京都史蹟散策124 島原散策 1

京都史蹟散策124 島原散策 1

【位置】下京区西新屋敷
【交通】IR嵯峨野線・丹波口
    または、市バス・島原口

散策の順路が前後するが、
島原大門の正面・右横・塀に駒札がある。

島原大門・入口側
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それによると・・
島原
豊臣秀吉が京都を再興するに当たり、
二条柳馬場に柳町の花街を公許したが、
これが後に六条坊門(現在の東本願寺の北側)
に移され、六条三筋町として栄えた。
その後、京の町の発展に伴い、
寛永18年(1641)、市街地の西に当たる当時の
朱雀野に移った。
正式名称は西新屋敷と呼んだが、
その急な移転騒動が、時あたかも九州島原の乱
の直後であったため、それになぞらえて
島原と称されるようになった。  
島原の傾城(遊宴のもてなしを公認された女性)
の最高位である太夫の名称は、慶長年間、
四条河原で六条三筋町の傾域が女歌舞伎を
催したとき、優れた傾域を「太夫」と
呼んだことが始まりとされている。
太夫道中は置屋から揚屋へ練り歩く様子をいう。  
また、江戸時代の島原は単に遊宴にとどまらず
詩歌連俳等の文芸が盛んで、
中でも俳諧は島原俳壇が形成されるほど
活況を呈していた。
        京都市
         と、ある。

島原太夫の道中(昭和9年頃か)
(著作権満了のものより)
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そして、この大門の右手・燈籠前に
以下の記述の【石碑】がある。
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【石碑】によると・・
島原
島原は、江戸時代以来、公許の花街(かがい)
(歌舞音曲を伴う遊宴の町)として発展してきた。
寛永18年(1641)、官命によって、島原の前身
である六条三筋町から現在の朱雀野(すしゃかの)
の地に移された。
その移転騒動が、九州で起きた島原の乱を
思わせたところから、一般に「島原」と呼ばれて
きたが、正式地名は「西新屋敷(にししんやしき)」
という。
この島原は、単に遊宴を事とするにとどまらず
和歌、俳諧等の文芸も盛んで、ことに江戸中期
には島原俳壇が形成されるほどの活況を呈した。

しかし、明治以降の島原は次第にさびれてゆき、
現在では揚屋(今の料亭にあたる店)の
「角屋(すみや)」、置屋(太夫や芸妓を派遣する
店)の輪違屋(わちがいや)」、それに
島原入口の「大門」、これら三箇所がわずかに
往時の名残をとどめるものとなっている。
    平成13年11月吉日
         島原伝統保存会
島原のでぐちのやなぎをみて
なつかしき やなぎのまゆの春風に
なびくほかげや さとの夕ぐれ
         蓮月尼
  太田垣蓮月(歌人1791-1875)
           と、ある。

島原大門
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入口の愛想になびく 柳かな
           一茶

●島原大門は、
公許の遊廊、島原の正門。
享保14年(1729年)、
当時は、周りを堀と塀で囲まれ、その島原地域の
東北辺りに建立された。
門形は、冠木門(かぶきもん)で、
冠木を二柱の上方に渡し、屋根はなかった
とされる。

後、明和3年(1766年)、
道筋と云われる現在地に移転。
門形は、塀重門(へいじゅうもん)とされ、
表門と庭との間に塀があり、笠木なく、
左右に方柱があり、二枚開きの扉であった。

嘉永7年8月(1854年)、
東島原の一帯、焼失するも大門、再建される。
門形は、腕木門(うでぎもん)とされ、
二本の本柱で冠木を差し、腕木と出し桁で
屋根を支えていた。
明治中期刊の京都繁栄記
(増山守正編・静香園、明治26年)には、
当時の大門と思われるものが、
描写されている。
(著作権満了のものより)
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慶応3年5月(1867年)現在の大門に。
門形は、高麗門(こうらいもん)で、
左右の控柱の上に屋根がある。
また、門前には出口の柳、
さらに、さらば垣 が、めぐらされている。
昭和61年、京都市登録有形文化財に。
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島原大門・出口側から見る。
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さて、丹波口駅より南に青果市場を通り抜け、
下って行くと、やがて左手に
大きな銀杏の木がある。
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樹の下には、【石碑】がある。
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碑文によると・・・
大銀杏(おおいちょう)
島原住吉神社の旧境内地北端に植わっていた
この大銀杏は、明治維新後、廃仏毀釈により、
社格株 ない住吉神社が廃社になるも、
神木として遺された。
その後、明治36年(1903)に神社は再興
されるたが、境内は この大銀杏のところまで
拡大されるには至らなかった。

昭和5年(1930)にこの樹の根本に弁財天が
祀られることにより、さらに神木として
崇められ、今では、樹高(二十米)、
幹周り(三・五米)ともに樹齢300年相応の
島原位置の巨木となっている。
    島原伝統保存会

島原の 外も染るや 藍畑  嵐雪
  服部嵐雪(俳人 1654-1707)
          と、ある。

ご神木(大銀杏)を祀る弁財天社。
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弁財天社の傍らには、小さな祠がある。
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この大銀杏を見ながら、
さらに南に行くと、左手に
○島原各所旧跡案内図、
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○島原西門碑 がある。
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碑文によると・・
島原西門碑
島原は、寛永18年(1641)、官命によって
その前身の六条三筋町の傾城町が、ここ朱雀野に
移されたことに始まる。
その移転騒動が当時九州で勃発した島原の乱
を思わせたところから、一般に「島原」と
呼ばれたが正式地名は、西新屋敷という。
島原は江戸期を通じて公許の花街(歌舞音曲を
伴う遊宴の町)として発展していくが遊宴を事と
するにとどまらず和歌俳諧等の文芸活動を盛んにし、
ことに江戸中期には島原俳壇を形成するほどの
活況を呈した。

島原の入口は当初東の大門のみであったが
享保17年(1732)に西側中央部に西門が設けられた。
それは両側に門柱を建てただけの簡略なもので
あったが天保13年(1842)に現在地に移され、
構えも冠木門に切妻屋根、さらに控柱に小屋根を
設ける高麗門型となった。

近年まで島原の西門として偉観を伝えていたが
昭和52年(1977)11月輪禍によって全壊した。
三年後に門柱のみが復元されたが平成10年
(1998)4月、再度の輪禍に見舞われてそれも
倒壊した。

よって、ここに碑を建立して、島原西門の由来と
往時の形容を刻するものである。
平成十年十二月吉日
島原地区自治協議会
島原八景の内
西口菜花
成章
花の色は
いひこそ知らね
咲きみちて
山寺遠く
匂ふ春風
成章は富士谷氏 国学者
安永8年(1779)没 年42
と、ある。



その隣が
●島原住吉神社 である。

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そして、横に石碑がある。
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碑文によると・・・
島原住吉神社
島原住吉神社は、もと島原中堂寺町の住吉屋太兵衛
の自宅で祀っていた住吉大明神が、
霊験あらたかにして良縁の御利益があり、
参詣者夥しきため、享保17年(1732)祭神を
島原の西北に遷座し建立されたものである。
その規模は、南は道筋(どうすじ)
(島原中央の東西道)から、北は島原の北端にまで
及び、広大な境内地を有した。
爾来島原の鎮守の神として崇められ、
例祭とともに、太夫・芸妓等の仮装行列である
「練りもの」が盛大に行われていた。

ところが、明治維新後の廃仏毀釈により、
神社株を持たない当社は廃社となり、
祭神を歌舞練場内に祀ることとなった。
(島原住吉神社の碑文・続き)
しかしながら、地元の崇敬心は篤く、
明治36年(1903)には、船井郡本梅村から
無格稲荷社の社株を譲り受け再興した。
ただし、現在の狭い境内地となリ、正式社名も
住吉神社は認められず、稲荷神社とされた。

平成11年(1999)には、社殿、拝殿を改修のうえ、
社務所も新築し、境内の整備がなされた。
同13年には、懸案の社名を島原住吉神社と改称し、
旧に復することとなった。
   平成13年11月吉日
      島原伝統保存会
               成章
住吉の 松の常盤に 春はなほ
  色香あらそふ 神垣の梅
    富士谷成章( 国学者1737-1779 )
              と、ある。

島原住吉神社 正面
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鳥居を潜ると拝殿、
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その奥に本殿がある。
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また、拝殿・左手奥に、
○末社・幸天満宮がある。

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そして、横に石碑がある。
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碑文によると・・・
幸(さいわい)天満宮
住吉神社の境内社である天満宮は、
当初 揚屋町の会所に天神の祠があり、それが、
享保19年(1734)当所に遷座したものである。
延享5年(1748)より、筑紫大宰府天満宮に
ならい、鷽替(うのかえ)の神事が
営まれるようになった。
それは、色紙、短冊などを持ち集まり、
「鷽を替えん」と言いつつ取り交わす甚だ
興あるもので、諸客の見物で賑わったが、
明治以降は完全に廃れてしまった。
   平成13年11月吉日
      島原伝統保存会
              成章
曇りなく 神の光もやはらぎて
  ちりづか山に 交わる瑞垣
      富士谷成章( 国学者1737-1779 )
            と、ある。


(京都史蹟散策124 島原散策2 に続く)



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