歴史の流れ 防長回天史を読む10 第九章 毛利氏財政雑件

歴史の流れ 防長回天史を読む10

[ ] は、原文の注釈で、
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

●第九章 毛利氏の財政雑件

封境増大の原因
○現品・税金・納税
○米
○開作
○紙
○蝋(ろう)
○大坂藩邸・吏員の職責
○鉱山
○用達
○紙幣
○修補金穀
○貯穀
○江戸穴倉の貯金

防長二州の封境(ほうきょう・国境)は、
藩初以降、大いにその石高を増やした。
これは、その数回の検地の結果、新たに隠田を
発見し、あるいは、いわゆる、打出を得たことに
よるものが最も多いと云えども、又、幾多の
方法を設けて、新田を開拓した功績が少なくなく、
開拓に官業・民業の二種がある。
そして、防長の地勢・陸上は、山嶽が多く、
開墾に不便で、これに反し海浜は、
斥鹵(せきろ)の地(*塩分を多く含み、農耕の
できない荒地)が多く、拓殖(*荒地を切り開き、
に住みつくこと)に便利であった。
故に開作の最も大なるものは、およそ海浜の根拠に
あり、開作の業は、藩初以来、既に企画されており、
承応(1652-54年)以降、初めてその実を示した。
承応2年(1853年)、泰巌公(毛利綱広・つなひろ・
長州藩2代藩主)が、いわゆる承応の二分減
(江戸邸の費用が増大し、士卒の禄を平均、
十分の二、減少させたこと。
防長回天史を読む 毛利氏の財政(一)参照。)
を行うに当たり、財政は非常に振るわず、士卒に
与えるべき棒禄についても、これを与えることが
出来ないだけでなく、既に与えたものでも、
更に、これを減少させることがあった。
(*毛利綱広)公の意は、非常に平穏でなく、
すなわち、歩戻し開作証書を作り、これを
これらの士卒に与えた。
歩戻し開作証書とは、公益に害がない以上は、
いずれの土地を問わず、自由に新田を開削できる
権利を与え、そして、土地を得るに従い、
その棒禄を増加することを約束する証券であった。
この証書により、藩士が自ら開作したものを
歩戻し開作と云う。
その間、藩士は空しく証券を持ち、
どうしようもないものが、もとより少なく
なかったが、又、百方苦心して、遂にその功を収め、
棒禄を増やす者が、又、非常に多かった。
かの宍戸氏のような藩は、わずかに五千石で
あったものが近世に至って一万石余に上った。
これは、自ら、歩戻し開作によって得たもので
ある。
これによって、これを見れば、藩士の開作が
多大であることは、推測して分かることである。
いわゆる地下(じげ・昇殿を許されない官人)
の人民に対しては、藩は非常に開作を自由にしたが、
農民に対しては、いわゆる、本名田の耕作に
支障がない者にだけ、初めてこれを許した。
そして、藩士と云えども、給地を得た者は、
その地域の欠損がある者に限り、その石高を
補う程度に限り、これを許す、の意が
書かれている。

中世以降、いわゆる、御馳走の開作が起こり、
これによって得る新田は、正確には、
少なくないと云えるが、これは、もとより官業の
開作に及ばないことに似ている。
官業の開作のその数は、極めて多く、その規模は、
また民業に比較すると、非常に大である。
その最も大きいものを挙げると、
寛文年中(*1661-72年)の防州・高泊の開作、
元禄年中(*1688-1708年)の三田尻の開作、
安永年中(*1772-1780年)の大浜、鶴浜
(今の中の関)、名田島の慶三開作(けいさん
かいたく・*慶安3年(1650年))などが、
これである。
撫育局の創設以後の及んでは、藩民の力を
開作に尽くす者が、益々加わり、そして、
開作のことは独り宗藩に止まらず、支藩
および岩国も又、皆、次いで、これを行った。
とりわけ、岩国の新湊の開作に至っては、
その規模は大きくて、宗藩に譲らないほどの
ものであった。
防長の石(高)数は、実にこのような企画、
方法によって、ようやく、甚大な域に至った
のであった。
往時、諸藩は皆、現品の収納で租税の本則とした。
長州藩は、また、これに同じで長州藩は、
慶長14年(1609年)、天樹公(毛利輝元)の
令条で、田租は米納とし、畠税は金納とする。
畠税は、称して石貫と云う。
その他、小物成および浮役、また、兼ねがね
金納とする。
[ 畠税は、慶長12年(*1607年)の検地から
高一石に12匁とし、貞享3年(*1686年)から
改めて10匁とした。]

田税は、米納にして、元より租税の要部を占め、
諸侯経済の基礎は米にあり、防長の地は、古来、
物産に富まず、故に、たまたま、政治家出が出て、
殖産の奨励を試みる者があったが、よく成功する者は
少なかった。
まして産米に至っては、すなわち、その特有物産で
あった。
これと相、比べられるものは、ただ肥後産があるのみで、
往時、大坂市場の標準 [いわゆる、立米。]
長州米ではないので、すなわち、肥後米であった。
二者(*すなわち、長州米と肥後米)は、常に
互いに衡(はかり)をその市場で争った。

防長の物産で、これ(*米)に次ぐものは製紙、
櫨蝋(*はぜろう)である。
製紙は、玖珂(*くが)、佐波、美祢 (*みね)などの
諸郡が、最も盛んであった。
製紙の業は、また、防長が関西第一と称する。
櫨(*はぜ)は、主として北部の地に産する。
その他、魚藍(*ぎょらん)及び製藍(*せいらん)の
ような品類は、元より少なくないと云えども、
その業は、民間の経済においても、まだ豊富とは
云えない。
したがって藩庫の経済を助けることは多くなかった。
[藍の田は畠に準じて納めさせ、漁人は海上石と
称し、海面に石高を付して、また、石貫を
納めさせる。
称して海上受運上と云い、これを撫育局に
納めさせる。
藍座の事は前章に詳細している。              
但し、漁藍の二業は、讃州 (*讃岐の国)、
芸州と比較すれば、藍は阿州 (*阿波の国) に
次ぐものである。
故に、三者とも他の諸藩に比べれば、
見るべきものではない、 ]

岩国では岩国縮を産出するが、宗藩の財政には
関係なかった。
宗藩財政の根底は、米と紙と蝋の三者にある
のみで、製紙の業は、藩費で楮(こうぞ)の苗
を人民に下付し、あるいは、楮皮を他国で
購入して、これを貸与し、あるいは、紙漉飯米と
称して製作中の食費を官給して、奨励の道を開き
吏人を発して、これを監督し、そして、
納める現品に対し適宜の価を償う。
後、官は、これを売却してその利益を藩庫に
収める。
故に、紙価が高ければ藩庫に利益があると云えども、
時として、損益は、相、償わないことは、また、
これを免れなかった。
[ 享保年間(*1716-1735年)、紙価の低落の事があり、
当時の旧記中に「御紙の直段(*値段が)年々
劣り(*下がり、)漉立の御仕入にも當り不申」
とある。]

製蝋の制度は、また、だいたい製紙と同じで、
その製法と云うのは、いわゆる、板場に送って
生蝋とする。
板場には、官設あり、私設あり、また生蝋を蓄える
官設の大倉庫がある。
正確には、紙・蝋の二者は、官の専売品である。
ただ、その法が極めて厳密であると云うこと
のみである。

往時、大坂は我国商業の中心で、諸侯のその物産を
運転し、金融を疏通するのは、主としてここであった。
関西の諸侯においては、ことに、その通りである。
長州藩においても、兼ねがね、この地に依らない
ことはなかった。
今、その財政運転の方法を考えるに、
租税の米は、士卒の棒禄に与えるものと、
藩主の自用に供するものと、売却して金にするもの
との三者に大別することが出来る。
売却するには、主として南部諸郡の米を用い、
自用および棒禄には、主として北部諸郡の米を
用いる。
売却は主として大坂においてするが、故に、
南部の米は、これを大坂に運送させるものは
多く、大坂に運送させないものは、ことごとく、
萩に運送するべきものではなく、従って、これに
与えるに米切手を使用した。
米切手は、およそ郡地の代官を指名し、その郡において
収受する米を交付させるものとした。
士卒は、およそ切手を城下の米商に譲渡して
金に換え、米商は郡地で切手を米に換える。
ただ城下の士卒で食料に供する米を要する者だけ、
その必要な額を城下の交付の切手を得て、
いわゆる庭付米の中から収受するのである。
故に、萩に運輸する米は、必ずしも、多くは
なかったのである。
萩城下に運輸するものを萩運送貢米と称し、
あるいは、御庭付と称する。
御庭付米は藩主の自用および士卒の棒禄に
与えるものの他、城下の用達に売却し、
藩積の償却に充てるものも又少なくはなかった。
運送には地勢により、陸運によるものと海運に
よるものとあり、運送の費用は、郡中で産地から
官倉までの間は、納税者の自弁とした。
万治(*1658-1660年)の制度に、六里以下 百姓自弁、
の文がある。
大坂、あるいは萩に至るものは、いわゆる、郡配当で
これを支弁、すなわち、郡費と称するべきものである。
従って運送費に関しては郡により、幾分かの、
幸、不幸があるのを免れなかった。
紙蝋は、大抵、これを大坂に運輸する。
紙蝋の運輸は、官、自らこれを為すことは当然で、
紙蝋の幾分かは、これを城下に余らせて、諸官衛、
その他、地方の需要に応じ、紙にあっては、
士卒の自用のためにこれを得ようとする者には、
低価でこれを売り下げする法があった。

宝暦8年(*1758年)の旧記によると、これより先、
藩政府から大坂に運輸するもの
[当時、(*これを)称して、大坂運送物と云う。]

米、4万石、紙、3万丸と云えども、当時になると
紙業は衰え、減って2万丸となり、(*一方)
米は増して、6万6千石となり、生蝋の業が、
新たに起こって、3千5百丸に達した。
故に増減を比較すれば、減じるもの少にして、
増す(*もの)大なり、と記されている。
以後、非常に変遷あり、と云うことを聞かないので、
紙蝋運転の大概が知られる。
[ 宝暦(*1751-1763年) 以来、6万石は自ら
大坂輸送の定額となった。
但し、時としては増運送と称し、7,8万石を
輸送し、あるいは10万石を郵送したことが
あると云う。]

大坂においては、藩邸の吏員は、この三者の運送を
受けて売却しており、その得るところで藩債の
元利償却、および江戸費用支出の資本に当てた。
[宝暦9年(*1759年)の旧記によると、
製紙の価は、年、1,700、1,800貫目で、
その800貫目は、 藩地の製紙の資本として、
これを萩に送還するのを例とする、と云う。]

三者売却の方法に至っては、まだその詳細を
知らないと云えども、米・紙とも、大坂邸内に
おいて、入札法で、これを行うのを常例とした。

[米は、後に、室積・大浜などの倉庫にあるものを
大坂で入札、購買するに至った。
そして、防長藩米の信用が大きい入札者は、
あえて、その品質、数量に疑いを挟む者は、
なかった、と云う。]

蝋の売却も又、だいたい米・紙と同じで、
米は、毎年、正月3日、紙は9日に、いわゆる、
倉開を行い、発売の式を挙げるこの日に、
来会の商人に酒肴の饗宴をなす例があり、
紙開の饗宴は、その盛りを極めた。
市の人は、これを長州の紙開と称した。
酒肴は、もとより質素であったが、
牛飲馬食(*多量に飲み食いすること。) は、
その思うところであった。
[下物は、ゴボウ、カズノコ、鰤(ブリ)等で、
ゴボウは、薪大(薪のように大きいもの)を
用いる、と云う。]

故に、人々は、爛酔(らんすい・*泥酔)し
市中のいたるところに酔倒者を見る。
市の人は、これを見て、いわゆる長州紙開の
当日を知る、と云う。
藩債の最も大なる地も又、大坂としたので、
大坂藩邸の吏員の職責は、重く、かつ、大であった。

往古、長州に銅を三士、毛利氏が最盛の時になり、
防長の石の三州は、盛んに金銀銅を出し、
その経済を助けたことは、又、文献にある。
萩城築造の費用の如きは、およそ、一の坂の
(*金銀などの)収益をこれに当てたと云うけれども、
近世に至っては絶えて、鉱業がある(*と云う)ことを
聞かない。
今、その沿革を考えるに、正確には
元和(*1615-23年)の初めに、既に非常に衰退の
状態であった。
元和7年(*1621年)、大照公(*毛利秀就)が、
三井但馬守に与える文章中、防長の鉱山の名を
見るその数は七つあり、
[蔵目木、根笠、青景、河原、賀野、俵、一の坂 ]
その文意のあるところを窺うと、当時、
官業であるもの、これを民業に移そうとするも、
(*これに)応じるものは、少なしと言う、と云う。
ただ、一の坂に関してのみ、(*その)管理能力
吏員に変更の事を言っている。
正確には、これらの諸山は、当時、官業として
(*その)収益は薄く、民業に移そうと欲するも
(*その)得失は、相、償わないところがあることを
知るに足る。
寛永9年(*1632年)、益田牛庵の手記(牛庵覚書)
によれば、牛庵が元和9年(*1623年)、
牛庵が局に当たった時に当たり、一の坂鉱山が、
己に収益を出さないのは明らかである(と、云う)。
これより以後、古記では、又、官業の鉱山の事を
記載しているものはない。
(*鉱山の)民業(*について)は、
蔵目木の名が、宝暦年間(*1751-63年)の
古記に見られる。
近世に至り、現にわずかに(*鉱山の)作業を
したことがある、と云う。
(*後)その業を継いで、近世に至ったかどうか、
中頃に絶えてまた起こったか、未だ詳細は
分からない。

往時、諸藩は皆、富豪の商売を選んで、
用達(ようたし・御用達、商人のこと)を置いた。
用達の最も大きいものを、資金を貸し与える
債主とした。
大坂は、海内の金穀の集中する所なので、
諸藩は、以前から債主をここに置かねばならず、
藩内、又は江戸、その他の各地のように、
又、用達をせざるを得なかった。
しかし、これらの多くは、特殊な便宜で、
一時の小債を繕(つくろ)うなどの事に過ぎず、
債主である用達は、財政の運転上、非常に
肝要なものである故に、諸藩とも平素、
彼を処遇すること非常に厚く棒禄を給し、
士斑に列する時、服を与え、
引見を許すなどの類 (*諸処遇)は、
収攪慰撫(しゅうらん いぶ・
人の心を上手く捉えてまとめ、慰めいたわること)
に至らない所はなかった。

長州藩の用達は、大坂にあっては、
上田・鴻池・加島などがあり、江戸にあっては三谷、
萩にあっては、熊谷・大黒屋・田村宗像などが
最大のものであった。
この中で、大黒屋は、銀札兌換(ぎんさつ だかん。
*銀貨と紙幣の引き換え)のことを任じられ、
(*これを)銀座、または判屋と称した。
熊谷・小林・宗像の三家は藩の財政を補佐して、
その功績が顕著なので、大坂用達並みの格を与えられ、
鴻池・加島と同等の待遇を受けること、世を重ねた。
この三家は、所帯方の直轄であった。
その他の用達は、町奉行の管轄に属した。
大坂用達並みの格を与えられたことにより起こった
ひとつの奇談は、この三家が藩主が見参のあるごと
に当たり、萩の地に不案内の名義をもって、
政府から士人をその家に遣わした。
(*そして)これを嚮導(きょうどう・*先立って
案内すること)して登城した。
まさしく、それ故、さらに口実を設けて、
優遇の意を示した。
石州銀山の富豪・堀氏のように毛利氏と旧故が
あったので、また、用達のひとりであった。
往時、各藩は、およそ皆、紙幣を発行して、
財政の運転を助け、あるいは、金札として
金を代表し、あるいは、銀札として銀を代表し、
あるいは、銅札米札として銅を代表した。
その制度は、元より同じではなく、信用も又、
非常に、その差があった。
紙幣発行の権利は、これを幕府に一括して
可能なように、勢いは、これに至らず、
各藩は互いに発行権を、独り占めした。
しかしながら、延宝(*1673-1880年)以前は、
まだ多く、その発行を見なかった。
これらの藩は、又、幕府に語ることなく、
密かに発行して藩内に頒布した。
正徳4年(*1714年)、幕府は令を発して、
これを禁じた時に、諸藩は紙幣を回収することは
出来ず、徳川家門の諸侯においては、(*これが)
最も多かった。
享保15年(*1730年)、幕府は更に令を発して、
依然、すでに発行したものに限り、その継続の
ことを許した。
後、禁令は、ようやく緩み、遂に各藩紙幣の制度は
なくなるに至り、長州藩もまた、
毛利就信(六郎左衛門)(もうり なりのぶ・
*長州藩の一門、家老である右田毛利家の4代目。),
が当職(*国家老・執政)である時において、
銀を代表する紙幣を発行し、これを札銀と称した。
実に延宝5年(*1677年)のことであった。
[ これより先、延宝3年(*1675年)、 ( *毛利) 就信、
当職となり、札銀発行の考案を起こし、下僚・井上某
に江戸在留の藩主・泰巌公(毛利綱広・つなひろ・
長州藩2代藩主。)の意を聞かせた。           ]
泰巌公は、すなわち、他藩の事情を探ると、
越前諸家は既に皆、紙幣を発行していた。
そして当時、毛利氏は越前家と特に親密であった
ので、井上に川越・松江・明石などの諸藩について
紙幣の制度を問わさせた。
諸藩は、皆、幕府と稟議せずに、これを
(*紙幣を)発していたことを(*井上は長州藩に)
告げた。
ここにおいて、長州藩は、またこれに倣い、
延宝5年(*1677年)に至り、幕府と稟議せずに
発行した。 ]

その(*紙幣の発行)額は、一万貫目で限りとした。
そして、これは全く不換紙幣であるのみならず、
まるで幕府の禁令に遭遇し、価格は日に日にさがり、
たちまち倍重となった。
[ 2枚で1枚の額に通用することを云う。]

また、たちまちにして十倍重となり、遂に適用
出来なくなるに至った。
士民は、このために損害を被り、政府も又、
信用を失い、止んだ。
享保15年(*1730年)、幕府が緩禁の令を発すると
長州藩は、さらに札遺仕法を発布し、札銀を分けて
2分・3分・4分・5分・1匁・2匁・3匁・4匁・
5匁・10匁の10種とし、銭は1分9厘以下を
限りとし、そして、前年の過失を挽回しようとして
金銀は、全くその通用を禁じて、萩城を下に
2・3ヶ所の諸郡に7ヶ所の札座を置いて、
正銀は札銀を買おうとするものには、これを売り、
他国に旅行し、または、他国に物品の代価を送ろうと
するような必要あるもののためには、特に正銀を
売った。
[正銀で札銀を買うには、正銀100目に対し、
札銀101匁を与え、札銀で正銀を買うには、
札銀102枚で正銀100目に換算した。]

士卒に対しては、別に貸札と称して、
100石に500目の札銀を貸与して10年賦で
禄米の中においてこれを償却させ、
敢えて(*利) 息を徴収せず、だが、
人、既に彼の倍重の(*紙) 幣に懲りて、
未だ遂に、これを信じなかった。

ここにおいてか、藩は自らに利がないと覚り、
明年に至って、萩の富商10人を選んで、
札座を管轄させて、民心をつなぎ、さらに
所帯方の使用、および士卒貸付の札銀3,350貫目
に対し、1万5千石の引当米を置き、
年・335貫目に相当する米石を札座に交付し、
10年で、すべて消札とする制度を設けた。
又別に札銀1,150貫目を札座に備え、これを
一般の要として、必要に応じた。
これより先、発行の札銀の総額は、6,300余貫目に
上った。
この時、その1,800余貫目を焼棄する。
このようにして、発行の法はいよいよ整備をするに
至るも、まだ信用を博するには至らず、
流通時に思うようにならないことがあった。
その流通期限は、始めに、これを定めて25年と
するも、期限が満つるごとにこれを延期し、
遂に永遠の制度となった。
兌換(*紙幣との引き換え)の法を整えてから
兌換は時価による制度としたにもかかわらず、
(*その)信用は、ようやくその間に発達し、
後、遂に内海・諸港および大坂の商売間において、
なお、その流用を見るに至った。
[ これを古老に聞くと、近世の実験によれば、
長州藩の紙幣の発行額・250万両で、その幾分かは
常に藩外にあり、毎年の兌換学は8,000両で、
事が足りた。また、維新前、多事の事の際に増発
した紙幣の額は、50万両であると云う。]

かつ、四境に兵を構えるときに当たっても、
戦に勝って其地に入れば、藩札が流通することは、
内外、少しもその価格を異にしなかったと云う。

[ 維新前、藩札は金1両、普通の対価・75匁にして
時に多少の高低があっても70匁に上がらず、
80匁に下がらず、但し、戦争中のように、かつて
45匁に暴騰し、107、8匁暴落したことがあるのも、
これは一時の現象で、大抵、兌換の作用により、
通常、平常を保ったと云う。
兌換には、よく気づかいをし、信用を落とさない
ように努め、たとえ、準備金の欠乏があっても、
よく虚勢を張り、四境戦の際のように、一方には
頻繁に兌換を行い、一方には多額の増発をするような
ものであった。
兌換の事務は、萩の大黒屋にこれを担任させ、
店頭に札見の手代がいて、真実を検証した。
兌換には毎月数回、一定の期日があり、人民で
兌換をしたいものは、予め願書を出し、
その需要の理由を述べる。
期日になると、政府から検使、および属官が
大黒屋に来て、願書を並べ、札見の手代、2,3名が
これに参加して兌換を行った。
贋札があれば、これを切断した。
兌換は必ずしも出願の額を、ことごとく皆、
行うのではなく、官の便宜により、あるいは数百両、
あるいは数千両、これを行い、かつ金をもってするのも
銀をもってするのも、また、官の便宜とした。
兌換の金銀は、出願者の協議でこれを分配した。
兌換の金は、期日ごとに検使がこれを政府のなかの
銀子方から多く来た。
兌換の価格は後世になっては札の時価を標準とし、
そして、1両につき前日の両替相場から
札3分下げとした。
例えば、前日の札相場1両に対し75匁であれば、
74匁7分に対し1両を与えられた。
札の時価は、萩市中に、いわゆる両替屋30戸ばかり
あって、頭取がいてこれを総括し、各戸の代表者が
日々集会して、札売買の相場を定めたことは、
米相場とよく似ていた。
両替屋の両替は時価の他、1両につき手数料5文を
収めた。
○ 大黒屋は、いわゆる札包を行う。
札包は、札の種類により数種類あった。
500目包が多かった。
金銀も又、これを包んだ。
例えば、1朱銀は25両に、2分金は百両に包む
類である。
大黒屋はこれを包み、これに捺印するので、
通常、判屋と称した。
諸々の上納は、全て札をもってさせた。
札は主として大黒屋包で行った。
包みは、半紙2枚で包、これに捺印した。
大黒屋で他人の為に包を行うには、包ごとに
わずかな包賃を収めた。
正確には、大黒屋包は封のまま流通するので
大いに手数の減少があり、よって、
この事があったのである。
○ 両替屋は、文化8年(*1811年)に始まる。
以前の兌換法は少し異なり、両替営業は、
官の免許を受ける者に限り、自然、いわゆる
株となり、新たに両替屋になろうとする者は、
旧・営業者の株を譲受するのを慣例とした、
と云う。

往時、長州藩では修補金穀が設けられていた。
修補とは、予算の不足、あるいは、予算外の支出が
生じたとき、これを補填することを云い、
これが財源に備えてあるものを修補金穀と称した。
この制度は正確には、寛永年間(*1624-1643年)、
山内広通(縫殿・*通称、采女)が創ったと云う。
当時、その財源に充てられたものは詳細ではないが、
旧記によると、あるいは、諸官衛の不要の小物品を
集めて、これを別途に保存し、あるいは又、
その他の雑収入とも称すべきもの、もしくは、
小支出の不用に属するものなどを収集して、
これを引除銀と称し、等しく、これを別途に保存
されたのを、(*旧記に)見ることが出来る。
[ 例えば、入石三分一。
これは後には、撫育資本に移されたもの。
病者・幼者出米の増加。
これも後に、撫育資本に移されたもの。
又、例えば、軽卒の施役に赴く者が、任務所で
扶持米を与えるをもって、藩地において、
与えるべき扶持米の不用となった者、の類である。]

このように別途資金の類は、当初の記録によれば、
あるいは士卒馳走の軽減を図り、あるいは
宝蔵の貯金の増加の目的があったことは、
間々、散見するところである。
これによって、これを見れば、修補金の元資は、
正確には、その初め、これらの財源を充用しようと
したものである。
後、この元資を適宜に運転して、その増殖を図り、
やむを得ない費途に供するに至った。
これより諸官衛、また次第にその方法を模倣し、
ひいては郡町村に及び、士卒の各支配所に
置米、置銀があった。
郡に修補金穀あり、町村に町村金穀あり、このために
特別資金の小経済は到る所で行われ、後、
この資金を増殖することが急がれると、特に関係者、
あるいは人民に特別の賦課を命じ、又、数々の低利の
金を他に借りて、これを運転してその中間の利益を
収めた。
そして、各官衛においては、これらの事務の煩雑さが
極めるに従い、古来の定員以外に数多の属吏などを
使用し、経費はますます増加せざるを得ないことに
なった。
顧みて士民がどうであるかを察すると、
借入が容易であることを見ると、ひとりでに過借して
その償却に苦しみ、一家を蕩尽(*財産を使い果たす)し、
陸続 踵を接する(世間にこの様な事件が続くこと)に
至った。
(修補金は、)玉石混合し、利害、相交わり、遂には害、
多くして、利、少なきに陥った。
これにおいてか、当初、山内広通が公明・親切の
心をもって施設したものは、反って、
類を跡に宿すものとなり、忠正公(*毛利敬親)の
世になってからは、弊政(*悪政)改革中の
一大問題であることになった。

往時、長州藩の貯穀は非常に多く、遡って
その起源を知るに、天樹公(毛利輝元)の
黒印書中に防衛として防長に五千石可引當事、
と見える。
しかも藩初、早々の際、未だ実地に何らの施設
ありしや、を詳細にしていない。
益田牛庵が執政の時にあり、貯穀の設けが
あったが、また未だにその詳細をしることが
出来ない。
時は過ぎ、山内縫殿の執政の時に至り、
大いに力をこれに用いたことを見る。
当時、この貯穀を称して、御用心米と云う。
正確には、凶荒不時の要に備えたものである。
[ 当時の旧記に、御用心米入替に充つる為め、
元文元年(*1736年)より漸次に三万石を徴収
するの方法を設け、既に集る所8,670石余に及ぶ。
又、新に貯穀倉庫を12個所に建設せり、とのことが
見える。]

その長州の法のように、今、詳細に出来ないと
云えども、一旦、徴収するところは、年々、順次、
その幾分かを民に貸与し、秋になって、新穀を
入れさせたようである。
[ この入替米の貸付から生じる収利は、後に、
これは、初めて撫育資金に入った。]
撫育局の創立の際、坂 時存が建議中に用心米を
米の事を論じたのは、すなわち、この貯穀を
示したものである。
この他、寛政御手当囲米と称するものがあり、
(*これは)寛政年間(*1789-1800年)、
幕命により設けたものであり、
あるいは、寛政御手当囲米と称する。
(*又)、凶年手当囲米と称し、
文政年間(*1818-1829年)に設けたものがある。
あるいは、五合出米囲米と称するものがあり、
文化年間(*1804-1817年)中、嘗て石別五升の
馳走米の中、五濠を割き貯蓄するものがある。
一合囲と称するのは、石別合を徴収して
蓄えたものである。
入替米御囲があり、新入替米もある。
この他、なお数種あり、その名が異なるものは、
その実、まだ同じではない。
凶荒、軍事の事変の不時に備えるものである。
その起源、および収納の法は、今、全て、
詳細に出来ないが、異船手当囲米は自ら軍用に備え、
荒年手当囲米が凶年飢年に備えるように、およそ
その名称によって、これを知ることが出来る。
別に社蔵の設置があり、(*これは)
天保13年(1842年)に設けられたものである。
これらの貯穀をしている間、(*これは)
正租の中から分置するものがあるべきであるが、
多くの人民から臨時に徴収されるものがあるように、
官有に属するものがあった。
(*また)官民有の分界は、明白でないものもある。
貯穀は各地の僧度に貯え、年毎に代官がこれを
検閲し、かつ、藩主がまた目付役をして、
これを検査させる。
(*これは)5年、7年に必ず1回行われた。
(*これらは)皆、本部の監督の下にあり、
この他、撫育局所属の貯蔵の倉庫が10個所あり、
これを御撫育倉と称した。
初め貯穀は、およそ米囲であったが、
忠正公(*毛利敬親)の時になると、
天保年間(*1830-1844年)に、(*忠正公は)
村田清風籾囲の法を蕃士・柴田某(*なにがし)に
学んで、その法を奨励したため、
およそ十分の七は、籾囲となったが、
以来、貯穀の入替は非常にその数が減少したと云う。
防長の貯穀の法は、その間、あるいはその可否は、
(*その)得失を論じるべきものであろう。
そして、後世、藩士が多事の日に当たり、
よく非常に備えて、人意を強くする功があるのか
を知る必要がある。
[ 貯穀は年々増貯するのを法とする、とある。
(*しかし)あるいは、そうでないものもあり、
一旦事変に遭遇して支出すれば、自ら減少、
もしくは皆無に帰すことがあるのは自然の理
である。
故に、古来、(*貯穀を)設けると、消滅に帰した
ものもある。
現に民政に精通している故老に、これを質問すると、
いわゆる御用心米のようなものは、近世、あえて、
その名を聞いたことがないと云う。
正確には、近世は既に皆無に帰している。
安政4年(*1867年)の古記録によれば、当時、
政府の管轄に属する貯穀は、
寛政囲は、9,235石2斗7升5合、
天保(13年)囲は10,158石8斗2合5勺、
異船手当囲は500石、凶年囲は 2万石、
撫育囲は22万石 で、合計59,894石余であると云う。
しかし、これは大抵、籾であるようである。
廃藩の際、官有と見るべき囲籾は、
藩主から人民に賜与したものは5万石と云う。]

ここに江戸麻布の穴倉貯蔵金の事を付記する。
麻布龍土町藩邸の一と像の床下に石畳がある。
その中に一個の木製櫃(もくせいびつ)がある。
(*その)構造は極めて堅牢で、櫃のなかに
さらに一つの銅製函が置き盛ってあり、
古金が数種あった。
近世、検算するところによれば、
古金は6万両、および天保・嘉永・安政間の
新金1万7,8千両と云う。
その創置の年代は詳細ではないが、古金中、
享保・元文・文政金が多く、これを推測すれば、
元和以降の創設になることは明らかである。
この蔵金は、藩地宝蔵金とその性質を同じである
と云えども、監護(*監督保護)は、更に厳密で、
国家急ありと云えども、未だかつて、これを
発せず、7年に1回、その有無も検査し、
慎重秘密で、4.5人の吏員の他にはこれを知らせず、
その畜債の法である侯家の献酬(けんしゅう・
*酒を飲み 交わすこと)贈遺(ぞうい・贈物)の剰余、
その他、零砕(れいさい・*極めて少ない)物件の
廃棄に帰すべきものを金に換え、積でもって、
ここに達したのである。

(*次回、歴史の流れ 防長回天史を読む 11
第十章 毛利氏の兵備(其一) 陸軍) に続く)


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