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zoom RSS 京都史蹟散策124 島原散策 3 角屋(すみや)

<<   作成日時 : 2018/09/01 22:41   >>

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京都史蹟散策124 島原散策 3 角屋(すみや)

角屋(すみや)

【位置】下京区西新屋敷
【交通】IR嵯峨野線・丹波口
    または、市バス・島原口

南から見た角屋
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家紋・蔓三つ蔦(つるみつ づた)の暖簾
内用の角屋の玄関
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入口の正面には、暖簾があるが・・
家紋・蔓三つ蔦(つるみつ づた)を染め抜いた
この暖簾は、中戸口(内用の玄関)に吊すもの
であるが、観覧のためにこの場所に展示している。
・・との説明板がこの裏に置いてある。

この右手が内用の玄関である。
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【刀掛(かたなかけ)】
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(説明文)
玄関にある刀掛は、侍の太刀を一旦お預り
するだけのもので、保管するのは隣の台所の
刀箪笥を使用する。

【刀箪笥(かたなたんす)】
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(説明文)
刀箪笥は玄関の刀掛から移した刀を
保管しておくもので、今のロッカーにあたる。

【箱階段(はこかいだん)】
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木製箱を積み上げた形状で箪笥として利用できる。
京都の町家で、よく見かける。
訪問時、残念ながら2階は非公開であった。

●角屋・台所と角屋の日記(長州奇兵隊)
観覧の順序としては、1階・50畳の角屋の心臓部・
台所からとなっている。

角屋の説明文によると・・
揚屋建築の特徴
揚屋建築は饗宴(きょうえん)のための施設と
いうことから、大座敷に面した広庭(ひろにわ)
に必ずお茶席を配するとともに、
お寺の庫裏(くり)と同規模の台所を備(そな)
えていることを重要な特徴としている。
揚屋は、宝暦年間(1751-64)に江戸の吉原では
完全に消滅し、明治5年(1872)まで
存続したのは、京都の島原と大阪の新町のみ
であった。
   と、ある。

台所概観
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また、角屋の説明文によると・・
台所
広さ50畳。
比較的凝った階上の座敷とは一変し、極めて
素朴な民家風に造られており、特に箱階段や
帳場などは町中の商家と全く変わらない。
神棚は正面の稲荷大明神(いなりだいみょうじん)
の他、諸所にあり、玄関側に刀箪笥(かたなだんす)
を置いている。
帳場の前は、火消し道具や坪用具を掲げてある。
中央の大黒柱は一尺八寸(54センチ)角の
松ノ木である。
本来は、この大黒柱と正面及び左側の小黒柱との
わずか三本で広い台所を構成していたが、
無理な構造のため昭和54年(1979)に中央に
二本の補強柱を入れている。

天井から下がっている照明具は
「八方(はっぽう)」といい、灯心(とうしん)を
種油(たねあぶら)に浸(ひた)して明かりをとる。
          と、ある。

竈(かまど)を形どった台所の神・
竈の神様、三宝荒神
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火消し道具
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八方(四方八方を照らすところから
八方と呼ばれている。
単行灯のこと。と、説明文、あり。)

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箱火鉢
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帳場
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(補記)
また、箱火鉢や床下収納庫。
ご飯や、煮炊きをしたのであろう5つの釜戸、
ほか、土釜が別にひとつあり、その左手が
洗い場となっている。

釜戸
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洗い場
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他に、冷蔵所(説明文・生鮮食料品を貯蔵する
ための江戸時代の冷蔵庫)などがある。

冷蔵所
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台所の間には、書簡などの展示の場があり、
その上に額がある。
角屋十代目・日記より
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文面は・・
慶応四年
角屋十代目
主人日記より
十一月四日
 少雨四つ頃より追々晴
 午時又小雨期なり
長州奇兵隊
 御連中十四五人
 勝いくさ いわいとして
 大座敷にて賑わし
 料理向目出たき
 もように作り出す

この年、1月3日より鳥羽伏見の戦い、
奇兵隊は3月17日に下関から大坂に上陸後、
北越戦線へ。
9月7日には、元号が、明治に。
9月27日、鶴ヶ岡城 開城。
10月7日、奇兵隊、北越戦線から京都へ凱旋。
記載の隊は、後、帰藩兵の一部だったのかも
知れない。

箱階段の付近に、盥(たらい)の展示がある。
西郷隆盛、使用の盥(たらい)
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説明文によると・・・
【幕末に西郷隆盛が角屋を訪れた際、
使用された盥(たらい)】
昭和20年(1945)戦況の悪化に伴い、京都市内も
空襲による延焼を防止するため主要な道路や
鉄道から50m以内の建造物が取り壊しの対象に
なっていた。

角屋も西側に山陰線が隣接しているため、
取り壊しの運命にあったが、京都市の担当者の
方々に角屋の建物を視察していただき、
明治維新の元勲らも使われた遺構であるとの
ご理解を頂き、取り壊しはしばらく延期となった。
そしてまもなく終戦を迎え、角屋は解体を免れた。
角屋の危機を救ったのはまさしく西郷南洲翁の
この盥といっても過言ではない。
           と、ある。

西郷隆盛、ここ角屋へ来ると、
 おいどんはな。
 女人より行水が よかごわす。
と、お気に入りの盥で(たらい)で行水を
楽しんだ・・そんな肥満気味の西郷さん。
なんとも、愛嬌ある姿が目に浮かぶ。

また、前述の如く、久坂玄瑞、入江久一、
桂小五郎、寺島忠三郎、他に、あの坂本龍馬ら、も
角屋を利用していた。

一方、敵対する新選組も角屋でよく遊宴を行い、
双方、鉢合わせしないように配慮していた仲居たち
の心遣いが思いやられる。
新選組の角屋、来訪の頻度に伴い、勤王方は、
段々と足が遠のいて行ったそうだが・・

と共に、慶応四年 角屋十代 主人日記の額の
下の展示の中に、
・・「付け」で遊ばぬように・・
との新選組のお達し(書状)が展示されている。

よく遊宴を行い、よく付けを踏み倒した、
と、同時に前述の刀掛(かたなかけ)に
刀を置かず、ご乱行の跡ともいえる刀傷。
当時の新選組の振舞が手に取るように見える。

新選組の刀傷
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だが、この刀痕、よく見ると、その凄さが分かる。
柱の木目や硬さを気にせず、切れ込むように中に、
食い込んでいる。
痕のその幅、形状から見ても、かなりの手練れの
者の仕業と推察できる。
もし、柱がひとの腕なら確実に切り落とされて
いたであろう。
新選組にこれほど使える者と云えば・・
この期に角屋に来て狼藉の言い伝えのある者
とすれば・・
もしかすると、
時代が、文久3年(1863年)9月頃と思えば、
もしかであるが、芹沢鴨か・・・と
ひとり、柱に魅入り、妄想する自分がいた
のでした。



網代(あじろ)の間
さて、内用の玄関の正面・突き当り、
廊下の左側が内庭で、
右側に、網代(あじろ)の間 がある。
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明かりは行燈だけなので、少し暗く感じるが、
それが、また雰囲気を醸し出している。

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説明文によると・・・
広さ28畳。
天井は大長枌(へぎ)網代組、
棹縁(さおぶち)は長さ4間(約8メートル)の
北山丸太を使用。
床の地板(じいた)は、2間(約4メートル)
松の大節木(おおふじぎ)、
柱は大木皮付(たいぼくかわつき)を用いる。
付書院(つけしょいん)に火燈窓(かとうまど)
を設け、欄間は網組の障子を入れている。

座敷の左手の床の間の掛け軸は、

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説明文によると・・
「古松林」 詩歌
  大窪 詩佛筆
   (1767-1837)
紙本墨画 一幅
 183 x 95 cm

古松林浦聴蝉鳴先生先々生々
聲々々言把先生咲莫笑先
生老遠行三十年前舊
遊地白首重米来幾先生 詩佛
      と、ある。

大窪 詩佛(おおくぼ しぶつ)は、
江戸・後期の漢詩人で、書画も能くした。
市河寛斎・柏木如亭・菊池五山 と共に江戸の
四詩家と云われ、諸州を巡り頼山陽を訪ねた。

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角屋の所蔵・美術品、資料などは、数万点とも
云われ、「掛軸があった。」と記述したのは、
この床の間などに、「さりげなく」掲げられものは、
逸品が多く、「展示時期によって展示が異なる。」
これが、角屋の「おもてなしの心」だと
パンフなどに記載されている。

座敷の右手・襖絵は、
長谷川等雲 筆 「唐子の図」である。

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長谷川等雲は、
長谷川等伯から約100年後の画家。
調べてみると、 「絵本」という名の
現存する最初の出版物・絵本宝鑑・
貞享5年(1688年)。に絵師として
その名が掲載されている。



右側の内庭を見ながら、
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廊下を奥に行くと
松の間である。

角屋の説明文によると・・・
●松の間
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松の間は広さ43畳。
角屋一の大座敷であるが、残念なことに大正14年
(1925)、一部を焼失した。
翌年すぐ再建し、旧態に戻ったが、重文指定には
なっていない。
幸い歩障の岸良筆「布袋図(ほていず)」と
額の薩摩剛毅書の
「蓬壷生春酒(ほうこしゅんしゅをしょうず)」や
縁側の欅(けやき)の一枚板は、難を逃れ
現存する。
        と、ある。

往時、新選組初代局長の芹沢鴨を酔わせたのは、
この部屋。
大正14年、焼失するも直ぐに再建された。

入口、すぐ右側に
●衝立(ついたて)がある。

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説明文によると・・
衝立(ついたて)
絵は岸良(がんりょう)筆「布袋(ほてい)図」。
台座・枠(わく)は朱漆雲龍門螺鈿衝立
(しゅうるし うんりゅうもん らでん ついたて)
で四百年前の琉球王朝で作られた琉球螺鈿
である。
    ・・と、ある。

●襖絵(ふすまえ)
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襖絵の「金地桐(きんじきり)に
鳳凰図(ほうおうず)」は
幕末頃の絵師 岸連山(きしれんざん)【1】筆になるが
戦後この座敷に用いた。
【1】江戸後期の岸派の絵師。
岸駒に師事、有栖川家に仕える。
代表作は、龍虎図(滋賀県立近代美術館)
猪図(東京国立博物館)など。


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その左側、
●床の間には、

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瀑布図
    華鳳 筆
 紙本墨画
 205 x 121 cm
明治44年(1911)仲夏
           が、ある。

中島華鳳は、慶応2年(1866年)京都生まれの
円山派の画家。
また、書を富岡鉄斎に学んだ。
特に花鳥・山水を能くした。歿年未詳。

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●主庭と臥龍松(がりょうまつ)

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説明文によると・・
大座敷「松の間」から眺める主庭と臥龍松は、
角屋を訪れる文人、墨客、画人らの詩歌(しいか)、
俳諧(はいかい)、絵の良い題材となった。
近世後期に出版された
『都林泉名勝図会(みやこめいしょうずえ)』に
紹介され、また、国貞や広重の浮世絵にも
描かれたので、京名所として江戸でも知られた。

*都林泉名勝図会・巻5。寛政11年(1799年)刊。
左に茶室・曲木亭、右に青貝の間と臥龍松が
描かれた雪の日の様子。
 つむ雪に尾上を思ふ庭の松
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臥龍松は一木で臥龍を形づくっており、
天明年間には角屋の庭園七景の一つに選ばれていた。
しかし、大正松に枯れてしまい、幹のみを残す
ところである。
現在は二世の木々を以て当時の枝ぶりを復元している。

主庭には右手前に
●「曲木亭(きょくぼくてい)」
(元禄頃・1688〜1704)
表千家宗匠覚々斎好
(そうしょう かくかくさい ごのみ)、
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その後ろに茅葺(かやぶ)きの
●「清隠斎茶席(せいいいんさい ちゃせき)」
(藪内竹心(やぶのうち ちくしん)門の
安富常道(やすとみ つねみち)清隠斎が建てた
ものを天保9年・1838移築)、
左側に見える青貝(あおがい)の間(ま)
一階部分に
●「囲(かこい)の間」
(1781〜89 表千家宗匠了々斎好
(りょうりょうさいごのみ)の
三つの茶室を備えている。
             と、ある。

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角屋の2階座敷は、全て撮影禁止。
以下、簡略な説明をもって、
この編を閉じさせて頂きます。

○緞子の間(どんすのま)
広さ23畳の2階主座敷。
襖や障子に蜀江形(しょっこうがた)の緞子が
張られているので、この名がある。
○翠簾の間(みすのま)
  襖絵が山田峨山により描かれた極彩色の
「総翠簾の図」であることから、この名がある。
○扇の間(おおぎのま)
  天井に著名人の詩歌や絵の扇が58枚,
貼られているので、この名がある。
○草花の間(そうかのま)
  襖に山田峨山による「四季草花の図」が
描かれているので、この名がある。
○馬の間(うまのま)
広さ9畳の座敷。
  襖に親族に見送られる馬上の少年が
描かれているので、この名がある。
○孔雀の間(くじゃくのま)
  襖に江村春甫(えむらしゅんぽ)による
「孔雀に牡丹・海棠(かいどう)の図」が
描かれているので、この名がある。
○八景の間(はっけいのま)
  襖に冨士谷成章(ふじたになりあきら)の
「廓八景色」の和歌が書かれているので、
  この名がある。
○囲の間(かこいのま)
  茶室を囲の間と云う。
○檜垣の間(ひがきのま)
天井、欄間、障子腰板の組子に檜垣組を
用いているので 、この名がある。
○青貝の間(あおがいのま)
壁、床の間、建具等に青貝がはめ込まれ、
装飾されているので 、この名がある。

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(京都史蹟散策124 島原散策4 に続く)



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