歴史の流れ 防長回天史を読む18 第十七章 忠正公の初政と当時の大勢 その2

歴史の流れ 防長回天史を読む18 その2

[ ] は、原文の注釈で、
(* )は、現代風に読むに当たっての付記、です。


(*前回、「内政に関しての諸種の改革」の続きです。)
●三 辻番法の改正
天保12年(*1841年)2月26日に定める所である。
萩の辻番(つじばん・*武家屋敷周辺の辻々に置 かれた
警備隊)は、享保10年(*1725年)に初めてこれを置く。
当時、諸国の無頼の徒が多く、萩に入って度々、
火を民家に放った。
よって辻番、100ヶ所を作り、これで警戒した。
後、改めて71ヶ所とした。
これに使役する番人は、合計142人で、そして、
給する所、ひとり、1日、銭30文に過ぎず、
壮年の者が、もし夜を徹して寝なければ、
翌日、労作して妻子を養う資を得ることは出来なかった。
これをもって、多くは、これを老人・少年に託し、
警備のことは非常に怠ることとなった。
加えて当時、この年、海警があり、萩の地は海に
瀕(せ)まっているので、偵報のことは、
1日も忽(ゆるが)すことは出来なかった。
(*なので)辻番所を廃して鐘楼と火見とを兼ねて
端坊、堀内、川添、江向、鶴江、橋本、松本の
7ヶ所に鐘楼を作り、回番所、22ヶ所を
武士町に作り[市中は自身番を置くことは、
昔と同様である。]、1ヶ所に中間2人を置き、
2ヶ所を1組として、夜を警戒する法を定めた。
しかし鐘楼は、幕府の制があり、その允可(いんか・
*許可)がいる。
幕府は、長い間、(*これを)許可せず、
吏(*役人)は、このために幕府から間者を派遣して、
藩の内事を偵察するなどのことがあるのを恐れて、
これを中止しようと議論した。
(*だが)天保13年(*1842年)4月6日、
再び(*藩が)請うと遂にこれが許可された。


●四 淫祠(いんし・いかがわしい神を祀った祠)
を除く
淫祠、廃革(改革の廃止)のことは、ただ、
水戸氏のみならず、有志の諸侯は多少、手をこれに
付けることはなかった。
これは、まさにその民を愚にするのみならず、
費僧巫(巫的な僧侶。日本特有の「神仏習合」の
歴史の中で、神道の神社とも、 仏教の寺院とも
いえない「神仏習合」のものが出来上がっていた
時代の巫女)の取るところは、領内を貧しくし、
がつ、叢祠(そうし・*草むらなどにあるほこらなど)
など、度々、疲弊の地を占めるのみならず、
その陰の部分により、良民の田を痩せさせるものが
あった。
(*このように)施政の害をなすことが少なくなかった。
(*そこで)長州藩の政府もまた、天保13年(*1842年)、
これに着手した。
まさに妄(みだ)りに社寺の新設を許さないのは、
万治諸法の中の一つの禁令である。
(*長州藩は)元禄年間(*1688-1703年)、
二州の社寺を数えて3,300余宇とし、その余りは、
妄(みだ)りに建てることを許さず、既にして
検束(けんそく・厳しく抑制すること)が、
ようやく緩み、元禄の関に存在するもの、
萩の一宰判(さいばん・*行政)の地にして、なお
1,300余宇あるに至った。
(*そして)士民の財を消耗し、国政の生涯をなす
ことが非常に多く、これにおいて、この年3月、
寺社所から令して云うには、
寺社所御帳面にこれがない部は、ご霊勧請の本へ
差し返し、又は、本堂本社へ相殿にして
当、寅の十二月を限り、解除申すべき候。
最も由緒正しく断じて至極の分は引き受け、
引き受けに於て役向き厚く、詮議の上、
依って、品御帳、入るべく、仰せ付け候。

また同12月、又、同じく云うには、
寺社所帳面のこれなき神社の議は、向後(*今後)
修理を加えるべからず。

翌、天保14年(*1843年)4月14日、
(*長州藩は)寺社奉行・口羽 善九郎(元実)、
飯田 小右衛門(信篤)に命じて、諸部を巡回し、
大いに淫祠(いんし)を壊し、一郷、一寺、一社に限り、
その他は、合祀させた。
よって、廃するものは、二万余りに及んだ。
[天保14年3月10日、藩主の菩提所、大照院
往持淫祠は、廃止の制を蒙り退隠させられた。]


●五 山城・奥阿武郡の救済
山城宰判、奥阿武郡の宰判は、芸石二州
(*芸州・島根県西部(石見地方)、
(石州・安芸の国の異称(広島県))
の接壌(せつじょう・接近した土地)で、
山岳が重複して平地が少なく、わずかに、
険しい土地を開いて、穀物を栽培して、
食としていた。
それ故、平年と云っても、その収入は、
他の半分に過ぎず、天保初年(*1830年)以来、
この年は雨が多く、民力は、疲弊して戸数が
大いに減じ、賦税が出ず、人民はわずかに、
蕨(わらび)、葛(くす)の根で、(*食)生活を
なしていた。
藩の政府は大いにこれを憂いて、
天保14年(*1843年)、これの救済の法を設けようとし、
代官の所属を改めて、郡奉行所の所属とし、
都合役、仕組方役を置き、困窮者に修補銀を貸し、
かつ公銀で穀物を備え、納米囲い戻しの法を定め、
又、土地の肥沃を検査して租税を薄くしょうと
計画した。
二宰判の民は、これにより少し安堵することが
出来た。


●六 山口祇園会の再改
山口に年々、祇園会と称する大祭があった。
6月7日、神輿が旅所を出て13日に至るまで
たいざいし、14,5日に帰殿するのを例としていた。
そして、故事、藩主が山車を寄進し、これを担ぐ者と
綱を引く者とを合わせて700人が、
直ちに神輿の後に、市人の寄進する山車に続いて、
市中を徘徊し、藩邸の築山座敷前まで来て止まる
山車を担ぐ者に、酒肴を賜う儀式があった。

この後、再び、(*山車行き)前述の旅所に帰り、
市人の山車も又、各々、その出た所に帰った。
文化(*1804-17年)の始めになるまでは、
およそ15日で(*大祭は)終わったけれども、
悪い弊習が続き、16,7日になるまで止まず、
藩主寄進の山車を担ぐ者は、公威を借りて、
市民を慢(あなど)り、少し気に入らない者が
あれば、山車をその家に触れ、これを壊して
快いとした。
市人は、これを恐れ、おおくの酒飯を設けて、
これを饗応した。
ここに至り、有司(*役人)は、(*これを)知り、
云うには、
これは大内時代の優柔の遺風であり、邊陬(へんすう・
*中央から遠く離れた土地)に適さない
驕奢(きょうしゃ・*贅沢)である、と。
(*後)遂に弘化元年(*1844年)9月になると
山口代官の議に従い、綱引き(*をする人)を
減じて、30人とし、市民の憂いを除いた。
[事は村田清風らの後にあるが、それによって
起こる所は当時にあるので、ここに記す。]

この時により、一藩の士気は吸収されるように
振る舞い、書冊および武器類を修繕、購買する
ものは、陸続きの踵(かかと)を接するために、
市価を高くし、天保13年(*1842年)8月には、
令を発して売人を諭して不当な利益を食い散らす
に至った。

このように長州藩が鋭意、改革に従事する時にあたり、
幕府にあっては、水野(*忠邦)の倹政が行われて、
長州藩においても、藩内の物議を抑圧するのに
役立ったたが、程なく水野(*忠邦)が敗れるに及んで
天保14年(*1843年)9月29日、
江戸にいる(*益田)元宜が書を在国の(*毛利 )房謙
に送り、藩内の非改革者を戒め、そのため、(*これが)
藩内を動揺させる。
その意は、思うに、我公(*忠正公)の新政の事が、
水野の倹政に先立ちて発し、必ずしも水野の進退によって
変わることがないと、



しかし、(*村田)清風らに対しては、
異論が既に百出し、ことに修補銀を廃止しようとする
政策は、あたかも金融の疎通を停止したもののように
なるので、藩士は、これを便(*利)としない者が多く、
かつ、37年賦の公内借捌法(*村田清風が採った
三七ヵ年賦皆済仕法。家臣団の負債を借銀1貫目につき
30目を37年間支払えば元利完済とするもの)の計画は、
従来、藩士の家系を整理することを名目として金を貸し、
知行米を管理した萩の巨商らからその当然、受けるべき
利益を剥奪した観があると。
(そして)婦人に木綿を着させるなどの命令が
長く贅沢に染みた後房(こうぼう・*婦人の部屋)、
婦女の意に適さないものがあるなどの事によって、
物議がいよいよ沸騰し、山口、三田尻など繁華の
枢要の諸宰判には、どうもすれば時政を誹謗する者が
あった。
幕府は、水野(*忠邦)の退職の後、いよいよ、
その政策を非とする者のように、水野と志が
同じであると称される閣老・真田 幸貫(ゆきつら)も又、
弘化元年(*1844年)4月15日、
本丸炎上の時、病を推して出仕したが、かえって
将軍の不興を蒙り、遂に辞職することになった、
との風評すら伝わり、次いで、徳川斉昭の廃錮
(はいこ・*身分をとりあげ家で謹慎させること)  
の事があり、上国(じょうこく・*律令国の等級区分で、
上から二番目の位の国、当時、35ヶ国あった。)
の形勢は、ますます、急激な改革をする者の禍を
買うことが多い事を示した。
そのため、藩内でも反対論の気焔が大いに上がった。
弘化元年(*1844年)6月30日、
(*忠正)公は、帰国して、萩に入る。
(*益田)元宜、(*毛利 )房謙、例によって職を辞す。
[従来の例、当役に従い江戸祇役して帰れば、すなわち、
両職共に、一旦、職を辞す。    
藩主、あるいは許し、あるいは許さなかった。]

(*忠正)公は、二人の要請を許し、
6月10日、(*益田)元宜の当役を免じ、
口羽 房通(衛士)をこれに代え、
同、6月13日、(*毛利 )房謙の当職を免じ、
毛利 熙頼(隠岐)をこれに代え、
その6月16日、(*村田)清風の当役用談役手元役、
中谷 市左衛門の当職手元役を罷免し、
赤川喜兵衛(忠通)を当役手元役とし、
小寺 留之助を当職手元役とした。
そして坪井 九右衛門が、右筆をもって、もっぱら、
機密に参加した。
まさしく、(*忠正)公、(*村田)清風らと君臣の間は、
もとより、芥帯(かいたい・心のわだかまり)は、
なかったけれども、時論が騒がしく、
(*益田)元宜、(*村田)清風らが、又、引退を請う
ことが切なく、しばらく、物情に、かなうようにした。

坪井 九右衛門正裕は、顔山と号する。
また当寺の才物である。
よく世態に通じ、役所の仕事に熟練していた。
当時、藩の人才を論じる者は、(*村田)清風と
並び称する。
しかも、わずかに腹を立て、(*それは)
自分自身に立てるものであった。
かつ、内向的で人を受け入れことなく、
(*村田)清風が名高いことを見て、時々、(*これを)
そしった。
(*なので、)清風らの改革を喜ばない者は、
これに同調した。
(*そして)遂に、(*清風らの改革に)取って
これに代わるに至った。
およそ清風らの行うところには、一定の計画があった。
(*それは)勇往邁進で、必ずしも物情を問わず、
坪井らは、すなわち、これに反して、
流俗(りゅうぞく・*風習)にこだわらず、
人心を失わないことを主眼とした。
これは、その俗論の名を得た所以(ゆえん)である。
[ 文久・元治以後、長州藩に正・俗の二論があり、
すでにこの時に、そのきざしがあった。]

坪井らは、まず藩士の最も苦しむ所に向かって
手を下し、その心を攪乱しようとして、
(弘化元年(*1844年))10月16日、
士の官に借銀した者は、
子本(しほん・*利子と元利)を合わせて、
その償還を免じて、私人に借りた者は、
官が代わってこれを償い、債権がない者は、
金を恵む の令を発した。
公内借捌(*くないしゃくさばき)と云うものが
これである。
その行う所は、迅速快活で、非常に人意の表に出た。
これにより萩の士民は、一時、大いにこれを喜び、
歓呼の声が涌くようであった、と云う。

坪井らは、さらに恩恵を広くして、
興望を改めようとして、
その(*弘化元年)12月17日、
大いに財政整理の功を論じ、(*益田)元宜、
(*毛利 )房謙 以下の新旧の官吏に賞賜した。
[この時、(*益田)元宜、(*毛利)房謙に
賜わったところは、紋服1(*着)、銀100枚、
毛利隠岐に賜わったところは、縮緬熨斗目
(ちりめん のしめ・*縮緬の練貫の平織り)1、
銀100枚、
口羽 房通(衛士)に賜わったところは、
三所物(みところもの・*刀剣の付属品である
目貫・笄・小柄)、銀100枚、
坪井に賜わったところは、帷子(かたびら・
麻布で仕立てた夏に着るひとえ の着物。)、
金25両、
村田(*清風)に賜わったところは、
上下(かみしも・*武士の礼装・正装)、
金10両であった。
まさに当初から、
もっぱら財政整理に従事した者は、
(*益田)元宜で、口羽 房通(衛士)は新任で
同じく銀100枚を賜い、村田(*清風)は、
もっぱら、改革に尽力して賜う所は、
坪井に及ばず、士論は、口羽・坪井らの
私(し・*処遇の意)は、もっともである、
と云う。]

弘化3年(*1846年)4月、
(*忠正)公が、まさに帰国しようとするのに
際し、その23日に幕命があり、
云うには、
家督以来(、) 政治向(は)行(き)届き
領内 治め方(、)宜敷(く)、赴達上 聞(き)
一段の事に思召(し)候、と。
よって、鞍 鎧(くら よろい)を賜う。
この時に当たり、坪井(* 九右衛門)は、
首領として(*政)事を用いた。
[ これより先、弘化2年8月19日、
当職・口羽 衛士が歿する。
宍戸 房寛 丹後が、これに代わる。
だが、政府の実権は、依然、坪井らの手にあった。]

しかも、坪井らの政(*事)は、その主とするところ、
物情に逆らわなかったので、その挙は、往々、
改革の真意と添わないものがあった。
よって、盾の風(*ここでは、打撃の風潮の意。)が、
再び萌えて、役人の行いは、やがて放縦に陥り、
賄賂・内願などのことが行われ、僚属(りょうぞく・
下役)が集合して、数々の饗宴を張る者がいた。
(*このように)風紀は従って緩み、
淫祠破毀(*いかがわしい神をまつった祠の
破棄)と共に、長く閉塞していた社寺も
再び、築造を請う者があった。
公内借捌(*くないしゃくさばき)のために、
わすかにその窮迫を免れた藩士は、このために
却って、贅沢に陥り、再び、八箇一
(この事は、後に詳細する。)を請う者があった。
公子 諸姫の費用が、また定額にならなくなり、
往々、臨時の費用を要する者があった。
負債は再び増加し、当初の改革の意は、
ここにおいてか、荒れようとする。
(*忠正)公は、事態のこのあり様を見て、
さらに士風の戒めが防げないことを察し、
弘化3年(*1846年)8月9日、
毛利 熙頼(隠岐)の当職を免じ、益田 元宜を
これに代えて、
同年(*弘化3年)9月19日、
(*宍戸) 房寛 丹後が亡くなるに及んで、
浦元 正 (靭負)を当役とし、
12月になって終に、坪井を退けて、
国に禁錮した。
[嘉永5年6月6日、当職・益田元宜は、
属当掛となり、夷属手当掛・毛利元教が
当職となる。]

これにおいて、俗論(*党)は、一頓挫して、
士風の戒めを妨げなく、文武を盛んにする
議論が再び起こる。
嘉永3年(*1850年)4月、毛利元統(筑前)が
当職であった。
飯田 小右衛門(親房)が当職用談役になるに
及んで、改革の意は、倍増した。
[この月16日、周布政之助は、地方右筆・
唐船方添役となり、
同、4年11月18日、
江戸方右筆・椋梨(むくなし)藤太 景治の添役
となり、初めて政治に参与する。
当時、微官(びかん・*階級の低い官職)にいる
と云っても後日、藩の政治家として(*村田)清風
の衣鉢を伝える者は、この人であると称する。]

この夏、暴風、大雨があった。
諸川が、氾濫した。
秋、また風雨があった。
民は、大いに苦しむ。
(*忠正)公は、令を下し、公室に余る米、
凶年手当米・地下社倉囲米などを出して
窮民に施した。
(*そのため)また一人も飢餓に陥る者はなかった。
かつ、吏(*役人)を馬関に派遣し、大いに
売りに出した。
浪華の米価はこのために、謄貴(*とうき・
相場があがる。)したと云う。
このように、当時の政務に当たる者の苦心を
見るべきである。
(*忠正)公の襲封(しゅうほう・*領地を受け継ぎ)
の翌、天保9年(*1838年)正月26日、
年始のご祝儀として、太刀一腰、白銀百両を
朝廷に献じた。
それ以後、毎年、年始歳暮に必ず朝廷に貢献する
ところがあった。
これは、祖宗以来の慣例を追うもので、(*忠正)公
に至って、その礼は、ますます恭(*うやうや)しく
なった。
天保11年(*1840年)、光格上皇 崩御の事があり、
弘化3年(*1846年)2月6日、
仁孝天皇 崩御の事があり、
同(*弘化)4年9月23日、
孝明天皇 即位の大礼があり、
同年(*弘化4年)11月、
 皇太后・新朔平門院(しんさくへいもんいん)
 の崩御の事があり、
皆、使臣を上洛させて物を献じて奉り、
弔、慶賀の誠意を表した。

*新朔平門院は、鷹司 祺子(たかつかさ やすこ)
で、仁孝天皇の女御。のち皇太后のこと。

この時にあたり、諸侯が世に知られる者を見ると、
薩摩の世子・島津斉彬(順聖公)は、時に
誉(ほまれ)があると云えども、故あって
永く領土を継ぐことが出来ず、嘉永2年(*1849年)
において、遂に、いわゆる、
高崎騒動(お由羅騒動(おゆらそうどう)・
*薩摩藩・第10代藩主・島津斉興の後継を巡っての
お家騒動。)を生じたが、わずかに筑前候・
黒田斎博らの斡旋により、同(*嘉永)4年になり、
襲封(しゅうほう・*領地を受け継ぐこと。)
することが出来た。

信州・松代の真田幸貫は、弘化3年(*1846年)、
志を幕府に得ることが出来ないことをもって、
閣老の職を辞して、弘化4年(*1847年)、
病で年老いて、その年、亡くなられ、

水戸の徳川斉昭(烈公)は、幕府内の政争を蒙り
(*井伊直弼と対立し)、蟄居したと云えども、
閣老・阿部正弘には、その歓心を繋ぐ気持ちが
あった。(*その気持ちを引こうとした。)
かつ、徳川家慶(いえよし)は、
深く外交の将来を憂い、世子・家定が虚弱で
あったので斉昭と結んで廟堂を堅くしようとした。
そのため、その慎みを許し、
ただ、その国政に関することを(*斉昭に)禁じ、
さらに弘化4年(*1847年)9月、
命じて、その子(*徳川斉昭の子)、
七郎麿(徳和慶喜の幼名)を昭致して
一橋邸に入れて、三卿の一つに列せさせた。
あるいは、云うには、
案に継嗣(けいし・*世継ぎ)に
備える(*だけであった)と。
[同年(*弘化4年)11月、(*七郎麿は)
将軍の偏諱を賜り、従三位中将に叙任し、
刑部卿慶喜と称する。]

嘉永2年(*1849年)3月には、
故・徳川斎修の室・孝文夫人は、
徳川家慶の妹であるので、これを訪ねて託して
将軍・徳川家慶は、小石川の水戸邸に臨み、
斉昭および、その諸子に謁見され、
嘉永5年(*1852年)11月には、
(*徳川)家慶は、斉昭を城中に召して、
謁見された。
まさに深くこれに依頼するところが
あるのである。
これは、嘉永6年(*1853年)以後、
斉昭が再び(*世に)出ることの因縁を、
なすものである。

その他、声明がようやく表れた者には、
備前の鍋島 斎正(閑叟公・*かんそう こう)
がいた。

(*また)宇和島の伊達宗城がいた。

(*また)越前の松平 慶永 (よしなが) がいた。
(*慶永は,)文藻(ぶんそう・*文才)に富み、
令誉(れいよ・*良い評判)があり、
天保14年(*1843年)、16歳で領土を継いだ。

(*また)土佐の山内 豊信 (*とよしげ)
(容堂公)がいた。
(*豊信は,)灑脱(しゃだつ・*心が大きく)で
才鋒(さいき・*鋭い才気)があり、
嘉永元年(*1848年)、22歳で領土を継いだ。

彦根の井伊直弼(なおすけ)も又、
弘化3年(*1848年)、庶子から上った世子である。

共に、その後の歴史において顕著な候伯とされる。

この間、江戸において(*忠正)公に、数々、
往来した諸侯は、すなわち、肥後の細川斎護
(越中)がいた。
その(*忠正公の)同席の故老であった。
(*また)有馬慶頼がいた。
(*忠正公)と同席で、かつ姻威(いんせき・
*婚姻によって生じた血のつながらない親戚。)
であった。
又、かつて、山内 豊熙、建て宗城、鍋島 斎正、
前田 利平らと共に度々、読書の会を催すことが
あった。
島津斉彬も、その世子であった時、
(*忠正)公は、彼を招いて響応(きょうおう・
*響きが声に応じるように、人の言動に 応じること)
したことがあった。
崇文公(*毛利 斉広・長州藩・12代藩主。)が
亡くなり、まだ喪が明けず、(*忠正)公が、
世継ぎであった時、九条家から右大臣の女と
婚姻を求められることがあった。
(*忠正)公が既に家を継いだ後、
天保8年(*1837年)6月、さらに一条家から
婚姻を求められることがあった。
まさに、当時、公家からの婚姻を大藩に
もとめるとは、例をして少なくなかった。
しかも偕姫、(ともひめ・*崇文公の長女)が、
成長するのを待って、
伉儷(こうれい・*夫婦。)の儀を行うことは、
既に内定しているところであったので、
共(*九条家と一条家)に、これを辞し、
その(*天保)9年5月24日、
偕姫を娶(めと)ることを幕府に告げ、
[(*忠正)公は、既に崇文公の養子であったので、
仮に偕姫を賞して毛利親安との女とした。]

弘化4年(*1847年)9月22日になって、
初めて婚儀を挙げた。
時に、(*忠正)公、29、偕姫は15歳だった。
この年(*弘化4年、)12月16日、(*忠正)公は、
左近衛権少将に任じられた。

嘉永4年(*1851年)11月、
支封・徳山藩主・毛利 元蓄(もとみつ)の弟・
騄尉公を養子として子とする。
(*後に毛利元徳(もうり もとのり)と称する。)
これより先、同年(嘉永4年)8月15日、
長府候・毛利元周(もとちか)の女
・銀姫(*ぎんひめ)(後、安子と改める)を
養子として女とする。
(*これは、)ゆくゆく騄尉公子に配す
(*夫婦にする)ためである。
(*忠正)公は、かつて数人の子を生んだが、皆、
夭した(*年若くして亡くなった)ため、このことが
あった。

公子は、初めの名は、敬明、騄尉(*ろくのじょう)
と称する。
世子になり、名を広封(*ひろあつ)と改める。
安政元年(*1854年)3月9日、
首服を加え(*元服して)、
将軍・家定の偏諱(*へんき・*貴人の偏諱
[あるいは諱全体]を忌み避けること、)を賜い、
定弘と改める。
後、明治3年2月7日、また、元徳と改める。
忠愛公(*と呼ばれるのが)これである。
忠正公が、公子を養子とし、まさに
銀姫(*ぎんひめ)を、これ(*公子)に
配しようとする約束が公になったのは、
嘉永4年(*1851年)10月24日であった。
時に、公が、年13、姫9歳、それほど日もなく、
銀姫は先に養女となっていたので、
改めて、公子を聟(むこ)養子として、明春に
萩に移らせ、姫は、なお幼かったので、
依然、これを長府候の江戸邸に置いて、
その教養を託した。

(*嘉永4年)12月28日、
公子を仮養子とすることを幕府に申し上げ、
世子とする許可は、明春、(*忠正)公が。
東上の後、これを請うことに決した。
(*嘉永4年)10月29日、
長井 雅楽(うた)時庸 を公子付属とし、
高杉 小忠太( 晋作の父)を公子の小姓とした。
(*長井)雅楽に伝えて(*高杉)小忠太に
これに(*公子付属の)副となるようにした。
(*嘉永4年)12月1日、
(*忠正)公の内使として手元役・梨羽直衛が
徳山に行き、公子に謁見して崇文公(*毛利斉広)
が著す「事斯語(*じしご)」(*毛利斉広の遺著。
公の幼時からの読書、講義の余暇に、
およそ古人の各言をその心に会得するに従い、
これを抄録とし、かつ、末に公の自撰の名言を
付記したもので、その名言は全て賢哲の教訓。)
および、藩儒・山縣 太華らが命を受けて編した
「民政要編」(*周官の司徒諸職の民政に必要な
本文を挙げて、これを詳細に解説した書。)
を贈った。

嘉永5年(*1852年)2月5日、
(*忠正公は、)宍戸 元誠(備後)に命じ、
公子に殿中の事を統理(當リ・*統一して治める)
させる。
同年(*嘉永5年)閏2月23日、
明倫館学頭、諸氏家らに訓示して、書生の素養を
深くして講習の方法を整えて、公子の薫陶(くんとう・
*徳の力で人を感化し、教育すること。)に役立つ
ようにした。

(学頭(*学校長)・都講(*塾長)・舎長に訓示)
今般、騄尉(*ろくのじょう)様、お引越しの上は、
館内の日々の様子を非常に細かくお聞きになられた
ので、諸生の風紀は、自然と成り立ち、便利になる
ようになったので、ご深慮をもって学校の内で
行動されて住まわれる。
ついては、詮(せん・*なすべき手段)も
一廉(いっかど・ひときわ優れている)厚く、
なされられることについては、これまで、
疎外がないけれども、古来の規則に従い、名聞
(めいぶん・*世間の評判)にかかわらず、
実行を麿励(*まれい・一生懸命に励むこと)
されることが肝要なことであります。
万一、ご主意の筋と異なり、士道の心掛けが薄く、
祠藻風流にまみれ、又は、無用の書に目を奪われ、
不急の辨(べん・*話すこと)に日を費やし、
その他、文弱の様子があっては、
騄尉(*ろくのじょう)様のこれまでの
お聞き及ぶ趣(おもむき)と齟齬(そご・
*物事が食い違うこと)では、非常に恐れ入る次第に
つき、一段と出精(*努力)されるように、
書生の人たちに、とくと申し伝えるべきであります。
わけても、都講(*塾長)・舎長の人たちは、
諸生の模範である役であることにつき、
身柄の言行は申し及ばず、引き立てる方に厚く
その心を尽くされるべきであること。

(師家のうち、見合頭取への訓示、
手習師居寮生への訓示は、本文の訓令と
大同小異)

(講師に訓示)
一、 今般、騄尉(*ろくのじょう)様、
お引越しの上は、追々、講堂にお出かけになられ、
ご幼年中の講釈、講談などをお聞きになられる件は、
わけても、肝要なことにつき、
輪次(*りんじ・順次)の講章においては、時には
事情に沿わず、本文も、そうである。
(*だが)それぞれに深く心を用いれば、
幼君の為されることによろしく、かつ
貴賤共(*身分の高い人と 低い人)の倫理に
基づくように、講(*義)方も、いわんや、
そうあるべきで、(*事情に近づく)本文に
なるので、聴衆の心に徹するように(*すべきで)、
これがなくては、その個所の効果は薄くなり、
万一、雑話に流れるか、聴衆に無益の得失の
論理になるようであれば、事により、かえって、
(*講章の) 成立の妨げになるであろう。
これまでも、疎外がないけれども、
なお又、厚く、その心を用いられ、
見習衆へも、篤(とく)と申し伝えるべき
であること。

嘉永5年(*1852年)2月24日、
公子(*騄尉(ろくのじょう)。後の毛利元徳。)
が、徳山を出発する。
これより先、公子付属の諸職を定めて、
宍戸元誠を手廻り頭とし、柿茆 半右衛門、
長井 隼人(雅楽 改称)を奥番頭とし、
高杉 小忠太 以下19人を小姓とし、
彼らに公子を迎えさせた。
(*同年) 2月27日、萩に達した。
(*忠正公は、)父子の会見、その他、諸式を
一に、世子の礼をもって行った。
始め、公子を萩に移そうとするに当たり、
これ(*公子)を明倫館内に居るようにする、
ことに決し、館内に新殿を造るようになり、
ここに居られた。
(*よって)称して新御殿と云う。
(*同年) 7月9日、老臣は連署して、
規言を公子に上げる。

(老臣 連署の書面)
一、この度、殿様(*忠正公)、深き思召しをなされ、
騄尉(*ろくのじょう)様をご養子になされ、
ご当家の儀は、諸事、元就公 以来、代々様、
旧例により、わけても殿様の御代始めより、
国政に厚くお心を用いられ、公に従う者も、
これまでお家に これ無く、ご拝領の物も
成されることに付き、騄尉様にも
往々、殿様の思召しを継がれ、万端、
ご先例を守られ、質素倹約をなされる行いは、
ご家来中も、末々、万民に至るまで、
ご仁恵の思召し、肝要のことに存じますので、
只今の内から、お心を用いられ、為されたく、
かつ又、末家の岩国の儀は、わけても、
ご先格(せんかく・*前例となる格式)に違わず、
お取り扱い仰せ付けられる件につき、
これ等の件も追々、知召(しらしめ)たく、
存じ上げます。

一、 ご家来の内、騄尉(*ろくのじょう)様の衆も
段々と増え、右について申し上げても、(*現在は)
少ないけれども、追々、ご成長の上は、
右、ご内縁に引かれるようになっても、国政、
および陵遅(りょうち・*ここでは、処刑などの意。)
の儀も、出来るようになられるので、
仮にも、その弊害がないように、今の内から、
心掛けられることが肝要に存じます。
右、各々千万、恐れ多く存じますが、(*これも)
偏(ひとえ)に(*公子様の)の、御為と存じますので、
顧みず、愚案を申し上げる次第です。

嘉永5年(*1852年)の末、(*忠正公には、)
世子(*騄尉 [ろくのじょう] )および
安姫(*安子 [やすこ・銀姫を改称。])の
関連の他には、
清徳公(毛利 斎熙・長州藩第9代藩主。)の子・
◆信順(*のぶゆき)(左近君、今年37歳。)
その子、
◆順明(*のぶあきら)
(禎之蒸、今年14歳、嘉永4年に公の養子と
なる。)、

諸姫には、すなわち、
清徳公(毛利 斎熙・長州藩第9代藩主。)の女・
◆ますこ(天保6年[*1835年]10月18日、
宗対馬守義章に嫁ぐ。
同・天保13年[*1842年] 6月12日、義章、歿する。
慈芳院と称する。今年、35歳。)
◆たき子(天保4年[*1833年] 6月25日、
毛利 山城広篤に嫁ぐ。今年、33歳。)
◆章子(天保18年[*1842年] 12月、
水野 総兵衛 忠武に嫁ぐ。
弘化元年[*1845年] 7月、
忠武、歿する。今年、30歳。)

邦憲公(毛利 斎元・長州藩第11代藩主。)の女・
◆三壽子(天保6年[*1835年] 5月27日、
老臣・益田越中 元宜の嫡子・熊次郎 兼共 に嫁ぐ。
今年、26歳。)
◆孝子(天保15年[*1844年] 3月24日、
有馬日向も盛る 温純と婚約する。
弘化3年[*1846年] 1月20日、未だ結婚せず、
故あって離縁し、嘉永3年[*1850年]11月3日、
伊達 大膳太夫宗徳に嫁ぐ。今年、24歳。)
信順(*のぶゆき)の子
◆喜久子(嘉永4年[*1847年]11月、
(*忠正)公の養女となり、同、12月13日、
土佐の世子・山内豊範と婚約する。
この年、9歳。)

夫人には、すなわち、
清徳公の室・法鏡院尼公(今年、55歳。) および
君夫人(すなわち、偕姫 [ともひめ])がいた。

(*忠正)公のこれらの諸姻戚においては、
情誼、瞹々として(*不明瞭の意)、時々、互いに
音問来往(*便りが行き来し)、天倫の楽事
(*一族兄弟の楽しみ)を述べている。

(*忠正)公、初政以後の改革は、もとより
村田(*清風)ら諸人の参画に出ると云えども、
その、よく功を為した所以(ゆえん)は、
要するに、(*忠正)公の実践躬行
(じっせん きゅうこう・*自分自身で実地に行う 事)
が、士民の先となることに、起因しなかった
ことは、ない。)(*原文・因らずんば あらず)。
(*忠正)公が襲封
(しゅうほう・*領地を受け継ぐこと。)の後、
天保11年(*1840年) 初め、入国の儀があった。
ほぼ、すでに佐々並駅(*現・山口県萩市佐々並。
萩城下町と三田尻を結ぶ中間点にある。)を
出発し、明木(あきらぎ)で小休憩して、
鹿背ヶ坂を越えると、群臣が萩郊外で迎える者が
路傍に連なり並ぶ。
皆、思うには 儀衛(義衛・*警護)は非常に多い
ものであろうと。(*思っていたが)、
まさしく、当時、諸侯の初入国の例は、
(*その)華麗さを競っていた。
だが、それ(*行列)が、近くに来るに及んで
これをみると、(*忠正)公は、馬にまたがり、
旗じるしの木綿氷山外套(がいとう)を着て
菅笠(すげがさ・*スゲを縫いつづった笠)を
かぶり、随従する者も又、その数を少なく
していた。
覩る者は大いに驚き、有志は大いにこれを
良し、とした。
(*そして)その萩の市街を過ぎると、男女が
雲のように集まり、皆、その倹素(けんそ・*質素)
に従った。

始め(*忠正)公がまさに江戸を出発しようと
すると、有司(ゆうし。*役人)は、先例に照らして
入国の式を定め、その案を言上した。
(*忠正)公が云うに、
「入国の儀は、もとから典礼があり、
違うことはない。しかも前年、大故(たいこ・
*大きな不幸)が相次ぎ、国財は窮乏している。
須らく(すべからく・*ぜひとも)虚飾観美を
配すべきである。」と。
これにおいて、改議して、簡略に就く。
すべての藩は、ここにおいて初めて倹政が
(*忠正)公の意から出たことを知ったと云う。
次いで領土内の孝子篤行(こうし とっこう・*
親孝行な子の人情にあつい誠実な行為)、高齢、
および勤行者を調査し、天保10年(*1839年)
から11年の間において褒章する者、数十人に
及んだ。
それ以来、吉事がある毎に、度々、この賞賜を
行った。


次回、
「歴史の流れ 防長回天史を読む19
第十八章 天保嘉永年間の教育」
に続きます。

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