数えることは、
出来ない。
南苑に薬苑を開いたのも、又、この時である。
[ 明和2年(*1765年) から
安永5,6年(*1773,74年)に造った、その
資金は撫育局から100貫目を下附し、
これを運転したものを重要な部分とした。]

その間、新たに開作の地が増えること
13,000石余
[ 廃藩の際には増えて2萬石前後にになった。]

救民の貯穀物を集収する14,467俵
[ いかなる財源により、いかなる方法で集めた
かの詳細は分からない。]

貯蔵倉庫を設けること10個所
[ 吉田の下津、船木の浮潟、小郡の東津、
中ノ関の宇都路木、三田尻の河口、
都濃郡の降松、熊毛の浅江、中熊毛の光井、
上ノ関の麻郷、大島郡の久賀]

古金銀、および札銀銭の貯蓄、
現穀・現銀の貸与など、その数は非常に多かった。

天明2年(*1782年)、
容徳公(毛利治親・はるちか)が
領土を継ぐに当たり、本部の財政は微弱で
振るわず、依然、困頓たる境遇にあった。
当職・益田某(なにがし)らは、救済策がなく、
度々、その職を辞するも容徳公は許さず、
すなわち、撫育資金の出納の権利を数年間、
本部に一任しないのであれば、その急を
救うことはない、との状を出した。
(*容徳)公は、そのことは、
先公(*英雲公・*毛利重就) の令条と違い
上を脅す嫌いがあったので、益田以下数人を
罰したが、各々、格差があった。
この一事で、撫育資金保護濃尾厳正さを
推測し、知るのに充分である。

天明年間(*1781-1788年)に至り、財政は
幾度も窮厄除を極め、また、策を施すことが
なかった。
ここにおいてか、天明4年(*1784年)、
江戸で地方経済分離の事があった。
当時、行相府の費やすその額は遠く、
国相府の費やすところを超え、なおかつ、
(*その額が)足らなくなれば、国相府に
向かって、その支出を促す。

しかしながら、財源には限りがあり、元より
その要求に充てることは出来ず、これにより
両府の間は、往々に相、容れず、
非常に激しい時には、反目疾視(*はんもくしっし
・反目して憎しみをもって見ること)で、互いに
その把握を保持するところを守り、
頑として動かず、止むを得なければ、すなわち、
財貨を大坂の商估(しょうこ・*商店)に借り、
一時しのぎをするに至ったので、財政は、
年を重ねて、ますます衰えた。
両相府の財政を分離したのは、局に当たる者が
自ら覚悟するようにしようとすることにあり、
すなわち、蔵入 146,161石3斗4升を
江戸の費用に充て
[ いわゆる歳入所務の石高で、内に畠石も含み、
かつ、宝収は田、4掛、畠10匁であった。]

小物成を地方の費用の額に充て、そして
両府、共に他借を禁じた。
しかしながら、両府の歳入は、ことごとく
これを常費に供したので、他は、また、
余す所はなかった。
これにより、七分をその歳計に当てて、
三分を臨時に残し、臨時費用の大きなもの、
すなわち、公役賦課のようなものは、
特別の詮議に付せさせた。
そして、延米、口米、紙蠟売得、貸家賃益、
帆荷銀の類は、曾て(ひいて・以前に)
浮物銀として負債の償途に充当したものは、
さらに移して小物成の部に編入した。
よって、(*それは)国相府の費用に充当した。
(*結果、)経済分離して、そのために一変し、
士民の馳走の賦課は、また、しばらくして
加わり、靖恭公(*毛利齊房(もうり なりふさ)、
長州藩・第9代藩主。)の世に至っては、
士民は重課に苦しんで、愁訴(しゅうそ・嘆き
訴えること)も起こった。
寛政12年(*1800年)、撫育の倉庫を一掃し
[ 記録には、御倉拂とあり、正確には、
一切の貯金を一掃したとの意であろう。
また、あるいは、宝蔵の貯金をこれに含めなかった
のか、未だ、その詳細は分からない。]

5,323貫目余を得て、これを本部の費用に充当し、
士卒の禄米の実収を増やして三物成とした。
[ 石高100石につき、30石の実収入を与える、
ことを云う。]

文政年間(*1818-1829)に至って、疲弊は
ますます極まり、防長二州、又、洪水が浸す
ところとなり、凶年が相次いだ。
これに加えるに、当時、華奢(かしゃ・*ぜいたくな
こと)な風潮が上下に染み渡る、のみならず、
毛利氏老公、藩主、世子・三君は並んで、侯家の
費用は、交わり加わった。

そして、葛飾別邸の新営があり、和姫の来帰の
事があり、徳川氏の中世以降の将軍の女が大封
(たいほう・*大きな封地。)に嫁する者は、
概ね尊称して御守殿(ごしゅでん・*江戸時代、
三位以上の大名に嫁いだ徳川将軍家の娘の敬称)と
唱えさせて、敬礼せざるを得なくて、
その費用は、また、したがって膨大であった。
和姫が嫁すると、確かに幕府は思う所があり、
御守殿を変えるのにご住居の称を変えることにした
と云えども、事実は少しも御守殿と異ならなかった。
桜田邸の傍らに、新たに4,000坪の土地を賜い、
殿楼を築き、ここに済ませて、(*その)壮麗、
目を驚かした。
侍女を養うこと、50余人、さらに吏員を付し、
入輿婚姻から佳節吉辰(かせつきっしん・
*良い時節の良き日、の意)の儀式に至るまで
礼の末節と云えども、また皆、幕府と協定して
幾重にも尽くさざるを得ない贈遺の金品、
その数を挙げて数えることは出来なかった。
およそ、この類のことは、皆、財政をますます
困追させるのにないものはない。
これにより士の禄を食む(*俸禄をもらう)者は、
半知(はんち・*江戸時代、藩の財政難を救う方法として、
領主が家臣の俸禄を借り上げにより半分に 削減したこと。)
となり、民の馳走を出すものは、倍課(*倍の課税)と
なった。
しかも国用(*の財源)は、未だ足らず、
これにより、以前の富籖劇場(とみくじ げきじょう)
のように、風致を慨する業と云えども、これを
免許して、一時の急(*場)を補った。
やがて天保2年(1831年)になり、
藩民は、遂に負担の荷重に堪えられず、
無根の疑惑もまた、その間に加わり、
凶徒嘯聚(きょうと しゅうしゅう・
集団的暴行の意。)の惨状を見るに至る。
世子・崇広(*後の毛利斎広(なりとう))は、
最も時事に感じるところあり、
世子誥文(* 毛利家の家訓。防長回天史を読む2 
第一章 毛利氏の家系 を参照。)は、実に、
この時に成った。
天保7年(1836年)6月、藩内に洪水あり、
間を置かず、清徳(*毛利斎熙)・邦憲(*毛利斎元)・
崇文(*毛利斉広)の三公の
大故(*たいこ・大きな不幸)があった。
天保8年(1837年)、洪水が、また、あり、
凶年で、これに続く。
時、あたかも、大塩平八郎の暴挙のことあり、
その余波は防長に及び、群民、また蜂起する。
新塋墓木を連ね(*新しい墓標の木が連なり)、
坏土は、未だ乾かず、災害が交錯した。
幸いに撫育(*貯金)には、別途の資があり、
ようやく人意を強くすると云えども、本部は、
すなわち、殆ど困危の極に達した。
忠正公(*毛利敬親)は、実にこの間にあって、
その領土を継いだ。
忠正公の世・嘉永(*年間)以降、内外の時勢は、
大きく変じ、経費の(*必)要は、また、
過去の比較になく、そして、毛利氏がよくこれを
支持して忠誠を尽くし、国事に尽瘁(じんすい・
*全力を尽くす)することができたのは、
撫育貯金の援助によることが、実に
少なくなかった。

[ 撫育局の収支の計算は、会計書類の散逸の
ため、その詳細を知ることが出来ないが、
文元年(1864年)に、嘉永3年(1860年)
から10年間の平均を標準として、将来の
歳出入の予算を慨定した書類を得て、これを
点検すると、その概要は左(*以下)の如くである。
歳入
一、 米、15,996石余
一、 銀、250貫278匁余
但し、現金収納には金貨を使用し、あるいは、
80文銭を使用する予定のものがあり、
金は、1両を銀60目、又、80文銭は100文を
1匁に換算して得る。
右(*以上)の如くである。
そして、米は現米のまま、種々の支出がある。
例えば、明倫館手当、郡救助の頼母子(たのもし)
掛米、由緒ある社寺への寄付、開作地村吏の給料、
田作不熟のための検見落米、嘉永貯穀入替欠損
の補給などである。
これらを控除して、残り16,942石余となる。
この内、94石は醍醐寺、宝積寺に毎年、
100匁2石の定価、すなわち、4貫700目で
売却契約に属し、その余り、すなわち、
16,848石8斗余りは、年々、時価の競売に
供するもの、仮にこれを石75匁と算定し、
この売米2口を合算して、1,268貫365匁余り。
これに前の銀の収入254貫278匁余りを合算し、
銀の収入1,522貫643匁余り、となる。
この内より、又、諸種の歳出があった。
例えば、大坂運送費、特別手当、霊社修補費、
醍醐寺・宝積寺、堂塔修補費、撫育局消耗品費、
撫育倉庫営繕費、明倫館下付金、満願寺祈祷料、
明倫館武器修繕費、士卒恵与金のような
ものである。
これらを控除し、残り、962貫564匁余り
となる。
この内より、又、幕府手伝い
522貫匁5分2厘余り。
内、幣臨時費422貫33匁7分2厘余りを
控除すると、全くの有余は17貫978匁余り
となる。
しかし、前に売米代価を石75石と仮定したのは、
実は、前10年間の平均ではなくて、10年間の
平均は、実は93匁7分余りであって、
米価は、ますます高騰の勢いであった、しかし、
しばらくこれを92匁と換算したが、
前の75匁の計算に比較すれば、売米の収入は。
さらに286貫430目余りを得ることが出来る。
これに前の残額17貫978匁余りを合算すれば、
銀304貫409匁となる。
すなわち、金にして5,073両余を得ることとなる。
よって、これをメドとして、以後、毎年、
5,000両を納める方法を定めようとする考案で
あった。
その実行の如何は、詳細ではないが、これは、
文久年間の撫育経済の大要を知るべきもので
あることは、明らかである。
それ以前、寛政元年(1789年)の予算に、
年々の剰余を400貫目とし、これを蓄積して、
3,4年毎に、2万両を宝蔵に納める考案を
立てたことがあった。
その他、数回の予算を見ても、大同小異である。
果たして、そうであれば、寛政前後から、
以来、異常なことがない年は、大抵、毎年、
3,4千両、ないし、4,5千両を宝蔵に納めた
ようであるけれども、これについては、
寛政12年(1800年)の蔵払い宝蔵貯金までを
含むとすれば、元治・慶応前後に100万、
ないし、150万を費やし、なお100万両を
余らしたことは、いささか過大ではあるが、
正確には、宝蔵金以外の撫育局資金の一切、
および江戸穴蔵金の残余などをも総計して、
この額を得たのであろうか。
しばらく後の証明を待つ(*ことにする。)。]

(*次回、歴史の流れ 防長回天史を読む 10
第九章毛利氏の財政雑件) に続く)



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