京都史蹟散策124 島原散策 2 角屋と久坂玄瑞

京都史蹟散策124 島原散策 2 角屋と久坂玄瑞

東鴻臚館(ひがしこうろかん)址と
角屋(すみや)

【位置】下京区西新屋敷
【交通】IR嵯峨野線・丹波口
    または、市バス・島原口

島原住吉神社を右に折れ、つまり背にして
石畳を行くと、突き当りが角屋(すみや)であり、
突き当り・右隅に東鴻臚館址の石標がある。

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東鴻臚館址
【石碑】
此附近 東鴻臚館址
寄附者 中川徳右衛門
大正四年十一月建之 京都市

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碑文によると・・・
東鴻臚館址(ひがしこうろかん)
平安時代、京の中央を南北に朱雀大路が貫き、
その七条以北の東西にふたつの鴻臚館【1】が
設けられていたが、この島原付近は東鴻臚館址
にあたる。
当時この館を利用したのは、唐ではなく、
渤海国【2】の使節に限られた。
時の政府は渤海客を大いに歓待し、
日本の国威を示すために林邑楽を演奏したり、
詩文の会などを催していたが、
延喜二十年(920)頃には廃せられた。
そうした由緒ある顕客接待の場が、
江戸時代の島原にもてなしの文化の場として
蘇ったことは意味深いことといえる。

  平成十三年十一月吉日
            島原伝統保存会
白梅や墨芳しき鴻臚館   蕪村
   与謝蕪村(俳人1716~1783)

【1】 平安時代の迎賓館。
鴻臚(こうろ)は、外交使節の来訪を告げる、
と云う意味がある。
当時、東寺、西寺の造営の為、移転させられた。
・・・
源氏物語・桐壷では、
光源氏が、この鴻臚館に滞在していた高麗の
人相占いを、ひっそりと、訪問する場面がある。
伊勢物語にも「昔男、後涼殿(こうろうでん)
の門(はざま)をわたりければ、
或 やんごとなき人の・・」とある。
後涼殿とは、鴻臚館のこと。
・・・
やがて、唐、渤海も滅亡し、平安末期には放置され、
再興もなく幾星霜。
江戸時代、ここ島原の地・角屋(すみや)となる。
一方、鴻臚館と云う意味からでは、
近代・平成17年に京都御苑内に国立京都迎賓館
が開館し、現在に至っている。

【2】渤海国(ぼっかい)
満州から朝鮮半島北部、現ロシア(日本)
沿海地方に、かつて存在した。
当時、中国は、唐の時代で、
朝鮮半島は、新羅が制していた。
つまり、唐・渤海・新羅 の構図であった。
渤海は、唐から独立。対抗していたので当初、
日本とは、軍事同盟的な交流であったが、
後、渤海・唐の関係が改善されると、
文化・商業的性格を帯びるようになる。
この交流は、渤海滅亡まで200年間継続した。



石標・長州藩士 久坂玄瑞の密議の角屋
東鴻臚館址の石標を見て、左に折れて進むと、
右手に、角屋の駒札と
石標・長州藩士 久坂玄瑞の密議の角屋 がある。

北から見た角屋
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右へ行くと、角屋の入口、
この道を真っ直ぐ行くと島原大門の出口側である。

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駒札によると・・・
角屋は江戸時代に反映した旧花街(かがい)・
島原を代表する揚屋(あげや)(現在の料亭)で、
明治時代にお茶屋業に編入された後も、
昭和60年(1985)まで営業が続けられた。

島原は、我が国最初の官許の花街で、当初は
二条柳馬場に開かれ、その後、六条三筋町に移転し、
更に寛永18年(1641)にこの地に移された。
正式な地名は西新屋敷というが、急な移転騒動が、
当時の九州で起こった島原の乱に似ていたことから、
島原と呼ばれるようになった。

島原には、揚屋(あげや)と置屋(おきや)があり、
揚屋は太夫・芸妓などを一切抱えず、置屋から
太夫等を呼んで沿海を催す場であった。

角屋の建物は、揚屋建築唯一の遺構として
昭和27年(1952)に重要文化財に指定された。
また円山応挙・与謝蕪村など、当時の一流画人の
作品を多く蔵し、蕪村の大作「紅白梅図」は
重要文化財に指定されている。

江戸中期【1】には、俳壇が形成されるなど文化サロン
としての役割も担い、また、幕末には
西郷隆盛・久坂玄瑞(くさかげんずい)などの
勤王の志士たちが、軍用金調達のために
時の豪商を招いて会議を行い、
彼等を探し求めた新撰組が乱舞した場所でもあった。

こうした江戸時代の社交遊宴文化の余香を今に
伝える角屋は、現在「角屋もてなしの文化美術館」
として一般に公開されている。
       京都市
            と、ある。

【1】 文政元年 (1818)、頼山陽が郷里の母を連れ
角屋南隣の八文字屋で宴会をし、揚屋が親孝行の場
となる。

【石碑】
(東面)

長州藩
  久坂玄瑞の密議の角屋
志士

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(南面)
久坂玄瑞は吉田松陰の義弟  松陰刑死後 
塾徒を率い 尊攘に挺身 
文久政変に山口へ七卿落ちを斡旋するも   
元治元甲子年七月  蛤御門変に遭い 
壮烈な死を遂げた   享年二十五  
角屋は玄瑞が屡々暗殺の難を避け  
潜行密議した場所である

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(西面)
大正四年十一月建之 京都市教育会*

(北面)
昭和五十九甲子年七月再建
表題揮毫 京都府知事林田悠紀夫書

(*この碑の建立は、維新を語る会・会報などを
参照すると昭和59年と推測される)

◆◆◆
(以降、維新の史蹟、昭和14年。などを元本としての
創作・語りもの、です。)

久坂玄瑞。
彼の生き様を端的に述べている句がある。

咲いて牡丹といはれるよりも
   散って櫻といはれたい

さりとて、玄瑞。島原に遊ぶ、この折、
玄瑞、島原を徘徊(はいかい)の最中(さなか)、
元禄・大石内蔵助の境遇を想い、ひと節の俗謡。

祇園、島原、橦木町(しゅもくちょう)、
傾城(けいせい)ぐるひのその中(うち)に
病気なんぞで死な しゃんしたら
忠歟(ちゅうか) 不忠歟(ふちゅうか)  
分かりや せぬぞいナ。

如何に現在(いま)の己(おのれ)を知り、
志士(ひと)の何たるかを知る人物であった。

 いにしへの ことと思ひて 書(ふみ)読みし
   その うきことも 今は我が身に
                玄瑞

●久坂玄瑞・辰との馴れ初めの角屋

遊び友達は、いつも入江久一、桂小五郎、
寺島忠三郎らで、よく島原に遊んだ。
今夜も、久坂。
入江、寺島、その他部下の者と共に、
角屋(すみや)の大広間で盃をかはす。
この男、左程の大酒でもなく、芸者や同伴者
が騒ぐに、己は横で楽しそうに何かを想うが如く
盃を傾けるの常であった。

何れが、梅か櫻か、入れ替わる芸妓、数ある中に
18・9の温和(おとなし)そうな芸妓、
おおきに とお辞儀をしたその目元に
久坂の眼が射込まれる。

この芸妓、
店は桔梗屋(ききょうや)、
抱え主は、小林長兵衛。
名は、お辰。 姓は、西村。
左褄(ひだりづま)を身に纏う姿は似合わず、
いたって温和しい女(ひと)であった。
故に、騒がしさを好む客には好まれず、
落ち着いた客にはかえって目に付く。
久坂、気に入るも道理である。

酒が廻れば、座敷も乱れ、
飲めや唄えで気付かぬけれど、
久坂の眼差し、お辰より離れぬは必定。
だが この様子、気付くは、
流石(さすが)座敷を預かる角屋・
仲居のお留。

 これは ~
 久坂さんは、若さに遭わずお堅い、お方。
 お辰は、この稼業に似合ず内気な女。
 お留が、きっと媒介(なこうど)
 進ぜましょう、

と独り言。
その日は、そのまま、お客を帰す。

翌日、又もや、久坂が・・
そこで、お留は、すかさず

 久坂さん。 
 きょう、貴方が呼んでくれと仰る芸妓を
 言い当てましょうか。
 お辰でしょう。

胸の内を見破られて、恋には弱き久坂玄瑞。
全く降伏し、お留の顔を見ながら、一言。
 
 よしなに頼む

・・・
契(ちぎり)ができると内気な女(ひと)は、
かえって愛情が深いのか、
久坂、この優しき心に惹かされて
国事奔走、忙(せわ)しき中にも
お辰を想えば、降る雪の傘も軽きに
恋の重荷を肩にかけ、暇を盗んで島原通い。

ある日のこと。
 のう辰。私は不事の死をするそうじゃて

 滅相な。誰がそんなことを。

 きょう、桂、入江と三本木の方へ参ったが
 よく当てる易者があるから、冗談半分、
 私のを見てくれと、
 貴方は不事の死をなさると、言うた。

 不事の死って

 まあ、何でもいい。
 何れ命は国のために捧げたもの。
 布団の上の病死はごめんじゃ。
 だが易者、色々なことを言うものじゃのう。

●久坂玄瑞の恋文 

久坂玄瑞は、いつも黒の三つ紋附の羽織を着て、
物数を云わぬ若武者であった。
時は、文久元年、朝廷は学習院を以て国事掛の公庁と
改めた。
玄瑞も国事に献策、奔走するも、かたや自らの慰めの
ためか入江久一、桂小五郎、寺島忠三郎らと、
よく島原に遊び浮き名を流していた。
玄瑞は、桔梗屋のお抱え芸者・お辰と馴染みを重ねるも
或る夜、清水坂・明保野で小宴を催し、散々騒いだ後、
久坂と入江は駕籠を呼び、明保野をでて、夜もかなり更け、
往来も途絶えがちであった。
やがて、島原に近づくに、この辺り、田畑は物騒で、
久坂を乗せた駕籠が、この田畑を通ろうするや
木陰から賊が踊り出る。

 その駕籠、待てっ

と、久坂は落ち着き払い駕籠の垂れをあげ、

 人違いをするな、俺は長州の久坂じゃ

と一喝した。
賊は、久坂と聞き、驚愕し、一目散に逃げ失せた。
このくらい、久坂の雷名は、京に轟(とどろ)いていた。
一方、お辰は肩身が広く、常に久坂に尽くすのを
何よりの心の糧としていた。
やがて、8月18日の政変。
久坂は、お辰に別離を告げる間もなく、七卿に随行し、
故国・長州に帰国してしまった。
2日後の8月20日、お辰の許に文が届く。

その後、如何安もじ、いたしまいらせ候。     
私事、俄に国へ帰らずてはならぬ事差起り、
目もじも、致し申さず、心ならぬ事、いかにも
推もじなされべく願いまいらせ候。
此節の事は、面白からぬ事ばかりにて、
国に帰らずてはならぬ次第になり、何とも
口惜しき事にて候。
さて、出足の折、おかしき事ながら

 桂の川の水鳥の たちのなげきに旅衣
 あかつき暗き村時雨 涙そぼるたもとなれ
 大内山はいづことも わかぬ駒さへ噺(はなし)けり
 へだての雲と賀茂川に のぼる狭霧ぞ かなしけれ
                      と、今様に唄い、

出足致しまいらせ候。我事の心すいもじなさるべく
ねんじまいらせ候。
其の後も、お前様の事のみおもひ続け候。

 軒端の月の露とすむ 寒き夕べは手枕に
 いも寝らねば橘の 匂へる妹こそ恋しけれ

と、その情懐を吐露し、やるせない恋にこがれて
いたのであった。

翌年の夏。
島原・角屋の間に、一の駕籠月着いた。
その中から現れたのは久坂玄瑞であった。

仲居は驚き、

 まあ、お珍しい。

と挨拶をするや否や、その口を久坂の耳にあてる。
 
 この頃、お役所からお達しがありました。
 もし、長州のお侍が見えたら、召捕えの人数を出す故、
 直ぐに知らせるように、と。
 あなた様を遊ばせることは、たやすいことでありますが、
 お身に万一、傷がついては、私が天朝様に申し訳が
 立ちません。
 お辰さんには、あなたの優しいお志を私から申しましょう。
 天王山は、これから、かなりの遠方でございます。
 遅うなっては、どんな災難が御身にかかりますやら・・
 悪うは申しませぬ。このまま、お帰り下さいませ。

と、理を尽くす言葉。
久坂も

 それでは、お辰によろしく申してくれ。
 また、近い内には・・

と、そのまま黙って、帰ってしまった。
角屋のその仲居、早々、桔梗屋にお辰を訪れ、
久坂のことを話す。
と、お辰は、気も狂わんばかり、一目散に久坂の後を
追うも、その姿見えず、意気消沈の果てに立ち帰る。

後、久坂は、堺町御門の戦いに、寺島忠三郎らと
猛火の中に飛び、壮烈なる最期を遂げる。
久坂玄瑞、25歳の時のことであった・・・



後、芸者を母とする玄随似の秀次郎なる者、
跡継ぎとなる。これは、史実である。
だが、その母とされた者の名、
お辰と云うか、どうかは誰も知る由はない。
ちなみに、妻は、吉田松陰の妹・楫取美和子
であった。
そして、よく知られる久坂の肖像画は、
秀次郎を見て描かれている、と云う。

角屋・入口側から見た暖簾
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(京都史蹟散策124 島原散策3 に続く)



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