歴史の流れ 防長回天史を読む11 第十章 毛利氏の兵備(其一)陸軍

歴史の流れ 防長回天史を読む11

[ ] は、原文の注釈で、
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

●第十章 毛利氏の兵備(其一)陸軍

緒論
○大江氏の兵学
○先師語伝
○兵器の沿革
○郡司家の鋳張術
○元和以降の軍制
○長崎手当
○城下手当
○北浦手当

維新以前の諸藩の兵備は、陸軍と云えども、
その規模、その編成、その訓練から、その武器の
装置に至るまで、ひとつとして粗雑でないことは
ない。
ましてや、海軍においては、当然であるが、
足利(* 時代の)末期、および織田・豊臣の二氏の
世にあっては、英雄割拠、たがいにその勝負を
争う。
その間、作戦用兵は、各家は各々、その術(すべ)
を極め、粲然(さんぜん・*光り輝く)として
見るべきものは、少なくはなかった。
毛利(*氏)についても、ことに、そうであった。
大江氏は、初め、世々、文学を以て名 ( *声 ) が
あり、傍ら、兵書に通じていた。
当時は未だ、兵学・武芸を兼ね修め、
これを専門とするものはいなかった。
故に、将士(*将校と兵士)が出て、
戦争につく者は皆、その教えを継承し、歴史に
云われるところの大江維時(おおえの これとき。
*平安時代の貴族、学者)
張 子房(*張 良(ちょう りょう。字が子房。
中国、蓁末期から前漢初期の政治家・軍師 ) の
兵書を得て、
これを六孫王経基(ろくそんおう つねもと・
*源 経基(みなもと の つねもと)のこと。
平安時代中期の皇族・武将)に授けた。
(*時代が下り) 大江 匡房(おおえ の まさふさ)
の時になると、また、これを
源 義家(みなもと の よしいえ。
平安時代後期の武将)
に授けると(*あるが)、その事は、未だ、
詳細が分からないが、
(*大江 )匡房の兵書と称するものを世の兵学家は、
往々、これを秘蔵する者がいた。
書中(*この書の文中)は、往々、奇警(きけい・
*奇抜で並はずれて いること)の語があり、
伝来のもののようである。
大江広元(おおえ ひろもと。* 平安末期から
鎌倉初期 にかけての朝臣)の時代になると、
源 頼朝の帷幄(いあく・*軍事 に関する事項を
君主に対して上奏する)に参じて大いに功があった。
しかし、その身(*内容)は、未だ敢えて、
兵馬・駆逐(くちく・*車馬で追いかける)の
任に当たらず、その画策するところは、むしろ
対局にわたり、形勢を制する計略であって、
未だもって、兵機、軍略と云うものではなかった。
(*大江広元の)その子・季光(*毛利 季光
(もうり すえみつ)、相模国毛利庄
(現・神奈川県厚木市)を基盤として、
毛利姓を名乗る。)
は、初めて純然たる武人となる。
それ以来、奕世(えきせい・*代々)
出ては、戦争に従い、入っては武事を修めて、
非常に心を作戦に用いる。
しかし、家は、なお小さく、顕れず、
洞春公・(*毛利)元就の時代になり、遂に
一大生面(せいめん・*新しい方面)を開き、
兵、強く、国、大いに、殆ど一世を
揺れ動かした。

小早川隆景は、以前、自ら軍国の日記を記し、
父兄の遺訓を筆っするもの少なくなく、
しかも、その亡くなる日、家人に遺言をして、
全てこれを焼かせた。
毛利氏の兵術は、従って、その詳細を
知ることを出来ない。
しかし、当時、(*毛利)元就・元春・隆景の
三公らに従って久しく干戈(かんか・*戦争)
の間に、役々(*えきえき・努力)する者は、
ようやく、(*これを)悟り、
(*その日記・兵術を)後に伝える者は、又、
少なくはなかった。
(*そして)後世のひとは、(*日記)を集めて
一書とし、名付けて、先師語伝と云う。
(*その)書の中で記載されているのは、
治兵、用間(*情報収集)、出師(*出兵)、行軍、
戦闘、駐営、築城、軍規、軍令らの要点であった。
毛利氏の兵を談じるにおいて、非常に
信用できる師を排出しようとするには、
まず軍神を祭り願文を納め、そして、諸将を
神前に誓わせて軍令を示し、後、進発させた。
その行軍・序列は、物見武者・二騎、足軽5人を
これに添えた。
これを先頭とする。
今の、いわゆる探兵である。
次に、鉄砲物頭・二騎、足軽・二組をこれに
添える。
[ 一組を100名とした。以下、同じ。]

次に幟(のぼり)物頭・二騎、旗指・二組を
これに添える。
次に騎馬武者・一組 [ 一組は25騎から30騎 ]を
先鋒の一団とする。
今の、いわゆる前衛隊である。

次に鉄砲隊、次に弓隊、
次に長柄 (*柄の長い武器 )隊、次に馬印、
次に金鼓、次に持槍、次に従者、次に総大将、
次に乗馬 [ 総大将の乗馬 ] 、
次に乗掛諸役人[ 文史、参謀、会計、馬医、陣僧、
諸員 ] 、次に小荷駄、次に歩荷、次に工具人夫、
次に治工人夫、これを中堅の一団とする。
今の、いわゆる本隊である。
次に後払、次に長柄隊、次に弓隊、次に鉄砲隊、
これを後殿の一団とする。
今の、いわゆる後衛隊である。
途上の縦隊は、二列を例とし、道が狭小であれば
一列とする。
当時の戦闘準備隊形は、これを先中後の三陣に
分けて、さらに三陣を分けて
前駆(せんぐ・*さきばらい)、請槍、
左横・槍、右横・槍、後駆の五隊とする。
その数を五にするものは五行の数に象(かたど)る
と云う。
およそ兵は、一度、これを動かせば、輜重(しちょう・
兵糧)の運搬、軍費の供給は、容易ではなく、
民はこのために困厄することがまた、極めて多い。
それ故に、毛利氏は、その境を守り、もしくは、
この隣の敵と争うには全軍の定員を6万として、
出兵が、程遠ければ、すなわちその一半を減少して
3万で事に従う。
従って、各部隊の人員は変更せざるを得ない。

毛利氏が兵を行うには、いわゆる前駆(*さきばらい)
は、最先の軽兵で、その任は、率先して敵に近づき
遠戦 [ いわゆる遠攻合 ] を開始し、敵の衆寡動静を
察して機に応じて、軽く退くことである。
これをもって前駆は、多く弓手・銃手で、これ入力
充当する。

請槍は、前駆の後勁(こうけい・*後詰めの精鋭部隊)
である。
その任務は、敵軍の突進が我に迫るに及び、
前駆を収容して、自ら、これに代わり、敵に相、
当たることである。
故に、請槍は特令がなければ、退却することが
許されず、必ず殊死敢戦(しゅし かんせん・
*死を覚悟して戦うこと)して、後方の諸部隊が来て
戦線上に加わる準備時間を作らなければならない。
これにより、請槍は最も精鋭な士を要する。

左右横・槍は、先陣の両翼で、その任務は、
我が(*部隊の)左右両側を防御し、機に乗じて
敵の両翼を衝くことにある。
しかし、遠距離の迂回行動は、この隊の任務
ではない。

後駆は、先陣中の予備隊である。
その任務は、時機を察して前方の戦線上に進み、
敵と相、当たり、中陣がその攻撃点を選定し、
その行動を行う時間を取ることにあり、
中陣は、すなわち大将の麾下(きか・*直属)で、
全軍の精鋭は、ここにある。
あるいは、これ(*全軍)を挙げて先陣と共に、
戦線上に加わり、
あるいは、攻撃点を他に選び、その方向に前進し、
あるいは、敵に敗れれば、直前に進撃するなど、
ひとえに先陣の戦況による。
後陣は、すなわち先中・二陣の戦況に応じて、
臨機(*応変)の任務に当たらせる。
ただ、この様な作戦術があると云えども、
時勢(*により)大きく変わり、
大小銃砲、蒸気巨艦を攻戦の用具のする世に
なっては、また、多く、その利は見られない。
ましてや、その事は既に普通の兵学者によって
書上の(*机上の)空論となり、趙括の兵法
(*生兵法は大怪我のもと,の例えとなった人物の兵法)
と一般的になるに及んでは。
忠正公(*毛利敬親)の世になり、殊に心を
兵制改革に労したのは、このためであった。
試しに往時に用いた兵器の類を列記すれば、
攻具は、すなわち、石火矢、鉄砲、
弓箭(きょうせん・*弓と矢)、長柄、刀剣の五種で、
防具は、すなわち、盾、竹束、甲冑の類で
あったが、いわゆる銃砲もその製(*品)は、
極めて粗雑で命中も確かではなかった。
しかも、敵を(*部隊から)百歩、外に残そう
とするに至っては、弓箭が優れていることには
論議の余地がなかった。
故に火器を備えることが、ますます多くなり、
その兵側、ますます精鋭になることは、当時に
おいても既に、名将の認めるところであった。
当時の小銃は、いわゆる火索打ち(*火打石で
打ち出す)であることは無論なので、
雨中での用は、為さなかった。
故に、弓箭は遠戦の予備、および近戦の
(*器)具として、これを除くことはなかった。
行軍の序列中に鉄砲、足軽に次ぐ弓足軽を
(*配備)するのは、このためである。
接戦の兵器は、刀、槍の類で、騎馬武者の
吶減馳突(とっかん ちとつ・* 勢いよく突進する)
は、接戦の最後の時期に行うので、常に各隊の
背後に位置している。

火器が毛利氏に伝わるのは、厳島の役・
(*弘治元年(1555年)毛利元就と陶 晴賢
(すえ はるかた)との戦い。
村上水軍が毛利軍に加勢し毛利軍が勝利 )
三島海賊が初めて毛利氏に帰服 (きふく・
*支配下に入る)した時にある。

洞春公(*毛利元就)の臣下に郡司信久がいた。
いわゆる、鋳張(いばり・*鋳物師)の職に
当たる。(*隆安流砲術家でもあった。)
(*そして郡司信久)の子・信安の鋳張の技は
父に優っていた。
(*後)父子は相継ぎ、大砲・数十門を造る。
(*後)その子孫は、世々、その業を継ぎ、
後、分かれて五家となると云う。
思うに火器の術は、士人の修めるべき余技として
必ずしも軽蔑されたのではない。
毛利家にあっても、豊浦参議・(*毛利)秀元は、
以前に、この技を稲富某(なにがし)に学び、
(*稲富流砲術のことで、稲富祐直(すけなお)か、
それに近い人物と推測できる。)
これを井原、加賀に伝えたことがある。

(*羽柴)久留米侍従・(*毛利)秀包(ひでかね)は、
征韓の役(*天正20年(1592年)から始まる
文禄・慶長の役のこと)に、雨夜の手拍子[銃の名]
で敵を倒したことがあり、これを見るべきである。
まさにこの通りで、そして(*火器は)等しく
飛射物であり、弓箭(きょうせん・*弓と矢)
では、これを見ることは、刀(*と)箭に
異(こと)ならない。
甚(はなはだ)しいのは、武人の家を称して
弓馬の家と云い、良将を賛美するのに、
弓取りと称することである。
しかし、正確にこれを言えば、火器は、
恐らく士人たるもので、これを隊伍の正装として
軍に従うことを恥じて、僅かに、これを
足軽の所用とし、鉄砲隊は、すなわち足軽組の
専門であるとする、ことになったのである。
これは、後来(こうらい。こののち)、
最も諸藩の兵制改革の障害となり、銃隊の編成に
困難を感じさせた所以(ゆえん)で、
毛利氏と云えども、また、これを免れることは
なかった。

(*武人は、)武夫養成の法(*武家法の事か?)
の時代に、また、由来するところがあった。
源平(*時代)以後、武人は、ようやく威力を
示せるようになったと云えども、
応仁(*期)以前にあっては、地頭、城主の家臣
である者は、なお、半兵半農で、何か事があれば、
出て、(*農業で使用する馬を)
戎馬(じゅうば・*軍馬)とし、
事がなければ、入りて稼穡(かしょく・*農業に
従事する)古い制度と殆ど、異ならなかった。
足利時代の末期になると、群雄割拠して、
将軍はこれを制することが出来ず、
七道(*五畿七道で、七道は、東海道・東山道・
北陸道・山陽道・山陰道、南海道・西海道のこと)
の内、殆ど、戦のない地はなかった。
諸侯の家臣は、甲(かぶと)を脱いで、甲冑を解き、
農業を勧めようとするも、どうしても出来なかった。
ここにおいてか、兵と農は、ようやく分かれる。

毛利氏の時代になっても、また、このようで、
そして士は殆ど世を重ね、その主(*人)に仕え、
その班次(はんじ・*ここでは、家臣の位・階級)は、
殆ど戦功の上下によって、
その主(*人)が、これを定めて、一度、定まれば、
抜群の功労がなければ容易に、(*これを)
変えることは出来なかった。
ここにおいてか、ようやく世襲の班次が生じた。
毛利氏と云えども、また、大同小異である
洞春公(*毛利元就)の世、戦功で士卒の班次を
定めるのを例とした。
故に、功があれば班次が高く、なければ、
班次が低かった。
これにより、士卒は皆、戦いに臨み、功を立てる
ことを願い、農業をしなかった。
勢いは、このようにして士卒の階級は、ようやく
成って、以来、次第に世襲の状態に馴れた。

士卒の区別は、一門六家、益福(*益田家・福原家)
両国老、寄組、大組、遠近付などの諸士、および
その手兵、無給通、徒士、三十人役、準士、軽率、
軍医、馬医、陣僧膳夫、などが、これである。
大組は、馬廻士の千人で成り、またこれを八部に
分ける。
故に、又、八組と称する。
一組ごとに組頭、一人を置き、一門、あるいは
家老をこれに当て、時としては、寄組の士を
選抜してこれに代わらせ、称して指揮役と云う。
別に、船手両組および大小船頭があり、水軍の
事務に服した。
もしも、これ(*指揮役)が、寄組の中で、
手廻頭、大組頭のその地に登用され、また、
八組の中で大組番頭、旗奉行、槍奉行、母衣使番、
手廻物頭、先手物頭の類に抜擢される者があれば、
当時、これは栄誉とされた。
遠近付諸士は、皆、八組の士及ばないが、等しく、
また、その中に列した。
戦時に際しては、異常の諸班を真の戦闘員とする。
無給通は、劣等の士、三十人役以下は、準士とする。
無給通は戦時にあっては、輜重(しちょう・
*前線に輸送、補給する兵糧、被服、武器、弾薬などの
軍需品の総称)の護衛に従事することを任務とする。
その総頭には八組の士で、これに充てる。
徒士は、徒歩の賤士(せんし・*身分的に最下層に
置かれた者)で、その総頭は、等しく八組の士を
これに充てた。

軽率は種別があり、云うところの弓足、
云うところの鉄砲足軽、のこれであり、
25人で一組として、組ごとに足軽大将を置く。
また、八組の士をこれに充てる。
士卒の班次、および区分は、おおよそ、
このようである。
そして、一朝ことあれば、すなわち直ちに
これをもって、軍人のことに従う、の意に
なるのである。
ただ太平の余波と世襲の影響で士人は、
次第に実用を忘れ、活気を失なって、
文化文政(*の世)に、及んだのである。
(*しかし)この間と云えども、
元和以降、二百余年経って、事変が
なかったと云うことではない。
また、武備の整理、武芸の奨励がなかったと
云うことではない。
寛永年間(*1624-1643)には、島原の乱があり、
関西の諸侯は、少し(*島原の乱)の前後、
軍に従う。
毛利氏も、また戦争の準備をしたが、
出兵しない内に(*島原の乱は)止んだ。
わずかに、乃美元宣(豊後守)、国司就正(下総守)
の二人が、わずか20余人を従えて行き、
主将・板倉氏の軍に加わり、戦い、功があった
だけであった。

正保4年(*1647年)、咬瑠吧(バタビア)船
[現在の爪哇(ジャワ、インドネシア共和国)] が、
我が長崎港に来て、停泊すると幕命があり、
肥前の鍋島氏、筑前の黒田氏、および毛利氏に
戦闘準備をさせた。
大照公(毛利秀就)は、すなわち毛利元任(志摩)、
益田就固(修理)(*重臣。寄組問田益田氏の二代。)
らを長崎手当にさせて、また、
(*戦闘準備をさせるも)未だ、兵を送らずに済んだ。
これを異船手当の始めとする。
手当とは、準備、もしくは警備のことを云う。
慶安2年(*1649年)、外国船が又来て、長崎港に
停泊する。
公(*毛利秀就)は、吉川広正(美濃)
(*きっかわ ひろまさ・岩国領第2代領主)、
毛利就信(宮内)(*一門家老、吉敷毛利家の4代)、
益田就宜(越中)(*永代家老・須佐領主益田家の3代)
ら、に戦争の準備をさせる。
当時の準備は非常に簡単で、兵員は僅かに
騎士 200、軽率は、200を越えなかった。
(*時代は下って)承応2年(*1647年)になり、
泰巌公(毛利綱広・つなひろ・長州藩2代藩主。)は、
特に兵を城下に置いて、外冦(がいこう・外国から
攻め込んくる敵)の不意に備えた。
いわゆる、城下手当が、これである。

これより以降、外(*国)船が、往々、長州の
瀕海(ひんかい・臨海)に出没するものが
あったが、未だ、かつて生じることはなかった。
民心は、また従って安心し、
享保年間(*1716-1735)になり、外国船がまた、
度々、西海に出没して密貿易を試みる。
幕府は、すなわち、わが長州藩および福岡・小倉の
三藩に命じて協力して掃攘(*はらいのけること)に
従事させる。
馬関付近は、長州・毛利氏の領土で、長州藩主として
掃攘の任に当たる
宗藩主・泰桓公(*毛利吉元。長州藩・5代藩主)は、
また児玉広恒(外記)、村上元敬(図書)
(*長州藩一門・家老・吉敷毛利家の4代。) らに
命じて、兵 1,600余人を率いて馬関に行き、
応援させる。
当時の外国船は、すなわち、称して異船と云うもの、
そして峩艦巨舶(がかん きょはく。大きな船)で、
我らが臨(いど)めるものではない。
正確には、支那船(*原文ママ)が来て密貿易を図り、
我が海賊船がこれに応じた。
(*志那の表現について。
語源に差別の要素はないのですが、日本と中国との
戦争中に、日本人が悪感情で使用したため、
現在は使用されることは殆どありません。
しかし、ここは、原文を尊重し、「原文ママ」と
表記しました。)

幕府の意は、これらを禁止するに過ぎなかった。
[ 当時、密貿易を称して俗に、バパンと云う。
まさしく八幡の支那音(*原文ママ)である。 
海賊船は、およそ八幡大菩薩の名号を書いた
旗幟(きし・*旗印)を建てる。             
これより次第に転訛(てんか・語の本来の音が
なまって変化すること)して、この名になったと
云う。]

故に、これらのことは皆、まだ毛利氏の兵制、
兵気に影響することは、なかった。
泰桓公(*毛利吉元)が、明倫館を起こすと、
大いに文武の教えが興る。
当時、兵学家においては、吉田矩行(十郎左衛門)、
弓術家においては、粟屋 某(弾蔵)、
撃剣家においては、平岡 某 (弥左衛門)、
槍術家においては、岡部 某(半右衛門)らが、
もっとも顕著で、皆、これらは師範であった。
一時、藩は、これらの勢力になびくような
風潮があった。

士気の鼓舞、作興(さこう・盛んにすること)に
おいて、(*兵学は)大変、有益なことであった
ことは、疑いがない。
何となれば、その講じるところは、山鹿、北條、
山本ら諸流の兵書に過ぎず、その修めるところは、
弓、馬、刀、槍の末技に過ぎず、軍旅の編成、
隊伍の操練のように、これ以外、顧みず、ましてや
銃陣の制度においては、これを要するに実践の用意は
殆どこれを忘れたもののようである。
しかしながら、これは、独り、毛利氏のみならず、
諸藩も悉く、このようなものであった。
(*時代は)降り、寛政年間(1789-1801年)に
及んで、国境の警備をしきりに行う幕府は、
前後、諸侯に令するところがあって、
外国の船舶を待つ法を示すと共に、
大いに防備の術を講じさせ、遂に沿海諸侯の
参勤には、(*その路を)海上に取り、
一方では、航海の術を修めさせ、狩猟に臨んでは
士卒を操練する手段を取らさせた。
ここにおいてか、列藩諸侯は、また、ようやく
みるところがあり、遂に武備を修め、特に
沿海の諸侯に至っては、望楼(*ぼうろう・
遠くを見渡すためのやぐら)を起こし、
煙台(*のろしを上げる台)を築いて、
外敵の不時の備えを行った。
しかしながら、警報が一度(ひとたび)去った後は、
依然として、また、依然の状態に戻った。

既に文化元年(*1804年)になると、
長州藩は幕命により、長崎に不時の出兵の準備を
行う。
これを長崎手当と云う。
その隊伍の編成は、かつて徳川家光が寛永10年
(*1633年)に規定する軍役規則に基づき、
100石に2人3分の比例で、出張の人数を8,496人
として、これを一の先手、二の先手、前備右備、
旗下備、左備、後備の七隊に分けて、
船手両組を予め出船の準備をさせた。
これより後、露英(ロシア、イギリス)の軍艦が
この年、西海に出没し、長門北岸の地に動きがあれば、
外人の襲撃を見ようとする感があった。
毛利氏は、すなわち、急に北海沿岸の各所に望楼を
起こし(置き)、守兵を置き、また、高地を選んで、
狼烟台(のろしだい)を20余設けて、外人が
一度(ひとたび)来れば、狼煙(のろし)を上げて、
急を四方に伝えて、不慮に応じる用意とした。
これを北浦手当と云う。
当時、また、各寺院、仏閣に令を出し、
外船が来ることがあれば、鼓鐘(しょうこ・
*かねと、たいこ)連打して、広く諸民に知らせて、
これが、(*かえって)、警戒を怠せることになった。
これより以降、毛利氏においては、長崎手当、
城下手当、北浦手当の三者(*三種類)あり、
士人に不時の命(*令)を待たせた。
しかし、当時のいわゆる手当は、未だ隊伍、武器の
進歩を見ることに至らず、そのこれ(*進歩)が
あるのは、神、器陣の編成(*陣形)に始まる。

(*次回、歴史の流れ 防長回天史を読む 12
第十一章 毛利氏の兵備(其一) 水軍) に続く)

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