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zoom RSS 歴史の流れ 防長回天史を読む14 第十三章 毛利氏の民政(其一)

<<   作成日時 : 2019/02/08 21:24   >>

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歴史の流れ 防長回天史を読む14

[ ] は、原文の注釈で、
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

●第十三章 毛利氏の民政(其一)
民政の諸学
○正租
○浮役
○郡村費

封建の世、諸藩は割拠して各々自治の政治を
行ったが、これを通観してみると、政治の方法は
大同小異である。
祖先が定めた法令は、これを守って敢えて変えず、
家格を重んじ、階級を貴び、故に、
例に遵い(*したがい。法的な対象にしたがうこと)、
旧習を踏襲し、施政の方針は自ら、ここから出る。
防州の概況も又、これに似ている。
長州藩の民政は、藩初以来、斬新な整理を行い、
万治諸法の制定が成って大成し、以後、
享保年間(*1716-1735年)、少なくともこれを
追補するところがあったが、その他は多くの変革を
見なかった。

民政に関した最も枢要な職は郡奉行で、
萩城下には特に、町奉行を置いた。

町奉行
その初置は、未だ詳細ではない。
元和5年(*1619年)、初めて、この名称が見られる。
萩の商戸(しょうこ・商家)を統治する職で、
大抵、大組300石以上、少なくても250石を
下らない者が任じられ、その班、郡奉行の上に
あった。
山口、三田尻にもあり、かつて、特に町奉行を
置いたことがあったが、幾度とのなくこれを
廃して、両地の代官にこれを兼任させた。
萩には、又、屋敷奉行があり、士卒、および
商売の宅地のことを掌握した。
中世以降は、常に町奉行が、(*これを)
兼務した。
[ 長州藩において町人の称があるのは、
萩・山口・三田尻の三か所に限り、その他は
商業に従事する者も、なお百姓の名義を離れず、
下関は、繁華な市街であったけれども、
その西部の一小区画を除く他は、長府領であった。]

郡奉行
(*その)初置は、未だ詳細ではない。
慶長16年(*1611年)、初めて、この名称が
見られる。
その職務は元来、国相府に属していたが、
民政が煩雑になったので、別にこの職(*郡奉行)
を設けて、各郡の代官を統轄し、戸口調査、
収税監督、民工の勧課(*出稼ぎ)を掌握し、
当職に参画して、諸代官を統率した。
班は、表番頭の次位にあって町奉行に続く。
(*これは)大抵、大組300石以上の所任と
することは町奉行と同じで、微禄の士で
この職に就けば、郡用方と称する。
他藩では、郡地に出て郡治を掌握する者を称して
郡奉行と云うものが多い。
(*しかし)長州藩においては、その趣を異にし、
郡地に出る者を代官と称し、城下にあって代官を
統轄するものを郡奉行と称する。
(*また)別に社寺を統轄するものに寺社奉行が
ある。
(*これは)領地内の社寺を総括、統治する職で、
寄組千石以上に任じられる。
幕府の三奉行も寺社奉行のみは、諸侯が
任じられる。
まさしく、管轄される者に、高地位の者が
いるためである。
長州藩の寺社奉行に寄組が該当されるのも、
まさしく、同一の趣旨による。
寺社奉行が統轄する社寺の格式には、
寺社奉行が直轄するもの。
各地の代官が管轄するところで藩主が謁見を
許される者。
各地の代官が管轄するものと、三階級がある。

郡奉行の下に代官があり、近世、防長二州の中、
宗藩の料地を分けて、16の行政区画とし、
これを宰判と称する。
代官は、各、宰判の人民を統轄して、徴税などの
ことを掌握するものとした。
初めは、称して所務代役と云った。
代官の官衞を勘場と云う。
代官の下僚に勘定役、すなわち算用方、寺社方、
山方 兼 普請方、記録方、打廻手子、受村手子、
山方手子などがある。
勘定役、寺社方、山方は、下級士族、
その他は、卒族をもって、これに任じた。
別に、大庄屋、修補方、算用師、恵米方大庄屋、
加勢大庄屋、助役などがあった。
大庄屋以下は、民籍から選出され代官を助けた。
とりわけ大庄屋、修補方、算用師は、これを
勘場の三役と称して、常に勘場に出て事務を
執った。
大庄屋は、各宰判に一人を置いた。
(*また)各村の庄屋が一人いて、一村を数組に
分けて各組に畔頭が一人いた。
大庄屋は、その宰判内の各庄屋を統轄・監督し、
庄屋は一村でその治務の一切を担任し、
畔頭を主として徴組のことに奔走させた。
大庄屋が庄屋を兼勤するのは、大法で厳禁と
された。
畔頭の下に、上納の督責布令の通達を事とする
小触、数人がいた。
人民は、隣保、相結んで伍(*組)をなして、
互いに提携して生業に勉励して、法禁を
守らせた。
(*そして)組の中で、非行者があれば、
事情により、その隣保を譴責(けんせき・
叱り責める)する制度とした。
大庄屋、庄屋、畔頭は、年功褒賞の制度があった。
例えば、庄屋たる者は
15年に及べば、在職中に苗字を許し、
21年に及べば、一代の苗字を許し、
36年に及べば、嗣子の一代まで(*苗字を許し、)
51年に及べば、嫡孫の一代まで苗字を許す類
である。

延享(*1744年)以前には、政府から多数の
所務方手子[ 収税局の類、すなわち受村手子 ]
を郡地に派遣して、概略、一村一名の多きに
及んで庄屋の事務を補助させたが、
延享3年(*1746年)の倹政に際して、大いに
これ(*所務方手子)を減じて、爾来(*じらい・
それ以来)、次第にこれを減少し、一宰判に
4,5名となった。

代官の下僚の組織は、概略、前述のようである
けれども、地勢の便利・不便と事務の繁簡
(*はんかん・繁雑と簡略)とによって、代官の地位に
高低があった。
従って、その名称も一定せず、これに隷属する
諸職員の呼称もまた、異なるものがあった。
三田尻においては、これを称して都合人と云う。
まさしく、三田尻は領内の枢要な港で、
水軍の一部は、常に駐屯して、ここにあり、
故に都合人は、大中小の三等の船頭、10余人、
手船子300余人を統轄し、藩の所有の船倉を管理し
大小の軍船、数百隻を管轄し、且つ、その修理を
掌握した。
元来、(*これは)その班奉行の次位にあるけれども、
その声望は、往々、郡奉行の上に出る者もあった。
山代、奥阿武郡、山口、吉田、熊毛、美祢郡、
堂島の七宰判は、これを御意座と称した。
但し、山代、奥阿武郡の二宰判は、また敢えて
代官を都合役と称したことがあった。
(*これは)その管轄する所地が僻遠(へきえん・
*ある地域・場所が中央から遠く離れていること)で、
民に窮乏が多く、これを賑恤(しんじゅつ・
*貧困者・罹災者などに金品をほどこすこと)
して、その経済を埋めようとする為に、特に
熟練の士に命じてその待遇を厚くし表番頭の
資格とし、郡奉行の次位の列にさせるときの
称である。
美祢郡吉田には、頭人の呼称があったことが
あった。
前大津、船木、小郡、花岡、大島郡、徳地の
七宰判においては、平座と称した。
浜崎の宰判は、当、島代官の兼ねる所とした。
代官の属吏も各地によって、その呼称を異にし、
下代と称するのは三田尻で、
勘定役と称するのは御意座であった。
平座にあっては、これを算用方と云い、各自、
(*その)等級は同じでなかった。
又、番所役は、管内の航通のところ、或いは、
邦人が通過の地に、各一人を置いた。
(*また)番所役は、寺社方らと兼ねて勤務
した。

諸代官は、平時は萩にいて、郡奉行の役所の
中に一部局があって、ここに出勤し、
春秋冬の期に、その任務所に赴き、庶務を
処理した。
春の赴任は、およそ3月にあり、郡中制法を朗読し
宋藩を探求し、山林、並木、その他の樹木の栽培
の状況を視察、奨励し、開作、あるいは無地、
また畠田成(*畑を田へ作り替える)などのことを
検案し、鉄砲、請状を出させて、孝子(*こうし・
父母によく仕える子供)、精農(*せいのう・
*農事に熱心でよく働く農民)などを賞し、
また、いわゆる春定を為し、
負担額を定めるのを春分の第一の用務とした。

町治、郡治の概要は、万治諸法の中に、
町方制法、郡中制法があって。その綱領を
尽くしている。
毎年、春の初め、町奉行および代官が地方の父老を
集めて、これを朗読するのを例とした。

徳川氏の世、四公六民(しこうろくみん。
*全収穫量の40%を領主が取り、残り60%が農民に
残されること)は、
徴租の標準であることを認めて、公平としたが、
各藩の旧慣(*古い習慣)によって、各々、増減が
あり、およそ、重きはあっても、軽きはなかった。
戦国騒乱の世は、兵馬の費用は、一に(*まず)
民が負担し、その徴租の制定時に異同があったが、
要するに、苛酷(かこく)であることを免れず、
長州藩の削封(*領土が削られる)の当初は、
民の負担も重くて、七、三公[100分の73 ]に
該当した。
寛永年間(*1624-1643年)になると、
五公五民(*全収穫量を領主と農民が均等に取る)の
標準に減少したが、
貞享3年(1686年)の検地に至るまでは、事実、
五公にならず、四分余りを徴収したと云う。
その後、貞享3年2月に検地があり、
上田から以下の地毎に数多の階級を分けて、
穂定(*稲穂の数を定めて)をして、隣地と比較して
石盛(こくもり・-等級に応じた1反当たりの標準
収穫量)を改定し、四公六民を率として、
一石高の正租を4斗とした。
しかしながら、正租の他、種々の名義によって
賦課され、人民には延米、口米、種子利米、
作飯利米のように、その実租税に異ならない
負担があって、これを合算すると、
五.五公、四.五民に該当した。
小村では、六公四民の上に出たという。
もし、これに加えて、いわゆる馳走米、郡配当の
追徴などをもってすれば、(*その)負担は
非常に重かったことを知るべきである。

 延米、口米、種子米、作飯米は、時として、
少なく(*その)名称を異にするが、
諸藩は皆、その類例は少なからず、
口米の觴濫(らんしょう・*事象、物事 の発端)
は、手数料の性質を帯びたもので、徳川の制度では、
元来、筆紙墨、または助手の給料の費用として
収税官に与え、享保(*1716--1735年)以来、
官に収め、費用は別に給与とすることとなった。
長州藩もまた、およそ、同じであった。
徴収の率は、高一石に3升を課した。
また延米は沿革も多く、諸藩の制度もそれぞれで
あったが、長州藩にあっては、
公租は玄米一斗につき一升、すなわち、
一石につき一斗を増して、これを納めた。
これは帳簿外の負担である。
単純な一斗、または一石は、
単米一斗、または一石と称し、増加したものを
士貢の一斗、または一石と称した。
この増加は、すなわち、延米である。
延米は藩初は、一石につき七升であったが、
貞享の新斗法から一斗升(*ます)の容量が
一斗七合となった。
これに米を盛って斗棒を摺切(すりきり)計り
とすれば、升内は、充実して一合五勺が増す。
すなわち、一斗は一斗八合五勺となり、
一石は一石八升五合となるのである。
天明(*1781-1788年)の改正斗法から
一斗升(*ます)の容量は、一斗八合五勺と
なり、これに突分の計りの法を用いると、
また、一合五勺が増す。
すなわち、一斗は、一斗一升となり、
一石は、一石一斗となるのである。
まさしく、延米の発端は、斗法の変遷から
生じたものである。
延米は、一斗の内、三升を三升延と称し、
これを官に納め、七升を三升延と称し、郡の配当に
宛てた。
突分計りとは、米を斗升に四方に垂らし、
すわわち、山盛りに盛り廻り、六寸ほどの斗棒で
その中央を抑え、そして向こうに はねて、
手元に はねて、米を落とすことを云う。
最初に真ん中を抑えるとき、一合升の中に
入り込む。
又、前後に突分けたとき、真ん中に三角の
畝が残る。
その量は、五勺あって、総計で一斗升で計ると
一斗一升となる。

天保2年(*1831年)の百姓一揆に際し、
人民は、この計り方に不平があったため、
真ん中の畝を残すことを止め、摺切計りとした。
摺切計りとは、畝を残さず、平に計ることを云う。
そして、これには、郡の配当に不足が生じるので
庄屋ら、人民と協議をするなどの手段で、
一俵につき、さらに六合の入足(*補充)を
することになった郡が多かった。
四斗俵、一俵で六合ならば、一石につき一升
である。
すなわち、一石の延米は最前のように総計一斗
となる。
但し、郡により延米の差があるのは、他日、
紛争の議の元となって、一般の改正を建言を
文書がある。
その後、大坂運送米の如きは、官から相当の
入足米を下付したこと等が見えるが、延米の
沿革は、そのこと(*自体)非常に複雑なので、
ここではその要領を示すのみである。
そして種子米は、当初、一回、種子米を貸与した
もので、以後、固定の貸与として返済させず、
その利息として年々、少しの米を納めさせることを
云う。
長州藩では、これに対して四割の利(*息)を
納めさせる。
又、作飯米の觴濫(らんしょう・*事象、物事
の発端)は、耕初から収穫までの食糧として
貸与したことに出る。
これは又、米と等しく、これを返済させず、
年々の利息として三割を納めさせる。
通例、両者を合称して種作米と云う。
(*そして)共に土地に付帯した永久の義務と
なった。
種作元米と反別との比例は、検地により、反別の
改正があれば、自ら異動できないことを免れないが、
文政13年の調査によると種元米は、一反につく、
三升九合強に当たり、作飯元米は四升二合強に
当たる。
この他に、浮役銀がある。
浮役銀は近世にいたり、米田の高、100石に対し、
22匁を賦課するのが定制であるけれども、
昔は、藳草籾殻(わらくさ もみがら)代と称し、
その額は明らかではない。
この他に門役と称するものがあり、当初、
本軒百姓の一戸から毎月、薪、一荷の代料
(*として)半軒百姓からその半(*分)を納め
させた。
[ 本軒、半軒などの区別は、元来、門役又は、
いわゆる足役(すなわち賦役)を課す標準のもの
のようであるが、諸郡は一定でなく、諸種に記録に
徴する(*照らし合わせる)と、一定の解釈はない。
古記録に、本軒、半軒、門男の三種が見えるが、
その区別は、分からない。
当島の宰判の慣例では、百姓、軒別、石高を五等に
分けて、高10石以上を本軒とし、
高9石9斗9升以下、7石5斗までを7米5朱とし、
同じく、7石4斗9升から5石までを半軒とし、
高4斗9升から2石5斗までを貮歩五朱とし、
高2石9斗9升以下を門男と云う。
(*宰判とは。
郡奉行の下に代官があり、近世、防長二州の中、
宗藩の料地を分けて、16の行政区画とし、
これを宰判と称する。)
佐藤信寛翁は、民政の古老である。
(*佐藤信寛は、江戸後期の長州藩士。
明治時代初期の官吏。
子孫に岸信介, 佐藤栄作、安倍晋三らがいる。)
同翁の手控えによると正徳6年(*享保元年、
1716年)の文書にも、
本軒、半軒、門男の分かち(*分類)は、
抱える田畠の高に古法の分(*分類)があれば、
その筋をもって沙汰とすべしとあるが、
郡作法にも石高割の事はない。
よって、文政4年(*1821年)中、当島の例に
基づき、7歩5朱軒以上は本軒とし、
2歩5朱以下は半軒とし、それ以下は門男とし
大体に分けて三段(*階)とさせたと云うことが
見られるのが、これが果たして何れの郡々で
行われていたかを知ることは出来ない。
大島郡の古老の説を聞いたところによると、
言うには、門役は百姓の中の階級で、
一軒分を納めることを本軒百姓と称し、
半軒分を納めることを半軒百姓と称し、
四半軒分を納めることを四半軒百姓と称し
これらは、皆、これを本百姓と称する。
門役を納めないのを亡土百姓と称する。
門役を納めなければ、たとえ、幾百石の地を
所有していても、亡土百姓と称する。
そして門役を納める者は、各村に一定の軒数の
限りがあるので亡土者は、たとえ富裕になっても
他人の門役を買って得なければ、本百姓である
ことはない。
しかるに四冊録によれば、軒数に入り門役を
勤めるべき新百姓が出て来たときは、官から
本軒に3石半軒に1石5斗の米を給与し、
かつ、百姓名簿の訂正を行い、そして3年間は
諸役を免じることが記されている。
同書には、また、石坪により百所軒を改めたが
年序が経てば、盛衰により本軒、半軒の錯乱が
あることであろう。
故に、大抵、14,5年毎に訂正するべきである、
と見える。
これは大島郡の慣例と、少し異なっている。
あるいは後世、改正のことを行わないで
大島郡のような慣例となれるであろうか。]

一荷の料(*金)、2分5厘、
1年の総計の額、すなわち本軒百姓は3匁、
百姓は1匁5分を納めさせると云えども、
4-5(*月)9-10(*月)の4ヶ月の間は、
耕耨(どうこう・*鍬や掘棒などを人力で操作
する最も原始的な耕作法の)収穫の季節には
減額して(*3匁を)2匁とした。
しかるに閏月には、また2分5厘を増加される
ので、改めて、1年に2匁2分を定規とした。
半軒百姓は、これを(*その)半分にした。
(*そして)遂に、この門役を挙げて
薬草 籾穀代に合併して浮役銀と総称するように
なった。

この他、なお浮役として鳥毛、
絲苧(*糸やカラムシ)、渋紙、細引(*細い縄)
蕨縄(*ワラビの根からデンプンをとった後の
繊維で作った縄)等を徴(*収)した。
鳥毛は、現高・100石に対して30本で代銀1匁、
15本の比例(*割合)である。
絲苧(*糸や麻)は、現高・100石に対して
1貫目で、この内、500目は楮(*こうぞ・
和紙の原料)で、
500目は苧(カラムシ・*雑草で、茎の皮から
採れる繊維は麻と同じように非常に丈夫。)
であり、代銀、12匁を与えた。
しかし、その内500目の紙捻賃・4匁4分2厘
を引いて、残り・7匁5分8厘を秋に納め、
銀中で換用した。
絲苧(*糸やカラムシ)は、
南前宰判(周防の諸宰判)では、三田尻の船手に
納め、北前(長門の諸宰判)では、銀子で政府に
納める制度であった。
[安永8年(*1779年)の記録に、絲苧・鳥毛代
諸郡の上納代銀、100目、米・2石で米納品を
許すことが見られる。]

渋紙、細引(*細い縄)は、社寺から納め、
除租地は、高2石に対して渋紙1枚、細引1本で
ある。
除租地で2石以内の社寺は、2年に1枚1本の
精度である。ただし、代銀は下与しなかった。
蕨縄は、本軒百姓から1房、半軒百姓から半房を
納める。
三田尻附近では船手に納め、萩 近傍では蔵元に
納めさせた。
この他、なお少しの雑税があるが、その額は
少ない。

郡村費は、一定の収支予算があり、
これを総括するものではなく、種々の名義で
種々の収支があるためその錯雑
(さくざつ・入り混じり)は、言うべきではない。
長州藩の郡村費の梗概(こうがい・*あらすじ)
を挙げることにする。

第一 郡配当米
これは郡費の主要なもので、その費目は、
座頭、盲女の救助米、
諸寺社初穂の藩主通行に関する人馬賃、
大坂または萩運送貢米に関する費用および人足米、
三田尻 船倉上納の絲苧(*糸やカラムシ)毛苫
(*毛のむしろ、か)、その他の不足の補給、
幕府の官吏、または九州諸侯の通行に関する諸費、
飛脚番の給米、城中に出す郡夫の給米、
勘場の筆墨紙料、勘場番の飯、諸費、
勘場の営繕費、手子役旅費、戸籍調査筆墨紙料、
自他国旅人 病者護送費、懲牢舎 遠島人飯米費
の類である。
郡配当の財源は、士貢延米の石別の1斗中の
3升は官に納め、その残りの7升および畠出米、
石別の2合でこれに充用し、不足があれば、
これを田高に賦課して追徴とした。
不足のために追徴するものは、近世の経験によれば、
大体、高1石におよそ1升以内であると云う。
この他、漁村のように田畠があるものは、
年々、一定の額を郡配当中に納めた。

 郡配当米は、古くは貢米収納の際、
受け桝、払い桝の差異から桝延米があり、又、
蔵延(すなわち、計法から生じる延)などが
ある。
(*また)別に弥延米と称して、畠の出米
石別2升を納めさせ、これらを合わせて
その内から田租毎の石に対して3升を官に納め、
その残りを本文に挙げる諸費に充てたもので
あるが、年を経て経験すると、延米の高は、
およそ単米1石毎に1升の平均となり、
その内、3升は貢租単米に増加して藩庫に入る
ものに当たり、7升は他の諸日に当てた。
そして、これらの延米の計算方法は、
計る者の巧拙(*うまい、へた)によって
過不及が生じ、非常に煩雑である。
そのため、天明6年(*1786年)の仕組みに際し
延米は、現米1石に1斗であると一定し、
庄屋にこれを受け追わせて、大庄屋にその収支を
担任させ、これを配当斗延法と称した。
これにより、士貢の計算には必ず1石に1斗の
増加があるのが例となり、これを士貢1石と
称させた。
延米の名も、後には不通の延米と区別せず、
両者共に、同一の意義(*とすること)に慣用する
に至った。
また、山代宰判では、古来、延米を免じて、
懸り銀と称して銀を徴収して延米に換えて、
浜崎宰判は、延米が僅少であるので銀を軒に課して、
これを補充した。

伊崎は小宰判であるが、そのため配当に一定の
制度はなかったと云う。
郡配当は、収入に余りがあれば、現米を人民に
還付する制度であった。
中世から有余額 石別5匁の比例に過ぎたときは、
庄屋がこれを補管して翌年度に繰り越し、もし、
また不足額 石別5匁に過ぎたときは、
庄屋がこれを代弁し、収支の煩わしさを省くことを
得る制度となった。
庄屋はこれを保管し、いわゆる預かりとするとき、
又は代弁するときは、その宰判で修補米貸付と
同様の利息を付した。
近世では、不足があっても有余を見ることは、
稀であったと云う。

第二 勘場小貫(こつなぎ) 
(*役所の所費用、の意)
勘場の費用であり、郡配当の費目に符合しないもの
があって、遂に、この会計が生じた。
その費目は、諸役人通路宿泊費の不足、
算用師の加勢給米、送場夫飯米、諸上納銀送付費、
勘場の年中の焚炭、煎茶、蝋燭、油代、
算用師の出萩の旅費、飛脚の定宿の心付け、の
類である。
これ又、その財源は、郡中 石高に賦課された。
近世の経験によれば、大体、高1石に1升未満で
あると云う。

第三 地下小貫(*別途の村費用、の意)
すなわち、村用の諸費を支弁するものである。
その費目は、村民尊信の諸寺社の初穂、
畔頭 証人、百姓らの心付け、
蔵番ならびに小触給米、
庄屋畔頭用の筆、紙、墨費、
村内の道路、橋梁の類である。
近世の経験によれば、大体、高1石に
2升内外であるが、小村では7, 8升の
ものもある。

天明6年(*1786年)の仕組みに際し、
政府の公認した郡村の公費は、以上の3種
(*郡配当米・勘場小貫・地下小貫)で、
当時、厳しく郡村費の節約を(*発)令し、
これらの費用で田畠の賦課すべきものは、
毎年12月にその別賦課額を公倉前に掲示
させることを法としたが、実際は、度々、
過不足があり、過あれば、これを内修補資本に
補助し、不足があれが、同修補資本から補充する
ことを例とした。
その他、なお費途が増加するに従い、爾来、
いわゆる増貫は、次第に加わり、
天明2年(*1782年)の暴動になり、
郡村費の増加は、人民の愁訴(しゅうそ・
*つらい事情を明かし、嘆き訴えること)の一条と
なったので、さらに節約を(*発)令し、
その翌年の(*天明)3年になると、
調査の上、万、やむを得ないものとして、
前の3費目に増小貫、足役抨の2費目を加えて、
等しく年末毎に石別賦課額を公倉前に公示する
制度となった。

第四 増小貫
その費目は、諸役人の通路、夜送り、
現人夫、小飛脚の火急の夜送り、あるいは、
松明(*たいまつ)夫らで、これを平均して
賦課するもの。
この他、なお公然の規定のない費用に下記の
数種がある。
第一 叺貫(カマスヌキ)地下小貫、足役抨の
以外になお、やむを得ない費用があって、(*それは)
畔頭証人百姓(五人組の長)の協議で納めるもの
である。
第二 萩 御蔵納込米割符
その額は、非常に少ない。
第三 証人庄屋(庄屋の組頭)の割符
一種の賄賂である。
代官以下の手子の者に庄屋から贈る遊山の費用
(例えば宮島 島廻りのようなものを云う)
算用師が萩に出る際、諸役人に進物などを郡中
石高に応じて徴収するものである。
この他、なお割符と称するものは少なくない。

郡村には、諸種の修補資金がある。
その主なものは、定払修補米、車貸修補、
別廉修補、勘場修補、内修補米米銀がこれである。
今、一々、これを詳説しない。
要するに、これらは皆、人民から特に課出した
ものが多く、これを運転して利益を収め、
これを諸種の目的に使用するものである。
故老の記録により、その使途を点検すると、
郡配当および勘場小貫に上がらないやむを得ない
費用、もしくは郡村の共益であるべき事業で
純然たる行政費でないものに使用する。
また衰微の宿役の一団体を挙げて、仕組みを行う
に当たり、これに代わって修補金の中から
その租税を保証することがある。
これは一種の共済組合の事業に似ている。
内修補の最前の要部は、村落の基本財産、または
富豪の金穀を年、5朱で預かり、これを1割前後
に運転し、その間の利益を収め、やむを得ない
費目に充てることにあった。
そのことは、少し貯蓄銀行、郵便貯金
などの事業と似ている。

要するにその目的は、必ずしも非難すべきところ
はなく、その慣行は諸種の事情に浸染して
頑として動くことはなく、ただ、その施工方法
では弊害を馴致させる(*なじませる)ような
ものである。
そうであっても、郡村費も郡村の修補制度も
元来の郡村費制度の整然たるものはなく、
累世、徒にその節約のみを促し、
必須の費目をもその支出の(*用)途を
塞ごうとして却って、大体に関して
刷新の良法を見る時運に達したが、そのために
特別会計は、区々(くく・*たちまち)、
紛錯(ふんざく・入り乱れて)して、
いよいよ、これらの弊害を現すようなものに
なった。
したがって、郡村の制法を全く一変し、
これに代える良法を施さないで、突然、
大いに郡村費を減らし、修補の法を全廃しようと
したが、それも出来ず、それは村田清風らの
材識果断で、天保12, 3年(*1841,42年)の
大改革に際し、遂に郡村修補になんらかの刷新を
行わざるを得ない所以となったのである。

(*次回、歴史の流れ 防長回天史を読む 14
第十四章 毛利氏の民政(其二) 
に続く)

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