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<<   作成日時 : 2018/09/19 20:22   >>

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京都史蹟散策125 大雲院の全貌 1

龍池山(りゅうちざん)大雲院
【位置】東山区祇園町南側
【交通】市バス・祇園、
徒歩7分。 
通常、非公開。特別公開、あり。
浄土宗・単立寺院。 通称:祗園閣
開基:貞安(ていあん)上人

●総門
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旧宮家(東京)の門を譲り受け移築。
総門の右側には、龍池山 大雲院の
【石標】がある。
画像


その左脇の説明板によると・・
龍池山と号し、織田信長・信忠父子の
進福の為、正親町天皇の勅命により
天正15年(1587)開山貞安上人に
御池御所(烏丸二条南)を賜わり開創され、
寺名は信忠公の法名に因み、山号は創建の
地に由来する。
其の後 天正十八年 豊臣秀吉の命により
寺町四条南【1】に移り、後陽成天皇の
綸旨により勅願所となる。

時運の進展にともない寺地は繁華の中心たる
を以て、昭和四十八年四月當地に移転された。
 主なる仏像並びに建造物
本尊阿弥陀如来坐像 一丈六尺
観世音菩薩像    一丈五尺
本堂 鐘楼 祇園閣 書院 龍池会館
          と、ある。

【1】 火除天満宮の鳥居前に石碑がある。
画像


(表側)
龍池山大雲院跡
大雲院は天正15年(1587)
織田信長・信忠父子の菩提を弔
うため正親町天皇の勅命により
開山貞安上人に御池御所(烏丸
二条)を賜わり信忠公の法名に
因んで大雲院と号した。
豊臣秀吉は寺地の狭隘なるを
見て同18年当地に移し寺観は
面目を一新した。昭和48年
寺運の興隆を鑑みて、東山山麓
真葛ヶ原の勝地に移転した。

(裏側)
平成4年11月
龍池山第30世
徳誉代

また、総門の左側の一角に
●円山地蔵尊がある。
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地蔵尊の右・背後の説明の石板によると・・
由来
當山は天正年間の創建にして四百年の歴史
を有す 中興第廿九世定誉上人 時流の進展
に鑑み 旧地(寺町四条南)に於ては 教化
昔かざるを思い 一大改革の壮図を懐くこと
多年に亘る 機漸く熟し 昭和四十八年 東
山連峰の緑を背に 祇園閣より千年の旧都を
望むこと聖地を本坊と定め 本堂の落成を見
る 爾来十六余年の歳月を要し 境内の堂宇
完備し 山容整うに至る
 この偉業に支援を惜しまず 多大の貢献を
された・・・ (中略)・・・の篤信者相
寄り ここに平成を壽ぎ 恒久の平和と人類
の幸福を希い 地蔵菩薩尊像を奉納さる
 願わくは 地蔵菩薩の慈悲の光 普く一切
を照らし 現當二世 衆生を斎度し給わんことを
 平成二年三月吉日
  本山龍池山 大雲院
    第三十世 徳誉
          と、ある。

●旧大雲院の本堂。
寺町四条南にあった頃の大雲院の本堂は、
現在、東山・智積院の明王殿が、それである。
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智積院の本堂が、明治15年に焼失。
後、昭和22年の火災により仮本堂であった
方丈殿が焼失した際に、旧大雲院の本堂を
智積院に譲渡した。

また、旧大雲院の本堂、その他の伽藍は、
江戸後期の『都名所図会』・二を紐解くと、
旧大雲院の本堂は、以下のようになっている。
赤の囲みが、本堂。
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『都名所図会』は、文を 京都の俳諧師・秋里籬島
が著し、図版を大坂の絵師・竹原春朝斎が描き、
京都の書林・吉野屋から安永9年(1780年)に、
刊行されたもの。

大雲院は、通常、非公開だが、今回、平成30年、
第43回 京の夏の旅 で、特別公開となった。
(7月7日(土)〜 9月30日(日))

特別公開の入り口は、
南門からであった。
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この南門は、旧大雲院から移築されたもの
である。

大雲院の南門を潜り、
右側(東側・総門)の方へ石畳を行くと、
右側(北面)に、古びた碑がある。
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この碑の紹介は珍しいと思われるが、これは、
●天和飢饉の碑(仮称) と推測される。
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江戸時代は、比較的寒冷な時代であったと云い、
凶作や飢饉が絶えなかった。
特に、江戸四大飢饉(寛永、享保、天明、天保)は、
よく知られているが、天和の飢饉も全国的に被害が
大きかったと云う。
この年、江戸では大火(お七火事)も起こっていた。
明治初期の廃仏毀釈の一因もあり、全国的に見ても、
飢饉の碑は、非常に少なく、江戸期の京の都に
この関係の碑があったことには、驚きを隠せない。
また、この碑は、大雲院・高誉上人の
顕彰碑として見るべき側面があることは当然の
ことである。

【本文】
連年凶荒諸民流離終至餓死者不可勝許我師高誉上人座
不忍見之救済之意念頻発然一杯之水不能一車薪之火
茲得十方信檀之助縁天和二年(*1682年)正月八日
始開場於當寺凡  
三十有九日之間方来之餓民不男女老少月日無一人興
孔方十二銭其競合二十六萬六千二十九人也於是建一塔
婆為二世利益之供養欲施者受者有縁無縁併巳死未死
之輩共超因苦海同到安養之界是老師之志願也
天和二壬戊年三月十五日 
大雲院第九世光誉真龍建

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(意訳)
(*この塔を建てた頃)毎年、凶荒で、諸民は、
あてもなく、さ迷い、終に餓死者となる者、
推して図ることができない。
我師・高誉上人は、座って、これを見るに忍ばず、
救済の念が何度も湧き出る。
然るに、(孟子が云うように【2】) 一杯の水を以て、
一車、薪の火を救うことは出来ない。
【2】孟子曰く、
「仁の不仁に勝つは、猶ほ水の火に勝つがごとし。
今の仁を為す者は、猶ほ一杯の水を以て
一車の薪の火を救ふがごときなり。
熄まざれば則ち之を水火に勝たずと謂ふ。
此れ又 不仁に與するの甚だしき者なり。
亦 終に必ず亡はんのみ。」

ここに、十方の檀家の信徒の助力を得て、
天和2年(*1682年)正月8日、
当寺を開放して、およそ39日間、
男女、老少、月日を問わず、餓民が来るも、
一人ごとに、孔方12銭を与える。
その数合わせて、266,029人であった。
これにより、一つの塔婆を建て、
二世(現世・来世)の施者・受者、
有縁・無縁の供養として、併せて、
死者・生者ともに苦海を越えて安養の
世界に(達すること)を望む。
これこそが、老師の志願である。
天和2年3月15日 
大雲院 第九世 光誉真龍 建

画像




さらに石畳を進むと、鐘楼前に
画像


○豊烈曜後(ほうれつようご)の碑  
○佐土原藩 戦没者 招魂塚 が、
右側(南面)にあり、

画像


その左側に説明の石板がある
画像


それによると・・
   記
この、佐土原藩戦没者招魂塚および顕彰碑は、
百有余年の風説に耐えながら、中京区寺町通りの
一角に、地元有志や崇敬者に温かく見守られて
いたが、碑石の風化荒廃甚だしく、
今まさに朽ち果てようとしていた。
 佐土原町は、郷土戦陣の偉業を顕彰し、
これを後世に伝えるため、当大雲院の協力を得て、
この地に碑石を復元移転しその霊を慰める
ものである。
  昭和五十八年十月
  宮崎県佐土原町長 戸敷繁樹
  宗教法人 本山龍池山大雲院
           と、ある。

両碑は、戊辰戦争で亡くなった
佐土原藩士を弔うために
9代室 随真院が明治2年9月に建立した。


●佐土原藩戦没者招魂塚
◆北面 原藩戦没者招魂塚
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◆東面
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(縦・一列目、右から)
軍監屬 御牧 重太郎 源 篤行 年十九
長官  新納 八郎二 藤原 久暢 年二十八
小隊長 谷山 藤之丞 藤原 清理 年三十一
兵隊  三雲 為一郎 藤原 種方 年三十
    棆本 源吾  藤原 成及 年三十
    鶴田 力之進 藤原 祐業 年三十二
半隊長 能勢 惣之進 源 陣善 年二十四
分隊長 籾木 勇太郎 藤原 武徳 年二十

(縦・二列目、右から)
戦兵 圖師 右衛門  藤原 秀實
   原 友次郎  藤原 能思 年十八
   佐藤 平左衛門 藤原 信良 年二十一
   谷山 弥平次  藤原 純實 年二十七
   児玉 直蔵  源 義貞 年二十一
   黒木 七左衛門 藤原 武敏
   成合 右衛門  藤原 實武
   間世田 金次郎 藤原 儀象
   長友 市郎  藤原 貞直

◆南面
画像


(縦・一列目、右から)
戦兵 酒匂 浅之進 平 景道 年二十九
   郡司 伊織    日下部 盛苗 年十六
   伊集院 貞之助 藤原 陳信 年二十八
   牧野 田六左衛門 平 成継 年二十
   兒玉 源次郎 原 實行 年二十四
   植村 善右衛門 藤原 従善 年二十九
   池田 数之進 藤原 直道 年十七
   青木 徳左衛門 藤原 宜霊 年四十二

(縦・二列目、右から)
   工藤 和田右衛門 藤原 祐紀 年二十四

(縦・三列目、右から)
宇宿代吉 従士 林 清吉
夫卒 巳之助
   常吉
   新吉
   嘉十
   庄吉
   甚袈裟

(西面)
画像


(縦・一列目、右から)
   厚地 熊太郎  藤原 助利 年二十一
   瀬戸口 権太郎  藤原貞盈 年十九        
   立山 源太郎  小野 義方 年二十一
   上山 郷作  藤原 徳明 年四十五
   大野 五兵衛  藤原 吉之 年二十
   蓑毛 次右衛門  源 直行 年二十五
   壱岐 栄蔵  藤原 廣信 年三十一
   間世田 助市  藤原 儀政 年三十一
      
(縦・二列目、右から)
   万吉
   千太郎
   鉄蔵
   吉蔵
   幸之助
   冨蔵
   徳蔵
   亀吉


佐土原藩戦没者招魂塚 の右側に
●豊烈曜後(ほうれつようご)の碑
が、ある
画像


大雲院は、日向国・佐土原城城主・
島津以久により、慶長年間(1596〜1615)に
帰依、寄進を受ける。
この折、大雲院の開山 貞安上人の世話になり、
佐土原・藩島津氏は、曹洞宗から浄土宗に移った。

島津以久(しまづ もちひさ)
通称、又四郎。
慶長8年(1603年)、徳川家康より島津氏の旧領・
日向・佐土原を与えられ、鹿児島藩・支藩、
初代佐土原藩主・島津家となる。
慶長15年4月9日死去。
旧大雲院に葬られ、墓は、現在、
龍池会館の北側にあるが非公開。

後、戊辰戦争では、大雲院は佐土原藩の
京都の本陣の役割をし、四百数十名の
佐土原の隊士が出兵。
千葉・上野・会津・秋田の戦いに参戦し、
後、明治元年12月に旧大雲院へ引き上げた。
後、前述のように 9代室 随真院が
建立した。

□は、闕字(けつじ)で、これは、書中に天子や貴人に
関する語が現れたときに、これに敬意を表すために、
該当する用語の前に1字または2字分の空白を
設けることである。 

【本文】
豐烈曜後之碑
余職於史官纂修時事毎至叙戰死士之事未嘗不閣筆
而歎也鎗刀電撃彈丸雨注遇而避之者人之常情恐死在前

也然而蹈屍A血奮進勇往以身殉難視死如帰者雖三百年
養士之効使之然未嘗不由義勇英烈氣之所致也自□

朝廷定大中小三等之藩佐土原固列於小藩之等而其士之勇
強戰没之多反出於大中藩之右語兵之強者輒曰薩

長土曰大垣佐土原者雖其士之勇強使之然亦未嘗不由
□藩公平素訓練之所致也奥羽北越之戰佐土原藩大小

七十餘戰其死事之臣擧而言之則後四月三日死於下總國
船橋驛之戰者三人戰兵蓑毛直行夫卒巳之助常吉也

五月十五日死於武藏國上野之戰者半隊長能勢陣善也
十六日死者戰兵青木宣雪也廿日死於筥根之戰者豆相

軍監屬御牧篤行也廿二日傷於武藏國飯野之戰而
七月三日死於常陸國平瀉者小隊長谷山清理也六月廿八日

死於新田坂之戰者戰兵酒匂景道也七月十三日死於
陸奥國岩城平之戰者六人戰兵牧野田成繼児玉實行壱岐

廣信夫卒新吉嘉十庄吉傷而後死者戰兵圖師秀實也
廿八日死於二本松之戰者夫卒甚袈裟也八月廿三日死於

會津之戰者二人戰兵伊集院珍信夫卒萬吉也九月十五日
死於青木村之戰者十九人長官新納久暢監軍検本成

及鶴田祐業分隊長籾木武徳戰兵池田直道植村從善
厚地助利瀬戸口貞盈立山義方大町吉之佐藤信良間世田

儀政原能思谷山純實児玉義員工藤祐紀宇宿州治
従士林清吉夫卒千太郎鐵藏也同日死於出羽國久保田境村

之戰者四人戰兵上山徳明黒木武敏成合實武間世田儀象也
十六日死於上淀川之戰者四人戰兵長友貞直夫卒

冨藏徳藏龜吉也十七日死於會津之戰者四人監軍
三雲種方戰兵郡司盛苗夫卒吉藏幸之助也凡十三戰而死者

四十有九人嗚乎可謂多矣B也會津之謝罪乞降也
□官軍總督賜褒状而署於薩長土大垣四藩之列也盖□公之

A・B の漢字
画像


平素訓練也曰吾藩以祖先之功受宗藩之分封於今
三百年及於吾躬未嘗顯著繼紹之績方今内訌外虞并至天下

日多事吾可報之秋至矣汝臣僚克體此意勿敢逸遑其
出師也又令曰宗藩之兵勇武甲於天下伏見鳥羽之戰以徳

川氏之強大挫之於三戰之間使大坂之雄城不獲保於頃時
可不謂強哉吾藩為之支族天下之所共注視而萬一兵

弱取敗非特無辭於祖先又足以辱宗藩取笑於天下是役也
汝曹勉矣堂下之士皆泣既而俯伏對曰臣等之報國唯

此時為然戰而不勝國之辱也敗而奔臣等之罪也辱罪在身
生還亦何為臣等雖至愚不以一生代二者也吾□公少

寛意焉又泣然則其士之勇武果□公訓練之力而巳□公聞
其死也設祭諭告曰傳不言乎死於王事則賞之能執干

戈以衛社稷則賞之使爾等生而列余左右其為忠為
良無容疑矣猶是臣子之常兮百官之職司其溘焉以死數尺之

碣四時之奠鬼而不餓而巳今
天子下□命朝有死事之報夕則賜葬資聞葬之畢則有賑
恤之遺而祠之神之故汝等之死於余雖如失四支汝等死

而有光輝矣盖戰死士之享此祭也非特忠魂獲所依帰而
為之父母妻子者亦當忘其悲哀而其幸而不死者以不死

為憾矣□公之振士氣不以術詐而以至誠者如此今又
為建招魂之碑題曰豐烈耀後之碑親命余為撰其文謹案□

朝廷褒賞之□詔誥叛賊之顛末與勝敗之詳苦戰之状記
於太政官日誌録於史官故不復叙而記□公之使士義勇

英烈至於此之由如此
 明治元年戊辰十二月 
徴士議政官史官薩摩水本成美撰

画像


【意訳】
私は、史官の職に従事して時事を編纂するに当たり、
亡くなった戦士を書く度に、未だかつて、
書き終えることはなく、
槍や刀の衝撃、弾丸が雨(*あられの如く)
降り注ぐ、このような状況に遭遇して、
これを避けるは、人の常であり、
死の前にあって恐れるものである。
そして屍を蹈み越え、血を流し、
勇猛果敢に進み、もって、
身は死を視ること帰するが如く、
(*すなわち、死ぬことを我が家に帰るように
思うこと)三百年、養士はこれを手柄とされる。
なので、未だかつて、(*亡くなることは)
正義と勇気とされず、勇ましく激しい気持ち
であるとされる。
朝廷は、大中小の三等の藩の規模を定め、
佐土原藩は、小藩に固く列せられ、
これらの士が勇強であり、多くの戦没者が出たにも
かかわらず、大中の藩は、以下の言葉において、
兵の強者は、すなわち、薩摩・長州・土佐藩で、
大垣、佐土原藩は、その士は勇強
と云えども当然である。と。
また、未だかつて、(*兵の強者は)藩公によらず、
平素、訓練の致すところである。
奥羽・北越の戰いでは、佐土原藩は、大小
七十余の戰いで臣下が亡くなり、
その後に挙げられた者の名は、
(*以下の如くである。

以降、( )内は碑文に記されている名。)

4月3日、下総の国・船橋駅での戰死者は3人で、
  戰兵・蓑毛 次右衛門(蓑毛 次右衛門 源 直行)、
 夫卒・巳之助、常吉であった・
5月15日、武藏国の上野の戰死者は、
 半隊長・能勢 陣善(能勢 惣之進 源 陣善)
 であった。
5月16日の戰死者は、青木宣雪
 (青木徳左衛門 藤原 宜霊)であった。
5月16日の筥根の豆相の戰死者は、
 軍監屬・御牧 篤行(御牧 重太郎 源 篤行)
 であった。
5月22日の武藏国・飯野の戦いで負傷し、
7月3日、常陸国・平瀉での戰死者は、
 小隊長・谷山 清理(谷山 藤之丞 藤原 清理)
 であった。
6月28日、新田坂の戰いでの戰死者は、
 戰兵・酒匂 景道(酒匂 浅之進 平 景道)
 であった・
7月13日、陸奥国・岩城平の戰いでの戰死者は、
 6人で、
 戰兵・牧野田成繼(牧野 田六左衛門 平 成継)
 児玉 實行(兒玉 源次郎 原 實行)、
 壱岐 廣信 (壱岐 栄蔵 藤原 廣信)、
 夫卒・新吉、嘉十、庄吉で、負傷後の死者は、
 戰兵・圖師 秀實 (圖師 右衛門 藤原 秀實)
 であった。
7月28日、二本松の戰いでの戰死者は、
 夫卒・甚袈裟であった。
8月23日、会津の戰いでの戰死者は、2人で
 戰兵・伊集院珍信 (伊集院 貞之助 藤原 陳信)、
 夫卒・萬吉(万吉)であった。
9月15日、青木村の戰いでの戰死者は、19人で
 長官・新納久暢 (新納 八郎二 藤原 久暢)
 監軍・検本成及,( 棆本 源吾藤原 成及)
 鶴田祐業 (鶴田 力之進 藤原 祐業)
 分隊長・籾木武徳 ( 籾木 勇太郎 藤原 武徳)
 戰兵・池田直道 (池田 数之進 藤原 直道)
 植村從善 (植村 善右衛門 藤原 従善)
 厚地助利 (厚地 熊太郎 藤原 助利)
 瀬戸口貞盈 (瀬戸口 権太郎 藤原貞盈)
 立山義方 (立山 源太郎 小野 義方)
 大町吉之 (大野 五兵衛 藤原 吉之)
 佐藤信良 (佐藤 平左衛門 藤原 信良)
 間世田 儀政 (間世田 助市 藤原 儀政)
 原能思 (原 友次郎 藤原 能思)
 谷山純實 (谷山 弥平次 藤原 純實)
 児玉義貞 (児玉 直蔵 源 義貞)
 工藤祐紀 (工藤 和田右衛門 藤原 祐紀)
 宇宿州治従士・林 清吉 (宇宿代吉 従士 林 清吉)
 夫卒・千太郎、鐵藏(鉄蔵)であった。
同日(9月15日)、出羽国・久保田境村での
 戰の戰死者は4人で、
 戰兵・上山徳明(上山 郷作 藤原 徳明)
 黒木武敏 (黒木 七左衛門藤原 武敏)
 成合實武 (成合 右衛門 藤原 實武)
 間世田儀象 (間世田 金次郎 藤原 儀象)
 であった。
9月16日、上淀川の戰いでの戰死者は4人で、
 戰兵・長友貞直 (長友 市郎 藤原 貞直)
 夫卒・冨藏、徳藏、龜吉 であった。
9月16日、会津の戦いでの戰死者は4人で、
 監軍・三雲種方 (三雲 為一郎 藤原 種方)、
 戰兵・郡司盛苗 (郡司 伊織 日下部 盛苗)、
 夫卒・吉藏、幸之助であった。

およそ13の闘いでの戦死者は、49人である。
ああ、(*この数) 多いと云えるであろうか。
(*私は)会津が謝罪されることを願うものである。
官軍總督は、褒状を賜り、(*佐土原藩は)
薩摩・長州・土佐・大垣の四藩の列に署名した。
確かにそれは、公の平素の訓練の賜物であった。
わが藩は、祖先の功績により、今、
宗藩(*薩摩藩)の分封を受け300年に及び、
我藩は、これまで、現在、国内外、ならび天下に、
その功績を顕著に紹介されたことがない。
我藩は多事で、これらの報せは秋に至るであろうか。
我藩の臣下は、よく体力をつけるべきである、
この意は、敢えて出兵で逞しさを逸することなかれ、
と云う事である。
又、藩令では、宗藩の兵は、天下・伏見鳥羽の
戰いで、その勇武は秀でており、
徳川氏との三戰の間にその強大さを挫(くじ)き、
大坂の雄城を使わず、確保せず、
この頃から(*徳川は) 強いとは云わせなかった。
わが藩は分家のため、天下を共に注視し、
万一、先祖より兵が弱く何も云わなく
敗れれば、宗藩(*薩摩藩のこと)は、
天下のこの戦で、笑われ辱められたであろう。
我らは勤勉である。
堂下の士(*殿上の間に昇殿を許 されない官人)
は、皆、泣いて、その(*公)前に、ふれ伏した。
臣下の報国の思いは、ただ、この時、戦さを
することで、勝たなければ恥ずかしい。
(*戦いに)敗れれば、奔走した臣下の罪である。
生還しても恥辱であり、何のための臣下か。
愚かに至らないと云えども、一生、
二者に代わる者である。
私は、公は心の穏やかさが少ないのでは
ないであろうかと思う。
また、戦士が武勇を果し、(*公は) 泣かれ、
(*これは)訓練の力があるも戦死の報を聞いた
からである。
(*また公は)祭を設けて諭告して云うには、
王事において、何も伝えず亡くなるのか。
これにより(*公は)干戈(*かんか・戦争)能力を
讃え、社稷(しゃしょく・*国家)を守り、
戦争をして生きることを讃える。
だが、そのための忠義には、云われがないのでは
ないか。
これは、臣子の常であり、百官の職を司るは、
突然であり、もって、(*臣子は)数尺の石碑となって
亡くなる(*石碑に名が刻まれる)。
飢えなければ、いつも神を祀らず、
今(*ここに)、天子は、命を朝に下し、夕べに
死の報せを告げる。
よって、(*天子から)葬儀の資金を賜り
葬儀の全てを聞く。
よって、賑恤(しんじゅつ・援助のために
金品を与えること)を贈り、祠を建てる。
故に、私にとって、君たちの死は、
四支(手足の)支えを失うようであるが、
光り輝くものでもある。
すなわち、戦死者がこれを受け入れること
(賑恤を賜り、祠を建てられること)、
これが祭祀なのである。
忠魂は、父母、妻子のため、また、
その悲哀を忘れるに当たり幸いにも
生還した者にとっては、特に帰る所がないが、
(*忠魂は) 怨念のために死ぬことはない。
公の振る舞いは、権謀術策をもっての士氣ではなく、
上記のような誠に至るものによるものである。
今又、(*ここに)招魂の碑を建立し、
「豐烈耀後之碑」と題し、親命を受け、
私は、その碑文を謹(つつし)んで考え、
撰文をし、朝廷から褒賞の詔を受けた。
(また、)逆賊の顛末を史官の太政官日誌録で
苦戦の状記として詳細に述べた。
よって、(*これを)重複して叙述せず、
公の義勇の使士(*の活躍)を記すものである。
明治元年12月 
徴士議政官史官・薩摩・水本成美 撰

水本成美(みずもと なるみ)は、
幕末、明治期の薩摩藩士。
明治初期法曹界の卓越した律令学者、
法制官僚で、復古的法学派の総帥であった。

画像


*意訳、拙(つたな)く、
良き意訳できる方、投稿、歓迎です。

(京都史蹟散策125 大雲院の全貌 2 に続く。)

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