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zoom RSS 歴史の流れ 防長回天史を読む15 第十四章 毛利氏の民政(其二)

<<   作成日時 : 2019/03/24 23:38   >>

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歴史の流れ 防長回天史を読む15

[ ] は、原文の注釈で、
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

●第十四章 毛利氏の民政(其二)

商売の負担
○醸酒業
○春定法
○山林制度
○戸口調査
○切支丹宗の禁制
○社寺の官吏
○知行地の民政
○士卒の住居地

維新以前にあっては、各藩は皆、営業、
もしくは物品、あるいは所得に賦課する税法は
なかった。
たまたま、営業に賦課するものがあっても、
売油者、あるいは染戸に僅かな免許料を
納めさせ、あるいは類似の営業者に、いわゆる
冥加銭を納めさせる類があるに過ぎず、故に、
概して論じれば、商売の負担は、極めて軽微で
あった。
長州藩もまた、この通則の外に出ず、
これに加えるに明智光秀が京都の地子銭
(じしせん・*公田の賃租料。
米で納めるのを地子米、銭で納めるのを
地子銭と云う。)を免じたから、その事は
前例となり、他の都会の地は、およそ地税を
免じていた。
諸藩は、およそこれに倣(なら)い、
城下の地租を免じて、城下の商売は、
宅地の税をも納めない者が多く、長州藩に
あっても、萩・山口・三田尻(宮市)の
三市街地は、地子銭を免じた。
[三地の地子銭のことは、故老に聞くところに
よるとこのようである。
天保13年(1842年)、江戸邸から改革事項の
数条を藩地に送った書中にも、なお、又、
市中には地子 不被仰付事
(*仰せ付けられないこと)
に付き、軒別貰で凶年の手当 詮議被仰付候
(*詮議を仰せ付けられる)事とあり、
萩に地子銭がないことは明らかである。
よって四冊の(*記)録中に、
類焼恵米の条(*項)に、山口町屋敷の分は、
その年 一ヶ年 御者成銀 被差除候
(*差し覗かれる)と見られる。
果たして、僧であれば山口は、近世に至るまで
除税されなかったか、もしくは、本文の云う
所が確実でないか、後証(*後の証明)を待つ。]

湯板場、蠟場は、ともに僅かな運上(*賃)を
納めた。
染戸、すなわち、いわゆる紺屋も、
また同じである。
[工匠、すなわち、大工、木挽、桶屋の類は、
職札を受けて、1日、1匁3分の割合で、
毎年3日分を収め、これを水役銀と称する。
しかし、これは正租ではなく、勘場の費用に
充てるものであると云う。]

醸酒の業(*種)は、一種の異例で、その免許
および制限の権(*利)は、海内を通して
幕府は長く、これを掌握し、幕府は度々、
自らこれに関する法令を布き、諸藩に、年々、
その石高を報告させ、敢えて既定の額を
超えないようにさせた。

また、諸藩の報告する造石数は、必ずしも
正確ではなかった。
長州藩にあっては、造酒 2升ごとに銀札2分の
税を課し、毎年、4月、7月、12月にこれを
上納させた。
そして、この税を称するに和市違銀の名を当てた。
和市違銀とは、時価の差異を弁償する銀の
ことを云う。
正確には幕府に憚るところがあり、それ故に、
さらにこのような不明瞭な称を用いたようである。
造酒家は、藩庫の米を借りるのを常とした。
これを返納するには、士卒の米切手
[藩庫から受けるべき棒禄米の券である ] を
買って納めた。               
切手は、その価現米より低く、その中間の利を
藩庫に入れる意味で、これを賦課したことから
次第に変じて一種の租税となっていったように
聞くように、天保9年(1838年)、幕府の巡検使
の巡回に際し、藩の政府から造酒家に内諭して、
もしも巡検使から直接に質問するようなことが
あれば、
「造酒は無税です。
ただ、毎年の初秋、藩主から造酒の原料米を
借用し、翌年4月1日を限りに、
これを返納する制度で、その間の和市違銀を
治めますが、その額は、僅かです。」
と答えるべし、と命じたことがあり、すなわち、
和市違銀とは、藩主から借用する原料の時価の
差異を弁償する名義であることを知るべきである。
他国米、他国酒は、国中で売買を禁ずるのは、
万治の制度で、爾後、終始、これを継続した。
醸造酒から得るところの収益は、未だに、
これは詳細にされていないが、誠に大島郡、
一郡についてこれを見ると、
元治年間(*1864-65年)、造酒家は11あり、
和市違銀は、藩札10貫7,800目である。
これによって、これを見ると、その額は、
実際には大きくはなかった。
酒税は、本勘に納めるのを原則とするけれども、
撫育倉(*庫)から原料を借りるものがあり、
これらにあっては、これを撫育局に納める。
[ 嘉永年間の旧記に、撫育局管轄の酒場・
和市違銀の歳入の80年の平均は、
8貫778匁3分3厘3毛と見られる。
故老の説に、撫育管轄の酒場は、中ノ関の開
作地の藤屋および舟木宰判中の沖開作地の
大黒屋の2戸だけで、これは特例であると云う。]

河川堤防などの土木工事は、その大小、
軽重により官費、民費、あるいは官民費共同
支弁の別がある。
民費には、群費、村費があり、正徳年間
(*1711-15年)には、その局部の区分を
明らかにして制度を作った。
その後、当初の区分は、やや廃れて、
明和元年(*1764年)、これを更定した。
爾来、大抵、これにより、代官は、
これらの工事を監督し、春秋に実地を巡察し
設計を定め、官費に属するものは、これを
萩の政府に申告した。
工事を執行するには、同時に、いわゆる
否起(*ふおこし)のことを兼ねて行わせ、
浚河(*川ざらいをした)の泥土で
潰流の田畠を埋復(*回復)させるなどの便を
とらせる法があった。
また、これらの工事に際しては、官林の樹木を
伐採して、これに使用し、あるいは、いわゆる
合壁山(がっぺきやま・*民有の山)にも
相当の義務を負わせる法があった。
天保13年(*1842年)には、諸郡に(*布) 令し、
民戸、各々、常に空俵、ひとつを置いて
(*それを)水害に供え(*ることを)示した
ことがあった。

収税の法は、毎春、各人の負担を明らかにして、
その年の納額を知らせた。
これを春定と称する。
春定法は、
常免(*常免法・じょうめんほう。
過去5年間、10年間または20年間の収穫高
の平均から年貢率を決めるもの。)
検見取(*検見法・けんみほう。田畑の 収穫高に
応じて貢租量を決める徴税法)
の二法を折衷したようなもので、
寛永20年(*1643年)から一般に、これを行った。
寛永以前は、いわゆる検見取の法を用い、
収穫の期になると、その結果を検(*査)して、
その納額を定める法で、耕作者は、あらかじめ、
その納額を確知することはできなかった。
藩庫も又、その年の収入の概算を予知する便を
欠いたが、寛永20年(*1643年)から春定の法を
行い、民は非常にこれを便(*利) とした。
春定法は、当時の当職・児玉 元恒(淡路)が
考案したものと云う。
その法は、毎年春初め、各納税者の耕作の田畑
山林の所在地、および反別(*たんべつ・田を一反
ごとに分けること)石高を列記して、終わりに
その物成の総額を示し、その他、主作利米をも記して
永否および休石は、別にその理由を記し
[ 永否とは、すなわち、荒蕪地(こうぶち・*荒地)
として租税を免じるものを云う。

休石とは、石高があって税がないことを云う。
永否は、すなわち、その著しいものである。
永否起戻などで租税の幾分かを納めるが、
その石高の幾分に対しては、よって、
免租するものもある時、その免税の部分の石高
をも休石と云う。]

なので、それを帳簿とし、人民の調印を取る。
これを春定名寄帳と称する。
田畠の石高は、一定し、その物成も石貫も一定
するが故に
[貞享(*1684-87年)以後、田は、四つ、
物成畠は、石貫10匁に一定した。]

名寄帳(なよせちょう・*検注帳・検地帳が
土地ごとに所持者を記しているのに対し、
名寄帳は個々の人間ごとに所持地を一括して
記している。)は、
通例は異動がないが、前年の春定以来、
売買譲与のため所有者の異動を生じ、あるいは、
開作により田畠の増減があるもの、又は、
永否休石の認可を受けるものの類があれば、
これらを訂正して調整した。
畔頭(くろがしら・*長州藩の庄屋の補佐役)が、
名寄帳を調整した時は、これを庄屋に出し、
庄屋は、これに下検査をして、一村総括の帳簿を
(*作)製して、これを添えて代官の勘場に
出した。
(*そして)一村総括の帳簿を春定皆済一紙と
称した。
勘場においては、算用方はこれを前年の春定帳と
参照し、違算がない時(*間違いがない時)は、
代官および算用方、大庄屋が、これに奥書、
調印して、これを畔頭に還付して保管させて、
そして名寄帳人別の納税明細を精密に謄写した
ものを作り、これを各野納税者に下付する。
これを下札と称する。
郡村費の予算負担額も又、下札中に加記する。
勘場においては、一郡の総括の帳簿を(*作製)して
これを軍奉行に出す。
これを春定皆済総括一紙と称する。
名寄帳は、5,6年または、7,8年を経て郡奉行の
廻郡の際、検閲を受けて初めて故紙(こし・
*不要の紙)となる。
(*よって)下札は、徴税令書と見るべきものである。
春定が既に定まれば、納税者の負担は、
これを極度とし,
それ以上に出さない。
しかし、もし、土地の損害、あるいは収穫の不熟が
あれば、減免を請うことを許した。
その法は、春定後、水害、海嘯(かいしょう・
*河口に入る潮波が垂直壁となって河を逆流する現象。)
などのため、潰地、流地などが生じれば、
これを郡奉行所に申告させた。
(*後、) 翌春になり官吏実地を検(*査)して、
永否の当否を定めた。
これを否究と称した。
但し、特に検使を発する(*派遣する)ことがあった。
あるいは、代官にこれを処理させることがあった。

(*永否の)当否には人夫を与え、これを(*災害を)
復旧させて、永否は休石とし、正租は、郡村費を
合わせてこれを免じて、毎春、官吏がこれを
検(*査)して復旧すれば、租税の賦課を復した
(*戻した。)
損害が少ないものは、代官以下の訓諭で翌年春の
否究を待たず、努めて起返(*復興を)
しないようにした。
一旦、永否を定めたもの、すなわち、いわゆる古否を
人民の自力で起返(*復興を)するときは、
その難易に応じて、3年、あるいは5年、
鋤下の年期を与えた。
米作は、毎年、梅雨後までに、植付届を出すことを
例とした。
もし水旱(すいかん・*洪水と日照りのこと。)
のため、植付をすることが出来ないものがある時は、
その反別(*たんべつ・田を一反ごとに分けること)
石高を詳記して、これを官に具申し、官の検査を
受けることができた。
不作田で畠作物を植付が出来たときは、秋になり、
検見して適宜の税を課して、全く作付けが出来ない
ものは、免税し、種米、反別2斗を給与した。
一人所有の田地のなか、一部分の不作がある場合は、
その他に得る所で納租に余りあるときは、
免税することの限りではなかった。
秋熟になり、一村の収穫が無ければ、その旨を
官の耳に聞こえるようにした。
これを総春受届と云う。
もし風水旱、または虫害などのため、
秋熟の不足があり、納税に堪えられないことが
あれば、検見を出願することが出来た。
但し、所有地の一部に不登(みのらず・五穀が
実らないこと)があっても、その人の所有地の
全部を平均して納税に支障がないときは、
検見を許さず、検見して事実、正当であれば、
損害の多少により正租の額を減免し、
皆、損田には反別2斗の種米を給与した。
但し、郡村費は、これを減免せず、検見の法も
種々あり、今は、これを省略する。
[ 四冊録によれば、千石未満の損害は、
代官に検見させて、千石以上は、政府から吏を
出して、代官と共に検見させた。
これを、加勢衆と称する。]
新田・畠の増加は、検地して反別石高を定め、
坪付帳(つぼつけちょう・*租税賦課のために,
損田や不堪佃田(ふかんでんでん)の数を
調査記載 した帳簿)に記入し、そして後に、
これを名寄帳に記入させた。

郡村費の賦課予算額(すなわち、配当不足貫、
地下小貫、足役坪の類)は、毎年、12月、
勘場において、これを調査し、天明(*1781-88)
以来、これを郡倉庫の前に貼付して人民に公示する
制度となった。
但し、春定に際し、各人の負担額を下札額を
下札の中に加書するのを例とした。
もしも、郡村費の予算に、やむを得ない不足が
生じれば、特に代官の認可を得て、後に、これを
徴収する法(*が、それ)である。

防長の山林原野は、これを三種に大別する
ことが出来る。
その一は、官有山林で、これを御立山
(*おたてやま)と称する。
その二は、私有山林で、これを合壁山
(*がっぺきやま)と称する。
その三は、郡村の共用地で、これを三野
と称する。
すなわち、いわゆる、入会である。

官有山林は、これを四種に細別することが
出来る。
その一は、いわゆる、御用心山である。
政府の土木工事で使用する材木を伐採する
所である。
その二は、いわゆる、番組山である。
順序を設けて次第に伐採、栽培するので、
この名があり、あるいは、これを番組売山とも
称する。
伐採は、当初は20年に1回の制(*度)であると
云えども、実際は、大方、4,50年に1回となった。
番組山の収益は、10分の9を本部に、1を撫育局
に納めるものとした。
[ 故老の説に、郡奉行の手に蓄積し、千両に
達する毎に撫育局に納める、と云う。
弘化4年(*1847年)の仕法には、郡奉行から
6,7年毎に100貫目に達するのを待って、実蔵に
納める、と見られる。
要するに、同一のことである。]
その三は、いわゆる、御普請山である。
郡村公卿の土木工事に使用する木材を伐採する
山である。
その四は、いわゆる、社付山である。
[社寺の境内山は、別である。]
神社の修繕、改築中にどの要する木材を伐採
する他は、時として官用のため伐採することも
あるが、その他には伐採を禁じるとしていた。
また、これと、ほぼ同種類で寺社修補山と
称するものがある。
(*これは、)特に寺社営繕用のため立山と
するもので、無税地である。
官林のなか、又、別に海岸に防風林と
称するもの、あるいは、航海目標林と
称するもの、又、漁村に水辺陰翳(*いんえい
・*光の当たらない暗い部分。)のため、
保護するものがあって、共に禁伐林とした。
合壁山(*がっぺきやま)とは、個人の
私有山林を云う。
正確には、人民所有の田畠附近にある山野に
竹木を生育し、人民が自由に伐採してその
建築用、あるいは薪炭に供することを許した
もので、古くは、田畠の売買に付属して、
その使用権を移転したものと云う。
これは、大内家以来の慣習で、毛利氏はこれを
襲用したところである。
そして、天明5年(*1785年)に初めて
民(*有)林全体を検査し、これに合壁の
称(*名前)を付し、その使用者に所有権を与え、
これに納税の義務を負わせた。
これにより(*それから)山林も田畠と等しく
独立して所有権の目的物の一種となった。
納税の額は、軽微であった。
その法は、1反歩ごとに下山銀札1分から
上山銀札1分に至る故、2分山、3分山、
4分山などの称(*名前)があった。
山野と称するのは、方言「さんの」と訓する。
(*と読む、解釈する。)
(*これは)前二者を除いた以外の山林原野を
包括したもので、全て無税地である。
その性質は官有のようであるが、使用権は
人民にあり、或いは、一郡の人民は、これを
共用し、或いは数村、或いは一村の人民で
これを共用とした。
共用の区域は、慣習により自ら一定していた。
その用法は、下草、下枝の類を取って、
田畠の肥料、焚付などに供していて、
防長、二州の中、この種類に属するものは
極めて多い。
この他、他村落によっては、山石役と称し、
山林に石高を盛り、これに対する石貫を納める
ものは往々にしてあった。
山石役の起源は明らかではないが、まさしく
往時は、一村、或いは数村が総合して山林を
栽培するような所に賦課した税制であった。
(*そして)常に一村、或いは、数村の共同の
負担であった。
山石役も高一石につき藩札一匁を納めることは
畠税の石貫と異ならず、山税はことごとく本部の
収入に属した。
給領に山河ない、とは長州藩の一格言で、
藩士釆地(さいち・*領地)の配与には、
山河を包含しなければならないことを
法とした。
一村、一郷を挙げて給領に与えた土地にあっては、
其地の官有山林、および河川の使用は、これを
領主に一任したが、用材を伐採して他所に運輸
するようなことは奉行所の認可を受けざるを
得なかった。
まさしく、(*これは)乱伐を防ぐ意であった。

一村、一郷内に数給領が櫛比(しっぴ・
*すきまなく並ぶ。)地においては、山河は
依然、藩の公領としたが、新たに邸宅を構え、
或いは火災により再築するような時においては、
郡奉行を経由して奉行所に申請し、用木の伐採の
認可を受けることが必要であった。
郡奉行の下に山方役人二人、下僚が二人がいて、
毎年、春秋に分けて半内の山林を巡回し、
郡奉行の指揮を受けて山林を監督した。
代官の下にも、また山方役人があり、これに属する
下僚が少しいた。
(*そして)皆、代官の指揮を受けその管轄内の
山林を掌握した。

戸口調査は、10年に1回、幕府の命により
海内を通じて、これを行った。
切支丹宗は、幕府の成法に基づき、これを厳禁
した。
社寺および神官・僧侶は、万治諸法の中に
諸寺法度、社家法度の二つの令条があり、
その管理の綱領を定めた。
神官・僧侶は、等しくその道に忠実であること
を期し、民を誑(たぶら)かして利益を貪る
ことを禁じ、非義非道の行を戒め、違う者は
刑に問うた。
殊に僧侶は、みだりに他宗他派を誹謗する者、
破戒無慚の行があるような者は重刑を加えた。
相当の理由に基づき特に許可がある者の他は、
新たに社寺を造設することを許さず、古跡の樹木を
伐採することを許さず、寄附の土地を私することを
許さず、およそ、その道の先、規定の例は、
これを乱すことを許さず、他国へ行くときは、
許可を受けることが必要であった。
神職は、奉行所の許可を受けないで官位の昇進を
許さず、僧官・僧位は、その性質上、徐々に行い、
その趣を異にするが、なお藩主の寄付地にある
諸寺の僧侶は、奉行所の許可なくして昇進する
ことを許さず、殊に浅学・年少で高位高官に
就くのを禁じた。
僧侶の寺を伝える者は、有学・善行の者を
選ぶべきである。
末寺は、本寺の成例・定規を守るべきである。
本寺で非法のことがあれば、末寺は奉行書に訴え
指揮を受けさせる。
寺院の累代の書籍・重宝は散逸を許さず、
重罪を受けて死に処せられる者に相当し、
僧侶が出てその助命を請うのは、
戦国の世ではその例は少なくないが、
これは慈悲に似て、慈悲にあらず、
政道の害であるとして、これを禁じた。
また城下の諸寺が法事を修めるのに当たり、
夜に入り男女・老若の混合・礼拝をさせることを
厳禁した。

座頭瞽女(*ざとう ごぜ)
[盲男、盲女のこと。
盲男は琵琶を弾き平家を謡い、盲女は三絃を弾き、
小歌を謡うような小技を売り、人の慈恵を請う
風俗があった。] に対しては、往時から
非常にこれを憐れむ風習があった。
享保(*1716-35)以前は、座頭瞽女は村落を徘徊し、
吉凶の施物を請う者があれば、一村一宿は、
公費で、これを支払い、相応の慈恵をなして、
かつ、その行き来は自国内の旅行と
他国への旅行とを問わず馬を出して、
これを送らせる制(*度)が、あったが、
享保14年(*1729年)、藩の領域を越えて
他に赴くことを禁じてから、(*座頭瞽女の)
藩内の徘徊はその度合いを増して、
耕作の季節などには、良民は非常にその煩いに
苦しめられた。
よって享保19年(*1734年)以降、
各村から、あらかじめ座頭瞽女の人員を申告させて
郡内の田地から高一石に6勺1才を収め、
その助けに充てる制(*度)として、これを
弥延郡の配当米の支出計算に加えて、その収入額を
恵与する方法とした。
その後、土地の広狭坪があった際は、賦課の率を変えて
高一石に5勺6才とした。
但し、(*これは)実地は延米で支払い、
特に徴収しないのを慣例とするのに似ている。
農家が火災に遭った時は、類焼者に毎戸、米3斗、
失火者に米2斗5升を郡修補米の中から給与した。
但し、灰小屋から失火させた者、あるいは、
長屋を失い、本家を失わない者の類には給与せず、
(*家屋の)流失も、またこれに準じた。
風害などのため家屋が倒れた者にも、また
郡修補米の中から米2斗を給与した。
村落で捨て子を拾い、これを養育する者には、
等しく郡修補米の中から米1斗を給与した。
[これらの恵与は、山城宰判では銀を給与した。]
農民が死亡して家に壮丁(そうてい・一人前の
働き盛りの男子)がなく、妻子が困窮する者は
5年間、諸役を免じた。

士の知行は、釆地の場合と廩米の場合の
二種があり、長州藩には釆地をもってするもの
が非常に多かった、まさしく毛利氏の最盛の時の
遺風を伝えることが多いのに似ている。
釆地(さいち・*領地)は、これを給領と称する。
古(いにしえ)は、特に給領代官
[当時、あるいは給領所務代とも称する。]を
置いていたが、貞享(*1684-87)の検地以後は、
郡代官がこれを兼ねた。

給領には、およそ庄屋を置かず、小都合人と称する
者を置き、庄屋の職務を行わせた。
多くの小給領の地には、数給領に一都合人を置く者が
多かった。
給領地も、また代官がこれを管理した。
ただ、給領地であるがゆえに、その管理方法の細節に
ついては、少し変例を設ける必要があるだけであった。
司法上のことと云えども、領主は、他より自ら刑を
課することをせず、給領地においては、代官管轄の
租税の他、領主が自ら特殊な小物成を賦課するものが
少なくなかったので、
人民の負担は、政府直轄の地に比べれば、やや重きを
免れたようであった。

往時、各藩の士卒は、およそ皆、城下に群居すること
を常とした。
長州藩も又、同じで士卒は、大抵、萩に群居した。
ただ水軍の士は、三田尻にいた。
釆地(さいち・*領地)を有する士と云えども、
基本、住居は全て萩にあり、たまたま群を離れて、
郡地に住居するのは家計が窮迫して城下にいることが
出来なくなるなどの事情により特に許可を得た者に
過ぎず、郡地に住居する者は、民政上の事項に関しては
農民と異なる所なく、代官の管轄に属させた。
但し、不服の事件があるときは、速やかに状を具して
上司に申告することを得て、
士に従属して住居する者も又、同じ釆地にある藩士の
従属者は、郡地に住居する者が多かった。
忠正公の時(*世)になると萩の士卒は、
多く(*忠正公)に随い、山口に移住した。
後、また藩国の多事の際になると、努めて郡地在住を
奨励したことがあった。

(*次回、歴史の流れ 防長回天史を読む 16
第十五章 毛利氏の司法制度 
に続く)

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