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zoom RSS 歴史の流れ 防長回天史を読む17 第十六章 忠正公の童年と当時の大勢

<<   作成日時 : 2019/05/14 22:21  

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歴史の流れ 防長回天史を読む17

[ ] は、原文の注釈で、
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。

●第十六章 忠正公の童年と当時の大勢

忠正公の出生
○幕府と諸藩との状況
○光格天皇の修学院 行幸
○勤王論の浸漸
○百姓一揆
○三公の逝去
○長州藩の内情
○公の襲封

忠正公、諱は敬親(*たかちか)、
幼字は猶之進(*ゆうのしん)。
邦憲公(*毛利 斉元[もうり なりもと] )の
長男である。
母は、原田氏(名は、まさ、後、恵日院と称す。)
幕府の先手組同心・原田 某(通称・東八)の
子である。
(*忠正公は、)文政2年(*1819年)2月10日
(幕府への届け出は、2月15日)をもって
江戸の麻布邸に生まれる。
(*父の)邦憲公は清徳公の従弟である。

*【参考】
○長州藩・10代藩主。
毛利 斎熙[もうり なりひろ](清徳公)
○長州藩・11代藩主。
毛利 斉元[もうり なりもと](邦憲公) 
○長州藩・12代藩主。
毛利 斉広[もうり なりとう](崇文公)
●長州藩・13代藩主。
毛利敬親[もうり たかちか](忠正公)

(*邦憲公の)幼児期は、かつて、
老臣・福原 房俊(豊前)(*福原 房純)に養われ、
福原 豊之陸允と称する。
文政11年(*1828年)の冬になると清徳公の
意により毛利氏に復し、弾正君と称して麻布邸にいた。
(*邦憲)公が生まれて実に26歳の時であった。
当時、清徳公が長く藩主の職にあり、
非常に、その事務に疲れ、遂に譲封
(*領土を譲る)の意があった。
しかし、(*清徳公の)子・保三郎君は、
なお幼なかった(時に、年6歳)。
清徳公は、弾正君の「人となり」が謹直である
ことを愛し、よって(*弾正君を)立てて世子とし、
(*後に)保三郎君にこれを継がせようとした。
この年、弾正君を改め、式部 教元と称する。
その9月10日、(*清徳公は、)幕府に願い、
式部君を養子とし、妻には保三郎君の姉・儀姫
をもってした。
その11月11日、式部君は、首服を加え、
(*これまでの経緯を陳述し)将軍の偏諱
(へんき・上位者が下位者に諱(俗名)を一字
与えること。)を賜り, 斉元と称し、
従四位下に叙され式部大輔に任じられる。
当時、藩にあっては、清徳公・式部大輔・
保三郎君を称して、御三殿と云われた。

遡って、文政3年(*1820年)6月11日、
(*邦憲公)式部大輔君・宮内大輔と改称し、
文政4年12月16日、さらに侍従に任じられる。
翌、文政5年6月26日、清徳公は幕府に請うて
保三郎君を斉元君の嗣(*あとつぎ)とする
ことを許される。
文政7年2月27日、領土を斉元君に譲る。
(*同年)3月11日、斉元君は大膳大夫と
改称する。
(*この頃)清徳公は既に退職して新橋邸に移居し、
翌年2月7日、さらに葛飾邸に移居する。
清徳公が譲封(*領土を譲る)の時、(*清徳公の)
年、まさに42歳であった。

邦憲公(11代藩主。毛利 斉元)は、領土を
引き継いだが敢えて自ら、ひたすらにせず、
事務一つに、決を葛飾邸で取った。
当時、藩内では、
清徳公を称して大殿様と云い、
邦憲公を称して殿様と云い、
保三郎君を称して若殿様と云った。
邦憲公が立つと、忠正公はその長男であったが、
待遇は、不通の諸公子と異ならなかった。

(*忠正公は)文政4年(*1821年)4月27日、
年3歳の時、同じ母の弟・牧之助君
(同年7月17日、夭[よう]す。*若死にする。)
と共に麻布邸を発して、東海道、伊勢路、中国路を
経て、6月1日、萩に着く。
天保7年(*1836年)、世子なるまで16年間、
常に萩にいた。
[天保7年になるまで、八丁邸にいた。
なので、同年、渡口邸に移る時、人は、渡り口殿と
称した。]

(*忠正公は)3歳にして初めて侍者の中に子供を
加えられ、よって、ようやく婦人の手を離れる地
に行き、5歳にして袴儀の初の式があり、
7歳にして初めて、全く婦人の手を離れ、
手跡(しゅせき・筆跡)稽古の始めがあり、
8歳にして射術・剣術・馬術・謡い稽古始め
があり、9歳にして居合・立合・抜刀の
稽古始めがあり、初めて明倫館の先聖の廟を
拝し、講誦(こうしょう・*詩文を講じ、声を
あげて読むこと。)を覧(*み)る。
10歳の時、滝繁兵衛の手跡・学問の指南があった。
12歳の時、藩儒・山縣慎平に、同じく
手跡・学問の指南の命を受ける。
12歳の時、入角 袖留
(この時、名を数明と改める)。甲冑着の發の式
があり、かつ、実蔵院流 槍術を学び、
中村 九郎兵衛について儒書を学ぶ。
この年10月、太甲湾に遊び、船を浮かべ、
鴨を射て、これに当たることがあった。
能島流船軍の書稽古の初めも、この年であった。

このようにして文武の業を研磨して、敢えて
逸予(*予定の逃すこと)することはなかった。

[ 忠正公の八丁邸および渡口邸には、頭人がいた。
邸事を監察する佐藤 権兵衛と云う八組130石の
武士であった。
文政8年(*1825年)、頭人となる。
(*その)「人となり」は、温厚・篤實で好んで
国詩を詠じ、特に連歌に巧みであった。
輔導(ほどう・*正しい方向に進むように教え
導くこと)の功は、直感的ではなかった
(*理論的であった。と云う。
天保3年(*1832年)、辞職し、足立 忠左衛門が
これに代わった。]

この時にあって天下の形勢は、大いに変貌しようと
していた。
そして、雷雨の将軍が来ようとして、天は、まず、
静かなようであった。
初め(*徳川)) 将軍・家斉の軍職が継ぐと、その年、
なお幼く、賢相・松平定信(白河少将)老中が
首席を占めて将軍補佐の任に当たった。
当時、田沼氏の執政の後を受けて、天下奢靡
(しゃくび。*身のほど過ぎた贅沢)を競う定信は
すなわち勤倹をもって仕民を率い、文武の業を
奨励して風紀を粛正しようとして非常に治績が
あり、中興と称した。
(*松平)定信が罷免されるに及び、
老中・松平信明は、(*定信の)その政治を用いる
一つに、定信の旧による二相の政治に当たると、
たまたま露人が蝦夷に来ると云う報があった。
(*そこで)幕府は、遍く諸侯に令して、
仕衆を訓練して海防に備えさせた。
しかも、その事は須臾(しゅゆ・*一瞬)にして
止み、天下は再び泰平を歌った。

(*後)松平信明が亡くなり、
老中・水野忠成(出羽守)が、専ら事に当たるに
及んで、家斉の治世は、既に久しく驕奢
(きょうしゃ・*おごっていて 贅沢なこと。)が
ようやく長く続いた。
そのため財政は、大いに窮迫した。
(*そこで)水野忠成は、即刻、数々の貨幣を
改鋳して悪貨をつくり、そのために一時を
苟且(こうしょ・その場かぎりの間に合わせ)
しようとする。
物価は高騰して庶民は大いに苦しむ。
(*忠正公の)生まれた時は、実にこの時にあった。
徳川氏は、既にこのようであった。
流風(りゅうふう・*流行の風潮)が及ぶところ、
諸藩は多く、これに従った。
長州藩においては、清徳公は闊達(かったつ・
*小さな物事にこだわらない。)で華美を好み、
和姫を娶(めと)って婚儀を挙げることがあった。
(*これについては)国財を費やすこと
夥(*おびただ)しく財政は非常に困窮した。
これを慨言すると、天下の公伯はことごとく
泰平に酔い、豪奢に耽(ふけ)った。
そして他の一面においては、かつて識者が
予言した海警が次第に接近していた。

寛政・文化(*年間、1789-1817年)の露警
(*ろけい・ロシアへの警備)は、ただ、その
第一歩であるに過ぎず、
越えて文政7年(*1824年)、(*忠正)公、
年6歳の時、イギリスの軍艦が薩摩の宝島に来た。
又、常陸・大津村にも来る。
文政7年(*1824年)、(*忠正)公、年7歳の時、
外舶(*イ外国船) が近海に出没することが
ますます多かった。

これより先、寛政3年(*1791年)、松平定信の
執政の時、外警(*外国からの威嚇)が、
ようやく多くなり、盛んに外国船の打ち払いを
断交した。
これにより(*幕府は)葛藤が生じることを恐れ、
諸侯を諭して、非常に懐柔(かいじゅう・自分の
思い通りに従わせること)な策を執ろうとし、
文化3年(*1806年)正月、松平信明の執政の時、
又、ロシアの警報により、更に同一の趣意を令して、
かつ、漂流船に食物・薪・水を与えるべきである、
の意を加え、ますます、懐柔の意を進めた。
ここに至り、時論、或いは外国船がしきりに
来るのは、寛政文化の懐柔令、
これを驕(おご)らせることになり、寛永の旧制を
することを求めた。
(*そこで)幕府は、同年、幕府の策を決して、
再び無二念打払令(むにねんうちはらいれい・
*異国船打払令のこと。無二念とは、
二つの異なった考え無く、の意。)を発した。

外交の切迫がこのようになると共に、かつて久しく
伏在していた勤王心は、勃然として表面に
現われ始め、田沼氏執政の晩年、庶民は、
その引き締めに苦しんだ。
次いで、天明の飢饉があり、浅間山の噴火があり、
天下恐々、人心は乱を思う。
武家の政治は破れて公家の政治が回復する
との流言があり、(*徳川)家斉が軍職を継ぎ、
松平定信が政事を執るに及び、
深く誡(いま)しめる所があった。
(*そこで)幕府は、自ら皇室を尊崇し、
よって天下の心を鎮(しず)めようとする。
これをもって、(*徳川)家斉の世を通して
非常に、意を皇室の尊崇に致した。
天明8年(*1788年)京都に火事があり、
皇宮、上皇宮に延焼すると、幕府は天下の諸侯に
課して、皇居造営の役を助けさせ、
寛政2年(*1788年)に、それ(*皇居造営)は
成った。
(*その)規模は、非常に宏壮
(こうそう・*広く立派)で、従来の狭さには、
似ていなかった。
(*そして)光格天皇から詩を賜い、
後桃園(*ごもものぞの)上皇から和歌を賜い、
もって(*徳川)家斉の功を賞した。

文政7年(*1824年)邦憲公(*毛里斉元) が、
襲職(しょくしょう・*職務を受け継ぐこと)の年、
その9月21日に光格上皇が東山・修学院の
離宮に行幸し、紅葉を見る。
有栖川親王以下、随従する。
父老、その盛儀を観て、涙、下るものあり。
享保年中(*1716-1735年)、霊元帝が、春秋に
ここ(*修学院離宮)に行幸してから、この典は、
久しく廃止されていた。
ここに至って幕府は重ねて、離宮を修繕して
(*光格)上皇の宸遊(*観光)に供し、以後、
春秋の二季の臨幸を定例とした。
(*光格)上皇は非常にこれを、良しとして
褒め讃えた。

[(*光格)上皇の御製がある。云うには、
染つくす 此山陰の紅葉ばに
 めでこし秋そ しのはる
後(のち)、久坂玄瑞は、当時のことを追詠した
詩がある。云うには、
紅楓掩映翠華光父老公於今感喜長
昨夜秋林霜始隕一篇叡藻讀将狂 ]

当時、公武東西、殆ど水魚の観
(*親しい関係の感じ)があった。
幕府、並びに諸侯の吏は、深く皇室は尊ぶべきで
あると云うことを知るに至り、
諸藩および民間の士人は、ますます天子が尊い
と感じたのは、実にこの時であった。
これと同時に、天下の文運(ぶんうん・
*学問・芸術が 盛んに行われる様子。)も又、
一変の横に向かった。
勤王論の史家・頼 襄(*頼 山陽)が、その著・
日本外史を松平定信に贈ったのは、
文政10年(*1827年)、(*忠正)公が、
9歳の時であった。
襄(*頼 山陽)の文は、犀利(さいり・鋭く)
明解で、当時、比べる物が無いと称された。
その意は、もっぱら尊王護国の精神を鼓舞する
ことにあった。
少壮(しょうそう・*若くて意気盛んな)の士は、
これによって興起する者が少なくなかった。

[ 日本外史および(*日本)政記の中、(*毛利)
広元、輝元に関する論賛は、少し防長人の不満を
招いたが、襄(*頼 山陽)と毛利氏との関係は、
決して浅くないものがあり、靖恭公(*毛利斎房・
長州藩第9代藩主。)の(*正)室・貞操院
(*幸子・栄宮)は、
有栖川織仁親王(ありすがわ おりひと しんのう・
*徳川慶喜の外叔父)の娘である。
(*そして貞操院が)京都に居られた時、
襄((*頼山陽) が自書の本を贈り、非常にその
風骨(ふうこつ・*本の作風と精神)を得た。
(*忠正)公が襲職(しょくしょう・
*職務を受け継ぐこと)の時、貞操院は、
なお宮殿に居られた。
清徳公(毛利 斎熙・長州藩第9代藩主。)が、
葛飾邸に鎮海園を作ると、また、襄(*頼山陽) に
これを書かせた。]

そして、嘉永癸丑(*6年[1853年])以後に
なると、(*日本外史は)天下を風動し、
一軒ごとに詠誦され、家ごとに読まれる勢いを
得たのである。
(*一方)水戸藩士・会沢 安(*儒学者)の新論が
その藩主・徳川斎修に献じられたのも又、
文政8年(*1825年)、(*忠正)公が年7歳の
時であった。
その著述の意は、もっぱら皇室を尊び、夷狄
(いてき・*東方、北方の異民族)を制し、
(*その)名分を明らかにすることにあった。

このように、一方では幕府および諸侯が贅沢を
極めることがあり、他方では外交が、ようやく
切迫することがあった。
(*そして)勤王の心は非常に発達した。
天下の勢いは、ようやく移り変わろうとする。
そして、その、まず事実として現れたものは、
贅沢に対する反抗であった。
当時、諸藩の年少である主(あるじ)は、
およそ前代の贅沢の弊害を矯正しようとする
気持ちの者はいなかった。
長州藩でも、
邦憲公(毛利 斉元・長州藩・11代藩主。)
も又、非常に藩政改革にその意があったが、
清徳老公(毛利 斎熙・長州藩・10代藩主。)
は、なお葛飾邸に居て、敢えて自ら関わらず、
そして当路(とうろ・*重職)の吏の多くは、
およそ通じず、徒に時と共に贅沢の風潮を
なしていた。
(*後、邦憲公の)世子・保三郎君の婚姻の事が
あるに及んで、国用(こくよう・*国費)は、
いよいよ窮する。

天保2年(1831年)、(*忠正)公、13歳、
秋の収穫は、凶歉(きょうけん・*農作物が
著しく不作であること。)で物価が高騰する。
その7月、
邦憲公(毛利 斉元・長州藩・11代藩主。)は、
国に居た。
清徳老公(毛利 斎熙・長州藩・10代藩主。)
と世子・保三郎君(*清徳公の子)は、
江戸に居た。
邦憲公が、まさに江戸に行こうする、
その月(*7月)の下旬、ちょうどその時、
山口・三田尻・小郡宰判の土民が蜂起し、
富豪、庄屋町、年寄の家屋を破壊して、
8月21,2日になると小郡、舟木、吉田、美祢、
両大津、阿武郡の土民が再び蜂起した。
事態は非常に穏やかでなく、よって(*藩は)
一門、目附、物頭などを派遣し、僅かな期間で
これを鎮めることが出来た。
なので、邦憲公は、期のように(*7月に)
東上することが出来ず、11月10日になって
やっと萩を発った。
世子・保三郎君(*清徳公の子)は、時に18歳。
聡明で学問を好んだ。

(*保三郎君)は、江戸に居て、この報に
接するにおよんで、これは累年の苛政(かせい・
*厳しすぎる政治)の結果であって、自身の
結婚がその要因であることが少なからずある
として、今にして、もっぱら倹素(けんそ・
*無駄な出費をせず質素なこと。)を尊び、
「小心翼々(*気が小さく、些細な事にも怖がる。)
身をもって(*民)衆を率いるべきである。」と、
内密の書状を清徳老公と邦憲公とに上げて、
大いに俗吏の弊害を論じ、近親者に非常な
倹約を行い、士人に従うことの意を告げて、
(*自ら)身に綿衣を着て、前菜を減らした。
清徳老公は、その書を見て、大いにこれを行うべき
であるとして、直目付・福原 三郎左衛門に
その書を持たせて国に行かせて(*民)衆に
示させた。

邦憲公(毛利 斉元・長州藩・11代藩主。)は、
翌年(*天保3年[1832年] )7月19日になり
帰国し、去年の諸郡の土民蜂起の終始を審議・
点検し、数人の吏を罰し、事(*土民蜂起)が止む。
時に、藩の負債は8万貫目を超える。
邦憲公および世子は、大いにこれを憂う。
村田清風らは、数々の財政整理を企てたが、
吏議因循(りぎ いんじゅく・古い習慣や方法など
に従うだけで、それを一向に改めず。)、
終に(*財政整理は)成らず、その後、4年、
天保7年(*1836年 )5月14日になると、
清徳老公(毛利 斎熙・長州藩・10代藩主。)
は、(*江戸)葛飾邸で亡くなり、
同年9月8日、
邦憲公(毛利 斉元・長州藩・11代藩主。)が、
萩・荻城で亡くなり、(*次いで)
12月29日、崇文公
(*毛利 斉広・長州藩・12代藩主。)が
亡くなった。
(*そこで忠正公)年、18で、藩主の職に就いた。
時にこの年は、風雨、順を失う(*季節が
入れ替わるようになり、)穀物価が暴騰し、
この年の春夏に雨が多く、年末に飢饉となった。
幕府・諸藩は努めて窮民を憐れむ。
防長二州もまた、その害を免れず、加えて
6月11日に大雨があり、翌12日になっても
降り止まず、緒川は氾濫し堤防が決壊する所
多く、藩庫の収入は殆ど半分に減り、
土民の飢寒(きかん・*飢えと寒さ)は、
非常に多く、人心は恐れおののき、
定まらなかった。

[6月11日の大雨によって萩の八丁堤がまた、
破られた。
市中の過半が水に没した。
忠正公は、当時、八丁堤内の南園(いわゆる
八丁邸と云うものがあった。)にあり、
洪水に見舞われ、僅かに身、ひとつで免れた。
よって、瓦町の客舎に移り、8月13日、さらに
渡り口邸に移り住んだ。
忠正公が姥蔵の開墾に鋭意したのは、まさしく
この水害で感じる所があった、と云う。]

(*後)忠正公は、室の訃報を重ねて聞くに及び
満面、色を失った。
邦憲公(毛利 斉元・長州藩・11代藩主。)が
歿すると、
崇文公(*毛利 斉広・長州藩・12代藩主。)が
嗣(つ)ぐが、薄柳(うすやなぎ・*顔色が青いの
例え。)の(*性)質である。
(*崇文公は)今夏以来、病にあり、
荏苒(しんぜん・*何もせずに歳月が過ぎ)
治ることがなく、士民は、大いに危惧する。
崇文公は、これにより早く嗣子を定めて
士心を安心させることを望み、
国老・毛利 房謙(もうり ふさかね)(蔵主)、
(*長州藩一門家老・吉敷毛利家12代目)
梨羽凞昌(頼母)を招いて、これ(*嗣子問題)
を図った。
よって二人は、忠正公を嗣として、崇文公の娘・
偕姫が成長するのを待って、姫を配する
(*夫婦にする)べきであるとの議論を進めた。
邦憲公(毛利 斉元・長州藩・11代藩主。)も
又、(*忠正公に)意があり、既に
田安侯(斎荘)から嗣子を定めるかどうかを問い、
かつ、云々するところがあった。
[(*これについては)今、どう云うことであるかの
詳細はしない。]
*田安斎荘(たやす なりたか)は、
尾張・徳川家十二代。家斎の十一子。
田安家の養子となり、田安家四代を継いだ。

これにおいて、(*二人は)急に策を定めて
(*忠正)公を江戸に招こうとする。
(*だが)そのことを未だ果たさない間に、
崇文公は、終に江戸で歿した。
幕府の制度では、主、死して継嗣がいなければ、
国が除かれる。
よって(*藩は)喪を隠して、
同(*天保)8年正月、幕府に告げて、
(*忠正公と崇文公が面会する、と云うことで)
忠正公を出府させた。
その(*天保8年)2月、忠正公は萩を発し、
3月2日、江戸の桜田邸に着き、崇文公に
謁見する礼を行い、崇文公が、なお居られるように
して、馬廻り番頭に命を出した。

崇文公
(毛利十一代史。著作権満了より)
画像


(*天保8年3月)5日、
崇文公の名で、幕府に要請し、(*忠正公を)
嗣として、敬親(*原文ママ) と改める。
(*天保8年3月)8日、
(*幕府の) 閣老が連署して(*忠正公)が
世子であることを許す。
(*天保8年3月)14日、
幕府奏者番・内藤 紀伊守が崇文公の病を
訪ねる。
徳山候広篤(後、元蕃)が迎接する。
(*天保8年3月)17日、
(*崇文公の)喪を発する。
(*天保8年3月)20日、
幕府奏者番・青山 因幡守が来て喪を弔い、
かつ、香資を贈る。
長府候元運が、これを迎接する。
(*天保8年)4月27日になり、
幕府、(*忠正公)に領土を継がせる。
(*天保8年)5月15日、
(*忠正公)初めて、将軍・家慶に謁見し、
*徳川 家慶(とくがわ いえよし)は、
当時45歳。 家斉(いえなり)の次男で、
この年、将軍職を譲られていたが、
当時は、まだまだ、家斉が大御所として
強大な発言権を保持していた。

(*天保8年)6月18日、
首服を加え(*元服させて)偏諱を賜い、
慶親と改め、従四位下に叙し、
侍従に任じ、大膳大夫と称する。
(*ここに)当藩は、初めて心、安堵し、
そして、去年の凶作の後、
人心は、いよいよ穏やかでなく、
(*天保8年)8月19日、
終に大坂で大塩平八郎の変があり、200年来
久しく兵革を見なかった徳川の天下において
初めて干戈(かんか・*武力)を動かすこと
須臾(しゅゆ・*ほんの少しの間)で平定したが、
江戸の狼狽(ろうばい・慌てふためく。)は、
非常に大きく、華奢(きゃしゃ)風流に慣れた
幕府の旗の下の士は、甲冑を所持していないので、
急に、普通に往来する諸侯の邸宅を訪ねて、
これ(*甲冑)を借りる者がいた。
(*また)その金を使わず、借用したことを喜び、
(*それを)伝えて、さらに争って、
借りに来る者がいた、と云う。

[本年(*天保8年・1837年)11月、
郡奉行・赤川 忠右衛門の諸代官の私書に、
民心の疑惑の原因を説明して地下役人
(*昇殿を許されない役人のこと)の横暴に
よることが多いとして云うには、
大庄屋、村庄屋、畔頭どもの中屋宅のしつらい
(*調度類をたてて室内を装飾すること)は、
華美を尽くし、屏風、建具、床飾りなどの類の
種々は、風流を凝らし、家具などにまで、
結構な物を用い、かつ、妻子の衣類は目立ち、
立派なものを好み、ご法度の品を用いて、
これを面目とするようなものがあり云々、と。
また、云うには、
御恵米などが下された折、とかく(*その)配分は
行き届かないこともあり、その他、地下仕組みなど
についても私曲(*しきょく・不正な手段で
自身だけの利益を図ること。)があり、あるいは、
暮請などの折、悪い調儀をする者があり云々、
と。]

(*忠正)公が領土を継ぐ年(*天保8年、1837年)、
諸公子には、すなわち、
◎清徳公の子・信順(初め、恵之介、次いで、
郷之介、後に、左近と称する。この年、22歳。
安政2年に亡くなる。)、

◎邦憲候の子・教徳(基之丞と称する。
この年、8歳。天保14年に亡くなる。)
(*◎の二人)がいた。

夫人および女公子には、
◇靖恭(斎房)靖恭公(*毛利斎房・
長州藩第9代藩主。)の室・貞操院、

◇有栖川王氏(有栖川織仁親王の娘。
この年、56歳。嘉永5年亡くなる。)、

◇清徳公(毛利 斎熙・長州藩第9代藩主。)
の室・宝鏡院池田氏(松平 相模守治道の娘。
松平 因幡守斉稷[なりとし・*因幡国
鳥取藩・8代藩主。]の叔母、実は、
斉稷の姉、この年、40歳。安政3年亡くなる。)

◇邦憲公(毛利 斉元・長州藩・11代藩主。)
の室・蓮蓉院毛利氏(清徳公の娘。
崇文公(*毛利 斉広・長州藩・12代藩主。)の姉。
この年、34歳。翌、天保9年亡くなる。)

◇清徳公(毛利 斎熙・長州藩第9代藩主。)
の娘・マスコ(天保7年、宗対馬守義章に嫁ぐ、
この年、20歳。)

◇八重子(天保4年、老臣・毛利広篤に嫁ぐ、
この年、18歳)

◇章子(この年、15歳)

◇邦憲公(毛利 斉元・長州藩・11代藩主。)
の娘・厚子(天保6年、老臣・益田越中元宜の
嫡子 ・熊次郎兼輿に許嫁する。この年、11歳)

◇孝子(この年、9歳)

◇嘉子(この年、3歳。天保14年歿する。)

◇崇文公の娘・偕姫(すなわち、忠正公に
許嫁される。結婚後、都美子と改める。
この年、5歳)などであった。

(*次回、歴史の流れ 防長回天史を読む 18
第十七章 忠正公の初政と当時の大勢 
に続く)



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