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zoom RSS 京都史蹟散策125 大雲院の全貌 2 祇園閣

<<   作成日時 : 2018/09/20 15:34   >>

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京都史蹟散策125 大雲院の全貌2 祇園閣

龍池山(りゅうちざん)大雲院

前述のように
明治2年9月、旧大雲院に佐土原藩戦没招魂塚と
豊烈曜後碑に両碑が建立され、
昭和48年4月当地に移転してきたが、
それから10年後、両碑の摩耗は、激しく、
その副碑(説明の石板)にあるように昭和58年に、
この両碑は、宮崎県・佐土原(高月院)に移され、
復元されたものが、現在、大雲院にあるものである。
なお、高月院は、佐土原藩2代藩主・島津忠興が、
父・初代佐土原藩主・島津以久の3回忌に建立した
寺院で、これにより、後、佐土原藩・島津家の廟所と
なった。
なお、高月院の寺号の由来は、
島津以久の法号・高月院殿前典厩照誉崇恕居士
によるものである。

この両碑の東側に
●鐘楼 が、北面にある。
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鐘楼の前の説明板によると・・
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由緒
一 梵鐘
 もと祇園感神院(現在の八坂神社)にあった
 延徳2年(*1490年)在銘の梵鐘、
明治3年當院の檀越旧佐土原城主 島津家により
寄進された。  室町時代
一 鐘楼
 豊臣秀頼が慶長12年(1607年)
 北野天満宮に寄進した鐘楼、
 明治5年當山大廿四世上人代に
 篤信檀信徒の建立奉加により移建成る。
         桃山時代

 梵鐘 鐘楼とも明治元年(1868)の神佛分離に
 よって當院に移されることになった。
 昭和47年大雲院本坊寺町四条南より
 當地移転に伴い移築された
         當院  と、ある。

また、この鐘楼の東側には、
弁財天が祀られている。
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一方、目を西側に転じると、
●本堂 が佇む。
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平安・鎌倉の折衷様式の2階建てで、
鉄筋コンクリート造、寄棟造、本瓦葺。
昭和48年の建立である。
本堂手前、左脇には、平和観音がある。
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また、階段を上がり左側には、
横たわる石仏像があるが、
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頭が南を向いているので涅槃の姿では、
なさそうである。
本堂には、本尊・丈六の阿弥陀如来坐像
(江戸時代作)が安置されている。
また、室町時代-安土・桃山時代作とされる
創建時の阿弥陀如来立像もある。

本堂の西側に祇園閣があるが、
その通路の北側の小庭、南面に
●祇園閣碑 が、ある。
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通路からの距離が少しあり、肉眼では読めない
ので、写真から起文して読むしかない。
この碑の紹介も珍しく、ぜひ、一読を願いたい
ところであるが、文章は横に置いても、
漢字の字体に難解のものがあり苦心するところ
である。 
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【本文】
祇園閣碑
東山乃麓 祇園乃隈真葛ヶ原在り先考鶴彦翁比に別墅を
営み其の域内に高閣を建て名けて祇園閣と曰ふ始め翁
齢九旬にして気益壮なり茲に記念建築を造営して永く
國運の隆昌と舊都乃繁栄とを祝福せんこと我企圖し工
學博士伊東忠太先生に嘱して案を作らしめ大倉土木株
式會社をして其の施工に當らしめ終世自ら之を董督す
閣三層方三十五尺高さ地を梭くこと一百二十尺鐡條を  
骨としx(凝か?)土を筋とし石材を以て
之を装ふ磴階盤第二
層に至れば既に洛の中外を瞰下すべく第三層に至れは
遠く摂河の平野を望むべし屋上高A天に冲し尖頂の金
鶴翼を張て九皐に鳴かんと欲す洵に西都第一の異彩な
り翁其の竣成を見るに及ばずして歿すと雖その志や酬
ひられたりと謂ふべし閣は大正十五年七月工を起し昭
三年六月功なるB間祇園閣の題額は西園寺公望公の
署する処上層扁して万物生光輝と曰ふは鶴彦翁の自書
に係る
昭和四年五月   聴松 大倉喜七朗誌

ABの漢字
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(意訳)
(*祇園閣は京都・)東山の麓、 祇園の隅(すみ)、
真葛ヶ原(まくずがはら・現在の円山公園を中心に、
北は知恩院三門前から、南は雙林寺に及ぶ山麓一帯
の旧称)にある。
先考(せんこう・亡父)鶴彦翁が、ここに別墅
(べっしょ・*別荘)を営み、その域内に高閣を建て、
名付けて祇園閣と云う。
(*この高閣を建てた)始め(*の頃)、
翁は、90歳にして、その気概は、ますます、
壮健であった。
ここに記念建築を造営して、永く国運との隆昌と
旧都の繁栄と繁栄とを祝福することを我らは企画して、
工学博士・伊東忠太先生【1】にゆだねて、
案を作って頂き、大倉土木株式会社に
その施工をして頂き、終世、自ら、これを董督
(とうはく・監督して正す)する。
【1】伊東忠太。
明治から昭和期の建築家、建築史家。
西洋建築学を基礎に、日本建築を本格的に見直した
第一人者で、日本建築史を創始した。
「造家」という言葉を「建築」に改め、
京都・平安神宮、東京・明治神宮などを設計した。
その他、設計した建物には、枚挙の暇がない。

祇園閣は、各三層とも、三十五尺(*約10.6m)
の高さで、地を梭(さ)くこと(*地をさく、
すなわち、建てること)120尺(*約36m)の
鉄条を骨格として、固い土を筋とし石材で、
これを装うのが石製のらせん階段である。 
第二層に登ると、既に京都の中や外を眼下にし、
第三層に登れば、遠く摂河(*摂津と河内、すなわち、
兵庫や大阪)の平野を望むことができる。
屋上高く、蒼天に空高く昇り、頂きにある
尖(とが)った鶴は、翼を張って、
九皐(きゅうこう・* 曲がりくねった奥深い沢)に
鳴こうとするか。
まことに西都、第一の異彩である。
翁は、その竣工を見ることなく亡くなると
云えども、その志は、酬(むく)いられたと、
云うべきであろう。
祇園閣は大正15年7月に起工し、昭和3年6月
に完成する。
欄間(らんま)の祇園閣の題額は、西園寺公望公に
より書かれたものである。(写真、赤の囲み。)
上層扁して(*平たく)、「万物生光輝」と云うのは、
鶴彦翁の自書によるものである。
昭和4年5月 聴松 大倉喜七朗 誌

祇園閣
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祇園閣碑
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大倉 喜八郎は、大倉財閥の創始者。
幼名、鶴吉、後、鶴彦と号する。
ちなみに、祇園閣の頂きにある鶴は、
京都御所の西方向ではなく、
皇居のある東を向いている。
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これは、昭和3年、御大典
(ごたいてん・即位の礼などの儀式)を記念して
祇園閣が建てられたことにも因る、とのこと。

聴松は、喜七朗の長唄の名で、
大倉喜七朗は、大倉喜八郎の長男。
日本のホテル業に大きな足跡を残した。
また、囲碁の普及、発展に功労し、
平成18年には、殿堂入りした。


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祇園閣の正面には、阿吽のライオン像。
また、入り口の銅板扉には、鶴彦翁に因んだ
鶴の彫り物が施してある。
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●祇園閣の内部
祇園閣・内部壁画(パンフより)
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昭和62年に敦煌莫高窟の壁画が、
祇園閣・内部壁面に中国人画家・葛新民
(中国安徽省 ・巣湖書画研究会副会長)氏により、
模写された。  
平成22年に登録有形文化財文化財。

なお、祇園閣の内部と閣上からの景色は、
撮影禁止である。
都の風の流れを感じながらの閣上からの景色。
知恩院、大谷廟、霊山観音、八坂の塔のほか、
京都市街が一望できると共に、運が良ければ
遠く大阪城、あべのハルカスまで、見えると云う。
景色の撮影については、10年程以前は、
別に問題がなかったそうだが、後、
近隣からのプライバシーの問題があり、
この措置に至ったそうである。

閣上からの東山一帯(パンフより)
●閣上からの東山一帯
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祇園閣の北側に、昭和2年、建造の
書院(別邸・真葛荘)がある。

樹木で見にくいが、写真、右側に八角形屋根の
応接室がある。

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もと大倉家の別邸で,寝室及び納戸が
鉄筋コンクリート造で、他は木造である。
八角形屋根の応接室など、独特なデザイン。
設計は、前述の伊東忠太で施工は大倉土木。
登録有形文化財(建造物)である。

ねねの道 からの祇園閣の景色は、
は定番だが、こちらは、大雲院・北側の駐車場から。
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また、祇園閣の雪景色も絶妙である。
平成28年1月20日・撮影
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特別公開の入り口の南門から
左(西側)に向かうと墓所がある。
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墓所の入り口の左側には、
二つの石碑がある。

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○織田信長公
      墓所参道
   信忠公 

○石川五右衛門墓所参道
           である。

表示板に沿って行くと、
●織田信長 信忠公の墓所(碑)
がある。
画像



墓所の左側には、石製の副碑がある。
画像


それによると・・
(片仮名を平仮名に変換)

織田信長公
      之墓所
織田信忠公 
天正年代菩薩堂安譽愚和尚の寄進により
建立され昭和54年3月吉日
四条寺町大雲院墓地より
当地 円山町大雲院墓地に移転す
 発起人 (以下略)
        とある。

画像


墓碑は、右側は、織田信長で
 惣見院殿贈大相国一品泰巌大居士
織田信忠は、
 大雲院殿三品羽林仙巌大居士
         とある。
各々、
碑名の左側は、天正十(左「午・右「壬」」年
碑名の右側は、六月二日
           とある。
天正10年(1582年)6月2日は、
あの本能寺の変 の日である。



また、戻って、表示板に沿って行くと、
●石川五右衛門の墓所(碑)
がある。

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墓所の左側には、石製の副碑がある。
画像


それによると・・
(片仮名を平仮名に変換)
昭和54年3月吉日
四条寺町大雲院墓地より
当地 円山町大雲院墓地に移転す
 発起人 (以下略)
        とある。

墓碑には、
画像


   寛永九年
融仙院良岳寿感禅定
   卯月九日
         とある。

石川五右衛門の記録としては、
アビラ・ロラン記の「日本王国記」の
注釈者・ペドロ・モレホンの記述のなかに、
この事件(*京で荒らしまわる15人の頭目が
捕縛され、京都の三条河原で生きたまま油で
煮られた)は、1594年(*文禄3年)の夏である。
油で煮られたのは「Ixicava goyemon」と
その家族9人ないしは10人であった・・とある。

後、享和2年(1802年)に刊行された
「絵本太閤記」は、五右衛門の行状を詳細に描き、
その存在を確定的にした、とされる。
(*その一部を読みやすくして見ると
・・・ 
石川五右衛門 盗賊(と)為(なる)
此頃、豊臣秀吉公、洛東の地に大佛殿を造立し
給う時なりければ、その傍(ほとり)の繁花(はんか)
夥(おびただ)しく、昼夜諸国の大小名引きも切らず
往来し、牛馬の音足(あしおと)車の響は、
雷庭にひとしく、寔(まこと)に殿下の御威勢
いわん方こそなかりける。
石川文吾も此賑(にぎわ)いしきを おもしろく、
うら山しき事に思ひ、大佛殿に ちいさき家をもとめ、
石川五右衛門と改名し、爰(ここ)に住居(すまい)
して何をいとなむ心もなく明くれ、酒、打呑(うちのみ)
大言を吐て我儘(わがまま)くらしの浪人なれば、
同気相需(もとむ)るならいにて、此近辺のあぶれもの
筑紫(つくし)権六、泉 伴蔵、木曽川 彌八、
松山大太郎、松並 友九郎、陸奥(みちのく)小三郎、
坪坂 五七、信野(しんの)輿三郎、萩山 団八なんど
友得たりと悦び、昼夜のわかちもなく、或は
酒、呑たるは、囲碁、或は清水あたりの避所(ゆうじょ)
に伴い、妓女を集めて宴を催し、乱行放蕩かぎりなしと
いへども、いつも五右衛門、嚢中(のうちゅう)の金を
出して、其価をつくのへば、是れも又、一時の
財主(だんな)なりとて、酒店青楼も皆、
興の益(まさ)んことを求て、敢て いなか者なしなれば、
五右衛門が貯へし金子も早く空(むな)しく成り、
誠や窮(きゅう)すれば盗む人情にて、爰(ここ)に
盗心(とうしん)を発し、或夜、彼(かの)悪党を
あつめて議(ぎ)しけるは、我、はからずも汝等と
朋友の交を結び、日毎の酒代に貯へし金銀も今は
残り少く、此儘(このまま)にては、永く都の
住居も成りがたし切取強盗も浪人の所作と聞(きけ)り
吾、今より盗人とならんと欲す。
  ・・・(以下、物語は、五右衛門の最期まで
           続いていきます。)

絵本太閤記(1802年)、三条河原 刑場の図
  (著作権満了のものより)
画像


後、明治19年(1886年)になると、
月之舎秋里 編 (偉業館等) 石川五右衛門実記が
刊行され、その文中では、
・・是ぞ五右衛門が最後の一言 南無阿弥陀仏
と唱ふれば 悪人ことに感ぜしが 異口同音に
(*周囲の人たちの)
南無阿弥陀仏 々々々々々々 と唱へたる
念佛の聲ぞ 高なりけり・・
とあり、
この大雲院に五右衛門の墓があるのは、
処刑前に市中を引き回された五右衛門が、
大雲院門前に至った折、
貞安が引導を渡した縁による例左でもあろうか。

石川五右衛門実記(明治20年)より
(著作権満了のものより)
画像


(この編・完)


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