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zoom RSS 歴史の流れ 防長回天史を読む12 第十一章 毛利氏の兵備(其二)水軍

<<   作成日時 : 2018/11/28 19:38   >>

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歴史の流れ 防長回天史を読む12

[ ] は、原文の注釈で、
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

●第十一章 毛利氏の兵備(其二)水軍

維新前の水軍
○海賊
○能島 来島 因島
○船艦の構造と航海の技術
○毛利氏の水軍
○征韓時代の水軍
○削封以後の毛利氏の水軍
○旧水軍の衰廃

往時、我国の水軍の呼称は、あったが、
海軍の呼称は、なかった。
かつ、陸戦に優れて、海戦では、そうでなかった。
まさしく、(*その)士気は、海戦に適していない
訳ではなかった。
(*それは)戦艦の構造、兵器の装置がよくなかった
ためである。
維新以前、各藩の水軍も見るべきものがなかった。
毛利氏の場合も、またこの通り慣習の外に
出ることが出来なかったけれども、
数百年以来、いや、古今を通じて常に維新前の
ようなものであった。
そして、我が水軍の盛りは、足利の中葉以後、
いわゆる、倭寇(わこう・*朝鮮半島や中国大陸の
沿岸部や一部内陸、および東アジア諸地域で
活動した中国・朝鮮側から見た海賊)、
最盛の時にあった。
この時に当たり、船艦の構造や航海の技術を
百余年前の西洋諸国と比較すると、
まだ遜色があることが見られる。
(*だが)その勇敢・冒険の気性に至っては、
まさしく世界に秀でていた。
当時、いわゆる海賊は、党を結び、群をなして、
島影、もしくは海瀕(かいひん・海に面する)
の恰好の地に城を築き、兵を擁した。
特に、内海およびその周囲に多かった。
その内、規律・体裁がようやく整ったものは、
依然として、陸上の諸侯と比較して、往々にして、
官職を受けて、これを官用に用いることがあった。
諸侯に対して、彼らは相、結託して、戦役に従う
ものがあった。
(*そして)遂に海賊の呼称は、水軍と称するものと
一般的になるに至った。
そして、その最も顕著で海戦に優れたものは、
能島(ひとつには野島に作る)、
来島(ひとつには来留島に作る)、
因島(ひとつには院島に作る) の三家であった。
船艦の構造も、倭寇の支那海浜に跋扈(ばっこ・*、
*わがもの顔に振る舞うこと)した時代において
進歩し、その容量は、大きさを加え、
その装置は、精査を加えた。


[ 要するに中国書に倭寇の船形が記している
ところでは、雙桅大船、五桅大船
(*2本マスト、5本マスト大船、の意)などの
呼称があり、マスト数が5本ある巨船があるのが
見られ、そしてこれを形容して、
如蔽天之山 其帆亦如浮空之雲
(*天にそびえる山の如し、その帆は、また、
空に浮かぶ雲の如し)と、云われた。

(*また、)我が海賊と相、通じて猖獗(しょうけつ・
*勢いが増すこと)を極めた(*中国の) 明の人・
王直(おうちょく・王直はあだ名で、本名は
王鋥( おうとう)で、後期倭寇の頭目。
徽王や老船主とも称した) のことに関して、
直乃更造 巨艦 聊舫一百二十歩 容二千人
木為城櫓四門 其上可駄馬往来、
(すなわち、王直がさらに造った巨艦の甲板の
広さは、歩いて120歩、2千人を収容し、
城櫓四門があり、その甲板の上を馬が往来する
ことが出来る)と、記されているものがある。
その大きさを想像すべきである。
当時の中国人の我が海賊に通じる者は、
資本を投じて船を本国の海港に造るのが
常であることを見れば、王直の巨船も又、
我らの西海の港湾に造ったことを知るべきである。
ただし、支那書の中では、当時の日本船を評して、
其形 卑隘遇巨艦難於仰攻、
(その形は、非常に小さく、巨艦に遭遇すれば、
攻めることは難儀である。)と記述しているもの
もあり、しかも日本の船もその後、ようやく
大形となったことも、又、明らかである。

武州・八王子の信松院(しんしょういん・
* 現、東京都八王子市台町にある曹洞宗の寺院。
開基は信松尼・武田信玄の五女、松姫で、
永禄10年(1568年)11月、織田信長の
嫡男・奇妙丸(のちの信忠)と婚約した人物)
に蔵する小早川中納言の軍船の模型と称する
ものを見て、これを知るべきである。
その規模の壮(* 壮大さ)、
構造の精(* 精巧さ)は、予想外のものがある。
信松院所蔵の旧記によると、この模型は、
正徳4年(*1714年)、仁科資真◎が寄附したもので、
◎仁科資真(にしな すけざね)。
武田信玄の五男・仁科盛信(にしなもりのぶ)の子。
娘は、俗名を小督(こごう)。
出家して、生弌尼(しょういちに)と云い、
前述の信松尼・武田信玄の四女、松姫は、
18歳年上の叔母に当たる。

仁科氏祖先の領土は山間にあって水軍の法を知らず、
よって資真の祖先が、かつて大坂にいて、
早川総左衛門幸豊と云う者と共に、小早川中納言に
船戦の法を受けて、家臣・窪田、加藤らに命じて
「征韓の軍船、二艘の木型」●を作らせ、
家に蔵していたものである、と云う。
●「征韓の軍船、二艘の木型」は、
木製軍船ひな形
 (東京都指定・有形文化財(工芸品))
で、信松院に事前連絡で見学可。
【おまけ】 この世では結ばれなかった
織田信忠と松姫。信忠は最期まで正室を持たず、
松姫も、また生涯独身であった、とのこと。

その本物であることは、疑うものではない。
史徴墨賓考証(*歴史の典拠史料を考証したもので、
明治20-21年刊で、上下2冊本)
によると、この小早川は、隆景となっている。
船形に従い、各々、名称がある。
安宅船関船の類は、まさしく大船の名である。
小早盲船なども、又、その形により(*その)名が
出てくるものである。]


この時に当たり、諸侯では見るべき水軍を有する
ものは無かった。
隅々を見ると、薄弱(*わずかに)水軍を有する者
があったが、また皆、これを海賊に取られて、
毛利氏は、この間にあって、一朝(*ある日)、
強大な水軍を有することになる。
始め、毛利氏の領土は吉田の山間にあり、
山谷四塞の地形で、元より水軍を必要としなかった。
(*やがて)洞春公(*毛利元就)が勃興し、
ようやく領土を瀬(*戸内)海の地を略取するに
及んで、その臣・児玉就方(こだまなりかた・
*安芸国草津城主。児玉元実の三男)、飯田元春、
山県就相、福井元宣および(*毛利)隆景の臣・
浦安宗勝、末長景通らの皆、海浜に優れ、航路に
詳しかったので、特に命じられて船手の大将となり、
軍隊の輸送、兵食(*兵隊の食糧)の運搬を掌握した。
しかし、未だに海戦の兵備に当たるに足らず、
弘治2年(*1556年)、公(*毛利元就)が、
陶 晴賢を厳島を攻めると、非常に水軍が乏しい
ことを思った。
これにおいてか、(*毛利元就は)(*浦安)宗勝に
三島の海賊を招かせた。
(*そして)
村上武吉(*能島村上水軍の大将で能島城主)、
その子、元吉(能島村上水軍の頭領)、
景親(*村上武吉の次男)、
●*来島通康(*来島水軍の大将で来島城主)、
村上吉充(*因島村上 氏の第6代当主)らは、
その徒(*党)を率いて、これに応じた。
●*来島通康(*来島水軍の大将で来島城主)。
村上 通康として知られるが、
実際に来島氏を名乗ったのは四男・通総が
豊臣秀吉に仕えた以降のことで、
自身が来島氏を名乗った事実はない。

三島の去就(きょしゅう・*その進退)は、
殆ど、その勝敗の分かれるところであった。
戦いにまず一日は、大小の関船(せきぶね・
*海の関所に配置された監視用の軽快な船)、
数百艇、舳艫(じくろ)相銜(あいふく)み、
(*すなわち、
欧陽玄の詩から。前の船の艫(とも)と、
後ろの船の舳先(へさき)とが触れ合う意味で、
多くの船が続いて進む様子を云う。)

北に向かって馳せて、ことごとく毛利氏の傘下に
集まった。
そして、(*毛利元就は)小早川隆景にこれを
管理させた。
すでに戦いは開かれ、毛利氏は大勝利であった。
三島の水軍は、大いに力あり、これより、
三島の水軍は毛利氏に付き、海戦および軍需運輸の
任に当たった。
(*これにより)毛利氏の水軍は、初めて、
海内にその名を知らしめた。
天正10年(*1582年)、秀吉は、織田右府(*信長)
の命で、礼を厚くして、能島、来島の二族を招く。
来島通昌*(通康の子)は、これ(*豊臣秀吉)に
応じる。
*来島通昌は、来島通康の四男で、来島通総
(くるしま みちふさ)として、知られる。

村上武吉の父子は、義を重んじて遂に、
(*豊臣秀吉)に(*付いて)行かず。
これより、(*村上氏は)来島氏と仇讐
(きゅうしゅう・*仇敵)となり、相、容れず、
度々、争闘する。
公(*毛利元就)および(*小早川)隆景公は、
(*村上)武吉の父子を義として、度々、
感状(*部下の戦功を 賞して出す文書)、食料、
物を賜いて、これを賞した。
来島の一族が去って織田氏に付いた後、
毛利氏の水軍は、やがて勢力が削がれたと云っても、
なお、群、諸侯の上にあり、豊臣秀吉がまさに、
明韓を征服しようとすると、諸侯に命じて、
盛んに船艦を造らせる。
この時に当たり水軍は、まさに一躍、国家的発達を
しょうとする勢いがあった。
そして、実地においては、諸侯が造るところは、
確かに多いとは言えるが、果たして命令の数に
達したかどうかは、未だ知ることは出来ない。
(*その)造る船舶も、運搬用に供するものが多く、
しかも、なお、その不足が告げられた。
これをもって、征韓の役は、水軍の発達において、
著しい効果が見られなかった。
征韓の止戦、以後になると、我が国(*長州藩)の
水軍は、俄然、その衰退は、また昔に比較すること
が出来ず、その遠洋航海などは、ただ、通商船が、
徳川幕府の朱印状を受けて、海外に渡航するものが、
毎年、少ない時は、6、7隻、多い時は2,30隻で、
わずかに我が海業の遺影が存しただけであった。
諸侯中、最大の水軍国である毛利氏であっても、
慶長6年(*1601年)、関ヶ原の一役(*ひとつの
戦争)のため、その力は、たちまち削られて、
また、昔日(せきじつ・むかし)の(*ような)
水軍を養うことは出来ず、加えて、
慶長14年(*1609年)、徳川氏は、西国諸侯の大船を
収め(*没収し)、寛永年間(*1624-1643)になると、
支那、オランダの二国に船数を限って許した他、
内地の政略のため、全く海外の交通を絶ち、
諸侯に500石以上の大船を造ることを禁じたことにより、
我が国の水軍は、全く見るべき形は、ないものに
なった。

しかしながら、この間においても
毛利氏は、まだ全く、
元亀・大正の古(いにしえ・昔)を忘れず、
三田尻を水軍の根拠とし、村上一族、その他は、
水軍の士を禄して三田尻の置き分けて、
船手両組として大組に準じ、両組の下に
水軍の軽率を置き、特に村上元吉
(*能島村上水軍の大将で能島城主)、の子・
元武(*能島村上水軍の頭領)に与えて、
大島郡の地・2,000余石を村上景親
(*村上武吉の次男)に与え、
大島郡の地・1,500石を子孫世々(*代々)、
相、並んで水軍の主管とさせた。
(*そして)寄組を置くに及び、等しくこれを
寄組に列した。
これを両村上を称する。
これ故に、水軍の勢力と制度は、昔に及ばないと
云えども、また、綿々として絶えることはなかった。
(*そして)常に舟の操作の術を習い、毛利氏の
兵備の一部とした。
享保年間(*1716-1735年)、
外国船の騒攘(そうじょう・*騒がしさ)の時に
際し、少しの間に、大船50余隻、中船20隻、
小船130隻を馬関海峡にしたのが、それである。
後、寛政年間(*1789-1801年)、
攘夷の幕命に接して、領海一帯に大小800余隻を
準備したのが、それである。

当時、列藩諸侯の水軍に比べると隆盛とは言えないと
けれども、太平の積み重なる日が長年にわたり、
ようやく、兵革を忘れ、その上、藩主の江戸往復に
当たり、往時は、三田尻から大坂に至る間は、
およそ路を海上に取るのが例であったが、
宝暦(*1751-1763年)以後は、全く陸路に
変わったため、定例の修理・操練もやがて緩慢になり、
寛政(*1789-1801年)の調査・修理もその効果が
見るべきもなく、船艦は、歳月を追って朽ちて腐敗し、
文化(*1804-1817年)前後に至っては、殆どまた、
使用することは出来ない状態になった。

文化(*1804-1817年)の中頃、秋田人・
佐藤元海(信淵)は、海内を周遊し、
我が国(*長州)の水戦の古法の
最も信憑すべきものを探ったが得られず、
独り、三田尻のおいて「十ヶ条の仕方」と称する
書を得て、これを貴重なものとした。
以為らく(*おもえらく・思うに)これは、
海賊の遺物であるが、これを法とするには、
十分である。
志那朝鮮と水軍を交えるに当たっては、
元より余裕があった。
ただ、欧米諸国と戦おうとすれば、さらに、
意を用いなければならないところである。
今や、諸侯に冠絶する(かんぜつ する・
*比較するものがないほどに優れている)
三田尻の水軍の士気は振るわず、(*その)
船艦は、又、用に適さず、太平の余りある弊害は、
「武備の委廃は、ひとつに ここに至るのか」と
慨嘆(がいたん・いきどおり嘆くこと)は、
しばらく続いたと云う。
よって当時の実情を察するべきである。
忠正公(*毛利敬親)の時代になり、
大勢一変し、西洋の日新(月歩の)船艦は、
蘭学者の手を経て、その形影を忠正公の
耳目に通じた(*忠正公はそれを知った、の意)。
ここにおいてか、忠正公は、
我は、旧製船艦をまた用いるべきであると覚り、
ようやく、心を西洋海軍の事に傾け、もって、
嘉永(*1848-1854)以後の国家多事の時代に
なったのである。

(*次回、歴史の流れ 防長回天史を読む 13
第十一章 毛利氏の兵備(其三) 神器陣時代) 
に続く)



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