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zoom RSS 歴史の流れ 防長回天史を読む13 第十二章 毛利氏の兵備(其三)神器陣時代

<<   作成日時 : 2019/01/03 16:29   >>

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歴史の流れ 防長回天史を読む13

[ ] は、原文の注釈で、
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

●第十二章 毛利氏の兵備(其三)神器陣時代

*神器陣(しんきじん)は、
文化年間(*1804-1817年)に
軍制改革として大小砲を中心とする、
村田清風が指導した銃陣。

銃砲の利
○往時の砲術
○村田清風
○萩野隼雄
○森重会門
○飯田七郎右衛門
○周発台
○神器陣の編制
○犇電車
○神器陣の演習

文化(*1804-1817年)以降、
外船の数々が、我らの領海に出没すると、
防備、警戒の日も、また足らず、軍族の組織・
隊伍の編成は、ようやく、時勢のために促され、
有為の諸藩は、ようやく、まさに兵制を
一新しようとした。
長州藩の如きは、まず、その鞭を着けたもので、
文化(*1804-1817年)の末になって、遂に、
古(いにしえ・昔)に習い、今に上手に処理 し
神器陣の編制があった。

これより先、元文年間(*1736-1740)に、
吉田矩行(十郎左衛門)が御陣制度を著し、
(吉田氏は、山鹿流兵法を家業とする家系。
明倫館の兵学師範を代々、継承したが、
杉氏から養子の吉田松陰が知られる。)
明和年間(*1764-1771)には、
三戸某(なにがし)(奥右衛門)が、
機密集を著し、その後、神村某(三郎兵衛)が、
御軍陣備立図、長谷川 有文が(甚平)が、
旌旗考など(*を著した)がある。
(*これらは)皆、藩命により審案を
進献(しんけん・*献上)するところであった。
しかも、以前より、明唐の遺制(いせい・
*昔の制度で現在、残っているもの)に交わると、
我が甲越流の兵法をもってしても、ひとつも
実戦に適するものは、なかった。
文化(*1804-1817年)の初め、
藩主・靖恭公(毛利斎房(なりふさ))は、
意を海防のことに用い始めて、
銃陣編成の利(*便)を感じ、村上蔵人の門人・
森重靭負(*もりしげ ゆきえ)を城下に召して
画策するところがあったが、靭負は故あって
そうならず、そのこと(*画策するころ)は止んだ。
文化3年(*1806年)になって、大坂の浪士・
萩野隼雄が歴遊して萩に来た。
公(*毛利斎房)は、(*萩野隼雄が)その砲術に
秀でているのを聞き、山内房通(志摩)らを
これに学ばせる。
当時、長州藩の大筒発射の法と云うのは、
射手がまず物を用いて耳孔をふさいで、
耳朶(*みみたぶ)を曲げて、その上を覆い、
更に布で、その上を巻いて鼓膜の激動を防ぎ、
そして、ひとつの竹竿を頭に挟むと、
火把(*たいまつ)で鞠躬(さっきゅう・
*身をかがめ慎みかしこまること)のように
砲身に近づき、僅かに点火を行った。
それ故、いわゆる幕入でさえ非常に稀で
あった。
ましてや星入を(*萩野)隼雄が来て教えるに
及んで、照準がようやく、(*その)精度が増して
命中の公算が10の1,2に達するようになった。

この時に当たり信州の浪士・坂本天山
(孫八天山と号する。銃陣詳説 周発図説などが
ある。)が、又、たまたま、防の三田尻に来る。
(*坂本)天山は砲術に秀でて、称して天山流と云う。
特に急な射撃に巧みであった。
水軍の士・飯田七郎右衛門などは、(*坂本天山)
に従い、その術を修め、非常に造詣するところが
あった。
*飯田七郎右衛門は、
飯田 義武(いいだ よしたけ)の通称。
特に天文24年(*1555年)の厳島の戦いで
毛利元就の率いる本隊を厳島の裏側の包ヶ浦に
上陸させて、勝利の一翼を担った。

当時、この射法を「寸香打」と云う。
まさしく、線香一寸を焚き尽くす間に、何発もの
弾丸を急射できる謂れ(いわれ)である。
ここにおいてか、装填の術が、ようやく敏速さが
加わる。
公(*毛利斎房)は、又、かつて内用掛・
熊野 孫右衛門らに命じて、軍陣の編成に勉め
させたが、未だ功を終わらずして止んだ。
(*後)清徳公(*毛利 斉熙(もうり なりひろ)
第10代藩主。)が領土を継ぐに及んで、
佐伯令望(*よしもち)(平右衛門)が内用掛となり、
村田清風が密用方となり、共に軍政に鞅掌
(おうしょう・*仕事が忙しくて暇のないこと)
の時に、水軍の士に森重会門がいて三田尻に居た。
(*森重会門は)合武三島流の戦法に秀でて、
合わせて砲術にも精通し、清徳公(*毛利 斉熙)
は、村田(*正風)らの推薦を受け容れて、
これ(*森重会門)を萩に召し、村田清風、
佐伯令望らと共に新陣法を講じさせた。
馬屋原 閑蔵・大和 七兵衛・吉松市郎次の人物は、
これに与かる(*参画する)。
このことが、ようやく端緒となるに及んで、
清徳公(*毛利 斉熙)は命じて、水軍の練習を
城下の海上で試みさせる。
実に文化9年(*1812年)9月のことであった。
海潮は急激になり、そのため功績が挙がらず、
越えて(*文化)12年(*1815年)8月、また、
演習を倉江で試みた効果は非常に良かった。
清徳公(*毛利 斉熙)は、これを感賞し、
(*森重)会門を抜擢して銃陣編制の任に当たらせ、
飯田七郎右衛門(*飯田義武(よしたけ)・
毛利水軍の将。七郎右衛門は、通称。)、
吉松市郎次の人物を挙げて、前後、内用掛に任じて
これを助けさせた。
飯田七郎右衛門、吉松市郎次は、三田尻に居た。
天山流の砲術に優れ、周発台を操縦するのに
巧みであった。

周発台とは、大砲を木台に装置したもので、
砲筺(*砲台)の一種である。
そして、飯田七郎右衛門は、故あって、
まだ、(*銃陣の編制には)至らなかった。
よって、森重会門は、自ら編成のことに当たる
けれども、銃により隊をなすのは、当時、
士人の屑であるとされていたので、今や、銃陣を
組織しようとするに当たり、まず、
佳名(かめい・*評判のよい人物)を選び、
藩士に(*このことは)奮って進む道であることを
説かなければならなかった。
(*村田)正風らは、すなわち、明の趙子禎
(*ちょうしてい)が著す神器譜を閲覧して、
その書中の「是自衛殺敵之器可謂神采神者矣」
(すなわち、これは、自衛で敵の銃器を抑え込み、
「神采神者」(風貌のある神びと)であると云うべきで
ある。)の語を取って「神器陣」と云った。
(*村田)正風は、以前、神器陣の編制を論じて
云うには、神器陣の陣形は車台の大筒を中心として
左右に10匁筒を3,40を備えて、刀槍の数隊を
その後ろに配置し、大筒小筒を交互に乱射して
敵兵の色が、ようやく動くのを機として、
刀槍の諸隊は硝煙が濛々としている間から
突然、出現して敵兵を撃つもので、どんな強敵も
必ず敗走しないではいられない。
これ一つをもってしても千を破る法である。
(*家)臣らの考案するところは、このような
ものであると(羽賀台大操練建議書による)。
神器陣編制の精神は、まさしくこのようなもの
であった。
(*そして)陣名はすでに定まって、編制は、
未だ成らなかった。
まず、陣中で用いる巨砲の演習を試みようとして
(*文化)13年(*1816年)7月5日、
(*森重)会門にその家伝の独輪車(*一輪車)を
造らせ、8月12日、その運転、射撃を赤坂川の
丁場、および菊ヶ浜(*萩城跡から萩湾に沿って、
浜崎商港まで続く白砂青松の海岸)。で試みた。
いわゆる独輪車は、火砲を搭載する砲車の名称で
(*その)構造は極めて簡素で、唯一、巨大(丸太)
を横にして車輪として、上に平台の砲架を置くに
過ぎず、今更にしてこれを見ると、児戯(じぎ・
*幼稚)であることは免れなかった、と云えども、
当時、なお行軍砲がなく、たまたまオランダ製の
ものが小規模で、または、天砲に模擬した火砲が
あったが、その砲に耳を傾けず、無用の長物とし、
一切、これを使用せず、代わりに、獅子唐草文様の
装飾を付すように命じて、獅子唐草砲と云うに
至った。
故に、ただ火砲を砲車に装置することが出来ない
だけでなく、その砲台さえ、(*砲車に)
上げることが、出来なかった。
(*森重)会門の独輪車を行軍砲に用いなければ
なりない理由はなく、装置が全く終わることになり、
これ(*砲車を)を引いて、赤坂川の丁場に行き、
20匁玉筒を3発、30匁玉筒を2発、
100匁玉筒を3発、300匁玉筒を5発を試射した。
(*そして)初めて小口経の筒は、その効力が
極めて微であることを発見した。
ここにおいてか、操練の大砲を200および
300匁玉筒と定めたが、この試験によっては、
(*森重)会門が造る独輪車は、その効力がまだ
三田尻に備える周発台に及ばず、
その三島流の砲術は、また、天山流の砲術の
ようではないことが明白となった。
ここにおいてか、(*藩は、)(*飯田)七郎右衛門を
三田尻を出発させ萩に行かせて、三田尻水軍に
海路、周発台を萩城下に運搬させて、明年
(*文化14年)、2月9日、(*七郎右衛門は、
萩湾の)浜崎に達する。

(*後)(*森重)会門は、また、ますます心を
独輪車の構造の改善に注ぎ、度々、その運転を
試み、砂地を通過するのに際し、特に困難を
覚えた。
以来、その長さを断じ、量を減少し、これを
菊ヶ浜に試みるが、なお成果はなかった。
(*後)村田(*正風)ら、すなわち、勧めて、
砲を大八車に載せて、三度、これを
川上・立野に試みる。
(*結果)また、前日に比較出来ず、よって、
さらに車輪に改善を加えることを命じて、
(*これを)犇(*ひしめき)雷車と云う。
初め、神器陣で操練の議論があったが、
まず、予行の射撃場を設けようとして、
(*文化)13年初冬に起工して14年正月
に至り、竣工の場は(*森重)会門の邸内
であった。

射垜(あむつち・*弓場で、的をかけるために、
土または 細かい川砂を土手のように固めた盛り土)
は、石を畳んで凸字形に象(かたど)り、中心の
最高(*に高い所に)一丈、
左右・両肩の高さ、各6尺、長さ8間、
その脚の暑さ一丈、頂きの幅3尺で、
皆、(*森重)会門が開始したものである。
(*飯田)七郎右衛門が三田尻から来たので、
清徳公(*毛利 斉熙)は命じて、
周発台(*大砲を木台に装置したもので砲台の
一種)を陣の整備中に加え、二人で各々の
その長所を交互に、(*その)相伝を授けた。
ここにおいてか、(*森重)会門は、
(*飯田)七郎右衛門について天山流の砲術、
および周発台の射撃法を学び、
(*飯田)七郎右衛門は、又、(*森重)会門に
ついて三島流の砲術、および犇(*ひしめき)
雷車の操法を学び、互いに得るところがあった。
日時が非常に浅い時、(*森重)会門の弟子は、
未だ全く天山流の砲術に習熟しておらず、
七郎右衛門、すなわちその門弟20余人を
三田尻から招き、(*森重)会門の弟子に加え、
共に予行射撃に従事させた。
その意は、周発台は、つまるところ、
一個の粗製な砲筐(*砲台)で、行軍の砲架
(ほうか・*砲身をすえる台)ではない。
故に、取ってこれを銃陣の編成の中に加える
のは、やがてその正当性を失う感じがあったが、
神器陣の編成の精神は、主として外敵の防御の
一事にあり、したがって外船が我が海浜に
近づくに当たっての専守防御を目的とするところ
にあり、かつ、急進の用に供するものとして
別に犇(*ひしめき)雷車があったので、
周発台の運搬の、その便利の賛否を深く問う
ようなところではない。

(*後、文化14年)、2月26日をもって、
神器陣・第一陣の大操練を菊ヶ浜で行った。
(*その)修練は、すでに熟していた。
この日、朝から細雨が、もやもやとして降る。
衆人は、皆、気分憂鬱に見えた。
まさしく、火索銃は、雨中でその用をなさ
なかった。
午後になって雨が止み、雲が散って、
天気晴朗となり、皆、踊躍した。
すでに、隊兵は、運転を始めた。

その行軍の序列の概要は、
先頭には第一斥候、次に第二斥候、
次に左備、次に本陣、次に衛殿の六隊に分かれて
歩騎で、通して130人がこれに加わり、
(*以下は)従卒、騎手、憩床出(狙撃に供する
小筒を装置した小筒を持つ足軽である)、
輓夫(*車を引く人)だった。
総員、約300人であった。
隊士から軽率に至るまで、およそ、その服装は
ひとつであった。
頭に小形の陣笠を戴き、身に半服を着て、
さらに、それに重ねて定紋を付けた陣羽織を着て
腰に兵糧を持ち、脚に股引きを穿(は)いて
草履を踏んで進む。
その軽装は、放鷹(ほうよう・*鷹狩り)の服装
と殆ど、同じ類であった。
ただ、士人は腰に両刀を帯び、手に小筒を
携えるが、軽率は、すなわち、そうではない。
故に、同じように徒歩であっても、
その服装を見れば、一見にして、士人であるか、
軽率であるかを語ることができる。
第一斥候は、今のいわゆる前衛・前兵である。
その任務は、動静地の険夷伏(*行先が、
けわしいか、平らであるか)の有無を偵察すること
にある。
戦士・20余人は、皆、騎馬で、各々手に小筒を
提(さ)げる。
第二斥候は、今の前衛本隊である。
その任務とするところは、第一斥候と
よく似ている。
戦士・30余名が、騎馬、小筒を携えることは、
第一斥候と異ならない。
[当初は、二つ斥候は、弓・銃、勝手次第の制定
であったが、後は、全て銃器に確定となった。]
左右の両備は、各々、犇(*ひしめき)雷車3両
[一両は300匁玉筒を搭載し、二両は300匁玉筒
を搭載する]で、戦士、輓夫(*車を引く人)が、
これに従った。
(*第)一・二斥候、左右両備は、
各々、隊長がいて、これを率いた。

本陣は、合図旗陣、鐘陣、太鼓役が列のなして
行進し、森重会門 総隊長がその中央にいて、
馬屋原 閑蔵、大和 七兵衛がその左右にいて、
これに添っていた。
兵糧奉行 憩床出(*狙撃の為の小筒を持つ足軽)、
周発台手が、これに従う。
衛殿は戦士19人を対等がこれを率いて諸隊の
後ろにいて、あらかじめ従い、
二つ打つ鐘で勢揃いをして、一番(*ほら)貝で、
各隊の(*整)備をして、二番(*ほら)貝で、
人員を検(*閲)し、三番(*ほら)貝で、
行進を始める。
(*そして)太鼓の音に合わせて、その歩武
(ほぶ・足取り)を進める。
いわゆる合図の器具は、旗貝の皷鐘(*しょうこ・
*鐘と太鼓)を四(*番目)として、
旗貝は両斥候隊長・総隊長の下で各々、二個を備え、
皷鐘は総隊長、独りがこれを備える。
故に皷鐘は総隊に通知する号令に用いる。

菊ヶ浜操練場には、前日から陣場奉行が、これに
赴き、諸般の準備をして、海上の恰好の位置に
一隻の船を浮かべて、外舶の外敵の状況に擬して、
海浜の砂清き所に藩主の観覧場を置いて、
左右に仮小屋を設ける。
準備は全部終わり、この日、午後を過ぎて、
操練を開始する。

第一の斥候は、まず菊ヶ浜に行き、仮設敵船の
位置を探知して、吹螺(ほら・ほら貝)の伝令
に応じて操練開始の木砲(*砲身 を一つの丸木から
くりぬいたり、複数の木材を組み立てたりして、
周囲を竹のたが やロープで幾重にも巻いて補強した
もの)を放ち、次に第二斥候も又、菊ヶ浜に入り、
吹螺旌旗(せいき・のぼり)の伝令を待って、
地理を視察し、ゆっくり水際を隔てた地を選び、
適宜の横隊の隊形を作る。
(*そして)両斥候の位置が、既に定まると、
左右両備の犇(*ひしめき)雷車が徐々に、
第二斥候の横隊の正面に進み、両備の間に
あらかじめ周発台を入れる余地を残し、
仮設の籍船に向かって放列を布く。
そして後、周発台の両備の間に進み、
火砲(500匁玉筒)を台上に安置する。
この間、衛殿の一隊は左方に出て、第二斥候の
左、傍らに集合する。
ここにおいてか、総隊長・森重会門は周発台の
後方に移って周発台と犇(*ひしめき)雷車の
発射準備を監視し、しばらくして、手から
憩床出(狙撃に供する小筒を装置した小筒)の
2発を放つ。
これを戦闘開始とする。
続いて、左右の犇(*ひしめき)雷車がまず、
発射し周発台(*からも)急射撃を行う。
このように数刻、総隊長は鐘を伝えて中止を
命じると、各砲手は、又、鐘・太鼓を伝えて、
全くその砲撃を中止し、右方の隊から徐々に
後方に退き、適宜の地に集合する。
この方法は、敵船の距離が最も遠く、小筒の
効力が非常に少ない時であり、
単に砲戦を試みる戦況に似せたものである。

この日、各砲の発射の弾丸は、8発に限った。
その消費する弾丸・火薬の僧数量を挙げると、
周発台(*から)
8発で、その鉛量は 4貫400目、薬量は 800目、
犇(*ひしめき)雷車(*から)
16発(300目玉筒)で、その鉛量は 5貫280目、
薬量は 960目、
犇(*ひしめき)雷車(*から)
32発(300匁玉筒)で、その鉛量は 7貫40目、
薬量は 1貫600目、
計鉛量 16貫720目(代銀、約251匁である)
薬量は 3貫360目、(代銀、約1貫75匁である)
と云う。
既に遠戦の操練は全く終わり、
犇(*ひしめき)雷車の後方に退くと、急太鼓の
合図が、急に響き、放列の後方と左右の銃隊は、
さらに二人一組の散兵となり、たちまち水際に
突進し、交互に小筒を乱射する。
敵兵が既に海浜に迫り来るに当たり、一時、
遠戦を注して、接戦を試みる状況に模した。
戦士は硝煙をついて砂石を蹴り、奮然と
逆撃する。
各人は、5発を発射する。
射撃がようやく終われば、軍貝手は終局の
譜を(*演)奏して、木砲の伝令が又、
轟然(ごうぜん・*大きな音がとどろき響く)
として震え渡る。
ここにおいてか、戦士は皆、背面整列をして、
陣笠を脱ぎ、藩主に向かって拝する。
このようにして、操練の式は全く終わる。
この日、藩主は一門老臣、両相府員、明倫館院、
及び村田、飯田、佐伯、吉松らの諸臣を従え、
備えの仮小屋に居て親しく、その状況を閲覧する。
既に藩主は帰城し、そして後、隊兵は初めの
順序を転倒し、衛殿は変じて第一斥候となり、
第一斥候は変じて衛殿となり、日暮れになると
逐次に凱旋する。
藩主は、陳列・編成の労が多かったとして、
森重(*会門)以下は、差があるも賞を賜った。
これより以降、毎年1回、必ず操練を城下の附近で
行うことを例とした。
思うに神器陣は、坂本天山の銃陣説を参考にして、
実地の編成を行ったもので、まさしく、我が国の
銃陣編成の権興(*権威を興すもの)とした。
長州藩においては、これを御流儀と称して、
藩主自ら師範の地位にあり、藩士で、これに
従事する者は、門生がこれを見た。
御流儀とは、なお藩主の自家の新式と云う
ようものである。
この機に乗じて撓まず(たおまず・*屈せず)、
なおその事を長大にして、その衛(まもり)を
研磨して実践の用意に供することに勉めれば、
さらに大いに見るべきものがあることを
知るべきである。
(*後)不幸にして、途中、明倫館派と神器陣派との
間に端なく(はしなく・*思いがけなく)、
軋轢(あつれき)を生じたために、神器陣の進歩は
遅くなった。
その起因するところは、持方を争ったことに
あった。
[旧制度では、階級に応じて兵隊の所属する武器には
種類があって、士人の品位を決める持方とは、
その品位を保持する方法の意味で、家格、班次の
維持と云うことに他ならない ]

しかしながら、またその進歩には、見るべきものが
ないことはなかった。
(*神器陣の)創設以来、順次に行進するところが
あって、その斥候のように、一二(*第一斥候、
第二斥候)を合わせて騎馬斥候と総称して、
先陣、二陣、右陣、中軍、左陣、衛殿などの
隊名があった。
この七隊以外に、さらに左右の遊軍を置いて、
銃手の他、また弓手、槍手を加えた。
兵員は、また、その初めに倍蓰(ばいし・
数倍に増やすこと)し、総隊長を呼び改めて
主将と云い、門閥の士がその職に当たった。
弓手、槍手を加えたのは、まさに当時の銃砲は
雨中で用をなさなかったからである。
天保8年(*1837年)忠正公(*毛利敬親)が
襲封(*領地を受け継ぐ)の前後に至っては、
陣の先頭は騎馬斥候は5士で成り、
次は先陣で、周発台砲 一基、犇(*ひしめき)
雷車 4両、銃隊 1組で成り、
次は二の陣で、弓隊で成り、
次は右陣で銃隊で成り、すなわち軍で、
兵糧奉行、小荷奉行、器械奉行、陣場奉行、
旗下などで成り、参謀、軍奉行、総監、幹事、
使令の諸員が皆、列に備わり、主将がこれを
統率した。
次は左陣で銃隊で成り、次は衛殿で戦士1隊で
成り、そして左右の両有軍は、各々、
戦士数10騎で成り、総員、士籍以上の者は、
4,500騎に達し、主将の任務は、一門の
(*大野毛利家の8代)毛利熙頼(*ひろより)
(隠岐)が、これに当たり、例により、
毎年、操練を菊ヶ浜で行い、大革新の機運を
待ったのであった。

(*次回、歴史の流れ 防長回天史を読む 13
第十三章 毛利氏の民政(其一) 
に続く)

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